「わたしよりも優れた方が来る」 伝道師 川嶋章弘
・ 旧約聖書:イザヤ書 第52章7-10節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第3章15-20節
・ 讃美歌:160、237
あたり前があたり前でない世界
ひと月ほど間が空きましたがこの夕礼拝では私が担当するときにはルカによる福音書を読み進めてきました。四月から読み始めて第3章の半ばに入っています。前回は、洗礼を授けてもらおうとしてヨハネのところへやって来た群衆に対して、ヨハネが非常に厳しい言葉で神さまの怒りを告げたことに耳を傾けました。神さまの怒りが差し迫っていると告げられた群衆は、次のようにヨハネに尋ねました。「では、わたしたちはどうすればよいのですか。」この群衆の問いに対するヨハネの答えは特別なことではありませんでした。むしろあたり前のことです。多くのものを持っている人は持っていない人に分け与えること。徴税人は決められた額よりも多く取り立てないこと。兵士は力で金をゆすり取ったりだまし取ったりしないこと。これらは人としてあたり前のことです。ヨハネは、差し迫った神さまの怒りを前にして、あたり前のことをしなさいと告げたのです。このことに私たちは少しがっかりするかもしれません。神さまの怒りを免れるのにこんなあたり前のことを行うだけで良いのだろうか、と思うのです。もっと劇的で特別なことが必要ではないか、と感じるのです。しかしヨハネが特別なことではなくあたり前のことを行いなさいと告げたことにこそ、ヨハネが見つめている群衆たちの罪の現実が表れているのです。あたり前のことを行いなさいということは、裏返せば、あたり前のことが行われていないということです。ここに、ヨハネのところにやって来た人たちの罪があるのです。ヨハネはそのような人たちに向かって「悔い改めなさい」と言いました。同時にこのことは、あたり前のことをあたり前に行うことがどれだけ難しいかを告げています。群衆も徴税人も兵士もなにがあたり前なのか知らなかったわけではないでしょう。しかし彼らはあたり前のことが行えなかったし、あたり前でないことが、むしろ彼らのあたり前になっていたとも言えるかもしれません。私たちの日々を振り返ってみても、いかに私たちがあたり前のことができていないかに気づかされます。私たちの罪とは、なにか特別悪いことをするだけではなく、あたり前のことができないことでもあるのです。私たちは人の悪口を言ってはいけないことを知っていますし、ちょっとしたことでイライラして人に怒りをぶつけてはいけないことを知っています。嘘をついてごまかしてはいけないことも知っています。これらはどれもあたり前のことです。しかし私たちは、あたり前のことができない日々を積み重ねているのではないでしょうか。一つ一つは小さいことかもしれません。けれどもそれが積み重なっていくことによって、人と人との関係が壊れていき、私たちが生きる社会や世界に破れや歪みが生じていくのです。私たちはこの世界に生きる一人ひとりとして、そのような社会や世界の破れや歪みと無関係ではありませんし、少なからず責任を負っています。それとともに、私たちはあたり前のことがあたり前でない世界で生きることに苦しみを覚えているのではないでしょうか。そのような世界で生きる中で、救われなければならない自分の弱さや欠けを感じているのです。私たちはどこかで本当の救いを求めているのです。だからこそ私たちは、見せかけの救いではない真実の救いを求めて教会へと来るのではないでしょうか。あたり前のことがあたり前でない世界で、真実の救いを求めて私たちは礼拝に集うのです。
彼が救い主ではないか?
本日の聖書箇所の冒頭で「民衆はメシアを待ち望んでいて、ヨハネについて、もしかしたら彼がメシアではないかと、皆心の中で考えていた」と語られています。メシアとは救い主のことですから、皆心の中でヨハネは救い主ではないかと考えていたのです。「心の中で」とありますが、この福音書を記したルカにとって、「心」は感情が占める場所であるというより意志と思考が占める場所です。ですから「心の中で考えていた」というのは、情緒的な思いなどではなく意志を持った考えなのです。ヨハネは救い主ではないか、という問いを「みんな」が考えていたと言われると、私たちは本当に誰もが意思を持ってそのように考えていたのだろうかと疑問に思います。ルカは、少し誇張してオーバーに語っているのではないかと考えるのです。しかしそれは、「彼は救い主なのか」という問いの重みが私たちには分かりづらいからではないでしょうか。ルカは、主イエスの誕生物語を通して救い主を待ち望む人物を描いてきました。ルカはこの問いに真剣に取り組んでいるのです。私たちがこの問いの重みを分からないのは、言い換えるならばこの問いが私たちの問いとならないのは、私たちがこの問いの答えを知っているからです。つまりヨハネは救い主ではないことを私たちがすでに知っているからです。しかし民衆はこの問いの答えを知りませんでした。当時のユダヤは、ローマ帝国の支配の下にあり、多くのユダヤ人がその支配からの解放を実現する救い主を待ち望んでいたと言われます。そのような時代や政治状況が背景にあったとしても、民衆が救い主を待ち望んでいたその根本にあったのは、あたり前のことがあたり前に行われていない世界で、彼らが真実の救いを求めていたことではないでしょうか。「みんな」が「彼は救い主なのか」と問うていたことこそ、彼らが真剣に救い主を待ち望み、真実の救いを求めていたことを示しているのです。確かに私たちはヨハネが救い主でないことを知っています。しかしだからといって自分自身にとって救い主とは誰かという問いと無関係ではいられません。信仰を告白して洗礼を受けるまでに繰り返し問うだけでなく、主イエス・キリストが私の救い主であると告白した後も繰り返し問うのです。なぜなら私たちは、この世界にあってしばしば自分自身の救い主が誰であるかを見失ってしまうからです。自分の救いがどこにあるのか分からなくなってしまうからです。救いを求めて教会に来て礼拝を守るとは、自分自身にとって救い主とは誰かと繰り返し問うことでもあるのです。
わたしよりも優れた方が来る
あたり前のことがあたり前に行われていない世界で「わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねたとき、ヨハネがあたり前のことを行いなさいと答えたのを聞いて、民衆はもしかしたら彼が救い主ではないかと考えました。あたり前のことがまかり通らない世界で、あたり前のことを行いなさいと言うことほど難しいことはないからです。しかしそのような民衆の期待に対してヨハネは、自分は救い主ではない、と言ったのです。それは、民衆の期待を絶望に変えるものだったのでしょうか。ヨハネは民衆に次のように言いました。「わたしよりも優れた方が来られる。」この「わたしよりも優れた方が来られる」というのは、漠然とした未来に起こることを語っているのではありません。この文は「わたしよりも優れた方が来つつある」あるいは「わたしよりも優れた方がもう来始めている」と訳せるのです。つまり自分は救い主ではないから、あなたたちはこれからも救い主を待ち続けなくてはならない、とヨハネは語ったのではありません。自分のすぐ後に自分よりも優れた方が来る、そのことをヨハネは告げたのです。つまりヨハネは、自分は自分より優れた方の露払いであると言っているのです。「自分よりも優れた方」とは、自分と比べてずっと優秀だとか、ずっと力があるとか、そのような自分との比較で語っているのではありません。ヨハネは、自分と「自分より優れた方」がはっきり区別されることを知っていました。比較などできない断絶があることを分かっていたのです。このことは、ヨハネが「わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない」と言っていることから分かります。ここで言われている「履物のひもを解く」とは、私たちが革靴やスニーカーの靴紐を解くのとはかなり異なります。ここでは「履物」よりも「草鞋(わらじ)」と訳すと意味が分かりやすいかもしれません。とはいえ私も含めて「草鞋」という言葉は知っていても、「草鞋」を見たことがない、あるいは見たことはあっても履いたことがないという方も多いかもしれません。いずれにせよ、革靴やスニーカーも履いていれば汚れますが、草鞋を履いて旅をすれば、足も草鞋のひもも砂や泥ではるかにひどく汚れてしまったそうです。そのような草鞋のひもを解くことを、ユダヤ人の社会では奴隷にもさせることはありませんでした。ただユダヤ人でない異邦人の奴隷には、草鞋のひもを解くように命じることができたそうです。それほどまでに草鞋のひもを解くことは嫌われていた仕事でした。「わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない」とは、ユダヤ人の奴隷もしない最も嫌われていた仕事ですら、自分は「自分よりも優れた方」にする値打ちがないのだと、ヨハネは言っているのです。当時、ユダヤ人と異邦人の間には、はっきりとした区別がありました。ですから、異邦人の奴隷がする仕事ですらする値打ちがないとは、「自分より優れた方」が自分と比較できるような存在ではなく、まったく区別された方であることを意味するのです。
聖霊と火で洗礼を授ける
ヨハネは「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが」、「わたしよりも優れた方」は、「聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と語っています。ヨハネより優れた方が授ける「聖霊と火による洗礼」とはなにを意味しているのでしょうか。「聖霊」という言葉は「風」という意味も持ちます。「聖霊と火による洗礼」は「聖なる風と火による洗礼」とも言えるのです。「風」と「火」で想い起こされるのはペンテコステの出来事ではないでしょうか。ルカによる福音書の続きである使徒言行録第2章で「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」とペンテコステの出来事が語られています。ここでも「激しい風が吹いて来るような音」、「炎のような舌」と言われています。「聖なる風と火による洗礼」であれ、ペンテコステの出来事であれ、「風」と「火」で示されていることは、神さまがその場におられるということです。ペンテコステの出来事においても、「聖霊と火による洗礼」においても、聖霊なる神さまがその場に臨んでくださるのです。つまり「聖霊と火による洗礼」は、神さまのなさること、神さまの業にほかなりません。それに対してヨハネが授けた「水による洗礼」は人のすることであり、人の業なのです。ですから人の業である「水による洗礼」と神さまの業である「聖霊と火による洗礼」もはっきり区別されるのです。ヨハネは、自分は人の業である「水による洗礼」を授け、「自分よりも優れた方」は神さまの業である「聖霊と火による洗礼」を授けると語ったのです。
このように「水による洗礼」と「聖霊と火による洗礼」は、はっきり区別されます。しかし教会で行われる洗礼は「水による洗礼」で、それとは別に「聖霊と火による洗礼」が必要である、と考えるのは間違っています。洗礼式では、牧師が洗礼を授かる方に水で浸した手を置きます。それだけを見れば、人が水を用いて行っている人の業に過ぎないと思えるかもしれません。しかしまさにその洗礼式の場に聖霊なる神さまが臨んでくださり、洗礼式において神さまの業である「聖霊と火による洗礼」が授けられる、そのことを私たちは信じているのです。
麦と殻を振り分ける
ヨハネは自分よりも優れた方が来られ、その方が聖霊と火で洗礼を授けると語りました。さらに、自分よりも優れた方は「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」と語っています。ここでヨハネが語っているのは、自分よりも優れた方は裁く方であるということです。ヨハネは神の怒りが差し迫っていることを告げましたし、「斧は既に木の根元に置かれている」とも言いました。それは神の裁きは近いということにほかなりません。しかしヨハネは決して自分自身で裁くとは言っていません。裁くのはヨハネではなく、自分よりも優れた方なのです。「手に箕を持って」とあります。「草鞋」と同じく「箕」を見たことがない方も多いかもしれません。ただしここで「箕」と訳されている言葉は、日本の農業で使われるざるのような道具ではなく、農業用のフォークのことです。聖書協会共同訳では欄外の注で、「箕」は農用フォークだと記しています。この農用フォークを使って、脱穀した麦を空中へ放り投げます。すると軽いもみ殻は風に飛ばされ、重い麦の実だけが残ります。「箕」と訳されているフォークは、麦の実ともみ殻を選り分けるための道具なのです。そして麦の実は倉に入れられ、もみ殻は消えることのない火で焼き払われるのです。9節では「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」と言われていました。どちらも終わりの日の神さまの裁きを告げているのです。
脱穀
ところでヨハネは麦の脱穀についてすべてを語っているわけではありません。フォークでふるい分ける前に、脱穀そのものの作業があります。当時の脱穀がどのように行われていたか辞典で調べてみると、17節にある「脱穀場」に円を描くように麦の束を並べ、牛に踏ませて麦の穂を砕き、麦の実ともみ殻を分離したようです。牛ではなく脱穀機を使って、その車輪で麦の穂を砕くこともありました。麦の穂は牛に踏みつけられて砕かれ、あるいは車輪にひかれ砕かれたのです。そのような作業を経てから麦の実ともみ殻はふるい分けられるのです。麦の実ともみ殻がふるい分けられるのが終わりの日の神さまの裁きであるならば、そこにいたるまでの作業はなにを表しているのでしょうか。それは終わりの日にいたるまでの私たちの歩み、私たちの人生を表しているのではないでしょうか。人生において、私たちは脱穀される麦の穂のように幾度となく踏みつけられ、砕かれるような経験をします。私たちの生涯は、多くの苦難や試練によって砕かれ実と殻に分けられていくようなものかもしれません。私たちが、あたり前のことがあたり前でない世界で生きる苦しみがここにこそあるのです。そうであるならば、私たちはそれぞれの人生を歩み苦難や試練によって踏みつけられ砕かれた後に、自分は果たして麦の実として倉に入れられるのだろうか、つまり神の国に入ることができるのだろうか、それとももみ殻として消えることのない火で焼き払われるのだろうかと心配しなくてはならないのでしょうか。あたり前のことができない私たちが、そのような世界に生きている私たちが、軽くて風に飛ばされるもみ殻ではなく、倉に収められる実になることができるだろうかと不安にならなくてはならないのでしょうか。
ヨハネが告げたこと
ヨハネは確かに「自分よりも優れた方」が裁かれることを語りました。しかしその直後に、ルカは次のように記しているのです。「ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた。」「勧めをして」と訳されている言葉は「慰める」とも訳せます。そして福音を告げ知らせるとは、喜びの知らせを伝えることであり、救いの知らせを伝えることです。もしヨハネが、私たちが終わりの日に麦の実として倉に収められるか、もみ殻として燃やされるかを心配して人生を過ごさなくてはいけないと伝えているとしたら、それは私たちにとって慰めにはならないし、喜びの知らせでも、救いの知らせでもないでしょう。終わりの日に神さまの裁きは確かにあります。しかしヨハネが告げたのは、あたり前があたり前でない世界で生き、生涯において数々の試練、不条理、苦しみに直面しても、実がある麦となり、そして倉に入れられる約束が私たちには与えられているということです。これこそ、私たちにとって慰めであり、喜びの知らせであり、救いの知らせにほかなりません。「私よりも優れた方」の聖霊の洗礼によって与えられるこの約束をヨハネは語ったのです。
ヨハネは去り、主イエスへ
ヨハネの説教は二つの出来事へと移っていきます。イエスの洗礼と彼自身の逮捕です。しかしルカは、この二つの出来事の時系列を逆転させています。イエスの洗礼は、その文脈からまた他の福音書から、明らかにヨハネから授かったものであるにもかかわらず、その場面においてヨハネは登場しません。20節でルカは、ヨハネの生涯を描き終えてしまっているのです。また18節と19節の間にも、ヨハネの生涯において時間的な隔たりが少なからずあるはずです。しかしルカはそのような隔たりをも省いています。そのことによって、ルカはヨハネをイエスから切り離しているのです。ルカは、「彼は救い主なのか」という問いに取り組みました。今日の箇所で、ヨハネは「自分よりも優れた方」がイエスであるとは一言も語っていません。しかしルカは、この物語を通して、ヨハネと主イエスの区別、水による洗礼と聖霊による洗礼の区別、すなわち人の業と神の業の区別を明らかにすることによって、本当の救いを実現する方を指し示しているのです。ルカの物語においてヨハネは去ります。1、2章で見てきたように、ヨハネとイエスが交互に語られることはもはやありません。いまや主イエスのご生涯へと完全に移っていくのです。それは十字架と復活へいたるご生涯であり、そこにおいて真の救いが実現するのです。その真の救いに、私たちは聖霊による洗礼によって与っているのです。私たちは、この聖霊による洗礼が与える約束によって、当たり前のことが当たり前でない世界で、踏みつけられ砕かれるようなことがあっても、終わりの日に、倉に収められる麦となるのです。神の国で復活と永遠の命に与る者となるのです。