夕礼拝

主の言葉は実現すると信じる

「主の言葉は実現すると信じる」 伝道師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:サムエル記上 第2章1-11節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第1章39-56節
・ 讃美歌:149、175

そのころ  
 ガリラヤ地方の田舎町ナザレに住む娘マリアのところに、天使ガブリエルが遣わされ、マリアが男の子を身ごもると告げました。聖霊によって身ごもり、生まれてくる子は「神の子」と呼ばれると告げたのでした。このイエス誕生の予告の物語に続いて39節に「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った」とあります。イエス誕生の予告を告げた天使がマリアのもとから去っていき、その後マリアは出かけて行きますが、それがこの出来事からどれぐらい後のことなのか「そのころ」という言葉からはよく分かりません。マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言って、天使が去った後すぐに出かけて行ったのか、それともしばらくしてから出かけて行ったのか、この言葉だけでは手掛かりとならないのです。

がばっと起き上がって  
 しかし「そのころ」に続いて「マリアは出かけて」と語られています。この文章に注目すると、おそらくマリアは天使が去ってそれほどしないうちに出かけたのではないかと思われます。「出かけて」と訳されている言葉は、もともとは「起き上がる」とか「立ち上がる」ことを意味します。マリアは天使が去っていくと、がばっと起き上がって出かけて行ったのではないでしょうか。そこにはマリアの強い思いがあります。マリアは一人でナザレから山里に向かい、ユダの町に行きます。10代の娘にとって長旅には危険もあったに違いありません。それでもマリアが一人旅に出かけたのは、いてもたってもいられなかったからではないでしょうか。自分に起きた出来事を誰かと分かち合いたいと思ったのです。このようなマリアの思いは、私たちもしばしば経験することです。なにか特別な出来事があれば、私たちはそのことを誰かに伝えたくなり、誰かと分かち合いたくなります。しかしその出来事が特別であればあるほど、誰とでも分かち合えるわけではありません。誰かと分かち合いたい、でも誰とでも分かち合えるわけではない、そのような葛藤を抱くのです。マリアも自分に起きた出来事を誰とでも分かち合えるとは思っていなかったに違いありません。聖霊によって神の子を身ごもる。そのような特別過ぎる出来事、人の常識では理解できないことを分かち合える人などなかなかいないからです。しかしマリアは天使から言葉を与えられていました。「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。」そのようにマリアは天使から告げられていました。マリアは、エリサベトなら自分に起きた出来事を分かってくれるかもしれないと思ったのです。この人なら分かってくれるかもしれない。一人での長旅には危険があるとしても、エリサベトに会いたい、自分に起こったことを知ってほしい、聞いてほしい、そのようなマリアの並々ならぬ思いがあったのです。

神の救いの意志と計画にしたがって  
 しかしこのマリアの一人旅は、単に彼女の強い思いによるものではありません。それは「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った」という文章の「行った」に注目すると分かります。ルカによる福音書でこの「行った」は、主イエスが十字架への道を歩まれるときに使われている言葉です。主イエスのエルサレム入場の場面で「イエスはこのように話してから、先に立って進み、エルサレムに上って行かれた」と19・28節にあります。この「エルサレムに上って行かれた」の「行かれた」がこの言葉なのです。同じエルサレム入場の場面でマタイとマルコでは使われていない言葉です。ルカによる福音書だけが特徴的に用いているのです。主イエスが十字架への道を歩まれるとは、神の救いの意志と計画にしたがって歩むことにほかなりません。ですから「マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った」とは、彼女自身の強い思いにまさって、マリアが神の救いの意志と計画にしたがって旅に出たことを告げているのです。もっと正確にいえば、マリアのお腹の中にいる主イエスが、神の救いの意志と計画にしたがって歩んだことを告げているのです。すでにマリアのお腹にいるときから、主イエスは十字架への道を歩まれていたとルカは語っているのです。マリア自身は神さまの救いの意志や計画が分かっていなかったかもしれません。天使のお告げを聞いてわき起こった自分の抑えられない思いによって一人で旅に出かけたと考えていたでしょう。しかしそのような彼女の思いを神さまは用いられ、主イエスの歩みを前へと進ませるのです。救いの計画を前進させるのです。私たちもまた神さまに用いられるとき、神さまの意志や計画が分かっているとは限りません。むしろ分からないことのほうが多いのです。しかしマリアと同じように、分からないとしても用いられて神のみ業に加えられることが確かにあるのです。神の言葉によって引き起こされたマリアの旅は、一人旅のように思えて、彼女のお腹に主イエスが共にいてくださる歩みなのです。

マリアの挨拶  
 そのような旅をして、マリアはザカリアの家にたどり着きます。マリアは家に入るとエリサベトに挨拶をしました。すると「マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった」と41節にあります。44節では「あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました」とエリサベトの言葉で語りなおされています。エリサベトのお腹の中にいたヨハネがおどったのです。ルカはマリアの挨拶の言葉を記していません。どんな挨拶をしたのかではなく、マリアとエリサベトの出会いにルカは目を向けているのです。マリアの日常生活に神さまが介入し関わられたことで、マリアには新しい出会いが与えられていきます。神さまが人と出会ってくださることで、人と人の出会いを引き起こしていくのです。

ヨハネは指し示す  
 マリアとエリサベトの出会いは、イエスとヨハネの出会いを引き起こします。洗礼者ヨハネは「エリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する」と言われていました。それは主イエスに先立って歩み、主イエスを指し示していく歩みです。その第一歩がマリアとエリサベトの出会いにおいて起こったのです。指し示すとは言葉だけによるのではありません。ボディランゲージによって指し示すこともあるのです。ヨハネは主イエスと出会い、エリサベトのお腹の中でおどることによって主イエスを指し示したのです。主イエスを指し示すとは「この方こそ私の救い主」と証言することにほかなりません。

エリサベトの賛美  
 ヨハネのこの証言によって、エリサベトの賛美が引き起こされます。「エリサベトは聖霊に満たされて、声高らかに言った」のです。洗礼者ヨハネは15節で「既に母の胎にいるときから聖霊に満たされていて」と言われていました。母のお腹の中で聖霊に満たされていたヨハネが主イエスと出会い、喜びおどり、主イエスを証しすることで母エリサベトもまた聖霊に満たされて賛美したのです。「声高らかに言った」とは「大きな叫び声で叫んだ」と訳せます。ヨハネの喜びのおどりは叫ぶほどの賛美を引き起こしたのです。その賛美の中でエリサベトは「わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう」と言っています。「どういうわけでしょう」とは疑問の言葉ではありません。驚きの言葉です。そして「わたしの主のお母さま」とはイエスを「わたしの主」と告白していることにほかなりません。ヨハネが主イエスを指し示したことが、エリサベトの信仰の告白を引き起こしたのです。マリアは強い思いによってエリサベトに会いに旅に出かけました。しかしその彼女の思いを越えて、洗礼者ヨハネが主イエスを指し示す第一歩が実現し、またそのことによってエリサベトの賛美と告白が実現したのです。マリアの旅も、マリアとエリサベトの出会いも神の救いの意志と計画の内に置かれているのです。

わたしたちも指し示す  
 主イエスを指し示すのは、洗礼者ヨハネだけではありません。私たちもすでに救われた者として主イエスを指し示します。主イエスを「この方こそ私の救い主」と証言するのです。そのような私たちの証言によって、賛美が引き起こされ、信仰の言葉が生まれていくのです。それは私たちがなにか特別な力を持っているということではありません。私たちが証しするのは、私たちにはなにも力はないけれど、からっぽだけれど、しかしそのからっぽの私を主が恵みで満たしてくださっていることなのです。指し示すことにおいて重要なのは、「誰が」指し示しているかではありません。「誰を」指し示しているかが大切なのです。私たちが主イエスを指し示すとは、私たちが何者なのかを明らかにするのではなく、主イエスがどなたであるかを明らかにするのです。主イエスこそが私たちの救い主だと告げるのです。

主がおっしゃったこと  
 エリサベトは賛美の最後で、主イエスの母マリアに「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と語りかけます。このマリアが必ず実現すると信じた「主がおっしゃったこと」とはなんでしょうか。それは、天使ガブリエルが告げた主イエス誕生の予告であることは間違いありません。天使の告げた言葉に、マリアは「お言葉どおり、この身に成りますように」と答えました。主の言葉が実現すると信じたマリアの言葉です。しかし「主がおっしゃったこと」とは、天使の告げた言葉だけではないのです。エリサベトが賛美を歌い終えると、それに応えるようにしてマリアが賛美を歌い始めます。そのマリアの賛美の中で「主がおっしゃったこと」が歌われているのです。

マリアの賛歌  
 ヨハネの証言がエリサベトの賛美を引き起こしました。そしてエリサベトの賛美はマリアの賛美を引き起こします。46節から55節で歌われる彼女の賛美はマリアの賛歌、マニフィカートとして知られ多くの人に親しまれてきました。マニフィカートとは、この賛歌のラテン語訳で冒頭に来る言葉であり「あがめる」を意味します。またこのマニフィカートは、サムエル記上2・1-10のサムエルの母ハンナの祈りを下じきとして書かれたものと考えられています。しかしマニフィカートをその前にあるエリサベトの賛美と切り離して、独立したものと考えるべきではありません。マニフィカートで、歌われているのは、エリサベトの賛美に呼応して、マリアが必ず実現すると信じた「主がおっしゃったこと」が歌われているのです。この賛歌は大きく二つに分けられます。46-50節ではマリアの個人的な体験による賛美が歌われています。彼女は例えば「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と歌います。ここで「わたしの」という言葉が繰り返されていることから、マリアの個人的な経験に基づく神への賛美だと分かるのです。ほかにも「わたしを幸いな者と言うでしょう」とか「わたしに偉大なことをなさいましたから」と歌われています。ですからマニフィカートはマリアの個人的な体験による証であると言ってもよいのです。しかしこの賛歌はそのような個人的な証で終わりません。55節に「わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに」とあり、51節から55節でこの賛歌はイスラエルの民に実現した主のみ業を歌っているのです。一つの歌の中で、マリアの個人的な体験による賛美が、イスラエル共同体の体験による賛美へと移っていくのです。さらにマリアの賛歌は、イスラエル共同体にとどまらず、すべての人にとって実現した主のみ業を語っているのです。個人的な証が共同体の証となるのは、私たちも経験することです。この私が主を証しするのは自分のためではありません。共同体が主を証しすることへ、そしてすべての人が主を証しすることへと結びついていくためなのです。

すでに実現したこととして  
 51節以下ではすべて過去形の表現が使われ、マリアはすでに実現したこととして主の救いのみ業を語っています。あえてそのことを意識するために過去形で訳せば、たとえば「主はその腕で力を振るった、思い上がる者を打ち散らした、権力ある者をその座から引き降ろした、身分の低い者を高く上げた」などとなります。そしてこのことは、54節にあるように神が憐れみをお忘れにならなかったから起こったこととして歌われているのです。しかしマリアが生きている世界を考えるならば、主の救いのみ業が実現したとは言えません。むしろ思い上がる者がはびこり、権力ある者が力を握り、身分の低い者は虐げられ、飢えた人はいぜんとして飢えたままであり、富める者は腹いっぱい食べていたことでしょう。そのような主の救いのみ業がとても実現しているとは思えない世界で、マリアは主の救いのみ業をすでに実現したこととして歌うのです。彼女は主の救いのみ業がいまだ実現していないとしても、将来必ず実現すると信じていたのです。人が未来について語るとき、そこには不確かさが必ずともないます。だから私たちは「こうなるだろう」とか「こうなるかもしれない」などと言うのです。本当のところ私たちは誰もどうなるか分からないからです。しかしマリアは人の確かさではなく神の確かさを信じ未来を語ります。まるですでに実現してしまったかのように未来を語るのです。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた」とは、主の救いのみ業の実現がはっきり分かったから信じたのではありません。いまだそこから隔たりがある中で、主の救いが将来必ず実現すると信じたのです。そしてそれは、主イエスの誕生の予告に先立つ洗礼者ヨハネの誕生の予告において始まっているのです。マリアが旅をしてエリサベトに出会い、その出会いにおいてヨハネが主イエスを証しし、それによってエリサベトの賛美と告白が引き起こされ、さらにそのエリサベトの賛美に応答するアリアの賛歌において、主の救いが確かに進んでいることが告げられているのです。

世界の不確かさの中で神の確かさを信じる  
 私たちは主イエス・キリストの十字架と復活において、すでに決定的な主の救いのみ業が実現したことを告げ知らされています。十字架と復活によって罪の支配が打ち砕かれ、神の支配が実現しました。その完成は終りの日を待たなければならないとしても、神の勝利はもう確かなことなのです。しかし私たちは自分たちを取り巻く世界を見つめるとき、そのことを信じられなくなることがしばしばあります。私たちの世界には不条理が溢れているからです。マリアを取り巻いていた世界と同じように、権力者はその権力を正しく使うのではなく、その権力によって弱い者を虐げています。世界の富はごく一部の限られた人に集中し、世界には飢えている人が多くいます。そのような現実に直面して、私たちは神が憐れみをお忘れにならないことを忘れてしまうのです。神の憐れみが不確かであるかのように思ってしまうのです。しかしそれは錯覚です。神の憐れみが不確かなのではありません。私たちが不確かなのです。私たちは自分自身の内にはなにも確かさなど持っていません。だから世界に溢れる不条理に直面したとき、私たちは不安になるのです。自分は大丈夫だろうか、世界はこの先どうなるのだろうかと心配になるのです。しかしマリアの賛歌は、そのような私たちを自分自身の不確かさを見つめることから、神の確かさを見つめることへと導きます。神の憐れみが失われているように思える世界で、不条理に満たされている世界で、自分の確かさによってではなく、神の確かさによって、主の言葉は必ず実現すると信じる、その信仰をマリアの賛歌は私たちに湧き上がらせるのです。

主イエスを中心とした交わりへ  
 マリアが賛美を歌い終えると、56節に「マリアは、三か月ほどエリサベトのところに滞在してから、自分の家に帰った」とあります。マリアとエリサベトは三か月の間、共に暮らしたのです。どんな暮らしをしていたのでしょうか。マリアがエリサベトのところを訪ねたのは、エリサベトが妊娠してから六か月目でしたから、マリアは妊娠六か月から九か月のエリサベトと共に暮らしたことになります。エリサベトのお腹は大きくなっていたでしょう。ただでさえ体が重くなり大変なのに、その上エリサベトは高齢でした。そのようなエリサベトを若いマリアが助けていたのかもしれません。またエリサベトはマリアより六か月先に身ごもったので、これからのことについてマリアになにかと助言していたのかもしれません。そのようにマリアとエリサベトはお互いに助け合いながら三か月共に暮らしていたのです。そこには親しい関係と深い交わりが生まれたに違いありません。けれどもその交わりは単なる人間的な交わりではありません。マリアとエリサベトの暮らしには、主イエスを指し示すヨハネと主イエスが共にいたのです。その暮らしはただの人間的な助け合いではなく、主イエスを中心とした交わりなのです。その三か月の中で、エリサベトのお腹の中にいるヨハネはなんども喜びおどったのではないでしょうか。その度ごとに主イエスが指し示されるのです。マリアとエリサベトは指し示される主イエスとともに、お互いの苦労を担いあったのです。私たちの教会の交わりとは、このような交わりです。単なる人間的な親しさや助け合いの交わりではありません。主イエスが中心におられる交わりなのです。そこにはいつも主イエスを証しする人がいます。その証しによって神への賛美が引き起こされます。そこにおいて、主の言葉は必ず実現すると信じる群れが生まれるのです。私たちはお互いの重荷を担い合いながら、主のおっしゃったことは必ず実現すると信じ、この神への賛美を、マグニフィカートをマリアと共に歌うのです。

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