「人々の声によって」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: イザヤ書 第53章1-12節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第23章13-25節
・ 讃美歌:14、314、288
イエスは無罪
しばらく間が空きましたが、ルカによる福音書を読み進めたいと思います。いよいよ、主イエスの十字架の死刑が決定するという場面です。主イエスを十字架につける判決を下したのは、ローマ帝国のユダヤ総督、ポンティオ・ピラトでした。彼は今、ユダヤ人の長老、祭司長、律法学者たちの訴えによって主イエスを裁いています。ユダヤ人たちは、本日の14節にもあるように、主イエスを「民衆を惑わす者」としてピラトに訴えました。しかし主イエスを尋問したピラトは既に4節で「わたしはこの男に何の罪も見いだせない」と言っています。ローマ帝国の総督である彼は、ユダヤ人の信仰上の対立に首を突っ込むつもりはありません。彼の関心は、ただこの地の治安を守り、ローマの支配を脅かすような動きを取り締まることです。ユダヤ人の指導者たちは、2節にあったように、「この男はわが民族を惑わし、皇帝に税を納めるのを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました」と訴えることによって、ピラトに、イエスという男はローマにとって危険な存在だと思わせようとしています。しかしピラトはこの訴えの根本にあるのは彼らの信仰における対立であることが分かっていましたから、その口車には乗らず、自分で尋問してみて、イエスに処刑すべき罪は見いだせないと判断したのです。前回読んだ12節までのところには、イエスがガリラヤ出身であることを知ったピラトが、丁度エルサレムに滞在していたガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスのもとにその身柄を送ったことが語られていました。「この者はあなたの管轄だからあなたが裁いて下さい」ということです。ヘロデも主イエスを尋問しましたが、主イエスは一言もお答えにならず、結局ヘロデも主イエスをピラトのもとに送り返して来たのです。それは、「私はこの者を裁こうとは思いません。あなたがご自由になさって下さい」ということです。このように、ピラトとヘロデは、主イエスの裁きにおいて、裁く権利をお互いに譲り合うことによって相手を尊重していることを示したのです。それによってそれまで対立していたこの二人の仲が良くなったと12節にありました。主イエスはこの二人の政治的駆け引きの道具とされたわけです。このことをルカがわざわざ語っているのは、ピラトもヘロデも共に主イエスを死刑に処すべき犯罪人とは考えなかった、ということを示すためです。本日の13節以下では、ピラトが祭司長たちと議員たちと民衆とを呼んでこう言ったことが語られています。「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。私はあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。ヘロデとても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう」。私たちがこれを読んで不思議に思うのは、何の罪も見いだせないならなぜ鞭で懲らしめるのか、ということですが、この「鞭で懲らしめる」と訳されている言葉は、「子供」という言葉を語源としており、「子供を教育する、躾ける」という意味です。そのために鞭で打つということが当時行われていたのです。今ではそういうことは子供への虐待とされますが、しばらく前までは教育や躾にそういうことは付き物でした。ピラトがしようとしているのもそのことです。つまり、死刑にするような罪はないが、世間を騒がせたことについてちょっとお灸を据えて、それで釈放しよう、ということです。訴えて来たユダヤ人たちの気持ちを満足させようという思いもそこにはあります。鞭で懲らしめるからそれくらいで勘弁してやれ、ということです。ですからここから読み取るべき肝心なことは、ピラトは主イエスを無罪放免にしようとした、ということなのです。
イエスではなくバラバを
さて、16節の次に17節はなくて18節になっています。そしてその間にメダカのような記号があります。これは実はメダカではなくて短剣なのだそうですが、この印は、今読んでいる書物の終った後のところ、つまりルカ福音書なら162ページを見なさい、という意味です。そこを開いてみますと、「底本に節が欠けている箇所の異本による訳文」とあって、二つの節が並べられています。その二つ目が23章17節です。「底本」というのは、翻訳の元になった「原文」のことです。聖書には「これが原文」というものがどこかにあるわけではありません。全て手で書き写された「写本」として、しかも断片的に残っているだけです。しかも写本どうしの間にいろいろと違いがあったりします。書き写されていく間に、間違って、あるいは意図的に、書き換えられることがあるのです。それらの写本を比較検討して、より元に形に近いものを求めていく学問があります。その成果として、現在のところ最もオリジナルに近いものと思われる「底本」が定められ、それをもとにして翻訳がなされるのです。ですから「定本」はその研究の進展と共に少しずつ変化していきます。その変化において、以前は入っていた節が、今では後から付け加えられたものだと判断されて外されることがあります。外された節はそれぞれの書の終わったところに並べられているのです。23章17節がその一つです。162ページによれば、そこには以前は「祭りの度ごとに、ピラトは、囚人を一人彼らに釈放してやらなければならなかった」という文章があったのです。
この17節は18節で人々が叫んだことの内容を理解するために必要です。人々は「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と要求したのです。なぜこのような要求が出てくるのか、それはこの17節なしには分かりません。「祭り」、それは今始まろうとしている「過越祭」のことですが、その時に総督ピラトはユダヤ人の囚人一人に恩赦を与え、釈放するならわしとなっていたのです。このならわしをバラバに適用するように人々は要求したのです。ルカ福音書のこの語り方ですと、ピラトの思いとユダヤ人たちの思いとの間にはずれがあることになります。つまりピラトは、主イエスが無罪だから釈放しようとしたのに対して、ユダヤ人たちは、ピラトが過越祭における恩赦をイエスに適用しようとしていると考え、イエスではなくバラバを釈放するように要求したのです。そのように叫んだのは「人々」であると語られていますが、「人々」という言葉は原文にはありません。「叫んだ」の主語が「彼ら」になっているだけです。その「彼ら」とは誰かとさかのぼっていくと、13節の「民衆」に行きつきます。今ピラトの前には、主イエスを訴えた祭司長や議員たちという指導者たちのみでなく、民衆が呼び集められているのです。その「彼ら」が、「その男を殺せ。バラバを釈放しろ」と叫んだのです。その「民衆」はしかし、つい数日前までは、19章48節にあったように、「民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていた」その人々です。だから祭司長、律法学者ら民の指導者たちも迂闊に主イエスに手を出せなかったのです。その民衆が今、イエスではなくバラバを釈放しろと叫んでいるのです。
バラバは19節にあるように、「都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていた」人でした。このバラバを、ローマ帝国の支配からユダヤを武力で解放しようとする革命運動家だったと理解する向きもあります。民衆が主イエスよりもこのバラバの釈放を求めたのは、もともと主イエスにも、ローマの支配からの解放という救いを期待していたのだけれども、どうもその期待に応えるような人ではなさそうだという失望が広がり、むしろバラバに代表される武力による抵抗運動の方がローマの支配からの解放のために有効だと思うようになったのだ、と説明がなされたりします。それも一つの読み方でしょうが、ルカはそこまではっきりと語ってはいません。はっきりしているのは、民衆は、暴動と殺人で捕えられていたバラバが生きることを求め、主イエスが十字架にかけられて殺されることを求めた、ということです。
人々の声によって
ピラトはそれでもなお、主イエスを釈放しようとして彼らに呼びかけます。しかし人々は21節にあるように「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けたのです。主イエスが十字架につけられて殺される、そのことが初めてここにはっきりと語られ、要求されています。十字架による処刑というのは、ユダヤ人たちの間にはなかったことです。これはローマの、しかも奴隷などの身分の低い人を処刑するときのやり方です。主イエスがその十字架につけられることを要求したのがユダヤ人の民衆だったことを記憶しておきたいと思います。そのことの意味は後で考えることにして、先へ進みます。ピラトはなおも主イエスを釈放しようと努力します。三度目に、民衆に語りかけるのです。「いったい、どんな悪事を働いたと言うのか。この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった。だから、鞭で懲らしめて釈放しよう」。しかしピラトのこの呼びかけは民衆の叫びにかき消されてしまいます。23節にあるように、「人々は、イエスを十字架につけるようにあくまでも大声で要求し続けた」のです。「その声はますます強くなった」とあります。ここは前の口語訳聖書では「そして、その声が勝った」となっていました。ピラトの呼びかけは、「十字架につけろ、十字架につけろ」という人々の叫び声の前で無力でした。24節で、ついにピラトは「彼らの要求をいれる決定を下し」ました。25節「そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた」のです。バラバが「暴動と殺人のかどで投獄されていた」者であることをルカはもう一度語り、強調しています。そういう者が釈放され、主イエスは十字架につけられたのです。ピラトが主イエスを「彼らに引き渡して、好きなようにさせた」となっていますが、それはユダヤ人たちの要求の通りにした、ということであって、主イエスはユダヤ人たちのリンチによって殺されたのではなく、ローマの総督ポンティオ・ピラトの権威の下で十字架につけられ、処刑されたのです。ローマの総督ピラトが無罪放免にしようとしたのを、ユダヤ人の民衆が「十字架につけろ」と要求し、その声によって主イエスの十字架刑が決定したのです。そしてそれと共に暴動と殺人によって投獄されていたバラバが釈放されたのです。
ユダヤ人の責任?
南ドイツ、アルプスの麓のオーバーアマガウという村で、十年に一度、受難劇が村をあげて行われています。主イエスの最後の一週間、エルサレム入城から十字架の死、そして復活までを一日がかりで村人が総出で上演するのです。世界中から観客が集まります。一昨年の2010年にそれが行われ、この中にも、見に行かれた方々が複数おられます。私も22年前、1990年に見る機会を与えられました。十年ごとに行われるこの受難劇の内容は、少しずつ変化してきています。特に大きな変化は、主イエスの十字架の処刑が決定する場面、つまり本日の箇所をどのように描くかにおいて生じています。それは、ユダヤ人の団体から、イエスを殺した責任はユダヤ人にある、という描き方をしないようにという要求がつきつけられているからです。その要求には歴史的な背景があります。ヨーロッパのキリスト教の歴史において、キリストを殺したのはユダヤ人だ、という理由でユダヤ人への迫害が行われてきたのです。ナチス・ドイツによるホロコースト、60万人のユダヤ人の虐殺は、そういう歴史的前提の中で起ったのです。そしてこの受難劇も、ヒトラーによる反ユダヤ主義に利用されたことがあったのです。そういうドイツの事情の中で、イエスの処刑の責任がユダヤ人にある、という描き方に対してはユダヤ人から激しい抗議と修正の要求がなされているわけです。そのために、一昨年の受難劇では、ピラトを残忍な暴君として描き、ピラトの意志によって主イエスの十字架が決定した、というふうに描くようになったとのことです。ドイツの事情の中でのそのような変更はある意味やむを得ないことかもしれません。しかし聖書に語られている主イエスの受難の話においては、それは間違いです。特にルカ福音書の記述においては、ピラトは明らかに主イエスを釈放しようとしたのに、ユダヤ人の民衆が「十字架につけろ」と要求し、その声によって主イエスの十字架が決定したのです。
ユダヤ人、神の民、私たち
ユダヤ人の、しかも指導者たちだけでなく、民衆の声によって主イエスの十字架が決定した、ということをどう受け止めるかが私たちに問われています。主イエス・キリストを殺したのはユダヤ人だ、だからユダヤ人はけしからん、という思いを抱き、ユダヤ人への憎しみを募らせるというのは、この聖書の記述の受け止め方を全く間違ってしまっているということです。そういう間違いを、過去のキリスト教は犯して来ました。それがナチスによるあの大量虐殺の温床となった、ということを私たちはわきまえなければなりません。聖書の読み方を間違えると、このような恐ろしいことが起こるのです。それではこの箇所をどのように受け止めるべきなのでしょうか。聖書においてユダヤ人とは、主なる神様によって選ばれ、神の民とされた人々です。神様の救いの歴史を担ってきた民、主なる神様と共に生きてきた人々です。信仰者の群れと言い換えることもできます。そして救い主イエス・キリストが来られたことによって、その神の民は今や、主イエスを信じる信仰に生きる者たちの群れである教会に受け継がれています。私たちも、洗礼を受けて教会に加えられることによって神の民の一員とされるのです。それは私たちの手柄によってではなくて、主なる神様が選んで下さり、召して下さったという恵みによって実現することです。ユダヤ人が神の民とされたのもそれと同じ恵みによってでした。ですから聖書が「ユダヤ人」と語るところに、私たちは自分自身を置いて読まなければならないのです。ユダヤ人の民衆とは私たちのことなのです。一方ピラトは異邦人です。それは信仰者でない人、主なる神様を信じていない人です。信仰を持たないピラトが、「イエスは死刑に当たるようなことは何もしていない。釈放しよう」と言っているのに、神の民であり信仰者である私たちが、「イエスを殺せ、十字架につけろ」と要求し、イエスではなく、強盗殺人犯であるバラバの方を釈放しろと求めている、私たちはここをそういう場面として受け止めるべきなのです。つまり私たちはここで、あなたがた自身がこの民衆と同じことをしているのではないか、という神様からの問いかけを受けているのです。
主なる神様が私たちの救い主として遣わして下さった独り子主イエスに対して、私たちはどのように振舞っているでしょうか。主イエスを信じて受け入れ、その教えに従って、神様を愛し、隣人を愛して生きることこそが、私たちのなすべきことです。しかし私たちはそれどころか、主イエスを迎え入れようともせず、自分が主人となり、自分の思いを通すことに躍起になり、自分の願いをかなえてくれるものにのみ依り頼もうとしています。つまり主イエスを自分の心から閉め出し、亡き者にしてしまっているのです。そしてその結果、隣人をも愛し慈しむことができなくなり、むしろ傷付け、苦しめてしまい、お互いの間に良い交わり、関係を築くことができなくなってしまう、それが罪に支配されてしまっている私たちの姿です。それは主イエスを十字架につけろと叫び、イエスよりもバラバを求めた民衆と全く同じことをしているのです。しかもそれは、私たちが主イエスやその父なる神様を知らなかった過去の話ではありません。主イエスを信じる信仰を言い表し、洗礼を受けて教会に加えられ、神の民とされたはずの今、まさにそのような罪に陥っている自分の姿に気付かされるのです。信仰を与えられ、神の民とされることによってこそ、私たちは自分の罪に気付き、自分が主イエスを十字架につけろと叫んでいる者だということを示されるのです。先ほど、十字架の処刑はユダヤ人たちの間にはない、ローマのやり方だと申しました。イエスをローマのやり方で殺すことをユダヤ人たちが求めたのです。十字架にはりつけにされるというのは、ユダヤ人たちにとっては、神様に呪われた者の死に方でした。主イエスが、神の民でない異邦人によって、神に呪われた者として殺されることを、神の民が求めたのです。そのことが自分においても起こっている。信仰者であり、神の民とされているこの自分が、主イエスを神に呪われた仕方で殺そうとしている。自分こそこのユダヤ人の民衆である、ということを見つめることこそが、この箇所の正しい読み方なのです。
主イエスの十字架による救い
主イエスの十字架の死が誰かの責任ではなく自分自身こそが「十字架につけろ」と叫んでいる者であることを知ることによってこそ、私たちはこの主イエスの十字架の死に、私たちのための救いの恵みをも読み取ることができます。その救いの恵みを示してくれるのが、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書第53章です。ここには、見るべき面影もなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もなく、軽蔑され、人々に見捨てられ、打ち砕かれ、死んだ「主の僕」の姿が語られています。そのように苦しみの内に死んでいったこの人を、私たちは軽蔑し、無視していた、また、彼は神の手にかかって打たれ、苦しんでいるのだ、つまり神に呪われているのだと思っていた、とも語られています。つまり私たち自身が、この人を排斥し、軽蔑し、苦しめていたのです。しかし実はこの人は、私たちの病を担い、私たちの痛みを背負い、私たちの背きの罪のために刺し貫かれ、私たちの咎のために打ち砕かれたのです。この人の苦しみと、神に呪われたように思える死は、実は私たちの罪のゆえであり、私たちが受けるべき苦しみと神に呪われた死を、代って引き受けて下さったのです。この人が私たちの罪を背負い、自らをなげうち、罪人の一人に数えられて死んで下さることによって、多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをして下さったおかげで、私たちに平和が、癒しが、罪の赦しが与えられたのです。私たちはこのイザヤ書の「主の僕の歌」に、主イエス・キリストの十字架の苦しみと死による救いの恵みの預言、予告を見ます。父なる神様は、この主の僕として、独り子イエス・キリストを遣わして下さったのです。主イエス・キリストの十字架の死に、この預言の成就、実現を見、そこに救いがあることを信じるのがキリスト教会の信仰です。しかしこの救いにあずかるためには、本日の場面で、主イエスを「殺せ、十字架につけろ」と叫び、「イエスではなくバラバを釈放しろ」と要求している民衆の姿に、自分自身を見出さなければなりません。ここから、ユダヤ人が主イエスを殺した、とユダヤ人への反感を募らせたり、あるいは、自分は主イエスを十字架につけろと叫ぶような罪人ではない、不十分ながらも主イエスに従って生きようと努力しているのだ、と、この民衆と自分とが全く別であるように捉えているならば、主イエスの十字架による救いは分からないし、それにあずかることはできないのです。主イエス・キリストは、まさにこの私のために、私の罪を背負って十字架にかかって死んで下さったのです。そのことを見つめていく時に、この主イエスの十字架の処刑の決定と共に、強盗殺人犯だったバラバが赦され、釈放されたことの深い意味も見えてきます。本来十字架につけられて処刑されるはずだったのに、主イエスが十字架にかかって死んで下さったために赦され釈放されたバラバは、まさに私たち自身の姿です。「十字架につけろ」と叫ぶ民衆こそ自分であることを示された者は、自分が主イエスの十字架の死によって赦され、救われたバラバであることをも知ることができるのです。