「福音を告げる権威」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: イザヤ書 第61章1-4節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第20章1-8節
・ 讃美歌:12、402、467
エルサレム神殿で
ルカによる福音書は第19章の後半で、主イエスがご生涯の最後にエルサレムに入られたことを語っています。エルサレムに入った主イエスが直ちに向かわれたのは、神殿でした。神様を礼拝する場である神殿こそ、主イエスが来られるべき所なのです。その神殿の境内で主イエスが、商売をしていた人々を追い出したということが、先週読んだ19章45節以下に語られていました。この商売というのは、観光客相手に土産物を売っていたのではなくて、神殿に神様を礼拝しに来た人々のために、献金用のお金への両替や、犠牲として捧げるための鳩を売っていたのだということを先週お話ししました。つまり彼らは神殿の当局者、ユダヤ教の指導者たちの許可の下に、礼拝のための商売をしていたのです。ところが突然やって来た主イエスがその人々を乱暴な仕方で追い出したので、ユダヤ教の指導者たちは当然ながら激しく怒りました。そのことは19章47節に語られています。「毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の長老たちは、イエスを殺そうと謀ったが」。祭司長、律法学者、民の長老たちがユダヤ教の指導者たちです。彼らは主イエスがその後も毎日神殿の境内で人々を教えていることに我慢がならず、なんとかして亡きものにしたいと思ったのです。しかし48節には「どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである」とあります。神殿で教えている主イエスの回りには多くの民衆が集まり、喜んでその話を聞いていたので、手を出すことができなかったのです。
イエスの権威を問う
そこで、本日の20章に続きます。神殿の境内で教えておられる主イエスのもとに、祭司長や律法学者たちが、長老たちと一緒に、つまり先ほどの47節と同じメンバーです、この人々が近づいて来たのです。彼らは、「我々に言いなさい。何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか」と主イエスを問いつめました。主イエスがしている「このようなこと」とは、第一には神殿の境内で民衆に教えを語っていることでしょう。誰の許可を得てここで話をしているのか、人々を教える権威をお前はどこから得たのか、ということです。しかしそこには当然、あの宮清めの出来事、神殿の境内から商売をしている人々を追い出したことも意識されています。神殿のために、礼拝のために我々の許可の下に商売をしている人々を追い出すようなことをする権威を誰が与えたのか、お前にそんな権威はないはずだ、というのが彼らの思いです。しかし民衆の手前表向きは、「何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか」という問いかけとして語っています。イエスに答えさせて、実は自分が誰からも権威を与えられてはいないことを民衆の前にさらけ出させようとしているのです。
その権威を与えたのはだれか
この「何の権威で」という問いは大変興味深い、考えさせられるものです。なぜなら私たちもしばしばこういう問いを発するからです。それは、ある人の言葉が信頼できる本当のことなのかどうか、その人に聞き従っていって大丈夫なのかどうか、という場面においてです。そういう時に、その人にはどのような権威があるのか、と私たちは問うのです。そのように私たちは、権威を頼りにし、求めているのです。そしてこの「何の権威で」という問いは必ず、「その権威を与えたのはだれか」という問いを伴います。権威は、誰かから与えられ、認められることによってこそ本当の権威となるものだからです。「私には権威があるのだ」といくら主張しても、それだけで権威が得られるわけではありません。誰かより権威ある人から認められ、与えられることによって、権威は権威として成り立たつのです。例えばテレビの報道番組などで、「その事柄についての権威」である人が出て来て解説をします。多くの場合それは大学の先生だったりします。大学の先生は、学位とか研究業績などの審査を経てその大学から教授とか助教などのポストに採用され、任命されています。だからその分野についての権威として認められるのです。そのように、人間社会における権威は与えられるものです。それゆえに、「その権威を与えたのはだれか」ということが問題となるわけです。誰から与えられた権威かによって、信用度が違ってきたりするのです。
権威の危機
人間社会における権威とは基本的にそういうものであるわけですが、今この国において、その権威が深刻な危機に陥っています。東日本大震災によって発生した原発事故の影響の中に今私たちはあるわけですが、この事故について、そしてそれによって撒き散らされた放射性物質の影響について、その道の権威とされる大学教授たちがテレビに登場していろいろなことを言っています。これは先々週の夕礼拝において、「偽証してはならない」という十戒の第九の戒めについての説教で語ったことですが、原発事故の初期に、福島市で一時間に20マイクロシーベルトという非常に高い放射線量が観測されたというニュースにある東大教授が登場して、「一回のレントゲン検査が600マイクロシーベルトだから、その30分の1の量で全く問題ない」と発言しました。一時間に20マイクロの所に30時間いれば600マイクロ、つまり1回分のレントゲンの量になるわけで、そこに暮らしている人は30時間に一回レントゲン検査を受けるということになるのです。これは大問題のはずなのにこの東大教授は「全く問題ない」と言う。国の法律が定めている一年間の被爆限度量は1ミリシーベルト、つまり1000マイクロシーベルトです。一年間でです。それを超える場合には何らかの対策を講じなければならないというのが、国民の健康を守るために定められている法律なのに、その百倍の年間100ミリまで大丈夫などと言っている大学教授もいます。勿論そんな大学教授ばかりではなくて、そういう発言を批判し、政府はもっとしっかり、特に子供たちの被爆を防ぐための対策を取るべきだと言っている教授もいます。そういう状態の中で私たち一般人は、何を信じたらよいのかわからなくなっています。東大と言えば学問の世界では一応この国で最高の権威だと思われていますが、その権威を帯びているはずの人がまことにいい加減なことを言っている。しかし人間誰でも安心したいですから、東大の先生が「大丈夫」と言っているのだから大丈夫だろう、と思ってしまいます。そして逆に良心的に危険を指摘している人たちが、「風評被害をもたらしている」などと批判されるようなことが起っています。これは、この国においてもはや権威が権威として正しく機能しなくなっているということを意味しています。
権威に弱い私たち
見方を変えれば、そこに現れているのは、私たち日本人が権威に弱い国民であるということです。「その道の権威」と呼ばれる人の言うことを鵜呑みにしてしまい、様々な情報を自分できちんと判断しようとせず、権威ある人が「大丈夫」と言えば皆がそれを信じて思考停止になる、という傾向を私たちは持っているのです。大震災の中にあっても秩序を守り、お互いに助け合っていることが日本人の美徳として語られていますが、同じことが原発事故に関しては、権威に弱く、お上に従順で、自分でものを考えようとしない民、という評価をも生んでいるのです。
私の思いを語り過ぎたかもしれません。皆さんは私のこの言葉をも鵜呑みにせず、放射性物質の拡散の状況や放射線の影響について、ご自分でしっかりと学び調べていただきたいと思います。今はインターネットで様々な情報を得ることができます。どれが本当に信頼できる情報なのか、権威に頼るのではなく、それを自分で見分けていくことが、特に子供たちを守るために今必要なことだと思います。
さてしかし、権威に頼り、権威に弱い体質というのは、私たち日本人だけの話ではないということが、本日の箇所から分かります。当時のユダヤ人たち、特にその宗教的指導者たちが、まさに権威を拠り所とし、それにこだわっていたことがここに語られているわけです。彼らは、祭司、律法学者、長老という権威によって民を指導していました。権威によって人々を従わせていたのです。ところがそこに、彼らによって権威を認められていない主イエスがやって来て、彼らが認可して営業している商売人たちを神殿から追い出し、さらに毎日神殿で人々に教えを語っている、それは彼らにとって我慢のならないことでした。それで彼らは主イエスの権威を問題にし、「何の権威でこのようなことをしているのか。その権威を与えたのはだれか」と問いつめたのです。
問い返す主イエス
この問いに、主イエスは逆に一つの問いをもってお答えになりました。「では、わたしも一つ尋ねるから、それに答えなさい。ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか」。問いに対して問いをもってお答えになる、これは主イエスがしばしばなさったことです。それは論争のためのテクニックではありません。ここには信仰における基本的なことが示されています。つまり、主イエスに対して問うことは、自分自身が主イエスから問われることでもある、ということです。神様について、主イエスについて、信仰について、私たちはいろいろな問いを持ちます。疑問を抱きます。その問いや疑問を、神様に、主イエスに、あるいは牧師に投げかけます。しかしその時に私たちがわきまえておかなければならないのは、信仰の事柄は、何かの知識について学校の先生に質問をし、説明してもらって分かるようになる、というたぐいの事柄とは違う、ということです。信仰における問いへの答えが得られるのは、私たち自身が逆に神様から、主イエスから、問われることを通してです。神様のこと、主イエスのことが分かるのは、自分自身が神様から、主イエスから、問われていることを知ることによってこそなのです。信仰は、問いへの答えが得られ、納得し、理解することによって生じるのではなくて、自分が問われていることを知り、その問いに誠実に答えていこうとする所にこそ生じるのです。
神からの権威、人からの権威
主イエスが彼らに問い返されたのは、「ヨハネの洗礼は、天からのものだったか、それとも、人からのものだったか」ということでした。主イエスはこの問いによって、今ここで問題となっていることの根本に何があるのかをはっきりと浮き上がらせておられます。天からのものか人からのものか、それは、神からの権威によるのか、人間の権威によるのか、ということです。祭司長たちは、主イエスが彼らユダヤ教指導者たちから権威を与えられていない、つまり許可なく、モグリで教えているのだからその教えには権威はない、ということを示そうとしています。しかし主イエスは、問題は、私が神からの権威によって語っているのか、それとも誰であれ人間の権威によって語っているのかだ、と言っておられるのです。本当に権威ある言葉は、神からの権威による言葉のみです。人間の権威による言葉は、それが祭司や律法学者や長老の権威によるものだろうと、東大教授の権威によるものだろうと、本当に権威ある、つまり信頼できる、人生を委ねるに値するような言葉ではないのです。人間の権威による言葉は、いつも間違っているわけではありませんが、本当に大事な時に間違えてしまう、自分の立場や地位を守るために真実をねじ曲げてしまうことが起るのです。そのことが、まことの救い主であられる主イエスを迎えたこの時のエルサレムにおいても起っていたし、体験したことのない原発事故に直面している今の日本においても起っているのです。どちらにおいても、本当に大事な時、まさに命が懸かっている時に、「その道の権威」の言葉が全く信頼の置けないものとなっているのです。
福音を告げる言葉
本当に信頼できる言葉、私たちが自分の人生を委ね、従っていくに値する言葉は、人間の権威による言葉ではなくて神様の権威による言葉です。そういう言葉を主イエスは語っておられたのです。主イエスは、神の独り子としての権威によってみ言葉を語っておられました。もう一度1節をご覧下さい。「イエスが神殿の境内で民衆に教え、福音を告げ知らせておられると」とあります。主イエスは毎日、神殿の境内で、人々に福音を告げ知らせておられたのです。福音とは、神様の独り子である救い主イエス・キリストがこの世に来られたことによって、神の国、神様の恵みのご支配が到来した、という喜ばしい知らせ、救いの知らせです。主イエスはその救いをいよいよ実現するために、エルサレムに来られたのです。このエルサレムで、数日後に、主イエスは捕えられ、十字架につけられて殺されるのです。主イエスの十字架の死は、私たちの全ての罪を背負い、その赦しを与えて下さるための身代わりの死でした。神の子としての権威をもって来られた主イエスが、私たちの身代わりとなって、罪人として十字架にかかって死んで下さったのです。主イエスを遣わして下さった父なる神様は、主イエスの十字架の死によって、私たちの罪を赦して下さり、さらに主イエスを復活させて、死に勝利する新しい命、永遠の命を私たちにも与えて下さるのです。これが、主イエスによって実現した福音です。主イエスは神様によって油を注がれ、遣わされて、この福音を告げておられるのです。主イエスが語っておられるこの福音こそ、神の権威による、本当に権威ある、信頼できる、人生を委ねるに値する言葉なのです。
根本的な問い
主イエスはこのように、ご自分の権威が人間からのものであるか、それとも神からの権威であるか、ということこそが問題であることをここで示しておられます。ですから主イエスが祭司長たちに根本的に問い返そうとしておられるのは、あなたがたは私の権威が神からのものだと思うのか、それとも人間からのものだと思うのか、ということです。私たちが主イエスにいろいろなことを問うていく時に、主イエスから問い返されるのもそのことです。信仰というのは、つまるところ、主イエス・キリストが神の独り子、神から遣わされた救い主だと信じるのか、それとも昔生きていた偉人の一人に過ぎないと考えるのか、ということによるのです。あなたはそのことをどう思うのか、という問いかけを私たちは主イエスから受けるのです。それにどう答えるかが、信じるか信じないかの分かれ道なのです。
人間の権威に頼る者は
しかし主イエスがここで祭司長たちに問い返されたのは、「ヨハネの洗礼」についてでした。どうしてここで突然洗礼者ヨハネのことを持ち出されたのでしょうか。それは、主イエスの権威を問題にしている彼らユダヤ教指導者たちの本当の姿をはっきりと際立たせるためです。彼らは洗礼者ヨハネを信じようとせず、拒みました。そのことは7章29、30節にこのように語られています。「民衆は皆ヨハネの教えを聞き、徴税人さえもその洗礼を受け、神の正しさを認めた。しかし、ファリサイ派の人々や律法の専門家たちは、彼から洗礼を受けないで、自分に対する神の御心を拒んだ」。「ファリサイ派の人々や律法の専門家たち」というのがユダヤ教の指導者たちです。彼らは洗礼者ヨハネを神から遣わされた者であると認めなかったのです。そのヨハネの洗礼が、天から、つまり神様からのものだったか、それとも人からのものだったか、と主イエスは問いました。彼らの答えは明らかです。彼らはそれを「人からのもの」であり、だから聞き従う必要はない、と思ったのです。ところがこの問いを受けて、彼らは相談を始めます。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。『人からのものだ』と言えば、民衆はこぞって我々を石で殺すだろう。ヨハネを預言者だと信じ込んでいるのだから」。そして結局彼らは「どこからか、分からない」と答えるのです。その答えを受けて主イエスも、「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」とおっしゃいました。主イエスを問いつめ、権威がないことを明らかにしようとした彼らの目論見は、こうして主イエスの見事な切り返しによって潰えました。この論争、主イエスの、胸のすくような完全勝利です。しかし私たちはそれを喜んだり感心したりしているだけではすみません。ここには、人間の権威を頼りにしている者たちの赤裸々な姿があざやかに描き出されているのです。先ほども述べたように、彼らがヨハネの洗礼をどう見ていたかは既にはっきりしています。これは神からのものではない、と彼らは判断し、そのように行動したのです。ところがそれを問われた時に彼らは、どう答えようかと相談します。天からだと答えたら、イエスから「では、なぜヨハネを信じなかったのか」と責められてしまう、もともと「天からだ」などとは思っていないのだから、はっきりと「人からだ」と断言すればよいわけですが、そうすると、ヨハネを神からの預言者と信じている民衆の怒りをかうことになる、それは避けたい、そういう相談の末に「分からない」と答えたのです。彼らが考えているのは、自分の立場や地位をどう守るか、ということのみです。真実は何か、神に従って正しく生きるためにはどうしたらよいか、ということは全く念頭にないのです。神の権威ではなくて人間の権威を拠り所として生きようとする時に、人間はこのように、真実に目をつぶり、都合の悪いことは「わからない」と言ってごまかし、自分の身を守ることしか考えない、まことに醜い、哀れな姿をさらすのです。「その道の権威」だったはずの彼らの言葉は、この「分からない」によって全く信用を失ったのです。まさにそれと同じことが、今私たちの国において起っているのです。
神の権威に従う者は
もう一つここに明らかにされているのは、彼らは主イエスの権威を問題にし、それを問うたけれども、本当に権威ある方である神様に従おうという思いを全く持っていない、ということです。彼らは権威を自分のものとして利用することしか考えておらず、権威に従うつもりはないのです。ヨハネの洗礼のことを持ち出し、「分からない」という答えを引き出すことによって主イエスはそのことを明らかにしておられます。そして、そのような彼らには、「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」とおっしゃって、答えを拒否なさるのです。つまり、もともと主イエスに従うつもりが全くない中で主イエスの権威を問うても、その答えは与えられない、ということです。主イエスに問う時には逆に主イエスから問われるのだと先ほど申しましたのはこのことでもあります。主イエス・キリストが神の独り子であり、神から遣わされて、福音を告げ知らせた救い主である、というのは本当だろうか、という問いを私たちは抱きます。つまり主イエスの権威を問う問いです。それは信仰に至る道において大事な、避けて通れない問いです。その問いを、私たちは本当に真剣に問わなければなりません。そしてこの問いに対する答えは、この問いを真剣に問うことの中で自分が変えられていくこと、新しくされていくことを受け入れ、求めていくところにこそ与えられるのです。この問いの答えがどうであれ自分の生き方は変わらない、自分は自分の思い通りに生きていくのだ、と思っているなら、この問いはどうでもよい問いであり、つまり信仰はどうでもよい事柄であって、せいぜい人生に新しい一つのアクセサリーを加えるぐらいのものだということです。あの祭司長、律法学者、長老たちは、まさにそのように生きているのです。そこでは、この問いへの答えは与えられないし、本当に権威ある言葉、信頼できる、人生を委ねるに値する言葉を聞くことはできません。本当に権威ある言葉、信頼できる、人生を委ねるに値する言葉は、主イエス・キリストが、神の独り子としての権威をもって告げて下さっている福音の言葉です。主イエスは私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さいました。その主の死によって神様の救いの恵みが私たちに与えられたのです。主イエスはその福音を、この礼拝においても、み言葉によって語りかけ、聖餐によって味わわせようとして下さっています。主イエスの神としての権威を信じ、それに従っていくことによって自分を変えていただこうとする信仰によってこそ、私たちは福音を神の言葉として聞くことができるし、聖餐を主イエスの救いのしるしとして味わうことができるのです。