主日礼拝

主がお入り用なのです

「主がお入り用なのです」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: ゼカリヤ書 第9章9-10節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第19章28節-40節
・ 讃美歌:327、204、512

このように話してから
 本日共に読むルカによる福音書第19章28節以下には、「エルサレムに迎えられる」という小見出しが付けられています。主イエスがそのご生涯の最後にエルサレムに来られた、その時のことが語られているのです。このいわゆる「エルサレム入城」から主イエスの最後の一週間、つまり「受難週」が始まります。その週の金曜日に主イエスは十字架につけられて亡くなり、三日目の日曜日に復活なさったのです。
 28節の冒頭に、「イエスはこのように話してから」とあります。「このように話して」とは、直接にはその前の所、先週ご一緒に読んだ11節以下の「ムナのたとえ」を指しています。しかしその話はさらにその前の1節以下の「ザアカイの話」とつながっています。それは11節の「人々がこれらのことに聞き入っているとき」という言葉から分かります。「これらのこと」はザアカイの話です。その話に聞き入っている人々に、今度はムナのたとえが語られたのです。そしてこれらの話の舞台はエリコの町です。主イエスのエルサレムへの旅路の最後の滞在地であるエリコにおける出来事を、ルカのみが記しているのが19章1~27節です。28節はそれらの全体を受けて「このように話してから」と語られていると言えるでしょう。

主イエスが来られる
 エリコにおける話は、「主イエスが来られる」ということをテーマとしています。ザアカイは、エリコの町に来られた主イエスを一目見ようといちじく桑の木に登りました。その木の下まで来られた主イエスは彼の名前を呼んで「今日私はあなたの家に泊まる」とおっしゃいました。彼が主イエスを迎え入れ、主イエスが彼の家に来られたことによって、「救いがこの家を訪れた」のです。また「ムナのたとえ」は、主人の留守中に一ムナのお金を預けられた僕たちの話ですが、これは主イエスがまことの王となってもう一度来られるという約束を信じて、主イエスが来られることをしっかりと待っていることを弟子たちに、つまり主イエスを信じる信仰者に求めているたとえ話です。主イエスが将来もう一度来られることをどう受け止めるかが問われていますが、それは既に来られた主イエスをどう受け止めたかということと不可分に結び付いています。既に来られた主イエスをザアカイのように迎え入れた人こそが、将来もう一度来られる主イエスをしっかりと待っていることもできるのです。そしてさらに、18章の終わりの、主イエスがエリコの町に入られた時の出来事も同じテーマを語っていると言えます。主イエスが来られたことを聞いた目の見えない物乞いが、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び続け、ついに主イエスの救いにあずかったのです。「主イエスが来られる」ことを真剣に受け止め、その主イエスとの出会いをひたすら求めた人の姿がそこに描かれていました。エリコの入り口におけるこの話が、19章のエリコの町における二つの話への備えとなっていたのです。「イエスはこのように話してから」という28節の言葉には、「主イエスが来られる」ことをテーマとしたこれらの出来事と教えの全てが込められています。それらのことを語った上で、主イエスは「先に立って進み、エルサレムに上って行かれた」のです。

主イエスに従う
 エルサレムに上る一行の先頭に主イエスが立っておられる姿がここに描かれています。9章51節以来、主イエスはご自分の使命をはっきりと意識して、先に立ってエルサレムへの道を進んで来られました。「先に立って」ということはその後に弟子たちが従っているということです。しかし弟子たちは主イエスが何のためにエルサレムへと向かっておられるのか、その使命を理解してはいません。そのことは、18章31節以下で主イエスがご自分のエルサレムにおける受難を三度目に予告なさった時にも、「十二人はこれらのことが何も分からなかった」と言われている通りです。よく分かってはいないのだけれども、とにかく主イエスに従って来たのです。この弟子たちの姿は私たち信仰者の姿と重なります。主イエスに従っていくのが信仰者の歩みですが、それはいろいろなことを全て分かって、理解して従っているわけではありません。主イエスのことも、主イエスを遣わした父なる神様のことも、分かっていないことが沢山あるのです。分かっていないから、弟子たちもそうだったように私たちも、いろいろと失敗をします。とんちんかんなことを言ったりします。しかしそれでも、先に立って進む主イエスに従っていることが大事です。そこに、周りで見ているだけの群衆たちと弟子たちとの、つまり信仰者とそうでない人の決定的な違いがあるのです。そして信仰者は、主イエスに従っていくことの中で、いろいろなことを体験していきます。その体験の中で、主イエスのみ心を、神様の救いの恵みを次第に教えられていくのです。本日の箇所もそういう話になっていると言うことができると思います。

主イエスを喜び迎えたのは?
 さて29節には、主イエスの一行が「『オリーブ畑』と呼ばれる山のふもとにあるベトファゲとベタニアに近づいた」とあります。エルサレムの東にいわゆる「オリーブ山」があり、エリコからエルサレムへ上るにはこの山を越えるのです。この山に登っていくところに「ベトファゲとベタニア」という村がありました。聖書の付録の地図「新約時代のパレスチナ」を見ていただくと分かりますが、順番から言うと先ずベタニアがあり、それからベトファゲとなります。30節の「向こうの村」は、マタイ福音書を参考にするならベトファゲのことです。主イエスはこの村へと二人の弟子を使いに出し、一頭の子ろばを調達させました。そしてその子ろばに乗ってオリーブ山を下り、エルサレムに入られたのです。37節以下には、主イエスがそのろばに乗ってエルサレムに入られる時に、それを歓迎して神様を賛美した人々のことが語られています。主イエスは群衆たちの歓呼の声に迎えられてエルサレムにお入りになった、けれどもその群衆たちはその週の内に、主イエスを「十字架につけろ」と叫ぶようになる、この37節以下を私たちはそのように読み、理解していることが多いのではないでしょうか。それはマタイとマルコ、そしてヨハネ福音書においてはその通りです。しかしこのルカによる福音書は実はそのようには語っていません。群衆が「ホサナ」と叫びつつ喜んで主イエスを迎えた、といういわゆる「エルサレム入城」の場面をルカは描いていないのです。38節に、「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように。天には平和、いと高きところには栄光」という賛美の言葉が記されていますが、それを語ったのは群衆ではありません。37節には、「弟子の群れはこぞって、自分の見たあらゆる奇跡のことを喜び、声高らかに神を賛美し始めた」とあります。この賛美を歌ったのは弟子の群れです。ここには群衆はいないのかというとそうではありません。39節には、ファリサイ派のある人々が、「群衆の中から」主イエスに文句を言ったことが語られています。群衆は確かにいるのです。しかしその群衆が主イエスをほめたたえて歓迎したとは、ルカは語っていないのです。ファリサイ派の人々の文句も、「先生、お弟子たちを叱ってください」です。彼らにすればただの人間に過ぎないイエスのことを「主の名によって来られる方、王」などと呼んで賛美することは主の名を冒_することになる、そんな贔屓の引き倒しのようなことを言われたらあなただって迷惑だろう、弟子たちをたしなめなさい、ということです。そこからも、このように賛美していたのが弟子たちであることが分かります。ここを読んでいて唯一、群衆が主イエスを歓迎しているように思えるのは、36節の「人々は自分の服を道に敷いた」というところです。ところがここの原文には「人々」という言葉はないのであって、「彼らの服を道に敷いた」とあるのみです。その前の所に「群衆」は出てきていませんから「彼ら」とは群衆ではなくてやはり弟子たちと取るべきです。というわけで、服を道に敷いて歓迎したのもやはり弟子たちなのです。つまりルカによる福音書はこのエルサレム入城の場面において、群衆ではなくて弟子たちが賛美を歌い、主イエスのエルサレム入城を喜んだことを描いているのです。他の福音書が共通して語っているように、群衆も確かに主イエスを喜び迎えたのでしょう。しかしルカはそのことには目もくれず、ただ弟子たちの姿のみを見つめ、語っているのです。そこに、ルカ福音書におけるエルサレム入城の記事の際立った特色があるのです。

弟子たちの姿を見つめる
 この特色は、ルカがこの19章で見つめ語っていることと結び合っています。いやそれは19章のみでなく、その前から一貫して語られてきたことでした。ルカは、エルサレムへの主イエスの旅路を語りつつ、その主イエスに従っていく弟子たちのあり方、つまり信仰者のあり方をずっと語ってきたのです。つまりルカの目は常に主イエスに従っていく者たちに向けられているのです。先ほど、エリコにおける話のテーマは「主イエスが来られる」ということだと申しました。それはもっと丁寧に言うならば、主イエスが来られることを真剣に受け止めて、その主イエスに従っていくべきことです。物乞いをしていたあの目の見えない人は、主イエスによって目を開かれ、「神をほめたたえながら、イエスに従った」のです。ザアカイも、主イエスに名前を呼ばれ、今日あなたの家に泊まる、と宣言して下さった主イエスをお迎えしたことによって、財産の半分を貧しい人々に施し、不正な取り立てを四倍にして返す者へと変えられたのです。それはつまり主イエスに従う者となったということです。ザアカイは後に教会の指導者の一人になったという言い伝えもあります。またムナのたとえにおいても、主イエスがまことの王として再び来られることを信じて、それを待ち望む信仰に生きる、つまり主イエスの弟子、信仰者として生きることこそ、預けられた一ムナを生かして用いることです。そのようにもう一度来られる主イエスを待ち望む信仰に生きることができるのは、エルサレムに来られた主イエスを賛美を歌いつつ喜び迎えた弟子たちである、ということをルカは見つめていると言えるでしょう。37節に、彼らは「自分の見たあらゆる奇跡のことで喜び」とあります。それは主イエスがガリラヤにおられた時から一緒に歩み、従って来ていた弟子たちだからこそできることです。勿論先ほども申しましたように弟子たちも主イエスのことをちゃんと分かっていたわけではないけれども、群衆のように一時の感情の高まりで主イエスを喜び迎えているのではない、ということがここに示されているのです。
 そのような目で見ていくと、38節の賛美の言葉にもルカの特徴を見ることができます。「主の名によって来られる方に祝福があるように」というところは、他の福音書と共通しています。ルカはそこに、「王に」を付け加えています。主の名によって来られる方である主イエスは、神の民のまことの王であられることが明確に言い表されているのです。これは「ムナのたとえ」における「王の位を受けようとしている主人」ともつながりますし、そもそも主イエスが「神の国」つまり神様の王としての支配の到来を告げておられたこととつながります。弟子たちは、神の国を実現するまことの王として来られた主イエスを喜び迎えているのです。またルカは、「天には平和。いと高きところには栄光」という言葉をも付け加えています。これは2章14節の、クリスマスにおける天使の賛美を思い起こさせます。主イエスがこの世に来られた時に賛美を歌った天使たちの役割を、今度は弟子たちが果しているのです。39節以下の、これもルカのみが記している、ファリサイ派の人々の文句に対する主イエスのお答え「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫び出す」もその流れの中で読まれるべきでしょう。クリスマスの晩のあの天の軍勢の賛美を誰も黙らせることはできないように、弟子たちのこの賛美も決して妨げることはできないのです。主イエスに従う弟子たち、つまり信仰者とは、そのような賛美を歌う者たちなのです。

主がお入り用なのです
 このようにルカは主イエスのエルサレム入城の場面において、主イエスに従う弟子たちのことを集中して見つめており、そこに、主イエスを信じ従って行く信仰者の姿を重ね合わせています。そのことを確認した上で、もう一度29節以下の、二人の弟子たちを使いに出し、子ろばを調達なさった話を見てみたいと思います。主イエスは二人を使いに出すに際して、向こうの村に入るとまだ誰も乗ったことのない子ろばがつないであるのが見つかるから、それをほどいて引いて来なさいとお命じになり、さらに、もし誰かが「なぜほどくのか」と尋ねるなら「主がお入り用なのです」と言いなさいとおっしゃいました。そして二人が行ってみると主イエスがおっしゃった通りのことが起りました。33、34節に「ろばの子をほどいていると、その持ち主たちが、『なぜ、子ろばをほどくのか』と言った。二人は、『主がお入り用なのです』と言った」とあります。なんでもない会話のようですが、ここは原文を読むと大変面白いことになっています。「持ち主たち」と訳されている言葉と「主」という言葉は、複数形と単数形の違いはあるものの同じ言葉なのです。つまり「持ち主たち」とはそのろばの「主人たち」ということです。また、弟子たちの「主がお入り用なのです」は、「主イエスがお入り用なのです」と言っているのではなくて、直訳すると、「このろばの主人がこのろばを必要としておられるのです」となります。つまりこの会話は少し敷衍して言えば、子ろばの持ち主たちが「このろばの主人は我々ではないか。なぜ我々のろばをほどくのか」と問うたのに対して弟子たちが、「このろばのまことの、ただ一人の主人がこのろばを必要としておられるのです」と答えたということになるのです。これは大変深い意味のある問答です。この子ろばの本当の主人は誰か、ということが問題となっているのです。持ち主たちは自分たちこそ主人だと思っています。しかしこのろばの本当の主人、所有者、王は彼らではなくて主イエスなのです。このろばの子は、自分の本当の主人、王である主イエスに召し出されて、そのご用のために用いられたのです。そして弟子たちは、このろばの本当の主人は主イエスであり、その主イエスが彼を用いようとしておられることを告げる役割を与えられたのです。彼らが告げた言葉は、彼ら自身が考えたものではありません。主イエスに「このように答えなさい」と言われた通りに答えたのです。つまり主イエスに従ったのです。主イエスに従い、言われた通りにした結果、彼らはこのような重要な宣言をする者として用いられたのです。
 この経験を通して弟子たちは、自分たちの姿とこの子ろばとが重なり合うことを感じ取ったのではないでしょうか。そしてそれは私たちにも言えることです。私たちはもともと、自分の人生の本当の主人、所有者、王を知らずに生きています。だから、自分の人生の主人は自分だ、とつっぱったりしながら、しかし事実上は誰か他の人に支配されていたり、ある組織の支配下に置かれていたりしているのが生まれつきの私たちの姿です。しかしそのように生きている私たちのもとに、ある日ある人が遣わされてきて、「主がお入り用なのです」、つまり「あなたの主であるイエス・キリストがあなたを必要としておられ、あなたを用いようとしておられます」と告げるのです。その人を通して主イエスご自身が私たちと出会い、あなたの人生の本当の主人、所有者、王は私だ、と語りかけ、私たちをお招きになるのです。この招きに応えて主イエスに従っていくことが、信仰者となることです。あの物乞いをしていた目の見えなかった人も、徴税人だったザアカイも、そのように新しく歩み出したのです。預けられた一ムナをしっかりと用いていくというのもそういうことです。「あなたのまことの主であり王であられる主イエスが、あなたを用いようとしておられる」と告げるみ言葉を、自分に対して語られているみ言葉として真剣に受け止め、それを信じ、主に従う者として歩んでいくことが、一ムナをしっかり用いることです。その時その一ムナは何倍もの実りを生んでいくのです。

平和をもたらす王
 さて主イエスのエルサレム入城において子ろばが用いられたことによって、旧約聖書の預言が成就しました。その代表的な箇所が、本日共に読まれたゼカリヤ書第9章9、10節です。そこには、「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る。雌ろばの子であるろばに乗って」とあります。まさにこの勝利を与えられた王として主イエスは来られたのです。そしてこの王の勝利は何をもたらすのか。それは平和です。10節がそれを語っています。「わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を断つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる」。主イエスは戦いを終らせ、平和をもたらす王であり、ろばの子はその平和の象徴なのです。38節の弟子たちの賛美に、「天には平和」とあったことがこれとつながります。クリスマスの時の天使の賛美は「地には平和」でした。それが今度は「天に」となっています。「地には平和」というのは、争いに満ちた地に平和を、という祈りです。それに対して「天に平和」というのは、天に争いがあるということではありません。これは、主イエスがエルサレムに来られ、そこで私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、そして復活して天に昇られることによって、天において、つまり神様のみもとで、私たちに罪の赦しと新しい命を与えて下さる神様の救いのみ心が実現し、平和が完成する、そのことをほめたたえる言葉だと言えるでしょう。天において既に完成しているその平和を携えて、主イエスはまことの王としてもう一度来て下さるのです。その時、争いや戦いに満ちたこの世は終わり、まことの平和が実現するのです。地は相変わらず争いや戦いに満ちているけれども、ろばの子に乗ってエルサレムに来て下さった主イエスの十字架と復活と昇天によって、天において、罪と死の力は既に打ち破られ、平和が打ち立てられているのです。そのことを信じて、その主イエスによる救いの恵みをほめたたえつつこの世を歩むのが主イエスに従う信仰者なのです。

神を賛美する声をこぞって
 主イエスに従う信仰者の群れである教会の使命は、まことの主、まことの王を知らない世の人々、群衆の中で、主イエス・キリストによる救いの恵みを与えて下さった神をほめたたえる賛美の声を高らかにあげることであり、「主がお入り用なのです」というみ言葉によって召され、招かれた者として私たちも人々に、あなたのまことの主であり王である主イエスがあなたを招き、用いて下さることを告げ知らせていくことです。私たちを取り巻くこの世の現実は、この賛美と証しの言葉を私たちから奪おうとします。しかし、私たちが黙れば、石が叫び出すと主はおっしゃっています。それは、主イエスに従う弟子の群れである私たち教会以外の誰が、この世で、この賛美と証しの言葉を語り得るのか、という励ましのみ言葉であると言えるでしょう。私たちは本日礼拝後に教会総会を開き、昨年度一年間の歩みを主のみ前に振り返ろうとしています。そこには私たちの様々な罪や欠けもあり、反省しなければならないこともあります。けれども、私たちが教会の歩みを振り返るのは、基本的には、私たちの罪や欠けにも関わらず、主が昨年度一年間私たちに見させて下さったあらゆる奇跡、恵みのみ業を喜び、私たちがこぞって神を賛美する声を高らかにあげていくためなのです。

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