主日礼拝

信仰と行い

「信仰と行い」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第55章1-3節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第15章11-17節
・ 讃美歌:

信条を信じるとどんないいことがあるのか
 昨年の8月から、毎週の礼拝で告白している使徒信条に導かれてみ言葉に聞いてきました。本日がその最終回となります。最後にお話ししたいのは、この使徒信条に語られていることを信じることによって、私たちはどうなるのか、どのように生きる者となるのか、ということです。使徒信条には、およそ正統的なキリスト教会であれば、つまり今話題になっている旧統一教会のような異端でなければ、どの教派の教会であっても基本的に信じている事柄が語られています。そして見てきたようにその教えは全て聖書に基づくもの、聖書に根拠を持つものです。代々の教会が、聖書に基づいて信じ、告白してきた基本的な信仰内容がここに語られているのです。それを信じて生きることがキリスト信者として生きることです。それによって私たちはどのような者となるのでしょうか。この信仰は私たちの人生に何をもたらすのでしょうか。そのことを最後に見つめておきたいのです。
 私たちが大切に受け継いでいる「ハイデルベルク信仰問答」は、そのことを語っています。使徒信条についての解説がなされた後の問59にこういう問いがあるのです。「それでは、これらすべてを信じることは、あなたにとって今どのような助けになりますか」。「これらすべて」とは使徒信条の内容の全てです。それを信じることは、今のあなたの人生にどのような助けをもたらすのか、と問うているのです。もっと直截に言えば、使徒信条を信じるとどんないいことがあるのか、ということです。

永遠の命の相続人となる
 この問いへの答えはこうなっています。「わたしが、キリストにあって神の御前で義とされ、永遠の命の相続人となる、ということです」。使徒信条を信じることによって二つのいいことがある、と語られています。第一は「キリストにあって神の御前で義とされ」ること、第二は「永遠の命の相続人となる」ことです。二つ目の「永遠の命の相続人となる」ということは、使徒信条の最後の、「とこしえの命を信ず」というところに語られていました。それは、この世の終わりに神が私たちをも復活させ、主イエス・キリストと共に永遠の命を生きる者として下さるということです。使徒信条を信じることによって私たちは、この永遠の命の「相続人となる」のです。相続人とは、今はまだ一円も受け取ってはいないけれども、将来財産を相続することを約束されている人です。つまり「永遠の命の相続人」とは、今はまだ永遠の命を得てはいないけれども、将来それを与えられることが約束されている人です。だからそれをを待ち望みつつ、希望をもって生きることができるのです。しかもその将来とは、この世の人生の中のどこかの時点ではなくて、肉体の死を越えた先の、この世の終わりです。そこにおける救いの希望を与えられているのです。だから、この世の人生において様々な苦しみや悲しみがあっても、そして死に臨んでも、それによって絶望してしまうことなく、希望を持ち続けることができるのです。このことが、使徒信条を信じることによって得られるいいことの第二のものです。そのことを私たちはこれまでみ言葉を通して示されてきました。使徒信条を信じる私たちは、自分の歩みが、肉体の死によって終わりではなくて、なおその先に、神が与えて下さる復活と永遠の命があること、死は絶望ではなくて、むしろ神による救いの完成に向かっての新たな一歩であることを信じることができるのです。このことは、私たちの人生に確かな希望を与えます。永遠の命の相続人となることは、遠い将来の話というよりも、今のこの人生に与えられているいいこと、恵みなのです。

キリストを信じる信仰によって義とされる
 しかし、使徒信条によって今のこの人生に与えられる助け、いいことは、世の終わりに与えられる救いへの希望だけではありません。第一のこと、「キリストにあって神の御前で義とされる」、といういいことがあるのです。これは将来ではなくてまさに今、与えられているものです。使徒信条を信じることによって私たちは、神のみ前で義とされてこの人生を生きることができるのです。それはどのような助け、どのような「いいこと」なのでしょうか。
 ハイデルベルク信仰問答は、この「キリストにあって神の御前で義とされる」を受けて、次の問60でこう問うています。問60「どのようにしてあなたは神の御前で義とされるのですか」。その答えの冒頭には、「ただイエス・キリストを信じる、まことの信仰によってのみです」とあります。つまり「キリストにあって神の御前で義とされる」とは、キリストを信じる信仰によってのみ義とされるということなのです。そこには、自分の努力によって良い行いをして、立派な人になることによってではなくて、という意味が込められています。私たちが頑張って良い行いをすることによって神のみ前で義となる、つまり自分の正しさによって救いを得るのではなくて、ただキリストを信じる信仰によってのみ義とされる、つまり神が私たちを義として下さるのです。このことこそ、使徒信条を信じることによって私たちに与えられるいいことの第一のものなのです。

いかなる功績にもよらずただ恵みによって
 この、キリストを信じる信仰によってのみ義とされる、とはどういうことかを、ハイデルベルク信仰問答問60の答えはさらに続けて語っていきます。その文章はもはや一つの説教のようです。この問60の答えは、私がハイデルベルク信仰問答の中で、個人的に最も好きな箇所です。こう語られています。「すなわち、たとえわたしの良心がわたしに向かって、『お前は神の戒めすべてに対して、はなはだしく罪を犯しており、それを何一つ守ったこともなく、今なお絶えずあらゆる悪に傾いている』と責め立てたとしても、神は、わたしのいかなる功績にもよらずただ恵みによって、キリストの完全な償いと義と聖とをわたしに与え、わたしのものとし、あたかもわたしが何一つ罪を犯したことも罪人であったこともなく、キリストがわたしに代わって果された服従をすべてわたし自身が成し遂げたかのようにみなしてくださいます。そしてそうなるのはただ、わたしがこのような恩恵を信仰の心で受け入れる時だけなのです」。長い文章ですが、「わたしの良心がわたしを責め立てる」と語られています。良心とは、人には隠している自分の本当の姿を知っているもう一人の自分です。その良心は私のことを「お前は神の戒めすべてに対して、はなはだしく罪を犯しており、それを何一つ守ったこともなく、今なお絶えずあらゆる悪に傾いている」と責め立てるのです。それは嘘ではありません。真実です。人の前では取り繕って隠している自分の真実の姿を良心は暴き立てるのです。そして神ももちろんその自分の真実の姿をご存じです。私が、神の戒めを守るどころか、それをはなはだしく破っている罪人であり、善を行うどころか絶えずあらゆる悪に傾いていることは、神には全てお見通しなのです。しかし神は、その私を罪のゆえに裁いて滅ぼすのではなくて、「キリストの完全な償いと義と聖とをわたしに与え、わたしのものとし」て下さったのです。つまり、神の独り子である主イエスが、私の罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、私の罪の完全な償いをして下さったので、私は赦されているのです。キリストご自身が打ち立てて下さった義と聖を、神は罪人である私に与え、私のものとして下さったのです。このキリストによる償いによって神は私のことを、「あたかもわたしが何一つ罪を犯したことも罪人であったこともな」いかのようにみなして下さっています。いやそれどころか、「キリストがわたしに代わって果された服従をすべてわたし自身が成し遂げたかのように」みなして下さっているのです。主イエス・キリストは十字架の死に至るまで、父なる神のみ心に服従して歩まれました。そのキリストの服従を私自身が果たしたと、神はみなして下さっているのです。「キリストにあって神の御前で義とされる」とはそういうことです。私たちは、キリストの十字架の死によって罪を赦され、キリストご自身の義を与えられて、キリストと共に神の子として生かされているのです。そしてその救いは、「わたしのいかなる功績にもよらずただ恵みによって」与えられています。私が何か良い行いをしたとか、神のみ前で功績となるような手柄を立てたということは全くありません。私は、自分の良心が知っているように、「神の戒めすべてに対して、はなはだしく罪を犯しており、それを何一つ守ったこともなく、今なお絶えずあらゆる悪に傾いている」のです。それなのに神は、主イエス・キリストが十字架の死によって成し遂げて下さった完全な償いによって、私のはなはだしい罪を赦して、私を義なる者、何一つ罪を犯したこともなく、神に完全に服従した者であるとみなして下さり、救いにあずからせて下さっているのです。それに対して私たちは、「いえとんでもないことです。私はそんな救いにあずかれるような者ではありません。いつも神さまに背いてばかりいる罪人なのです。私のような者が救われるはずはありません」と思います。しかしその私たちに神は、「いや、私は私の独り子イエス・キリストの十字架の死によって、あなたの罪を赦し、義とした。だからあなたはもはや罪によって滅びることはない、私の恵みによって救われるのだ」と宣言なさるのです。それが、「キリストにあって神の御前で義とされる」ということです。この救いは、私たちのいかなる功績にもよらず、つまり私たちが何か良い行いをしたり、清く正しい者となることによってではなくて、本日の旧約聖書の箇所であるイザヤ書55章1節にあるように、銀を払うことなく、値を払うことなく、タダで与えられます。良い行いという値を払うことなく、キリストによって与えられた神の救いの恵みを信じて受け入れるだけで私たちは、神のみ前で義とされるのです。そのキリストによって与えられた神の救いの恵みが使徒信条に語られています。それを信じることによって私たちは、神の戒めすべてに対して、はなはだしく罪を犯しており、それを何一つ守ったこともなく、今なお絶えずあらゆる悪に傾いている者でありながら、神のみ前で義とされて、つまり救われて生きることができるのです。これこそが、使徒信条によって今私たちに与えられる助け、いいことなのです。

私たちの抱く疑問
 しかしこの「いいこと」によって私たちはどのような者になるのでしょうか。この「いいこと」は私たちの人生に何をもたらすのでしょうか。良い行いに励むことによってではなく、キリストによって与えられた神の救いの恵みを信じて受け入れるだけで、神のみ前で義とされ、救われる。それは確かにいいこと、有難いこと、喜ばしいことだと思います。でも私たちは同時に疑問も抱くのではないでしょうか。それは確かに有難いことかもしれないが、でもそれでいいのだろうか。神のみ前で義とされ、救われるために良い行いに励む必要はないということは、私たちは罪を犯し続けていていい、ということだろうか。いっしょうけんめいに良い行いをしようとする必要はないし、そんなことには意味がないということだろうか。だったら誰も良い行いをしようとはしなくなり、みんなが好き勝手にしたいことをするようになるのではないか。そうなったら世の中めちゃめちゃになってしまうではないか。そういう疑問は誰もが抱くのではないでしょうか。
 そういう疑問をハイデルベルク信仰問答も語っています。問64に「この教えは、無分別で放縦な人々を作るのではありませんか」とあります。「この教え」とは、先ほどの問60に語られていた、良い行いによってではなくて、ただキリストを信じる信仰によってのみ神のみ前に義とされる、という教えです。その教えは、無分別で放縦な人々を作るのではないか、つまり良い行いに励むことが大切だという分別を失わせ、自分の好き勝手なことばかりをして生きる人々を生むのではないか。当然起ってくるこの疑問をハイデルベルク信仰問答も取り上げているのです。それに対する答えがどうなっているかは後で見るとして、ここで、本日の新約聖書の箇所、ヨハネによる福音書第15章11節以下を味わっていきたいと思います。

僕ではなく友として下さる主イエス
 主イエスが弟子たちにお語りになったみ言葉です。12節で主イエスは「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」とおっしゃいました。「互いに愛し合いなさい」という掟を主イエスは弟子たちに与えておられるのです。つまり主イエスも、互いに愛し合うという良い行いをして生きることを私たちに求めておられるのです。その前提には「わたしがあなたがたを愛したように」ということがあります。主イエスが先ず私たちを愛して下さったので、私たちも互いに愛し合うのです。13節には「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」とあります。それは主イエスが私たちのために十字架にかかってご自分の命を捨てて下さったことを指しています。主イエスがこのように、これ以上ない愛で私たちを愛して下さったのだから、私たちも同じように、友のために命を捨てる愛で互いに愛し合うように主イエスは命じておられるのだ、と思うわけですが、それは少し違います。続く14、15節にはこうあります。「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはやわたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」。主イエスは私たちを「友」としようとしておられるのです。そのためにご自分の命を捨てるというこれ以上ない愛で愛して下さったのです。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」というみ言葉は、主イエスが私たちのために命を捨てて下さることによって、私たちに「あなたはわたしの友だ」と宣言して下さったことを意味しているのです。「友」という言葉はここでは「僕」と対比されています。主イエスは私たちを、もはや僕ではなく、友としようとしておられるのです。僕は、主人に命令されて従う者です。僕の意志や気持ちは関係ありません。僕は命じられた通りにしなければならないのです。主イエスに「こうしなさい」と命じられてそれに従うのは僕です。互いに愛し合うという良い行いをして生きることを主イエスの掟として受け止め、それに従うなら、私たちは主イエスの僕です。しかし主イエスがここで求めておられるのはそういうことではなくて、私たちが主イエスの友となることです。友と僕はどう違うのでしょうか。「僕は主人が何をしているか知らない」とあります。それは言い換えれば、僕は命令に従うだけで、主人の思いや願いを知らないし、知る必要もないし、知ろうともしないということです。それに対して友は、相手の思いや願い、気持ちを知っているのです。相手の思いを知ろうとするし、その思いに応えようとするのが友です。命じられたから従うのではなくて、愛する友の思いを受け止めて、その思いを生かそうとする、そのようにして自分も相手を愛するのが友です。主イエスは私たちがご自分の友となることを願っておられます。そのために、ご自分の命を捨てるという愛を注いで、私たちの友となって下さったのです。その愛を私たちが受け止めて、私たちも、命じられたからではなくて自分から、互いに愛し合う者となるためです。主イエスの愛を受け止めて、その愛に応えて自分も自分の意志で主イエスを愛し、人々を愛して生きる、そういう良い行いに励んで生きることを、主イエスは私たちに、命じておられると言うよりもむしろ願っておられるのです。主イエスの思いを知ってそれに応えて生きることは、主イエスを遣わして下さった父なる神のみ心を知ってそれに応えて生きることでもあります。今の15節に「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」とあったのはそういうことです。主イエスは、父なる神が、その独り子を与えて下さるほどに私たちを愛して下さっていることを私たちに知らせて下さったのです。私たちはその父なる神のみ心を受け止めて、命じられたからではなくて自分からそれに応えて、神を愛し、互いに愛し合って生きるのです。そのようにして、神の僕ではなく友となって生きること、それこそが、キリストにあって神の御前で義とされて生きることです。主イエス・キリストを信じる信仰は私たちに、そういう新しい生き方をもたらすのです。

喜びに満たされて
 11節で主イエスは「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」とおっしゃいました。主イエスは、父なる神のみ心を知っており、ご自分からそれに従って地上を歩まれました。父なる神との深い信頼関係に生きる喜びが主イエスの内にあったのです。主イエスはその喜びのゆえに、私たちのために命を捨てることによって、神がどれほど深く私たちを愛して下さっているかを示して下さったのです。その神の愛を知り、その愛に応えて神を愛し信頼して生きていく時に、主イエスの喜びが私たちにも与えられて、私たちもその喜びによって互いに愛し合って生きる者となるのです。

感謝の実を結ぶ
 使徒信条は私たちに、父なる神が、その独り子主イエス・キリストが、そして聖霊なる神が、それぞれのあり方によって私たちを深く愛し、私たちの良い行いによってではなく、恵みによる救いを与えて下さっていることを示しています。お一人なる神のこの大いなる愛を知らされる時、私たちは、神に命じられて仕方なく従う僕としてではなくて、神の友となって、神の愛のみ心を受け止め、それに少しでも応えて生きようとするのです。そこに、神のみ心に従って良い行いに励むという実が実っていきます。14節で主イエスは、わたしがあなたがたを選んで、任命した、それはあなたがたが出かけて行って実を結ぶためだ、とおっしゃいました。主イエスによる神の愛は、私たちに、良い行いという実を実らせずにはいないのです。先ほどのハイデルベルク信仰問答問64「この教えは、無分別で放縦な人々を作るのではありませんか」への答えは、「いいえ。なぜなら、まことの信仰によってキリストに接ぎ木された人々が、感謝の実を結ばないことなど、ありえないからです」となっています。使徒信条を告白する信仰によって私たちは、キリストと接ぎ木され、父なる神と、独り子主イエスによる救いにあずかって生きる者とされます。その私たちは、聖霊に導かれて、互いに愛し合うという感謝の実を結んでいくのです。

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