主日礼拝

なだめる神

「なだめる神」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第103編1-22節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第15章11-32節
・ 讃美歌: 266、149、392

クリスマス礼拝二回目
 先週の日曜日、19日にクリスマスの礼拝をささげました。これはクリスマス礼拝の日程としては最も早いケースです。迎えようとしている2011年がそうなるのですが、12月25日が日曜日ならば、クリスマス礼拝は25日に行われます。今日は26日ですから、一日の違いです。教会によっては、本日クリスマスの礼拝を守っている所もあります。例えば、私たちと同じ連合長老会に連なる岡山の蕃山町教会がそうです。私たちの教会では先週、松森菜奈子さんが洗礼を受け、阪口萌夢さんが信仰告白をしましたが、このお二人が参加し、受洗、信仰告白を決意する大きなきっかけとなった、この夏の全国連合長老会の中高生修養会に共に参加していた仲間が、本日この蕃山町教会のクリスマス礼拝で洗礼を受けるのだそうです。このことを私たちも共に喜び合いたいと思います。そのことを含めて、私たちは今日も、クリスマスの喜びの中にあります。本日の礼拝を、クリスマス礼拝の二回目、という思いで守りたいと思うのです。

二人の息子の話
 本日ご一緒に読む聖書の箇所も、先週と同じく、ルカによる福音書第15章11節以下のいわゆる「放蕩息子のたとえ」です。先週は24節までを、つまりこの話の前半の部分のみを読みました。しかし先週申しましたように、このたとえ話は、「ある人に息子が二人いた」と語り始められています。つまりこれは二人の息子たちの物語なのであって、弟息子の話が前半に、25節以下の後半に兄息子の話が語られているのです。先週のところに語られていた弟息子、これがいわゆる放蕩息子です。彼は父親が死んだら自分が受け継ぐはずの遺産を先にもらって家を飛び出し、放蕩の限りを尽くしてそれを全て失ってしまいました。食べるにも困るようになって帰って来たその息子を、父は全くとがめることなく息子として迎え入れ、彼が帰ってきたことを喜び祝う宴会を始めたのです。
 そこから今度は後半の兄息子の話になります。後半の冒頭の25節に「ところで、兄の方は畑にいたが」とあります。この最初の一言が、兄息子の姿を明確に描き出しています。彼は弟とは正反対の生活をしているのです。父の家にいて、父の仕事を手伝い、毎日畑に出て、真面目に勤勉に農作業にいそしんでいるのです。絵に描いたような孝行息子です。彼らの家庭を知る人々は異口同音にこう言っていたことでしょう。「あの家の二人の息子は何と対照的なことか。弟はどうしようもないドラ息子だが、兄ちゃんは真面目で立派な孝行息子だ。あそこの親父さんも、長男のことはさぞ自慢に思っていることだろう」。

兄の怒り
 さてその日も兄は畑に出て一日働き、くたくたになって帰って来ました。すると家の中から音楽や踊りのざわめきが聞こえています。何やら宴会が行われている様子です。僕の一人に「これはいったい何事か」と尋ねると、「弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです」とのことです。それを聞いた兄は、怒って家に入ろうとしなかった、とあります。彼がなぜ、何をそんなに怒ったのか、それはなだめに出てきた父に対して彼が語った29節以下の言葉に示されています。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる」。この兄の気持ちは私たちにはよく分かります…、とこの説教の原稿を書きかけて、私ははたと立ち止まりました。私たちはそんなに簡単にこの兄の気持ちが分かると言えるのだろうか、そもそもこの気持ちが分かるとはどういうことなのだろうか、といろいろ考えてしまったのです。この兄は、何年も父に仕えており、その間「言いつけに背いたことは一度もありません」と言っています。それは決して嘘ではないでしょう。このたとえ話において、父は神様を表しており、その父のもとを飛び出した放蕩息子の姿が神様に背き逆らっている罪人の姿を表しているのだとすれば、この兄は長年神様にしっかりと仕え、言いつけに背いたことが一度もない、という生活を送ってきた人、ということになります。そういう人こそが、この兄の気持ちが分かると言えるのです。ですから、昨日今日信仰者になったばかりの者が、あるいは年数だけはけっこう長くても、本当に真剣に熱心に、いろいろなことを犠牲にして神様に仕えて来たわけではない者が、「あなたの気持ちは分かる」などと言ったら、この兄は、「いや、あんたには私の気持ちは分からない、簡単に分かるなんて言ってほしくない」と言うだろうと思うのです。

主イエスへの敵意
 さらに考えるべきことは、主イエスがこの二人の息子の話をお語りになったきっかけです。それは15章の冒頭に語られていたことです。徴税人や罪人たちが主イエスのもとに集まって来て、主イエスが彼らと一緒に食事をしているのを見たファリサイ派の人々や律法学者たちが、そのことを、神の教えを語る者として相応しくないと批判したのです。その批判に対する応答としてこの15章の三つのたとえ話は語られたのです。その文脈を考えるなら、この話における弟息子、放蕩息子は徴税人や罪人たちのことを表しており、兄息子はファリサイ派や律法学者たちのことを表しているということになります。ということは、この兄息子の言葉は、2節の「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」というファリサイ派や律法学者たちの主イエスに対する批判の言葉と重なり合うのです。だからこの兄の気持ちが分かるというのは、主イエスを批判しているファリサイ派や律法学者たちの気持ちが分かる、ということにもなるのです。ファリサイ派や律法学者たちは、主イエスを単に批判していただけではありません。殺してしまおうという思いを次第に強く抱いてきていたのです。彼らのその思いによって主イエスはついに十字架につけられていくのです。つまり彼らは主イエスに対して激しい敵意と憎しみを抱いているわけで、この兄の言葉はその敵意、憎しみを語っているとも言えるのです。あるいは、この兄の言葉から逆に、ファリサイ派や律法学者たちの主イエスに対する敵意と憎しみの理由を知ることができる、と言ってもよいでしょう。これはそれだけ真剣、深刻な、抜き差しならない言葉なのです。ですから私たちが簡単に「ああこの気持ち分かる」などと言えるようなものではないのです。

神は報いてくれない
 そこでこの兄の言葉を改めてじっくりと味わってみたいと思います。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません」。これが彼の自己理解です。先ほど申しましたようにこれは嘘ではありません。彼はそれだけ真剣に、まじめに、熱心に、父に、つまり神様に仕えて生きてきたのです。ファリサイ派や律法学者たちとはまさにそのような人々でした。彼らは神の掟である律法をその一点一角までしっかりと守り、神様のみ心に従って正しく生きようと必死に頑張っていたのです。それは私たちの信仰にあてはめて言うならば、敬虔なクリスチャンとして信仰生活、教会生活に熱心に励んできたということです。それはすばらしいことであり、尊敬に値することです。しかしこの兄はそれに続いてこう語っています。「それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか」。「それなのに」という言葉に、彼の思いが凝縮されています。そこに込められているのは、自分は神様に一生懸命仕えている、熱心に信仰に励んでいる、それなのに、神様はその自分の努力にちゃんと報いてくれていない、という思いです。その報いとして彼は「友達と宴会をするための子山羊一匹」と言っていますが、後からも申しますが彼が求めているのは物質的なご利益ではありません。神様が自分のことを重んじてくれていることがはっきり分かる印が欲しいのです。その印が与えられていないことに、彼は不満を覚えているのです。こんなに一生懸命信仰に励んでいるのに、神様はその自分の努力に何も応えてくれていない、と感じているのです。

子山羊一匹すら
 どうして彼はそのように感じたのでしょうか。それを示しているのが次の言葉です。「ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる」。ここに、彼の不満の原因があるのです。娼婦どもと一緒に父の身上を食いつぶした弟の存在こそ、彼の怒り、不満の原因なのです。そんな弟がいることが原因なのではありません。その弟が食いつめて帰って来た時に、父がそれを喜んで肥えた子牛を屠ったことが彼には我慢ならなかったのです。「子山羊一匹すらくれなかった」と彼が言っているのは、父が屠ったこの「肥えた子牛」との比較によってです。彼が日頃から、友人と宴会をするための子山羊が一匹欲しいのに、という不満を抱いていたわけではありません。父が、あの弟のために肥えた子牛を屠ったことを聞いたとたんに、彼の心に、父は自分のためには子山羊一匹すらくれたことがない、という思いが涌きあがってきたのです。肥えた子牛は子山羊よりもずっと高価なものです。自分のためには子山羊一匹くれない父が、あの弟のためには肥えた子牛を屠る。一生懸命仕えている自分よりも、あの弟の方が父にとっては大事なのか、自分の努力には何の価値も認めてくれないのか、それが彼の怒りの中心なのです。この怒りは、弟の帰還と、父がそれを喜んで迎えたことによって引き起こされたものです。弟が遠くの国で放蕩三昧の生活をしていようと、その結果無一物になって苦しんでいようと、彼にはどうでもよいことでした。しかしその弟が帰って来て、父が喜んで迎え入れたことによって、兄の心は怒りで満たされたのです。この点において私たちは、この兄の気持ちが分かると言うことができます。つまり私たちも、たとえこの兄のように熱心に神様に仕え、信仰に励んではいなくても、他の人との関係の中でこのような怒り、嫉妬の思いに陥ることがしばしばあるからです。特に、自分の方が苦労したり、努力したり、がまんしているのに、そうでない人の方が認められたり、よい思いをするようなことを体験する時に、私たちの心は、その人に対する、またそのようなえこひいきをしている神様に対する怒りで満たされてしまうのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちが、主イエスが神の教えを語りながら、徴税人や罪人たちを迎え入れているのを見て激しい怒りと憎しみを覚えたのはまさにこのことによってです。自分たちが神の掟を守って熱心に信仰に励んでいることを否定されたような思いを彼らは抱いたのです。

あなたのあの息子
 兄は、「あなたのあの息子が」と言っています。自分の弟のことを、もう弟とは呼びたくないのです。そしてさらにそこには、父に対する不満が込められています。「あなたはあれを息子として迎え入れるつもりかもしれませんが、私はあいつを家族の一員と認める気はありません」という思いです。ファリサイ派や律法学者たちは、徴税人や罪人たちに対してそういう思いを抱いています。あんなやつらは神様のもとでの家族の一員とは認めない、という思いです。そのようにして彼らは、同じ神の民であり家族、兄弟であるはずの人々との関係を断ち切っているのです。それもまた、私たちがしばしば陥る姿です。人との比較の中で神様のえこひいきを感じることによって私たちは、神様に対して怒ると同時に、その人との関係を保てなくなる、人に対する怒りと憎しみに捉えられてしまうのです。

逆転?
 このようにこの兄息子の言葉には、私たちが、神様に対して不満と怒りを抱くと同時に隣人に対しても怒り、憎しみ、嫉妬を覚え、よい関係を失っていく様子が、身につまされる仕方で描き出されています。兄は怒って家に入ろうとしない、とあります。今やこの家族に起っているのは、帰って来た放蕩息子である弟が家の中で宴会の席に着いており、兄は外にいてそれに加わろうとしない、ということです。神様が催して下さる盛大な宴会への招きを受け入れてその席に着くことが救いにあずかることだ、という話が14章に語られていましたが、今やその救いにあずかっているのは弟であり、兄はその招きを拒んでいるのです。神様のもとから飛び出していく罪人の代表である弟と、熱心に神様に仕えて生きている信仰者の代表である兄との間に、そういう逆転が起っているのです。
 しかしそれは本当に逆転なのでしょうか。この兄の姿は、本当に信仰に生きている人の姿を表しているのでしょうか。先ほど、「それなのに」という言葉に彼の思いが凝縮していると申しました。そこに示されているのは、彼が、自分は頑張って熱心に父に仕えているのだから、そこには報いがあるのが当然だ、と思っているということです。その報いは、先ほども申しましたように必ずしも現世的ご利益ではありません。父が自分の努力を認め、重んじてくれる印が欲しい、ということです。しかしいずれにせよ彼は、父のもとで働くことへの報いを求めているのです。「それなのに」その報いが与えられず、父が認めてくれないことに腹を立て、すねているのです。しかしそれは、彼が父の家に留まり、父と共にいることを喜んではいないことを意味します。要するに彼は父のことを本当に愛しているわけではないのです。弟は、父の家にいることを束縛と思い、そこを飛び出しました。兄は家に留まっていますが、内心では彼も、ここにいることを喜んではいないのです。長男の責任もあり、弟が出て行ってしまったから仕方なく家に留まっているのです。そこに、これだけ我慢しているのだから報いがあって当然だ、という思いが生まれてきます。信仰において報いを求める思いというのは、つらいことを我慢することが信仰だという思いと表裏一体なのです。自分は我慢して父の家にいる、と思っているこの兄は、心においては、家を飛び出した弟と何も違いません。弟は目に見える形で、体ごと父に背いていますが、兄は、体は留まりつつ、心は同じように父に背き、父のもとから離れ去っているのです。ですからこの二人の息子の話は、一方は罪人であり、他方は立派な信仰者である対照的な兄弟の話ではないし、その両者の間で逆転が起ったのでもありません。実は彼らは二人とも、父のもとから失われ、罪に陥っているのです。弟の方は、前半の話において父のもとに立ち帰り、父に迎えられて喜びの宴席に連なりました。彼は悔い改めて救いにあずかったのです。しかし兄の方は、怒って家に入ろうとしない、それは彼の本当の思い、神様との関係における立ち位置が目に見える形で明らかになったということです。表面的な立派さ、正しさ、信心深さの陰に隠されていた彼の深い罪が表面に現れてきたのです。

なだめる神
 怒って家に入ろうとしない兄のところに、父が出て来てなだめます。兄のところに出てくる父の姿は、前半の20節で、ぼろぼろの姿になって帰って来た弟息子のところに走り寄った姿と重なります。神様がご自分の家を出て、罪によって失われてしまっている私たち罪人のところに来て下さるのです。それが主イエスの誕生、クリスマスの出来事だと先週申しました。後半においては、兄のところに出て来てなだめる父の姿に、独り子をこの世に遣わして下さった神様の深い恵みが示されているのです。
 父はなんと言って兄息子をなだめたのでしょうか。31節以下にその言葉が記されています。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」。「お前はいつもわたしと一緒にいる」、これこそが、何よりもすばらしことなのです。ここには、どんな報いがあるか、他の人よりもどれだけ重んじられるか、などということではなく、一緒にいることをこそ喜ぶ愛の関係があります。天の父である神様を信じ、神の子とされて生きるところには、神様との間にそのような関係が与えられるのです。信仰者として生きるというのは、つらいことを我慢して生きることではありません。これだけ我慢しているんだから報いがあるはずだ、というのは聖書の教える信仰ではありません。父である神様が私たちを子として愛して下さり、「わたしのものは全部お前のものだ」と言って全てを与えて下さる、独り子の命をすら与えて下さる、その神様のもとで喜んで生きることこそが信仰なのです。兄は、父の家にいることによって現にこのような父の愛を受け、それによって養われています。そのことに気付いて欲しい、そのことの素晴らしさを知って欲しい、そして体だけでなく心も、私のもとに留まって、わたしと共にいることを本当に喜ぶ者となって欲しい、という父の願いがここに込められています。この父の言葉は、既に信仰を与えられ、父なる神様のもとで生きている者たちに向けられた言葉です。次の言葉も、同じく信仰者たちがしっかりと聞くべきものです。「だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」。神様のもとを飛び出し、自分勝手に生きる罪によって行き詰まり、どうしようもなくなって、神様のもとに身を寄せようと願ってやって来る罪人を、神様は、主イエス・キリストの十字架の死によって赦し、子として迎え入れて下さいます。その救いの恵みによって、死んでいた者が生き返り、いなくなっていた者が見つかることを、神様ご自身が心から喜んで下さるのです。肥えた子牛を屠るのは、神様の大きな喜びの現れです。そして神様は、その喜びを全ての者と共に分かち合おうとしておられます。一人の罪人が悔い改めて主イエスの救いにあずかり、洗礼を受けて教会に加えられることを喜び祝う神様の祝宴に、私たちは招かれているのです。この招きを感謝して受け、神様の祝宴の席に着くことが、洗礼を受けて信仰者となることです。そしてそこで神様は私たちを、お互いどうしの良い交わりに生きるようにと招いて下さるのです。生まれつきの私たちは、人と自分とを見比べることの中で嫉妬や憎しみを覚え、兄弟姉妹との関係を破壊してしまうことの多い者です。兄弟のことを「あなたのあの息子」と呼んでしまうのです。しかしその私たちに神様が、「お前のあの弟は」と語りかけて、その兄弟と共に神様の祝宴の席に着くようにと招いて下さるのです。この招きによって私たちは、神様の家族となり、兄弟姉妹として生きることができるようになるのです。
 父が兄をなだめ、祝宴へと招いている言葉でこの話は終わっています。兄はこの後どうするのでしょうか。父の招きを聞き入れて家に入り、弟と共に祝宴に連なるのでしょうか。それともその招きを拒み、今度は彼が、自分のもらう分の遺産をくれと言って家を飛び出していくのでしょうか。それを決めるのは私たち一人一人です。独り子イエス・キリストを遣わして下さった父なる神様が、今私たちを、神様の喜びにあずかる祝宴へと招いておられます。兄弟姉妹と共にその招きに応えることによってこそ、私たちはクリスマスの喜びに本当にあずかることができるのです。

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