主日礼拝

自分の十字架を背負って

「自分の十字架を背負って」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 40編1-18節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第14章25-35節
・ 讃美歌: 231、129、411

旅の再開
 本日この礼拝でご一緒に読むのは、ルカによる福音書第14章25節以下ですが、その冒頭に「大勢の群衆が一緒について来たが」とあります。24節までの所には、あるファリサイ派の議員の家で安息日に催された食事の席でのことが語られていました。主イエスはその食事の席から立ち上がり、再び歩み始めたのです。今主イエスは旅の途上にあります。その旅は9章51節から始まった、エルサレムに向けての旅です。エルサレムに行くのは巡礼のためでも、勿論物見遊山のためでもありません。9章51節に語られていたように、主イエスはご自分が「天に上げられる時期が近づいた」ことを知って、エルサレムへと向かわれたのです。「天にあげられる」、それは主イエスがもともとそこから来られた天の父なる神様のもとに戻られるということですが、それは主イエスが十字架にかけられて殺され、三日目に復活し、そして天に昇られることによって実現します。つまり主イエスは、十字架にかけられて殺されるために、今エルサレムへと向かって歩んでおられるのです。その旅が、本日の25節から再開されたのです。

弟子の条件
 その主イエスの歩みに、大勢の群衆がついて来ました。その群衆たちの方に振り向いて主イエスが語られたみ言葉を私たちは本日読むのです。主イエスは彼らにこう言われました。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても」。大勢の群衆たちがまさに今、主イエスのもとに来ており、再び歩み始めた主イエスについて来たのです。しかし主イエスは彼らに、そのように私のもとに来たとしても、その人たちが皆私の弟子であるわけではない、とおっしゃったのです。「わたしの弟子ではありえない」という言い方が今読んだ所に二度出てきました。同じ言い方が33節にもあります。三度繰り返されているこの言葉が本日の箇所の主題を示していると言えるでしょう。この言葉を以前の口語訳聖書は、「わたしの弟子となることはできない」と訳していました。つまり口語訳は主イエスのこのお言葉を、「私について来るだけで弟子になれるわけではない」と理解しているわけです。私たちもそのようにここを読むことが多いと思います。25節の前にある小見出しは「弟子の条件」となっていますが、その「条件」とは、主イエスの弟子になるための条件、主イエスに弟子入りするための条件だと考えるわけです。しかし私は先ほど意識的に、「私のもとに来たとしても、その人たちが皆私の弟子であるわけではない」とおっしゃった、と申しました。つまり主イエスは、「これこれの人はわたしの弟子となることはできない」とおっしゃったのではなくて、「わたしの弟子であることはできない」とおっしゃったのです。つまりここに語られているのは、主イエスの弟子となる、弟子入りするための条件ではなくて、主イエスの弟子となった者が、その信仰にしっかり留まり、信仰者としての生涯を全うするためには何が必要か、ということなのです。

腰をすえて
 そのことは、28節以下に語られている二つのたとえ話からも分かります。塔を建てようとする人のたとえと、他の王との戦いに赴こうとする王のたとえです。「塔を建てる」というのは、町を守るための砦や、ぶどう園を侵入者から守るための見張りの塔など、生活に必要な塔を建てるという話です。その時には、「造り上げるのに十分な費用があるか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか」とあります。また他国の王に戦争を仕掛けようとする王は、自分の戦力と相手の戦力とを比較して、勝ち目があるかどうかを「まず腰をすえて考えてみないだろうか」とあります。そういうことをしっかり考え、準備しないで建て始めると、完成できずに物笑いの種になるし、戦争においてはまさに以前のわが国がそうであったように悲惨な結末を迎えることになるのです。これらは両方とも、最後までやり遂げるための準備がしっかりなければ、途中でつぶれてしまう、中途半端で終わってしまう、という警告です。どちらのたとえにおいても「腰をすえて」という言葉が用いられています。これは文字通りには「座って」という意味なのですが、「腰をすえて」というのはなかなか味のある訳だと思います。物事を最後までやり遂げるためには腰をすえて掛からなければなりません。主イエスの弟子となる、つまり信仰者として生きていくことにおいても、腰をすえて、しっかりとした備えを持って取り組まなければ、結局途中で挫折し、あの頃はあんなに熱心だったのに、今はどうなってしまったのだ、と人々に笑われるようなことになってしまうのです。

第一印象の危険
 さてそれでは、私たちが主イエスの弟子として、信仰者として、途中で挫折することなく最後まで歩み通していくために必要な備えとは何であるかを改めて見ていきたいと思います。それは、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命までも憎むことであり、また自分の十字架を背負って主イエスに従って行くことです。さらに33節には、「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」とも言われています。主イエスの弟子として、信仰者として生涯を歩むためにはこれらのことが必要だ、というのです。これを聞くと私たちは誰もが、「自分にはこんなことはとてもできない」と思わずにはおれないでしょう。このクリスマスにも、洗礼を受け、あるいは信仰告白をして信仰者、主イエスの弟子となろうと準備をしている方々がおられますが、その方々も、ここを読んだら「無理だ、やっぱりやめよう」と思ってしまうかもしれません。それほどに厳しい、大変なことが語られています。私たちは、この厳しさ、大変さをしっかり受け止めなければなりません。信仰をもって生涯を歩むというのは、決して楽なことではないのです。それこそ腰をすえて取り組まなければならない、大きな課題なのです。いいかげんな気持ちでは長続きしない、ということも確かです。「あの人は建て始めたが、完成することはできなかった」と笑い者になってしまうことのないように、しっかりと備えて歩まなければなりません。そのことを確認した上で、しかし私たちは、ここで主イエスがお語りになったことの内容を正しく理解しなければなりません。第一印象だけでこれらの教えを判断してしまうのは危険なのです。

家族を憎む?
 例えば、「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹」を「憎む」ことが求められています。これはどういうことなのでしょうか。主イエスの弟子となり、従っていくに際して、家族のことなどにかまっていてはいけない、家庭のことは放っておいて、ただ主イエスに従うことだけを考えよ、と言っているのでしょうか。そうすると多くの人は、イエス・キリストはなんてひどいことを教えるのか、という第一印象を抱きます。もっともこの印象は家族との関係がもともとどうであるかにもよるのであって、家族、身内によってさんざん苦しめられており、家族であるがゆえにそこから逃れられずにいるような人には、この教えは解放を告げる教えと受け取られるかもしれません。しかしこれらの第一印象はいずれにしても、主イエスが語っておられることの正しい理解に基づいてはいません。私たちは先ず、主イエスの教えの内容を正しく理解しなければならないのです。そのために必要なのは、ここに使われている「憎む」という言葉の意味を正しく知ることです。父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を「憎む」とはどういうことなのでしょうか。マタイによる福音書の第10章37、38節に、ここと同じ教えが語られています。そこにはこうあります。「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」。この「わたしにふさわしくない」は「わたしの弟子ではありえない」と同じことです。ここと読み合わせることによって、「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を憎まない」ために弟子として生きることができない人というのは、「わたし」つまり主イエスよりも、彼らの方をより愛する人のことだということが分かってきます。つまりここでの「憎む」という言葉の意味は、憎しみの思いを持つということではなくて、より少なく愛する、ということであり、より愛するべき方への愛を第一とする、ということなのです。だからこそここには、「自分の命であろうとも、これを憎まないなら」と言われているのです。自分の命を憎むというのは、こんな命はいやだ、もう生きていたくない、と思うことではなくて、自分の命よりも主イエス・キリストをより愛し、大切にするということなのです。このことを捉えるなら、先ほどの第一印象は払拭されます。主イエスがここで教えておられるのは、家族を、また自分の命を愛することをやめ、それらを憎むようになることではなくて、家族を愛し大切にしつつ、また自分の命も大切にしつつ、しかしその家族や自分の命以上に、主イエスを愛して生きることなのです。

持ち物を捨てる?
 また33節の「自分の持ち物を一切捨てないならば」という教えも、「そんな無理なことを」という印象を私たちに与えます。しかしこの教えが語っていることは、この福音書の12章33節に語られていたことと同じであると言えるでしょう。そこには「自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない」とありました。ここを読んだ時に私たちが確認したのは、この教えは、持ち物を売り払って施しをする、という素晴らしい愛の業、慈善の働きをすることによってこそ、天国銀行に預金をすることができ、その預金を増やすことによって救いにあずかることができる、ということを言っているのではない、ということでした。そうではなくてこれは、自分の持っているもの、蓄え、それは金銭的、物質的なもののみならず、精神的、信仰的なものも含めてですが、そういうものを拠り所とすることをやめなさい、という教えです。それらの自分のもの、自分が何を持っているかにしがみつくことをやめ、それらから手を離して、ただひたすら神様の恵みにすがり、依り頼む者となることを主イエスは求めておられるのです。本日の所の「自分の持ち物を一切捨てないならば」というのもそれと同じことです。自分の持ち物を捨てないというのは、それらにしがみつき、それらを頼りにし、それらによって安心を得ようとしているということです。それは主イエスの弟子、主イエスに従う信仰者として生きてはいないということです。それでも、物事が順調に行っている間はごまかすことができます。しかし様々な苦しみ、試練が襲って来る時に、私たちが何にこそ本当に依り頼み、何を拠り所として生きているのかが問われ、暴露されるのです。いざという時に本当に頼りにし、支えとなるものが主イエス・キリストではなくて結局は自分の家族であったり、自分の命を含めた広い意味での持ち物だったりするなら、それは主イエスのところに来てはいても、弟子として主イエスに従って生きているのではない、結局自分の思いに従って歩み、都合が悪くなればいつでもいなくなる群衆の一人であるに過ぎないのです。

主イエスにこそ依り頼む
 このようにして、「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」というみ言葉と、「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」というみ言葉とはつながります。要するに問われているのは、私たちが本当に愛し、依り頼んでいる相手は誰なのか、自分が持っているもの、自分の命、家族、様々な人間関係、財産なのか、それとも主イエス・キリストなのか、ということなのです。主イエスの弟子として、信仰者として生きるというのは、自分の持っているものを愛し、それらに依り頼んで生きることをやめて、主イエスをこそ愛し、主イエスにこそ依り頼んで生きていくことです。主イエスは私たちにそのことを求めておられるのです。それは主イエスご自身のためではありません。むしろ私たちのためです。主イエスをこそ愛し、主イエスに依り頼む信仰によってこそ私たちは、自分の命を、家族を、また与えられている様々な持ち物を、本当に大切にして生きることができるのです。

自分の命を大切に
 私たちが自分の命を本当にかけがえのないものとして大切にしていくことができるのは、それが神様の恵みによって与えられたものであり、神様の独り子であられる主イエスが、ご自分の命を身代わりに与えて下さるほどにそれを大切に思って下さっていることを知ることによってです。どんな苦しみや絶望の中にあっても、まさに命が失われていく中でも、あるいはこんな命はもういらないと私たちが思ってしまうような時にも、主イエス・キリストは、その私たちの命を心から愛し、私たちのために身代わりとなって十字架にかかって死んで下さったその恵みによって支えて下さるのです。この主イエスを信じ、愛し、依り頼んで生きる所には、人間の力や思いを超えた慰めと励まし、平安が与えられます。その慰め、励まし、平安の中でこそ私たちは、絶望の中から立ち上がり、与えられている命を大切に生き抜いていくことができるのです。

家族を大切に
 また私たちは自分の家族を、どんなに愛し、大切にしていても、自分の力で家族を救うことはできないし、支え切ることもできません。愛する者の命が、例えば病によって失われていくことを私たちはどうすることもできないのです。また自分のあるいは誰かの罪によって、愛し合っていたはずの家族が崩壊してしまうようなこともあります。夫婦なら離婚によってある解決をつけることもできるけれども、親子の関係は解消できないために、それが負い切れない重荷となってのしかかってくることもあります。私たちは家族によって支えられ、慰められ、励まされることも確かだけれども、その家族を本当に支え、守っていく力は、私たちの中にはないと言わなければならないのではないでしょうか。しかし私たちが、主イエス・キリストを信じ、愛し、従い、依り頼んでいく時に、その主イエスが私をも、私の家族をも愛していて下さり、その一人一人の罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、復活して永遠の命の約束を与えて下さっていることを知らされます。この主イエスの救いの恵みの中で、その恵みに支えられて、私たちは、様々な人間の罪にもかかわらず、自分の家族を本当に愛し、大切にしていくことができるのです。主イエスをこそ愛するのは、主イエスの愛に支えられてこそ家族を本当に愛することができるからです。ですからもしも私たちが、主イエスの弟子となり、信仰者として生きることによって家族をないがしろにしたり、主イエスのこの教えを口実にして家族への義務を怠ったりするとしたら、それは主イエスの教えに従っているのではなくて、自分のわがままのために主イエスを利用しているのです。個々の事柄についていろいろ葛藤が生じることはあるにしても、私たちは根本的には、主イエスを心から愛し、それゆえにこそ家族を大切にして生きるのです。

持ち物、財産を生かす
 また私たちは、主イエスを愛し、主イエスに依り頼んで生きることによってこそ、自分の持ち物、財産をも本当に生かし、有意義に用いることができます。それはやはりこの福音書の12章にあった「愚かな金持ちのたとえ」に語られていたことです。財産を倉にしまい込んで「これで安心だ」と思うのは愚かな生き方なのです。神様の恵みの賜物である財産は、隣人のために用いることによってこそ意味を持ち、生きます。そしてそれが出来るのは、自分の人生が財産によってではなくて、ご自分の命を与えて下さった主イエス・キリストの愛によって支えられ、養われていることを信じ、主イエスをこそ愛し、依り頼むことによってなのです。

地の塩として
 つまり私たちは、主イエスの弟子となり、従っていくことによってこそ、自分の命をも、家族をも、隣人をも、そして自分の持ち物をも、本当に大切にし、有意義に用い、それによって隣人とよい交わりを築きつつ生きることができるのです。そのようにして私たちは、この世、この社会において、「地の塩」として生きていくことができるのです。34、35節には、「塩」についてのみ言葉があります。塩に塩気がなくなってしまったら、何の役にも立たないものになってしまう、という教えです。主イエスは私たちが、塩味を失わずに、地の塩としての働きを維持していくことを期待しておられます。キリスト信者が失ってはならない塩味、それが、主イエスの弟子として、主イエスをこそ愛し、依り頼み、主イエスに従って生きるということなのです。信仰者としての人生を生き抜いていくためには、この塩味を失わないことが大切なのです。

自分の十字架を背負って
 主イエスの弟子として、主イエスをこそ愛し、依り頼み、主イエスに従って生きる、それは決して簡単なことではありません。そこには、他のものを愛し、依り頼んでしまうことへの誘惑との戦いがあるし、自分の思いにではなく主イエスのみ心に従っていくための葛藤もあります。苦しみや悲しみの中で、神様の導きを忍耐して待たなければならないこともあります。「自分の十字架を背負って」というのはそれらのことです。この十字架は、私たちが主イエスについて行く、主イエスの後に従って行くことにおいて背負うものです。何かつらいこと、苦しいことがあったらそれが自分の十字架だ、ということではありません。「人生は重い荷物を背負って百里の道を行くようなものだ」という言葉がありますが、私たちはその人生の重荷と十字架とを混同してはならないのです。十字架は、主イエス・キリストが私たちの救いのために背負って下さったものです。その主イエスに従っていく歩みにおいて私たちも自分の十字架を背負うのです。そしてだからこそ、そこには救いの約束が、希望があるのです。人生の重荷、そこにおける苦しみは、それを背負っていけば将来に喜びや希望が約束されているわけではありません。死ぬまで背負い続けなければならない重荷もあります。しかし主イエスに従っていくことにおいて私たちが背負う十字架は、既に主イエス・キリストがそれを背負って歩み抜いて下さり、その十字架にかかって死んで下さることによって私たちの救い、罪の赦しを実現して下さり、そして復活して新しい命を得て下さっているものです。この主イエスのご生涯によって、十字架を背負うことが復活へとつながることが約束されているのです。私たちはこの主イエス・キリストに従って自分の十字架を背負って歩みます。その歩みの中で、自分の命をも、家族をも、隣人をも、そして自分の持ち物をも、本当に愛し、大切にし、有意義に用いて生きる力をいただくのです。そしてその主イエスが、私たちの人生の重荷をも共に背負って下さるのです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」というみ言葉は、私たちが自分の十字架を背負って主イエスに従っていくことにおいて実現するのです。

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