主日礼拝

主イエスとは何者か

「主イエスとは何者か」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 詩編 第23編1-6節 
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第9章7-17節
・ 讃美歌:237、120、459

ヘロデの問い
 本日ご一緒に読みますルカによる福音書第9章7節以下は、6節までの所の続きであって、そこに語られていたことをふまえて読まなければなりません。1~6節を礼拝において読んだのは三週間前ですので、記憶が薄れてしまっているかもしれませんから、もう一度振り返ってみましょう。そこには、主イエスが十二人の弟子たちをガリラヤの村々へと派遣なさったことが語られていました。それは、2節にあるように、「神の国を宣べ伝え、病人をいやすため」です。十二人の弟子たちはそのための力と権能を授けられて派遣され、そして6節にあるように「十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした」のです。それまでは主イエスお一人によってなされていた、神の国の福音を宣べ伝え、病人を癒すという働きが、今度は主イエスに派遣された十二人の弟子たちによっても、ガリラヤの町々村々で活発に行われていったのです。その結果、主イエスの噂はガリラヤ中に広まっていきました。そしてそれが、ガリラヤを支配していた領主ヘロデの耳にも入ったのです。本日の箇所の7節以下は、主イエスのことを聞いたヘロデが覚えた戸惑いを語っています。ヘロデは何を戸惑ったのでしょうか。それは、主イエスについて、いろいろな人がいろいろなことを言っていたからだ、ということが7、8節に語られています。「というのは、イエスについて、『ヨハネが死者の中から生き返ったのだ』と言う人もいれば、『エリヤが現れたのだ』と言う人もいて、更に、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいたからである」。主イエスのことを、「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」と言っている人がいました。このヨハネは洗礼者ヨハネです。彼は主イエスに先立って、荒れ野で、神の怒りが差しせまっていることを語り、人々に悔い改めを求め、その印である洗礼を授けていました。主イエスご自身もこのヨハネから洗礼をお受けになりました。しかし3章19節以下にあったように、領主ヘロデは、自分の犯した罪をヨハネに責められ、批判されたので怒り、彼を捕えて牢に閉じ込めたのです。そして、本日の箇所の9節でヘロデ自身が語っているように、ヨハネは獄中でヘロデの命令によって首をはねられ、殺されました。マタイ、マルコ福音書にはそのいきさつが語られています。ルカはそれを語っていませんが、とにかくヨハネはヘロデによって首をはねられたのです。しかし民衆は、その後評判になってきた主イエスに、この洗礼者ヨハネの再来を見ました。迫りくる神の怒りを説き、悔い改めて罪の赦しを得よと語ったヨハネと、神の国、神のご支配の到来による救いの福音を説き、その現れとしての奇跡を行なっていた主イエスとに連続性を感じたからです。そのため人々は主イエスのことを、ヘロデが首をはねたヨハネが生き返って来たのだ、と噂していたのです。その他にも、「エリヤが現れたのだ」と言っている人がいました。旧約聖書列王記上に登場するエリヤは、イスラエルにおける最大の預言者の一人ですが、彼は生きたまま天に昇り、そして救い主が到来する前にその道を備える者としてもう一度地上に来る、と旧約聖書に語られています。主イエスはそのエリヤの再来だ、と言っていた人がいたのです。また他の人は、昔の預言者の誰かが生き返ったのがイエスだ、と言っていました。このように主イエスについていろいろな噂が飛び交っていました。その中でヘロデは、「ヨハネなら、わたしが首をはねた。いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は」と言った、と9節にあります。このヘロデの言葉は、彼がいろいろな噂に振り回されてはいないことを示しています。現実主義者であるヘロデは、自分が首をはねたヨハネが生き返ってきた、などという噂に振り回されて恐れたりはしていません。彼は、イエスというこの噂の主はいったい何者だろう、という問いを抱いたのです。それが彼の「戸惑い」です。「イエスとは何者か」それを知りたい、と彼は思ったのです。それで彼は「イエスに会ってみたいと思った」と9節の終わりにあります。「会ってみたい」という訳には、「今噂のあの人にちょっと会ってみたい」という興味本位な野次馬根性のようなニュアンスがありますが、原文を直訳するならばこれは、「彼を見ることを願った」です。この「見る」は「ながめる」とか「遠くからちょっと見かける」というのではなくて、「間近にしっかり見て、その相手を知る」ことを意味しています。イエスを見たい、イエスとは何者であるかを知りたい、そういう強い願いをヘロデは抱いたのです。

主イエスとは何者か
 「主イエスとは何者か」というヘロデの問い、「主イエスを見たい、知りたい」というヘロデの願い、それは私たち一人一人の問いであり願いでもあります。信仰を求めて礼拝に集い、聖書を学んでいく私たちの基本的な問いは、「主イエスとは何者か」ということです。また、主イエスが神であるならば、その主イエスをぜひ見たい、知りたい、とも思います。いわゆる求道者の方々、信仰を得たいと求めている方々は、そういう問いと願いをもってこの礼拝に集っておられると思います。そしてこの「主イエスとは何者か」という問いへの答えを得ること、それが信仰を得ることです。主イエスが自分にとってまことの神、救い主であられることが分かることによって、私たちは洗礼を受け、信仰者となるのです。その「分かる」というのは、知的に分かる、理解する、というのとは違います。むしろ「出会う」と言った方が正しいでしょう。まことの神であり救い主であられる主イエスと出会うのです。言い換えればその主イエスを見るのです。それが信仰を得る、あるいはもっと私たちの感覚に即して言えば、信仰を与えられることです。ですから、「主イエスとは何者か」という問いは必然的に「主イエスを見たい」という願いとなるし、主イエスを見る、主イエスと出会うことによってこそ主イエスとは何者かが分かるのです。このヘロデの問いと願いはこのように私たちの問いであり願いです。そしてこの福音書を書いたルカは、17節までの本日の箇所においても、またその後の所においても、この問いを意識しつつ語っているのです。ルカがここにヘロデの問いと願いを記しているのは、ヘロデの口を通してむしろ私たちの問いと願いを明らかにし、そしてその問いと願いに主イエスがどのように答えておられるかを示すためです。そういう意味で7~9節の「ヘロデの戸惑い」の記事は、この福音書の流れにおいて単なる周辺的なエピソードではありません。むしろこの後の所を読んでいく上での重大な鍵がここに示されているのです。

神に祈る時を
 さて10節以下には、主イエスによって派遣されて福音を告げ知らせ、病気を癒す働きをした弟子たちが、主イエスのもとに戻って自分たちの行ったことを報告したことが語られています。弟子たちのことがここでは「使徒たち」と呼ばれています。「使徒」というのは「遣わされた者」という意味です。まさに彼らは主イエスの使徒としての働きの報告をしたのです。主イエスはその彼らを連れて、「自分たちだけでベトサイダという町に退かれた」と10節後半にあります。「自分たちだけで、退いた」という言葉がここでは大切です。自分たちだけとは、群衆から離れてということです。主イエスはここで、ご自分と十二人の弟子たちだけの時を持とうとされたのです。ですから「ベトサイダという町に」と言っても、その町中にではなくて、その近くの、人里離れた場所に退かれたのです。
 これはとても大事なことを示しています。弟子たちは、主イエスから、悪霊に打ち勝ち、病気を癒す力と権能を授けられて村々に遣わされました。そしてそこで、福音を告げ知らせ、病気を癒したのです。彼ら自身にとっても驚くべきことに、彼らによって悪霊が出て行ったり、病気が癒されたりしたのです。そういうすばらしい体験を彼らはしました。主イエスのもとに帰って来た彼らは口々に、自分を通してこんなことが起りました、あんな奇跡をすることができました、と語ったことでしょう。弟子たちは今、そういう興奮状態にあります。主イエスはその弟子たちを連れて、人々から離れ、ご自分と弟子たちだけの静かな時を持とうとされたのです。それは弟子たちが興奮の中で大切なことを見失ってしまわないためです。それは、彼らが行った使徒としての働きの全てが、主イエスが授けた力と権能とによって、つまり神様の力によって実現したのであって、自分たちが持っている力によるのではない、ということをしっかり見つめ、神様に感謝し、栄光を帰し、自分自身は何者でもないことをしっかり見つめるということです。そのために、主イエスと弟子たちだけで静かに祈る時を持とうとされたのです。信仰の歩みの中で、神様がすばらしいみ業を行なって下さった時、神様の恵みのみ業のために自分が用いられたという喜びを感じる時、そのような時こそ、私たちは静かに神様の前で祈ることが大切です。それを怠ると、私たちは知らず知らずの内に、自分の力で事が成されたように錯覚し、自分を誇り、神様ではなく自分に頼るようになるという間違いに陥ってしまうのです。これは先週の礼拝においてセムナン教会のイ・スヨン先生が語って下さったことでもあります。
 主イエスはそのように弟子たちと静かに祈る時を持とうとされました。ところが11節には、「群衆はそのことを知ってイエスの後を追った」とあります。弟子たちと静かな時を持とうとした目論見は妨げられてしまったのです。11節後半には「イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた」とあります。本当は、「今は弟子たちと大事な時を持ちたいので、我々だけにさせてほしい」と言いたいところです。しかし主イエスは、み言葉を求め、苦しみからの救いを求めてやって来た人々を追い返すようなことはなさらず、彼らにみ言葉を語り、癒しをなさったのです。

弟子たちを用いて行なわれた奇跡
 そうしているうちに日が傾いてきました。十二人の弟子たちは主イエスに「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです」と言いました。この12節から、悪霊の追放や病気の癒しとは違う、また嵐を静めるのとも違う、もう一つの大きな奇跡の物語が始まります。主イエスが、男だけで五千人という、ですから全部ではもっとずっと沢山の人々を、五つのパンと二匹の魚で満腹になさった、という奇跡です。主イエスによってそのような驚くべき奇跡が行われたのですが、この奇跡の最大の特徴は、これが弟子たちの手を通して、また弟子たちが持っていたものを用いて行われた、ということです。群衆を解散させて、それぞれ自分で夕食を確保させてください、と言った弟子たちに対して主イエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とおっしゃいました。五千人を超える群衆に食べ物を与えることを主は弟子たちにお求めになったのです。弟子たちは答えました。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり」。これが、弟子たちの現実であり、実力なのです。五つのパンと二匹の魚、五千人以上の人々の前では、それが何になると言うのでしょう。ほんのわずかの腹の足しにもならない。何の役にも立たない、それが、弟子たちの持っているもの、その力の現実なのです。しかし主イエスはこのことを確認した上で弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして 座らせなさい」とおっしゃいました。そして、「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた」のです。そうしたら、「すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった」ということが起ったのです。先ほども申しましたようにこの奇跡は、弟子たちの手を通して、また弟子たちが持っていたものを用いて行われました。人々を組にして座らせたのも、パンと魚を配ったのも弟子たちです。そして配られたのは弟子たちが持っていた五つのパンと二匹の魚です。さらに、残ったパン屑が十二籠あったというのは、十二人の弟子たちがそれぞれ籠を持って残ったパン屑を集めたということです。これは主イエスがなさった奇跡であり、主イエスにしか出来ない業ですが、主イエスは群衆に対して直接は何もしておられません。全てが、弟子たちを通して行われたのです。そういう意味でこの奇跡には、十二人の弟子たちが主イエスによって力と権能を授けられて派遣され、福音を告げ知らせ、病気を癒したというあの6節までの話と通じるものがあります。主イエスが弟子たちを用い、派遣して、五千人を超える人々の飢えを満たし、満腹にするという恵みのみ業を行なって下さったのです。

主イエスはまことの羊飼い
 この五千人の養いの奇跡は、先ほどの「主イエスとは何者か」という問いに対する答えを語っています。「主イエスとは何者か」という問いを誰よりも深く抱いているのは、実は弟子たちなのです。「主イエスとは何者か」という問いは、主イエスとの関わりが密接になればなるほど、より深まっていきます。弟子たちは、主イエスと出会い、従う者となり、今主イエスと共に歩んでいます。主イエスによって遣わされてそのみ業のために用いられるというすばらしい体験もしました。そのような中で彼らは、「主イエスとは何者か」ということを次第に深く問われていったのです。そのことは、8章25節で、主イエスがガリラヤ湖の嵐を静めて下さった時、彼らが「いったい、この方はどなたなのだろう」と互いに言ったことにも現れています。主イエスのすばらしいみ業を見、その恵みを体験するにつれて、「主イエスとは何者か」という問いが深まっていくのです。いやもっと正確に言えば、そのことを問われていくのです。主イエスとの関わりが深まれば深まるほど、私たちは、「あなたは主イエスのことを何者だと思うのか」ということを、より深く問われていくのです。弟子たちがそのことを主イエスご自身からはっきりと問われたことが、この後の所、来週読む箇所に語られています。それについては来週に回すとして、本日の箇所の五千人の養いの奇跡は、主イエスが弟子たちに、ご自分は何者なのかを、体験を通して教え示して下さったみ業であると言うことができるでしょう。弟子たちはこのことを通して、主イエスが、自分たちをも含めた多くの人々の空腹を満たし、その命を養い育んで下さる方であることを体験したのです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所は詩編の23編です。主なる神様が私の羊飼いであられ、私を青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに導き、魂を生き返らせて下さる、と歌っています。そのまことの羊飼いである主は、私を苦しめる者を前にしても、私のために食卓を整えて下さり、私を豊かに養って下さる、とも語られています。五千人の養いの奇跡によって弟子たちは、主イエスがこのまことの羊飼いであられることを体験したと言えるでしょう。主イエスはこの奇跡を通して、「主イエスとは何者か」という問いの中にある弟子たちに、「わたしこそあなたがたのまことの羊飼いである。あなたがたを豊かに養い、育む救い主なのだ」と示して下さったのです。しかも主イエスはその奇跡を、弟子たちの持っているものを用いて、また弟子たちの手を通して行なって下さいました。彼らが持っているものなど、何の役にも立たない、無に等しいものであったのに、主イエスが用いて下さることによって、それらは主イエスが多くの人々を養い、育んで下さる恵みの食事の材料となったのです。また弟子たち自身は何の力もない者たちなのに、主イエスは彼らを、多くの人々を養う恵みの食事の給仕として用いて下さったのです。弟子たちはこのことによって、まことの羊飼いであられる主イエスを目の前に見たのです。それと共に、主イエスがその羊飼いとしてのみ業を自分たちを用いて行なって下さることを体験したのです。このようにして、「主イエスとは何者か」という問いに対する答えが、弟子たちに示されていったのです。

私たちは何者か
 私たちも、「主イエスとは何者か」という問いと、「主イエスを見たい」という願いを持っています。その問いと願いへの答えは、この弟子たちと同じようにして与えられていくのです。つまり私たちが主イエスに従い、主イエスと共に歩み、主イエスに仕えていく中でこそ、つまり主イエスの弟子として歩むことの中でこそ、恵みに満ちたお姿を見ることができるし、その恵みの中で用いられることを体験することができるのです。そして「主イエスとは何者か」を知らされていくのです。ヘロデはそれを知ることができませんでした。彼は「イエスとは何者だろう」という問いを最後まで戸惑いの中に持ち続けたのです。「イエスに会いたい、見たい」という願いは、主イエスが逮捕され、尋問を受ける中で、23章6節以下で適えられました。しかし彼がそこで出会ったのは、何を問うても一言もお答えにならない主イエスでした。おそらくヘロデは、「お前はいったい何者だ」という以前からの疑問を主イエスにぶつけたのでしょう。しかし、主イエスの弟子となって従っていくことのない中では、その問いへの答えは最後まで与えられないのです。また、主イエスによって養われ、空腹を満たされた五千人を超える群衆たちはどうだったのでしょうか。彼らは、主イエスが祈って分け与えて下さったパンと魚とで満腹するという恵みを味わいました。そういう意味では彼らは、自分たちを養い、導き、育んで下さるまことの羊飼いであられる主イエスを見ることができたと言えます。しかし彼らにおいては、主イエスを見ることが、一時の満腹の体験で終わってしまいました。それは、彼ら自身が何も変わらなかったということです。主イエスを本当に見るならば、そして主イエスが何者であるかを本当に知るならば、そのことによって私たちは変えられるのです。新しくされるのです。言い換えるならば、主イエスが何者であるかが本当に分かる時、私たちは、自分自身が何者であるかが分かるのです。自分が、何の力もない、どうしようもない罪人だけれども、神様の独り子イエス・キリストが自分のために死んで下さったほどに神様に愛されており、神様がその愛の中でこの自分を養い、育み、そして用いて下さることが分かり、そのような者として新しく生き始めることができるのです。主イエスが何者であるかを知ることによって、人間は本当の自分として新しく生き始めることができるのです。それができたのは弟子たちのみでした。しかしその弟子たちも、一朝一夕にそうなったのではありません。自分自身が何者であるかが本当に分かり、その本当の自分として生き始めるまでには、主イエスのもとで、様々なことを体験しなければならなかったのです。その体験の一つが、主イエスに派遣されて福音を告げ知らせ、病気を癒したということであり、またこの五千人の養いという主イエスの恵みのみ業のために用いられたことだったのです。主イエスを信じ、従っていく信仰の歩みの中で、私たちも同じことを体験していきます。その体験の中で、主イエスとは何者かを示され、まことの羊飼いである主イエスによって養われ、育まれ、憩いの水のほとりに伴われ、魂を生き返らせていただきながら生きる本当の自分を見出していくのです。

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