主日礼拝

恵みと真理

「恵みと真理」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第98編1-3節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第1章14-18節

今年のクリスマス
 今年は12月25日が日曜日となりました。25日の前の四回の日曜日がアドベントの期間です。多くの年は、アドベント第四の日曜日にクリスマス礼拝を行い、その週を歩む中で24日を迎えます。コロナ前は24日に「讃美夕礼拝」を行っていました。しかし今年はアドベント第四主日の礼拝を先週守り、昨日24日に「讃美礼拝」を行い、そして今日25日にクリスマス礼拝を行います。讃美礼拝より後にクリスマス礼拝が行われるのは、25日が日曜日である年だけです。本日のクリスマス礼拝が、今年のクリスマスの祝いのクライマックス、頂点となっているのです。
 私たちは今年の10月から、主日礼拝において、マタイによる福音書を最初から連続して読んで、み言葉に聞くことを始めました。それで11月に、マタイ福音書第2章の主イエスの誕生の物語を礼拝において読みました。その時の説教の要約が、本日発行された「指路」誌に載っています。クリスマスに発行される「指路」誌に載せるのに丁度よいタイミングでこの説教はなされたのでした。そういうわけで、マタイ福音書におけるクリスマスの物語を私たちは既に11月の礼拝で読みました。また、3年ぶりに行われた昨日の讃美礼拝では、ルカ福音書第2章のクリスマスの物語からメッセージを語りました。クリスマスの物語が語られているのはマタイ福音書とルカ福音書です。その両方を、今年私たちは既に読んだのです。では、今年のクリスマスのクライマックスである本日の礼拝ではどの箇所を読もうか、と考えた末、ヨハネによる福音書を読むことにしました。ヨハネ福音書にはクリスマスの物語は語られていませんが、しかしヨハネも、マタイやルカとは別の仕方で、クリスマスの出来事、主イエス・キリストがこの世にお生まれになったことを語っています。その箇所をご一緒に読もうと思ったのです。

ヨハネ福音書におけるクリスマス
 本日の箇所の冒頭の14節に「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とあります。これが、ヨハネが語るクリスマスの出来事です。ヨハネ福音書は「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と書き始められていますが、この、初めに神と共にあり、自らが神であった「言」とはイエス・キリストのことです。その「言」が、肉となって私たちの間に宿られた、つまり人間としてこの世に生まれて下さった、それが主イエス・キリストの誕生です。クリスマスとは、言が肉となって私たちの間に宿った日だ、とヨハネ福音書は語っているのです。

恵みと真理に満ちた栄光
 14節はそれに続いて「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と語っています。言が肉となってこの世に生まれて下さったことによって、私たちは、神の栄光を見ることができるようになったのです。それは「父の独り子としての栄光」でした。初めに神と共にあり、自らが神であった「言」は、神の独り子であられたのです。神の独り子が、人間となってこの世に来て下さったことによって、それまでは見ることができなかった神の栄光を、私たち人間が見ることができるようになったのです。旧約聖書には、神の栄光を見たら、罪ある人間は死ななければならない、と語られています。神に背き逆らっている罪人である私たち人間は、本来神の栄光を見ることなどできないのです。しかし神の独り子が人間となって下さったおかげで、私たちは神の栄光を見ることができるようになった、しかもそれを、「恵みと真理とに満ちている」ものとして見ることができるようになったのです。つまり罪人である私たちが、死ぬことなく神の栄光を見ることができるようになったのです。神は独り子主イエスを人間としてこの世に生まれさせて下さることによって、恵みと真理に満ちたご自身の栄光を示し、罪人である私たちを救って下さったのです。最後の18節には、「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」とあります。私たちは誰も、神さまをこの目で見たことはありません。それは神さまが目に見えないからと言うよりも、先ほど申しましたように、罪人である私たちが神を見たら滅びるしかないからです。しかし神は、その独り子主イエスを人間としてこの世に遣わして下さることによって、私たちが、罪を赦されて、滅びることなく神と共に生きることができるようにして下さったのです。主イエスがこの世に来て下さったことによって、恵みと真理に満ちた神の栄光が私たちに示され、神と共に生きることができるようになった。クリスマスはそのことを喜び祝う時なのです。

神の語りかけ
 主イエス・キリストによって私たちは、罪を赦され、神と共に生きることができるようになりました。神と共に生きるとは、神と語り合いつつ、対話しつつ、交わりを持って生きることです。ヨハネ福音書が主イエスのことを「言」と言っていることの意味がそこにあります。主イエスは神の「言」です。神が主イエスによって私たちに語りかけて下さっているのです。主イエスを信じるとは、主イエスにおいて神が私たちに語りかけて下さっている言葉を聞いて、それに応えて私たちも神に向かって語りかけていくことです。主イエスによって、神と私たちとの間に、言葉による語り合いが、対話が、交わりが与えられるのです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」というのは言い換えれば、主イエスの誕生によって、父なる神が恵みによって私たちとの間に、言葉をもって語り合う交わりを与えて下さった、ということなのです。

律法はモーセを通して与えられた
 主イエスを信じるとは、主イエスにおいて神が私たちに語りかけて下さっている言葉を聞くことだと申しました。主イエス・キリストによって父なる神は私たちにどのような言葉を語りかけて下さっているのでしょうか。主イエスがお生まれになる前にも、主なる神はご自分の民であるイスラエルに、言葉をもって語りかけておられました。神は常に言葉をもって人間と交わりを持とうとしておられたのです。そのことを語っているのが、17節前半の「律法はモーセを通して与えられたが」というところです。主イエスがお生まれになる前の、旧約聖書の時代に、主なる神はモーセを通して律法を与えることによって、ご自分の民に語りかけておられたのです。つまり、モーセを通して与えられた律法も、神の言葉であり、神からの語りかけでした。神はそれによって人々と良い交わりを持とうとしておられ、人々がご自分と共に生きることを願っておられたのです。しかし人間は、律法によって神との交わりを正しく良いものとすることができませんでした。その事情を振り返ってみたいと思います。

律法の誤解
 モーセを通して律法が与えられたのは、イスラエルの民が、エジプトでの奴隷の苦しみから解放された後でした。主なる神がモーセを指導者として立て、イスラエルの民をエジプトから解放し、約束の地に向けての荒れ野の旅を導いて下さっている中で、十戒を中心とする律法を与えて下さったのです。十戒は、「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」という言葉から始まります。つまり十戒とそれを中心とするいろいろな掟、戒めは、主なる神がイスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放し、救いを与えて下さったことを前提としていたのです。律法は、神から与えられた掟、戒めですが、それは、神が自分たちを救って下さり、ご自分の民として下さった、その救いの恵みを受けた者が、神の民として、神と共に生きていくための指針として与えられたものだったのです。つまりモーセを通して与えられた律法は、元々は、これを守ったら救いを得ることができる、というような、救われるための条件ではなくて、神の恵みによって救われた者が、神に感謝して、神と共に、神と良い交わりを持って生きるためのものだったのです。ところがその律法を、人々は間違って受け止めてしまいました。これを守れば救いを得ることができる、という、救われるための条件としてそれを受け止めてしまったのです。するとどうなったか。律法をちゃんと守っている自分たちは救われる資格がある、と思うようになりました。そしてそれを守っていない人を見下したり、裁いたりするようになりました。神から律法を与えられた自分たちイスラエルの民は神に選ばれているが、その他の人々、異邦人は神に選ばれていない、と異邦人を蔑むようにもなりました。つまり律法を与えられていることを自分たちの優越性の印と捉え、律法を守ることを自分の手柄として誇るようになったのです。でもそれは、主なる神とイスラエルの民との関係の、全く間違った捉え方です。主なる神は、イスラエルの民が何か手柄を立てたからではなくて、奴隷とされ苦しめられていた彼らをただ恵みによって救って下さったのです。その恵みによる救いを感謝して生きることが神との正しい関係なのに、自分たちは特別だと考え、律法を守るという自分たちの手柄によって神との関係を築いていると思うのは、人間の甚だしい思い上がりなのです。

私たちの勝手な思い込み
 イスラエルの民が陥ったこの間違いは、私たちが神と共に、神と交わりをもって生きようとする時にも起こります。神との交わりは、私たちが何かの手柄を立てることによって獲得するのではなくて、神がただ恵みによって、罪人である私たちに与えて下さるものです。それなのに私たちはしばしば、自分が神に喜ばれる正しい行いをすれば、あるいはいわゆる信心深い生活をすれば、神に愛され、神との交わりを持つことができる、と考えてしまいます。そのように考えてしまうと、自分が神を信じる信仰をもって生きているのは、自分が立派な者だからだと勘違いするようになります。そして自分の正しい行いや信心深い生活を手柄として誇るようになり、そういうことをしていない人を裁いたり批判するようになります。「信心深い生活」と言ってもそれは自分が勝手にそう思い込んでいるだけなのですが、それを人にも押し付けて、それによって人を裁こうとするのです。そのように自分の手柄を見つめて生きているところに同時に起るのは、「自分は神に喜ばれる行いも、信心深い生活もできていないから、神の恵みを受けることはできない、神は自分のような者は愛してくれていない」と思って落ち込んでしまう、ということです。自分の手柄を誇って人を裁く思いと、手柄を立てられない自分を裁いて自分などダメだと思ってしまうことは、コインの表と裏のようなもので、表があれば必ず裏も起ってくるのです。しかし、「信心深い生活」を手柄として誇ることが私たちの勝手な思い込みだったのと同じように、自分は神に愛されていないと思ってしまうことも、私たちの勝手な思い込みに過ぎません。そのことを明らかに示すために、神は独り子主イエスをこの世に遣わして下さったのです。それを語っているのが17節なのです。

恵みと真理
 17節に、「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」とあります。モーセを通して与えらた律法も、神の語りかけであり、神はそれによって人間と良い関係を築こうとしておられたのです。しかし人間が律法を間違って受け止めて、それを守ることを自分の手柄として、それによって神との関係を築こうとしたために、良い関係は生まれませんでした。そこで神は、イエス・キリストを通して、ご自身の「恵みと真理」を現して下さったのです。つまり、神との良い関係は、律法を守るという人間の手柄によって築かれるのではなくて、恵みと真理によって神が与えて下さるのだということを、イエス・キリストによって示して下さったのです。主イエスによって、神の恵みと真理が現され、実現しました。神の独り子である主イエスが、人間となって、罪人である私たちのところに来て下さり、人間としてこの世を生きて下さった、それが神の恵みであり、真理です。主イエスは人間となって下さっただけでなく、私たちの全ての罪をご自身の身に負って、罪人である私たちの代わりに、十字架の死刑を受けて下さいました。それも神の恵みであり真理です。良い行いも信心深い生活もできない、つまりこちらから神との良い関係を築くことができない私たちのために、神の独り子主イエスが十字架にかかって死んで下さることによって、神の方から、私たちとの良い関係を築いて下さったのです。それが、主イエスによって現された恵みと真理です。この恵みと真理によって、自分のようなダメな者は神の恵みを受けることはできない、神に愛されていない、という私たちの思いは全くの誤解であり、事実とは違うこと、神はその独り子を与えて下さるほどに、罪人である私たちを愛して下さっていることが明らかにされたのです。そしてさらに父なる神は、十字架にかかって死んだ主イエスを復活させ、永遠の命を生きる者として下さいました。それによって、主イエスを信じる私たちにも、復活と永遠の命を与えて下さると約束して下さったのです。主イエスの十字架の死と復活によって神は私たちを、罪と死の支配から解放し、その奴隷状態から救い出して下さったのです。それが、主イエスによって現された「恵みと真理」です。私たちは、律法を守ることによってではなくて、主イエスによって現されたこの恵みと真理によって、神と共に生きることができるのです。この恵みと真理を実現して下さったことによって、主イエス・キリストは私たちの救い主なのです。父なる神が、ご自分の独り子主イエスをこの救い主としてこの世に遣わして下さった。私たちはクリスマスにそのことを喜び祝うのです。

神と良い交わりをもって生きるために
 私たちはともすれば、律法によって神との関係を築こうとします。つまり自分がどれだけ良い行いができるか、どれだけ人を愛することができるか、あるいは毎日聖書を読んで祈るという信心深い生活ができるか、そういうことができれば神が自分を愛してくれる、救いを与えてくれる、という感覚に捕らえられがちです。そして、体温を測るように自分の信仰の度合いをいつも測って、今日はいいとか悪いとか一喜一憂し、自分の信仰を誇って人を裁いたり、逆に人と比べて自分の信仰はダメだと落ち込んで暗くなったりしています。しかし神は、そんなことによってではなくて、主イエス・キリストによって実現して下さった恵みと真理によって、私たちとの関係を既に築いて下さっているのです。罪人である私たちを赦して、神の子とし、神と語り合い、共に生きる者として下さっているのです。驚くべき恵みです。その恵みを喜び、感謝しながら、私たちは神と共に生きていきます。礼拝においてみ言葉を聞き、日々聖書に親しみ、祈りにおいて神に自分の正直な思いを何でも打ち明け、守りや支えを願い求めつつ、神との交わりに生きていくのです。そのような信仰の生活は、私たちの手柄ではなくて、神が恵みと真理によって築き、与えて下さった、神との良い交わりです。私たちが父なる神とそのような良い交わりをもって生きていくために、主イエス・キリストが肉となってこの世に来て下さった。私たちはクリスマスにそのことを喜び祝うのです。

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