特別伝道礼拝説教

本当に豊かな人

「本当に豊かな人」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; 詩編 第49編1-21節
・ 新約聖書; ルカによる福音書 第12章13-21節
・ 讃美歌 ; 7、459、514

 
豊かさを求めて
 このごろ、「セレブ」という言葉が日本語として定着したようで、よく耳にします。「セレブリティー」という英語の言葉の頭のところを取ったもので、「名声の高い人、名士」という意味です。もとは「セレブレイト」という動詞で、「ほめたたえる、賞賛する」という言葉から来ています。「人々にほめたたえられ、賞賛される、有名な人」というような意味の言葉なわけですが、日本語となった「セレブ」は、どうも「お金持ち」という意味で使われているみたいです。「ちょっとセレブ気分を味わう」などと言うわけで、それはちょっと豪華な食事をしたり、高級な宿に泊ったりすることを言っている、つまり、お金を出せばセレブ気分を味わえるというわけで、セレブとはお金持ちのことだと私たちは考えているようです。懐具合を気にしながら一時セレブ気分を味わい、その支払いのためにあくせく働くなんてちっともセレブっぽくない、と私などは思いますが、しかしそういうリッチな、ゴージャスな生活へのあこがれは、私も含め人間だれもが多かれ少なかれ持っているものだと言えるでしょう。それは要するに、豊かさへのあこがれ、豊かな人になりたいという願いです。その願いに終わりはありません。戦後日本は驚異的な経済成長をとげ、私たちの暮らしはずいぶん豊かになりました。私などはもう戦争直後の飢えや混乱を知らない世代ですが、それでも自分の子供の頃に比べて現在の生活は格段に豊かになったと感じます。しかしその豊かさの中にいる私たちが、なおもっと豊かになりたい、セレブになりたいと願う、人間の欲望には限りがないことをつくづく思わされます。

主イエスの警告
 本日は皆さんとご一緒に、ルカによる福音書の第12章13節以下を読みたいと思うのですが、そこには、豊かさにあこがれ、豊かになりたいと願っている私たちに対する、主イエス・キリストの警告が語られています。15節で主イエスはこう言っておられるのです。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」。「人の命は財産によってどうすることもできない」、この言葉を皆さんはどうお聞きになるでしょうか。これを聞いて思い浮かべるのは、最先端の医学でもどうすることもできない病気になってしまえば、どんなにお金を出しても助からない、ということかもしれません。そういう意味で、確かに人の命は財産によってどうすることもできない、と思う人もいるでしょう。しかしまた、世の中には、貧しさのゆえに十分な食料や医療を得ることができないでいる人々がいる、そういう人々の場合、財産のあるなしが、命を左右することになる、だからこの世には、人の命が財産によって左右されるという悲しい現実があるではないか、と思う人もいると思います。これらの感想はどちらも、この翻訳の言葉から起って来るものです。しかし原文におけるイエス・キリストのお言葉は実はこの翻訳とは少し違うのです。以前の口語訳聖書ではここは「人のいのちは、持ち物にはよらないのである」となっていました。こちらの方が原文のニュアンスをよく表しています。つまりこの言葉は、人間の命が財産によって左右されることがあるかどうかを論じているのではなくて、人の命は何によっているのか、つまり何によって支えられ、本当に充実したものとなるのか、ということを問題にしているのです。そして主イエスはここで、たとえ有り余るほどの財産を持っていても、そういう豊かさによって自分の命を、人生を、支え、充実させることはできない、と言っておられるのです。それが、豊かさにあこがれ、何とかして豊かになりたいと願っている私たちに対する主イエスの警告なのです。

貪欲に用心しなさい
 主イエスはここで「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」と言っておられます。豊かになりたいと願うところに、貪欲という罪が生じる、それは私たちにも分かることです。豊かになりたい、という願いには終わりがないと先ほど申しました。もっと豊かに、もっと豊かに、と願う中で、貪欲、つまり「むさぼり」の罪に陥ることを警戒する必要があるでしょう。けれども、主イエスがここで「貪欲」という言葉で考えておられることは、私たちがその言葉から普通に思い描くこととはかなり違うようです。この教えは、13節にある、一人の人の願いへの答えの中で語られました。主イエスのもとに教えを聞くために集まっていた群衆の一人がこう願ったのです。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」。神様の教えを説いている主イエスにこんなことを願うのはお門違いではないか、と思う人がいるかもしれません。しかしこれは、当時のユダヤ人たちにおいては決して不思議なことではありませんでした。ユダヤ人たちの間で「ラビ」と呼ばれる宗教的指導者は、神様の掟である律法に基づく生活を教える律法の教師でした。彼らは、人々の日常の生活における様々な具体的問題について、律法の教えに従って判断を下すことによって、私たちで言えば民事裁判のようなこともしていたのです。だからこういう財産問題をラビの所に相談に行くことはあるのです。この人は主イエスもラビの一人だと思って、このような願いを語ったのです。この願いの背後にある事情を推測するとこうです。イスラエルにおける遺産相続は、家督を継ぐ長男に大きな権利が与えられていました。土地は全て家に属するものとして長男が受け継ぎます。その他の財産についても、長男は他の兄弟たちの二倍を受けることになっていました。この人はおそらく長男ではないのでしょう。そして、財産を握っている長男が、自分が受け継ぐことができるはずの遺産を渡してくれないので困って、私の取り分を渡すように兄に言ってください、と主イエスに願ったのです。つまりこの人は、律法に認められている自分の正当な権利を主張しているのだと思います。貪欲なのは長男である彼の兄なのであって、彼は、兄の貪欲の犠牲になっているのです。ところが主イエスは、「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」と言って彼の願いを拒みました。そして人々に、「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」と言われたのです。つまり、正当な権利を主張しているこの人の願いを、主イエスは「貪欲」と言われたのです。しかしこれは貪欲でしょうか。自分の正当な権利を主張することが貪欲なら、規定通りの給料の支払いを求めることも貪欲になります。憲法で保証されている「健康で文化的な最低限の生活を営む権利」を主張することも貪欲だということになってしまうでしょう。このように、主イエスの言っておられる貪欲は、私たちが普通に考えているそれとはかなり違うのです。主イエスは何を考えておられるのでしょうか。

愚かな金持ちのたとえ
 16節以下には「愚かな金持ちのたとえ」と呼ばれるたとえ話が語られています。この話を読むことによって、主イエスの考えておられることが分かってくるのです。ある金持ちの畑が豊作だった、とこの話は始まります。それは倉に収まり切らないほどの大収穫でした。この収穫は、彼の人生における豊かな実りであると言うことができます。彼はこの実りを得るために、一生懸命に努力し、朝から晩まで、毎日勤勉に働いたのです。勿論、彼の努力だけでそれが得られたわけではありません。天候にも恵まれたのです。私たちが人生において得る実りは、自分の力や努力だけによるものではありません。人間の力を超えた、一般的な言葉では「運」も味方しなければそれは得られないのです。とにかくそのように彼は豊かな収穫を得ました。その時彼が考えたことは、この収穫をいかに安全に、確実に、自分のものとして保管しておくか、ということでした。彼はそのために、今ある倉を取り壊して、もっと大きな倉を建て、そこに穀物や財産を皆しまい込もうと考えたのです。そうすれば、自分にこう言ってやることができると思ったのです。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」。自分自身に対してこのように言いたい気持ちは私たちにもよく分かります。このごろ、「自分をほめてやりたい」とか「自分へのご褒美」という言葉をよく耳にします。以前はそういう言い方はあまりしなかったのではないでしょうか。このような言い方が増えてきたことの背後に何があるのかと考えてみることは興味深いと思いますが、それはともかく、「今までよく頑張った、つらいこともあったがよく辛抱した、その結果、こんな豊かな実りが得られた、さあ、その実りを喜ぼう」と自分をほめてやりたい思いは私たちも持つし、「ひと休みして、食べたり飲んだりして楽し」むことは、私たちもするのです。それは人間として自然な気持ちですし、神様も、人間が自分の得た収穫を喜び楽しむことを祝福してくださっています。ところが、このたとえ話において、神様はこの人に、「愚かな者よ」と言われたのです。いったい彼の何が愚かだったのでしょうか。
 自分の得た収穫を喜び楽しもうとしたことが愚かだったのではありません。彼は、収穫を倉にしまい込むことで、「これから先何年も生きて行くだけの蓄えができた」と考え、これでもう自分の人生は安泰だ、もう安心だ、と思ったのです。それが愚かなことだったのです。神様は、「今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と言われました。豊かな財産を倉にしまい込み、蓄えたとしても、それで、これから先何年も生きていくことができると思うのは愚かなことだ、それは錯覚に過ぎない、自分の命が今夜どうなるのか、明日生きていることができるのか、そのことをあなたがたは知らないのだ、と主イエスは言っておられるのです。

死を勘定に入れない愚かさ
 この人の愚かさは、自分の人生を、その将来を展望する時に、肝心なものを勘定に入れ損なったことです。その肝心なものとは何か。「今夜、お前の命は取り上げられる」、それはつまり彼が死ぬということです。彼が勘定に入れ忘れたのは、自分が死ぬ者であるという事実でした。人間はいつか必ず死ぬ、それがいつなのか、私たちには分からないのです。彼は財産を蓄えたことで、これで当分生きられると思って安心した、その時、自分が死ぬことを勘定に入れなかったのです。彼だって、いつまでも生きていられると思っていたわけではないでしょう。けれども、死は、少なくとも今夜や明日ではない、ずっと先のことだとしか考えなかったのです。しかしそんな保証はどこにもありません。私たちは明日の命も分からない身なのです。ですから、死を勘定に入れない人生は愚かなものです。人生の充実のためにどんなに心を用い、どんなによい実りを得たとしても、死を見つめていないならば、その人生は見るべきものから目を背けたごまかしの人生なのです。自分の人生をごまかしのない真実なものとするためには、自分の死をしっかりと見つめていかなければならないのです。

命は神のもの
 けれども、この人の愚かさの根本は、死を勘定に入れなかったことにあるのではありません。自分が死ぬことを常に意識しているのが愚かでない、賢い生き方なのだとしたら、そこには、人間いつ死んでしまうか分からないのだから、今のうちにせいぜい楽しくやればよいではないかという消極的な、あるいは投げやりな生き方しか生まれて来ないでしょう。このたとえ話はそういう生き方を勧めるために語られたのではありません。この人が勘定に入れ損なったのは、実は死ではなくて、もっと別なことなのです。それが何かを考えるヒントは、20節の神様の言葉の中にあります。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」とありますが、その「取り上げられる」という言葉です。この言葉のもとの意味は「呼び戻す、取り戻す」ということです。つまり、本当は自分のものである何かが、今は他人の手もとにある、それを、本来の所有者が取り戻すということです。ですから「お前の命は取り上げられる」とは、自分のものである命が誰かに無理矢理取り上げられる、ということではなくて、私たちの命の本当の所有者が、それをご自分ものとに取り戻される、ということなのです。私たちの命の本当の所有者、それは神様です。私たちの死とは、神様が、ご自分のものである私たちの命を、ご自分もとに取り戻される、ということなのです。つまりここには、私たちの命はもともと神様のものであって、それが私たちに預けられている、その期間が私たちの人生なのであって、神様がその命をご自分もとに取り戻されるのが死だ、その時私たちは、預けられていた命を神様にお返ししなければならないのだ、ということが見つめられ、語られているのです。彼が勘定に入れ損なったのは根本的にはこのことです。つまり、自分の命は神様のものであり、神様から預けられたものなのだということを彼は考えなかったのです。そうではなくて、自分の命は自分のものだと思ってしまったのです。そこに彼の愚かさがあった。そしてこの愚かさこそが、主イエスが言っておられる「貪欲」の意味なのです。

貪欲とは
 主イエスが見つめておられる貪欲とは、自分の命を、人生を、自分のものだと思うことです。自分の命は自分のものだと思っている者は、自分がその命を使って努力して得た実り、収穫も当然自分のものだと思います。そしてそれを自分の財産、豊かさとして蓄えることによって、自分の人生を安泰にすることができると思います。自分のものである命を充実させるのは、自分の持っている豊かさだと考えるのです。そこに、私たちが普通に考える様々な貪欲、むさぼりが生じます。その根本にあるのは、自分の命は自分のものだと思い込むことなのです。しかしそれは錯覚です。命は、自分のものではなくて神様のものであり、神様が貸し与えて下さっているものです。だから私たちの思い通りにはならず、神様がお求めになる時には返さなければならないのです。同じように人生において得られる収穫、実りも、神様が恵みによって与えて下さるものです。私たちがそれを喜び楽しむことができるのは、神様の恵みによるのです。それゆえに、私たちの命や人生を守り支えているのは、自分が持っている蓄え、財産、豊かさではなくて、神様の恵みなのです。この事実をしっかりと弁えて、神様と共に生きることこそが、貪欲でない、即ち愚かではない、本当に賢い者の生き方なのです。

キリストによって知る神の愛
 自分の命は自分のものではなくて神様のものであり、人生を守り支えているのは自分の豊かさではなくて神様の恵みであるということを私たちはどこで知ることができるのでしょうか。それは、聖書を通して私たちに語りかけておられる主イエス・キリストによってです。主イエス・キリストは、私たちのために人間となり、この世に生まれて下さった神様の独り子です。主イエスが来て下さったのは、私たちの罪を全て背負って、私たちに代って、十字架にかかって死んで下さるためでした。神様から与えられた命を私物化して、自分の好き勝手に生きてしまっている私たち、そのように神様に背き、罪を犯している私たちを赦して下さり、神様の恵みによって養われる神の子として新しく生かして下さるために、神様の独り子が命を捧げて下さったのです。つまり神様は、独り子の命を与えるほどに私たちを愛して下さっているのです。この主イエス・キリストによって私たちは、自分の命が、人生が、神様に愛されていることを知らされます。命は自分のものではなくて神様のものだという信仰は、人間の命は自分ではどうしようもない運命の手に握られている、という思いとは全く違うものです。そういう運命論は私たちに何の喜びも、慰めも、そして苦しみに立ち向かう力も与えません。しかし、神様がご自分のものである私たちの命を、その命をもって歩むために与えて下さっている私たちの人生を、心から愛して下さっていることを知るなら、そこには、命の、人生の、何よりも確かな支えが与えられます。自分の命は神様のものであることを信じる信仰こそが、私たちに真実の喜びと、慰めと、支えを与えるのです。この喜び、慰め、支えの中で私たちは、自分が蓄え、持っている豊かさによって人生を充実させ、安泰にしなければという思い、そこから生じる様々な貪欲から解放されるのです。私たちはこの金持ちのように、自分の倉の中にいろいろなものを蓄えて、それで安心を得ようとあくせくしています。私たちが蓄えようとしているのは、お金や財産だけでなく、精神的な意味での豊かさ、あるいは自分はこんなことができるとか、こんなに努力しているという自尊心やプライドでもあります。そのような広い意味での豊かさを求めて私たちは貪欲になっています。しかし私たちが自分の倉に蓄えようとしている豊かさは、精神的なものも含めて、神様に命をお返ししなければならない死においては、何の支えにもなりません。死において私たちは、自分の命の本当の所有者と直面しなければならないのです。その方との関係がどうなっているかということこそが、死において問われる最も肝心なことなのです。主イエス・キリストによってこそ私たちは、神様がその独り子の命を与えて下さるほどにこの私を愛して下さっていることを示され、自分の人生がこの神様の恵みによって支えられていることを知らされます。このことこそが、生きている時にも、死に直面する時にも、私たちを本当に支え、喜びの内に歩ませてくれるのです。
 独り子の命すら与えて下さる神様のこの愛に比べたら、私たちが持っているもの、蓄えているもの、自分の豊かさなど、何ほどのものでもありません。主イエス・キリストは、この神様の愛の中に私たちを生かそうとして、今も語りかけておられます。その主イエスに、遺産のことを願うのはやはりお門違いです。私たちは、主イエス・キリストに願って金持ちになろうとはしていないでしょう。しかしもっと精神的な意味で、自分を豊かにするもの、自分の心を満たすもの、これを持っていれば将来にわたって安心できると思えるようなものを得ようとして主イエスのもとに来る、ということはあるのではないでしょうか。しかしそのように自分が豊かになることを主イエスに求めるのは、「わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」と願ったこの人と同じことをしていることになります。それは貪欲であり、愚かな生き方だ、と主イエスは言われるのです。主イエス・キリストが私たちに与えて下さるのは、私たちの豊かさよりもずっとすばらしいものです。私たちの人生を本当に支え、充実させ、喜びを与える神様の愛です。それを知った者は、死においても、自分の命を安心して神様のみ手にお返しすることができる、そのような恵みを主イエスは私たちに与えて下さるのです。

神の前に豊かになる
 最後の21節に、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」とあります。あの愚かな金持ちは、収穫を倉にしまい込んで、これで安心だと思いました。彼は、自分のために富を積むだけで、神の前に豊かにならなかったのです。「神の前に豊かになる」とはどういうことでしょうか。「自分のために富を積む」という言い方との対比で考えるときに、私たちはそれを、「自分のためだけでなく、人のために富を用いることによって、神の前に豊かになることができる」というふうに考えてしまうかもしれません。しかしそれは違います。勿論、自分の財産を自分のためだけでなく人のためにも用いていくことは大事なことだし、神様の喜ばれることです。しかし、ここで言われているのは、そのような善いことをすれば神様の前で豊かになることができる、天国の銀行に貯金をすることができる、ということではないのです。そのような豊かさもまた、自分のために積む、自分の富です。そういう自分の豊かさによって生きようとしたのがあの愚かな金持ちでした。それに対して主イエスがここで教えておられるのは、神様の恵みによって生きることです。神様が与えて下さっているこの命、この人生が、独り子すらも与えて下さる神様の愛によって支えられており、その支えは死においても失われることがない、その神様の愛を信じて、神様と共に生きることこそが、「神の前に豊かになる」ことなのです。つまり言い換えれば、自分の持っているものにではなく、神様の恵みにこそ豊かさを求めること、それが「神の前の豊かさ」なのです。私たちの歩みを支え、本当の喜びを与えるのは、自分がどんな財産を、蓄えを持っているか、あるいは、どんな立派な、善い行いができるか、どんな豊かな趣味や生き甲斐を持っているか、というようなことではありません。神様が、独り子イエス・キリストによって与えて下さっている恵みこそが、私たちを本当に生かし、支え、喜びを与えるのです。その神様の恵みをほめたたえつつ神様と共に生きるところにこそ、本当の豊かさがあります。セレブレイトという言葉は、「ほめたたえる」という意味だと最初に申しました。私たちが、いろいろなものを持っていて、人からほめたたえられる人になることが本当に豊かな人になることではありません。むしろ私たちは、今ここでしているように、主イエス・キリストによって与えられている神様の愛と恵みをほめたたえて、神様を礼拝する、そのことにおいてこそ、本当に豊かな人、神様の無限に豊かな恵みに生かされる人となることができるのです。

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