「実現したこと」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: 詩編 第98編1-9節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第1章1-4節
・ 讃美歌: 14、59、357
ルカ福音書と使徒言行録
本日より、ルカによる福音書を礼拝において皆さんとご一緒に読んでいきたいと思います。私がこの教会に赴任して参りまして、まもなく五年目が終わろうとしていますが、まだ福音書の連続講解説教をしたことがありません。そろそろ、どれか福音書による説教を、と考えていました。福音書は四つあるわけですが、その中でルカによる福音書をとりあげることに何か特別な理由があるのか、という問いがあるかもしれません。そんなに深い理由はないのです。ヨハネによる福音書は今、嶋田先生が月に一度主日礼拝で語っておられます。マルコによる福音書も夕礼拝で語っておられます。残るはマタイとルカですが、マタイは、その5~7章のいわゆる「山上の説教」のところを、石川町集会、相澤宅家庭集会でお話したばかりです。というわけで、消去法で、残るルカによる福音書を取り上げることにしたのです。私たちは以前、使徒言行録をご一緒に読みました。使徒言行録は、ルカによる福音書と同じ著者による第二巻です。第一巻がルカによる福音書なのです。そのことは、本日読む1章の1~4節の「献呈の言葉」と、使徒言行録の冒頭、1章1、2節とを読み比べてみることによって分かります。使徒言行録1章1、2節にはこう語られています。「テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました」。この「第一巻」こそがルカによる福音書です。本日の箇所に同じテオフィロという名が出てきます。ルカは先ず第一巻である福音書をテオフィロに献呈し、その後、第二巻となる使徒言行録をも書いて贈っているのです。私たちはそれとは逆の順序で、前に読んだ第二巻使徒言行録へと続いていく第一巻をこれから読んでいくのです。
パウロの協力者ルカ
さてこの福音書と使徒言行録を書いた人はルカと呼ばれています。この福音書のどこかにルカという名前が出てくるわけではありません。しかし紀元2世紀には既に、この福音書はルカによって書かれたと言われていました。そのルカという人の名前は、新約聖書に三度出てきます。一つの箇所は、先々週読んだフィレモンへの手紙の24節です。そこにはパウロの協力者の名前が並べられており、「マルコ、アリスタルコ、デマス、ルカ」という四人があげられています。もう一箇所はコロサイの信徒への手紙第4章14節です。そこには「愛する医者ルカとデマスも、あなたがたによろしくと言っています」とあります。この手紙も、実際にどうかは疑問がありますが、パウロが書いたものとして伝えられています。そのパウロのもとにおり、伝道に協力している者の一人としてルカの名があげられているのです。そしてここからは、ルカが医者だったことが分かります。パウロは必ずしも頑健ではなく、けっこう病気がちの人でした。そのパウロの健康を支えていたのがこの医者ルカだったのではないか、と想像することができます。そして第三の箇所は、テモテへの手紙二の第4章11節です。これもパウロの手紙です。そこに、「ルカだけがわたしのところにいます」とあります。その前の10節を読むと、「デマスはこの世を愛し、わたしを見捨ててテサロニケに行ってしまい」とあります。先ほどの二つの箇所でルカと共にパウロの協力者として名前があがっていたデマスが、ここではパウロを見捨てて去って行ってしまったと言われているのです。そこには、パウロの伝道が、様々な迫害、妨害を受ける困難と苦しみの多い歩みだったことが浮き彫りにされています。そういう苦しみに耐えられずに去って行ってしまう人もいたのです。そのことを思う時に、「ルカだけがわたしのところにいます」という言葉の重みが見えてきます。ルカは、パウロの伝道の旅に同行し、苦しい時にも、迫害を受け獄に捕えられている時にも、常に共にいて、パウロを支え続けた人だったのです。その人が、救い主イエス・キリストのご生涯を物語ったのがこの福音書です。使徒言行録には、特にその後半には、パウロの力強い伝道の様子が語られていますが、そのパウロの姿を直接目撃し、支えていたルカが、その信仰の源、伝道の原動力となった主イエス・キリストのご生涯を描いたのです。その福音書を読んでいくのは、何やらワクワクするようなことではないでしょうか。
ルカの世代
ところで、ルカはこのようにパウロの協力者だったわけですが、世代的にはパウロよりもずっと若かったようです。この福音書が書かれたのはおそらく紀元80年代ぐらいだろうと思われます。パウロが殉教の死を遂げてからもう十数年が経っています。その時点でルカがこの福音書を書いているということは何を意味するかというと、ルカ自身は主イエス・キリストのことを、そのご生涯や十字架の死と復活を、直接見聞きしたわけではない、ということです。ルカの信仰はおそらくパウロの伝道によって与えられたものだったのでしょう。ルカは、パウロの語る言葉によって、会ったことのない主イエス・キリストを信じたのです。そして、そのご生涯について、既に書かれているものを調べ、いろいろな人の証言を聞いて、この福音書をまとめたのです。そのことが、本日の1~3節に語られています。「わたしたちの間で実現した事柄について、最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が既に手を着けています。そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました」。ここに語られていることをまとめてみますと、先ず最初に、「最初から目撃して御言葉のために働いた人々」がいます。これがいわゆる使徒たちのことです。彼らは、主イエスのご生涯、十字架と復活を目撃した人々です。復活された主イエスが彼らをご自分の証人として伝道へと遣わされました。そのことが、この福音書の最後のところ、24章45節以下に語られています。「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」」。使徒たちは、主イエスによって実現した救いの知らせ、つまり福音を告げる御言葉の証人として派遣されたのです。その伝道は、ここに語られている「父が約束されたもの」である「高い所からの力」、つまり聖霊が彼らに降ることによって開始されました。そのことが、使徒言行録第2章の聖霊降臨の出来事です。第二巻である使徒言行録は、使徒たちの証人としての活動を語っているのです。さて、この使徒たちが伝えた御言葉を聞き、主イエス・キリストを信じた人々の中に、その福音を物語に書き連ねようと既に手を着けた多くの人々がいた、ということが次に語られています。ルカがこの福音書を書く以前に、主イエスのご生涯やみ業、み言葉を書き記したものが既にあったのです。その一つがマルコによる福音書だろうと考えられています。ルカはマルコ福音書を参考にして書いています。しかしそれだけではなく、他の資料もあったと考えられます。使徒たちの証言に基づいて主イエスのご生涯、み業やみ言葉を書き記したものが、ルカ以前の時代に既に複数あったのです。ルカはその次の世代の人です。彼は既に存在するそれらの文書にできる限り当たって調べ、それらを自分なりにまとめてこの福音書を書いたのです。それが、「わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました」ということです。つまりこの福音書は、使徒たちの詳言が根本にあり、それを書き記した先輩たちのいくつかの書物をもとにして、ルカが書いたものなのです。
伝道の言葉を求めて
このことをわざわざ確認したのは、このルカの置かれている状況は根本的には私たちと同じだからです。私たちも、ルカと同じように、主イエス・キリストを自分の目で直接見たことはありません。ルカがパウロから主イエス・キリストの福音を伝えられて信仰者となったように、私たちも、使徒たちの教えを伝えられることによって主イエスを信じる者となるのです。しかもルカは、先輩の信仰者たちが使徒たちの証言に基づいて書いたいくつかの文書を読んでいます。それらを読んで学び、そして自分なりに主イエスのご生涯とみ業をまとめたのです。私たちも、そういう文書を読んでいます。ルカが書いた福音書も含めた聖書がそれです。聖書、特に新約聖書は、使徒たちが伝えた証言をもとにして書かれた書物を集めたものです。その聖書を読み、その説き明かしである説教を聴くことによって、私たちは主イエス・キリストを信じる者となるのです。このように、地上を歩まれた主イエスのお姿を直接見たことのない後の世代の者が、使徒の教えとそれを書き記した書物とによって主イエスを信じる者となり、その信仰を言い表していく、という点で、ルカと私たちは共通しています。勿論そこには違いもあります。ルカの書いた福音書と使徒言行録は聖書の一部となり、教会の信仰の規範となりました。使徒たちの教えを直接受けたルカの書いたものには、信仰の規範となる価値があるのです。しかし私たちが自分の信仰を言い表し、主イエスについての自分なりの理解を書物にまとめたとしても、それが聖書の一部、つまり信仰の規範となることはありません。使徒たちと直接の関わりを持っていた紀元1世紀後半のルカと、それから約千九百年を経た今日の私たちの間にはそういう違いが勿論あるのです。けれども、信仰における思いは同じです。ルカが主イエスのご生涯とお働きを自分なりに再構成して書き記したのは、それをここに名前が出てくるテオフィロという人に贈るためです。テオフィロがそれを読むことによって主イエス・キリストを信じる者となることを、あるいは既に与えられているその信仰をより一層確かなものとすることを彼は願っているのです。平たく言えばルカは、テオフィロに何とか主イエス・キリストの福音を伝えたい、という伝道の思いをもってこの福音書を書いたのです。この伝道の思いは、私たちも同じように持っています。私たちも、自分に与えられた主イエス・キリストの福音を、できるだけ多くの人に伝えたいと思います。そのために、信仰を言い表す言葉、主イエス・キリストのことを明確に語る言葉を得たいと願うのです。そのような伝道への情熱の中でルカが獲得した言葉がこの福音書だったのです。そのように考えていくと、私たちとルカとは同じ課題を負っていると言えます。私たちも、誰かに伝道するためには、語る言葉を持たなければなりません。自分の信仰を言い表し、主イエス・キリストとは、その救いとはどのようなものか、を語る言葉です。それを一人一人が獲得していくことによってこそ、力強く伝道していくことができるのです。ルカによる福音書を読むことの目的はそこにあります。ルカが獲得した伝道の言葉であるこの福音書を読むことによって、私たち一人一人が、自分自身の伝道の言葉、信仰を言い表し、主イエス・キリストについて語っていく言葉を豊かにされ、整えられていきたいのです。この福音書はまさにそのような思いによって書かれたものなのですから、そのような思いで読んでいくことによってこそ、私たちはこの福音書を最もよく理解することができるのです。
実現した事柄
ルカが獲得した、いやもっと正確に言うならば神様によって与えられた伝道の言葉、それを私たちはこれから、この福音書の全体から聞いていきます。しかし本日のこの最初の献呈の言葉の中で既にルカは、自分がこれから語っていくことの内容を一言で言い表しています。それは1節の「わたしたちの間で実現した事柄」という言葉です。使徒たちが目撃して証言したのも、先輩たちが書き記したのも、この「わたしたちの間で実現した事柄」についてだった、それを自分も今、順序正しく書いてテオフィロに献呈しようとしているのだ、と彼は言っているのです。「実現した」と訳されている言葉は、前の口語訳聖書では「成就された」となっていました。つまりこれは、人間が何かを計画し、その計画が成ったとか、自分の願いがその通りに実現した、ということではないのです。成就した。それは神様の預言あるいは約束が、神様のみ力によって成し遂げられた、ということです。実現したのは人間の思いではなくて神様のみ心であり、成り行きによって自然に実現したのではなくて、神様のご計画とみ業によって実現したのです。主イエス・キリストのご生涯において起ったのはそういうことだった、とルカは言っています。神様は既に旧約聖書において、救い主の到来とその方による救いの完成を預言し、約束して下さっていました。神様はその預言、約束を、独り子イエス・キリストによって成就、実現して下さったのです。つまり主イエスのご生涯と、その教えとみ業の全ては、父なる神様のご計画によることであり、そのみ心の実現だったのです。ルカに限らず、全ての福音書が、主イエスのご生涯を語っていくのに、洗礼者ヨハネのことから語り始めているのはこのことを明らかにするためです。約束されている救い主、メシアが来る前に、その道備えをする先駆者が遣わされる、と旧約聖書に預言されています。その預言の通りに、先ず洗礼者ヨハネが現れ、次いで主イエスが現れるのです。そのようにして、旧約聖書に語られている神様の救いのご計画が、主イエスにおいて成就、実現したのです。それが、使徒たちの教えによって、また先輩たちが書き記したものによってルカが示された伝道の言葉だったのです。
わたしたちの間で
しかし「わたしたちの間で実現した事柄」という言葉が語っているのはそれだけではありません。「実現した」のが「わたしたちの間で」であるということの方がより重要です。「わたしたち」とは、ルカや、彼がこの福音書を献呈しようとしているテオフィロ、そしてさらにこの福音書を読むであろう人々の全てを指しています。その人々の間で、このことは、つまり主イエス・キリストによる救いのみ業は実現したのです。先程申しましたように、ルカは主イエスのことを直接には知らない、後の世代の人です。直接の目撃証人を何人か知っているとはいえ、主イエスのみ業もみ言葉も、彼は伝え聞いただけなのです。その場にいたわけではないのです。それなのに、主イエスによる救いの出来事が「わたしたちの間で」実現したと彼は言っています。そこに、とても大事なメッセージが込められているのです。それはつまり、主イエス・キリストによる救いの出来事は、主イエスが地上を歩み、そして十字架につけられて殺され、復活されたあの時、私たちからすればもう二千年も前のことになろうとしている過去のあの時点において実現したことであるけれども、その出来事がこのように物語られ、宣べ伝えられる時に、主イエスとは違う時代を生きている私たちの間でその出来事が成就、実現する、言い換えれば、主イエス・キリストによる救いの出来事が、過去の歴史上の出来事であるだけでなく、今を生きる私たち自身の、現在の事柄となる、ということです。このことこそ、ルカが与えられた伝道の言葉の中心であると言うことができます。ルカは、主イエス・キリストのご生涯を新たに物語ることによって、この福音書を読む多くの人々において、キリストの福音が、時代を越え、地域を越えて、「わたしたちの間で実現した事柄」となるのだということを示されたのです。彼自身もそのようにして生きておられる主イエス・キリストと出会い、主イエスによる救いの恵みにあずかり、主イエスと共に生きています。自分が書く福音書を読む全ての人々に、それと同じことが起ることを願いつつ、彼は主イエス・キリストのご生涯を物語っていくのです。
新しい歌を歌え
本日は、共に読まれる旧約聖書の箇所として、詩編第98編を選びました。その1節に、「新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって、主は救いの御業を果たされた」とあります。主が御腕によって驚くべき救いの御業を成し遂げられたことをほめたたえている歌ですが、その御業は、今、新しくなされたのです。だから、「新しい歌を主に向かって歌え」と言っているのです。つまりこの歌は、主が、この自分に、今、驚くべき救いの御業を成し遂げて下さったことをほめたたえているのです。「わたしたちの間で実現した事柄」とルカが言う時、彼は主イエス・キリストによる救いの御業をまさにそのように捉えています。過去の、私たちからすれば二千年前の出来事である主イエス・キリストによる救いの御業が、物語られ、宣べ伝えられることによって、今、自分のためになされた御業となるのです。それゆえにルカも、私たちも、常に繰り返し、「新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって、主は救いの御業を果たされた」と歌って、主イエス・キリストによる救いのみ業をほめたたえることができるのです。
教えが確実なものであることが分かる
さて最後に、この福音書が献呈されたテオフィロについて考えてみたいと思います。この人がどんな人だったのか、何も史料がないので分かりません。「敬愛するテオフィロさま」となっており、これは口語訳聖書では「テオピロ閣下よ」でしたから、身分の高い人だったのでしょう。しかしそんなことよりも大事なのは、4節の「お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります」というところです。ここから分かるのは、テオフィロは、主イエス・キリストについての教えを、既に聞いている人だったということです。これは、彼が教会の礼拝に来てはいるけれどもまだ洗礼を受けていないいわゆる求道者だったということなのか、それとも洗礼を受けたばかりの、信仰の初心者だったのか、はっきりしません。いずれにしてもルカは、テオフィロが既に受けたイエス・キリストについての教えが確実なものであることをよく分かってもらうために、この福音書を書き送っているのです。しかし、キリストについての教えが確実なものであることが分かるとはどういうことなのでしょうか。この福音書を読むことによって、イエス・キリストのご生涯や、どのようなことを教え、どのような御業をなさったのかがよりはっきりと分かる、ということでしょうか。そうではないでしょう。ルカはそのようなことのためにこの福音書を書いたのではありません。主イエスのご生涯についての知識を得るためにこの福音書を読むことにはあまり意味がありません。ルカが願っているのは、先程来見てきたように、主イエス・キリストの出来事が、「わたしたちの間で実現した事柄」となることです。つまり、教えが確実なものであることがよく分かるというのは、知識が増えたり整理されることではなくて、主イエスによる救いの御業が、今この時に、私自身のために実現している神様の恵みの御業なのだ、ということが分かることなのです。ルカはテオフィロにそういうことが起ることを願ってこの福音書を書きました。テオフィロだけでなく、この福音書を読む全ての人々に、これからこの福音書を読み進めようとしている私たちにも、そのことが起るために、この福音書は書かれているのです。私たち自身も、主イエス・キリストによる救いの出来事が、今この時に、私たちの間で実現した、自分自身の事柄となることを求めて、この福音書を読み進めていきたいのです。そのことによってこそ、私たちも、力強い伝道の言葉を獲得することができるのです。