夕礼拝

神の戒めの下で

「神の戒めの下で」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: レビ記 第19章1―37節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第22章34―40節  
・ 讃美歌 : 240、512

倫理道徳の根本
本日は旧約聖書レビ記第19章からみ言葉に聞きたいと思います。レビ記の17章から26章にかけては、イスラエルの人々が主なる神様の民として清い生活を送っていくための戒めが、日常生活の様々な事柄に即して語られています。今私たちが読んでいる新共同訳聖書は、これらの戒めの全体に「神聖法集」というタイトルを着けています。本日の第19章は、その神聖法集の中でも、隣人との関係ということを中心的主題としている所です。主なる神様の民として生きる者は、隣人に対してどのように振舞い、どのような人間関係を築いていくべきなのかをこの19章は語っているのです。それゆえに、このレビ記19章は、イスラエルの民における倫理、道徳の教えの根本を語っていると言うことができます。それは果して既に色褪せた、現代社会を生きる私たちにはもう通用しない古くさい教えなのでしょうか。それとも今日の私たちにおいてもなお意味のある、聞くべき教えなのでしょうか。それを確かめていきたいのです。

聖なる者として
2節に「イスラエルの人々の共同体全体に告げてこう言いなさい。あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」とあります。先月17章についてのお話をした時にもここを読みましたが、神聖法集全体を貫く原理がここに示されています。主なる神様が聖なる者であられるから、その民であるイスラエルの人々も聖なる者となるように、と命じられているのです。その「聖なる」という言葉の意味は、「清く正しく立派な」ということではありません。聖書において「聖なる」とは、「他のものとは分たれた、分離された」ということです。主なる神様が聖なる者でられるというのは、神様がこの世の全ての事物から分たれた、分離された方であるということです。この世の事物は全て、主なる神様によって造られた「被造物」であるのに対して、主なる神様はそれらをお造りになった「創造主」です。つまり神様はこの世の事物の一部ではなくて、この世の全てのものの「主」であられるのです。イスラエルの人々はその神様によってこの世の多くの人々の中から選び分たれて神様のものとされました。そのことによって、彼らは既に「聖なる者」とされているのです。その彼らに「聖なる者となりなさい」と命じられているのは、神様によって選ばれ、神様の民とされているという事実をしっかり自覚して、神の民としての生き方をしなさい、ということです。その「神の民としての生き方」を教えているのがこの「神聖法集」なのです。その内容は決して、清く正しく立派な者になれ、ということではありません。この19章には繰り返し、「わたしはあなたたちの神、主である」とか「わたしは主である」という言い方が出てきます。「聖なる者、神の民」として生きるとは、自分が清く正しく立派な人間になることではなくて、「わたしは主である」と宣言なさる神様の下で、その主に従う僕として生きることなのです。神聖法集はその神様に従って歩む生活を教えており、19章はその中でも特に、隣人との交わりのあり方を教えているのです。

父と母とを敬いなさい
さて3節から具体的な教えに入ります。先ず語られているのは、「父と母とを敬いなさい」ということです。これは、十戒の第五の戒め「あなたの父母を敬え」の繰り返しです。それに続く3節の後半には「わたしの安息日を守りなさい」とあります。これは十戒の第四の戒め「安息日を心に留め、これを聖別せよ」の繰り返しです。次の4節には「偶像を仰いではならない。神々の偶像を鋳造してはならない」とあります。これは十戒の第二の戒め「あなたはいかなる像も造ってはならない」の繰り返しです。このようにここでは、「父と母とを敬いなさい」という十戒の第五の戒めが先ず語られ、そこに安息日についての第四の戒めと偶像礼拝を禁じる第二の戒めが結び合わされているのです。「父と母とを敬いなさい」という第五の戒めは、そこから十戒の後半、隣人との関係についての教えが始まると言われています。父と母は、私たちが出会う最初の隣人であると言うことができるのです。つまり「父と母とを敬いなさい」という教えは、隣人との関係についての教え、倫理道徳の根本、第一歩です。それゆえにこれが「聖なる者となりなさい」という原理的な教えにすぐ続いて語られていることは意味深いのです。そして大事なことはそこに、安息日についての戒めや偶像礼拝を禁じる教えが結び合わされていることです。これは、十戒の中のいくつかの教えを順不同に並べたということではありません。隣人との関係の根本である父と母を敬えという教えと、神様のみ前に出て礼拝するための安息日を守り、自分の欲望を満たすための神である偶像を造るのでなく、生けるまことの神様をこそ礼拝せよという教えとは、分かち難く結びついていることがこれによって示されているのです。つまり、父母を敬うことと神様を敬うことは一つなのです。神の民であるイスラエルにおいては、父母が子供に、主なる神を敬い、正しく礼拝することを教えていったのです。子供たちは父母の教えによって、神様を敬い礼拝する姿勢を学んでいったのです。父母を敬うことの中で、神様を敬う信仰が親から子へと継承されていったのです。そして子供たちは主なる神様を敬う信仰に生きているからこそ、父母を敬い、大切にしていったのです。そしてそれを第一歩として、全ての隣人を敬い、大切にする倫理道徳に生きていったのです。つまりここには、神の民として歩むイスラエルの民において、隣人との関係を築き整えて行く倫理道徳と、主なる神様を敬い礼拝する信仰とが不可分の、表裏一体の関係にあることが示されているのです。父と母を敬えという教えを出発点とする倫理道徳は、それだけをいくら語っても、あるいは学校の教育課程に入れても、それで確立するものではありません。それを成り立たせる土台として、この世の全てのものを造り、父母を始めとする全ての隣人を与えて下さった主なる神様を敬い、礼拝する信仰が確立しなければ、倫理道徳も本当には確立しないのです。  
さて5~8節に語られているのは、動物の犠牲を神様にささげ、その肉を食べる、という祭儀における教えです。本日は、隣人との交わりについての教えに焦点を当てていますので、ここについては触れないで次へ行きます。

貧しい人と分かち合え
9、10節は穀物や果物の収穫に関する教えですが、そこにやはり隣人との関わりが意識されています。作物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてならない、収穫後の落ち穂も拾い集めてはならない、と語られています。それらは、貧しい者や寄留者、つまり外国人でその地に共に住んでいる者たちのために残しておかなければならないというのです。貧しい者も寄留者も、土地を持たず、自分のために収穫を得ることのできない弱い立場の人です。その人々を支えるために、自分の畑の収穫の一部を用いよと教えられているのです。ですからこれはもっと一般的に言えば、自分の働いて得た収入を全て自分と家族のために用いるのではなくて、その一部を貧しい人、弱い立場の人のために用いなさい、ということです。主なる神様の民、聖なる者として生きるとは、貧しく弱い隣人を思いやり、それらの人々と分かち合っていくことなのです。これは、まさに今日私たちがしっかり聞き、また実行していくべき、大切な教えであると言えるでしょう。時代遅れどころか、むしろ時代の最先端を行っている教えがここに語られていると言うことができると思います。

他者の生活への想像力
11節から18節には、まさに隣人に対してどのように振る舞うべきかが具体的に教えられています。先ず、「盗んではならない。うそをついてはならない。互いに欺いてはならない。主の名を用いて偽り誓ってはならない」と語られています。これらも、十戒の第八と第九の戒め「盗んではならない」「隣人に関して偽証してはならない」です。これらは隣人に対して取るべき姿勢の根本ですが、それをさらに具体的に語っているのが13節以下です。13節には「あなたは隣人を虐げてはならない。奪い取ってはならない。雇い人の労賃の支払いを翌朝まで延ばしてはならない」とあります。この雇い人は日雇いの労働者です。その日の労賃をその日の内にもらわなければ、家族が飢えたまま夜を明かさなければならなくなるのです。支払う側にとっては、翌朝まで延ばしても大した問題ではないと思われるお金でも、それによってその日その日を生きている人にとっては死活問題なのです。そういうことにちゃんと思いを致さなければならない、他者の生活の現実に対する想像力の欠如は、隣人を虐げること、隣人のものを奪い取ることになるのです。

人の弱み、欠点、失敗に対して
14節には、「耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない」とあります。これらは、人の弱いところ、欠けのあるところにつけこんで、その人を苦しめ、いじめることです。それはいわゆる障がいを持っている人に対することだけではありません。人の欠点や失敗をことさらに取り上げて批判したり、相手の見えない所、聞こえない所で陰口をきくようなことはこれと同じです。私たちが隣人とどのような関係を築いているかは、人の弱み、欠点、失敗に対してどう振舞うかに現れるのです。

正しい裁きを
15節には裁判におけることが語られています。昔イスラエルにおいては、裁判は町の長老たちによってなされていたのです。その人々に対して、不正な裁判をしてはならない、と教えられています。その不正とは、「弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねったり」ということです。力ある者におもねるというのはよく分かりますが、弱い者を偏ってかばうこともあってはならないと言われています。つまり、権力や金の力に左右されてはならないというだけでなく、「かわいそうだ」という感情的なことによって裁きを曲げることもしてはならないのです。そのように、人間的、この世的な何ものにも左右されずに正しいことを貫いていくことが求められています。そのような倫理は、「わたしは主である」と宣言なさる神様に従うことの中でこそ確立するのです。

愛によって憎しみを克服する
17節には「心の中で兄弟を憎んではならない」とあります。兄弟、隣人との関係においては「心の中」のことまで見つめなければならないのです。隣人との関係を破壊する悪意や憎しみが生まれるのはその「心の中」だからです。隣人に対する批判の思い、憎しみや悪意が心の中に生まれてくる時どうしたらよいのか、それが次に語られています。「同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない」。隣人に何か批判されるべき問題がある、罪があると思う時、その人を憎み、悪口を言い、苦しめるのではなくて、「率直に戒めなさい」と教えられているのです。そうしないなら、その人の罪を自分も負うことになるのです。神様はその人の罪を率直に戒めなかった自分にもその責任をお問いになるのです。18節には「復讐してはならない」とあります。隣人を率直に戒めることをしない時、私たちが結局していくのは、その人に対する復讐です。あるいはその次に語られている、「民の人々に恨みを抱く」ことです。つまりここには、私たちが隣人に対して憎しみや恨みの思いを抱き復讐していくのか、それとも率直に戒めるという道を選ぶのか、という問いかけなのです。そしてそれらをしめくくる教えとして、18節後半の、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」が語られています。主イエス・キリストはこの教えを、律法の中で最も大事な教えの一つとして引用なさいました。それゆえにこの教えはこれだけを取り出して読まれることが多いわけですが、この教えがどういう文脈の中で語られたのかを捉えておく必要があります。つまり、隣人に対する憎しみ、恨み、復讐心が私たちの心の中に湧き上がって来る時に、そのような憎しみに身を委ねて生きるのではなくて、相手を率直に戒めることによって、むしろその相手を愛することが教えられているのです。ですからこれは単なる隣人愛の教えではありません。あなたがたの中に起ってくる憎しみや恨みや復讐心を愛によって克服しなさいという教えなのです。そこにも「わたしは主である」という言葉があります。主なる神様の下で、神様の民として、聖なる者として生きる所にこそ、隣人との交わりにおいて、愛によって憎しみに打ち勝っていく歩みが与えられるのです。  
19節は、二種の家畜を交配させたり、一つの畑に二種の種を蒔いてはならない、二種の糸で織った服を身に付けてはならないという教えです。これは、神様が区別なさったものを人間が混ぜ合わせてはならないということで、先ほど申しました「聖なる」という言葉の意味、「分たれた、分離された」と関係があります。分たれているものを混ぜ合わせることは、聖なるものを汚すことにつながるわけです。しかしこれも隣人との関係についての教えではありませんので、これ以上は触れないことにします。また20節以下には、様々な事柄についての教えが脈絡なく並べられています。その中で20?22節の、主人である男が女奴隷と性的関係を持った場合、どちらも姦淫の罪には当らない、という教えは、奴隷と自由な身分の者とでは責任の問われ方が違うということを示しており、今日で言えば「責任能力」といったことが語られていて興味深いところですが、これも本日のテーマとしている隣人との関係をどう築くかという話ではありません。

白髪の人の前では
隣人との関係についての教えとして注目すべき箇所はむしろ32節以下です。32節には「白髪の人の前では起立し、長老を尊び、あなたの神を畏れなさい」とあります。白髪の人、老人は、それだけで敬われるべき存在なのです。今日の超高齢化社会において、この教えは新たな重要性を帯びてきていると言えるでしょう。聖書は、神の民、聖なる者として生きるためには、白髪の人、老人を大切にすることが必要だと教えているのです。そしてこの教えには「あなたの神を畏れなさい」という言葉がつけ加えられています。老人を敬い大切にすることと、神を畏れ敬うこととは一つであることがそれによって示されているのです。白髪の人とか長老というのは、自分よりも年上の人のことです。その人々は、神様が自分の前に、自分の先達として置かれたのです。その人々を敬い大切にするとは、その人々によって築かれた現在の秩序を、神様によって与えられたものとして大切にするということです。そういう意味で、年長者を敬うことと神様を敬うことは通じるのです。しかしそれは、年長者の言うことには何であれ従い、現在の秩序を変えてはならない、ということではありません。人間を恐れることなく神をこそ恐れ、神にこそ従うことの中で、変えるべきことを変えていくことも、「あなたの神を畏れなさい」という土台の上でこそできるのです。そこにおいて年長者を敬うとは、神を畏れるという土台の上で彼らとしっかり対話していくことです。そしてその年長者は次第に弱っていきます。後の世代の者たちがその人々をしっかりと支えていくべきことをもこの教えは語っています。そのようにここには、ともすれば様々な軋轢が生じ、分かり合えない世代の違う隣人との間にどのような関係を築いていくかが教えられており、その根底にあるのはやはり、主なる神を畏れること、主に従って生きることなのです。

弱い立場の者への配慮
 33、34節は、先ほども語られていた寄留者たちを「自分自身のように愛しなさい」という教えです。そしてその根拠として語られているのは、「あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである」ということです。イスラエルの民は以前エジプトで奴隷とされ、苦しみの中にいました。他国で、寄留者として、しかも奴隷として生きる苦しみを彼らはよく知っているはずなのです。それを忘れることなく、自分たちの間にいる弱い立場の人々、そのために差別されたりいじめられている人々を助け、その人々を自分自身のように愛し、彼らが自分たちと同じように生活できるように配慮すること、それが神の民、聖なる者として生きることなのです。この教えは、白髪の人の前で起立せよという先ほどの教えとつながっています。どちらも、自分たちの中にいる弱い立場の人々を愛し、そのために配慮することを求めているのです。レビ記第19章に語られている隣人との関係についての教えは、この「弱い立場の者への配慮」ということによって貫かれていると言うことができるでしょう。そしてそれは少しも時代遅れではない、むしろ今日の私たちの社会において何よりも大事な教えであると言えるでしょう。

神と隣人を愛する
本日共に朗読した新約聖書の箇所、マタイによる福音書第22章34節以下において、主イエス・キリストは、「律法の中でどの掟が最も重要でしょうか」という問いに対して、第二に重要なこととして、レビ記19章18節の「隣人を自分のように愛しなさい」をお示しになりました。先ほど申しましたようにこれは、愛によって憎しみや恨みや復讐の思いを克服していくようにという教えです。私たちが 隣人との関係を築き、整えていくために一番大切なことはこれなのです。私たちが皆、自分を愛するように隣人を愛することができるようになれば、この社会は本当に明るくすばらしいものになるでしょう。しかし主イエスはこのことを、律法全体の中で第二に重要なことおっしゃいました。第一ではなかったのです。第一は、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という、これは申命記第6章5節の言葉です。主なる神様を愛すること、それが第一に重要なことなのです。この第一と第二は、第一の神を愛することが一番大切で、第二の隣人を愛することは後回しにしなさい、ということではありません。神様と隣人と、どっちを先に愛するか、という話ではないのです。そうではなくて、私たちが第二のこと、「隣人を自分のように愛する」ことが本当に出来るようになるのは、つまり隣人との関係を正しく築き整え、倫理道徳を確立するためには、第一のこと、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛する」ことがどうしても必要なのだ、ということです。私たちは、自分の力では、隣人を自分のように愛することができません。憎しみや恨みや復讐の思いを自分の愛の力で克服することはできないのです。そういう私たちが、新しくされ、造り変えられて、隣人を自分のように愛し、その愛によって隣人との関係を築いていくことができるようになるのは、私たちが主なる神様を愛する者となることによってなのです。そして私たちが神様を愛する者となるのは、神様の愛が自分に豊かに注がれていることに気付くことによってです。神様は、その独り子イエス・キリストを私たちのためにこの世に遣わして下さいました。そしてその主イエスの十字架の死によって私たちの罪を赦して下さいました。そこに、神様の私たちへの、命がけの愛が示されています。このイエス・キリストの十字架による神の愛を注がれることによって、私たちも、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして神様を愛する思いを与えられるのです。そしてそこに、隣人を自分のように愛して生きる生活が実現していくのです。「自分のように」つまり自分自身を愛するように、ということが大事です。自分自身のことを本当に愛することができなければ、つまり自分が自分であることを喜び感謝することができなければ、隣人を愛し、大切にすることはできません。自分自身や自分の現実に不満ばかりを抱いている者が隣人を愛することなどできるはずはないのです。神様の愛は、私たちが自分自身を愛することができるようにして下さいます。主イエス・キリストが、クリスマスに、この私のためにこの世に生まれて下さり、そして十字架にかかって死んで下さった、神様の独り子の命が私の救いのために与えられた、その神様の愛によって、私たちは、自分自身を愛し、そして隣人を愛する者とされていくのです。レビ記19章に教えられている隣人との関係、倫理道徳は、クリスマスにこの世に来て下さった主イエス・キリストによってこそ私たちの現実となるのです。

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