「わきまえのある信仰」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: レビ記 第10章1―20節
・ 新約聖書: ローマの信徒への手紙 第12章1―2節
・ 讃美歌 : 155、505
祭司の務め
私が夕礼拝の説教を担当する日は、旧約聖書のレビ記からみ言葉に聞いています。先月は第9章を読みました。そこには、アロンとその子らが祭司として任職されたことが語られていました。祭司とは何をする者かというと、一言で言えば、人々が神様にお献げするために持って来た献げものを、人々に代って神様に献げるのです。そのようにして人々の礼拝を司るのが祭司の務めです。なぜ祭司が必要なのかというと、人間は罪と汚れに満ちているので、そのままでは神様の前に出て礼拝をすることができないからです。神様によって罪を赦していただかなければ、礼拝ができないのです。その罪の赦しのために犠牲を献げるのが祭司です。祭司が犠牲を献げてくれることによって、人々は罪を赦され、清められて神様のみ前に出て礼拝をすることができるのです。それは祭司には罪がないということではありません。祭司は、先ず自分の罪のために、一般の人々の場合よりも厳重に犠牲を献げなければなりません。そのことが9章の任職において語られていました。自分自身の罪の赦しと清めを先ず受けることによって、人々の礼拝を司る務めを行うことができるのです。
ナダブとアビフの滅び
アロンとその子らは9章において、このように神様と人々との間に立つ、重大な、そして光栄ある務めに任職されました。ところがその直後の本日の第10章には、そのように任職された祭司の中から、神様の裁きを受けて滅びる者が出た、ということが語られています。1、2節を読んでみみます。「アロンの子のナダブとアビフはそれぞれ香炉を取って炭火を入れ、その上に香をたいて主の御前にささげたが、それは、主の命じられたものではない、規定に反した炭火であった。すると、主の御前から火が出て二人を焼き、彼らは主の御前で死んだ」。ナダブとアビフとは、アロンの四人の息子たちの長男と次男です。彼らは父アロンと共に、モーセに率いられたイスラエルの民がエジプトを脱出し、海を渡り、シナイの荒れ野を旅し、シナイ山において十戒を与えられた、その歩みの中心にいた人々でした。出エジプト記24章によれば、主なる神様がシナイ山でイスラエルの民と契約を結んで下さった時、民を代表して山に登り、主なる神様のみ前で共に契約の食事をした人たちの中に、この二人の名前があるのです。そのように、ナダブとアビフはイスラエルの民の先頭に立って歩んできました。その二人がこのように、神様の怒りを受けて焼き殺されてしまったのは何故だったのでしょうか。それは彼らが、「規定に反した炭火」で香をたいてしまったからでした。祭司の務めの中には、祭壇の前で香をたくこともありました。彼らはその香を、主の命じられたものとは違う炭火でたいてしまったのです。香をたくための炭火についての規定は、レビ記の16章12、13節にありますのでそこを読んでみます。「次に、主の御前にある祭壇から炭火を取って香炉に満たし、細か い香草の香を両手にいっぱい携えて垂れ幕の奥に入り、主の御前で香を火にくべ、香の煙を雲のごとく漂わせ、掟の箱の上の贖いの座を覆わせる。死を招かぬためである」。つまり、香をたく炭火は、主の御前にある祭壇から取らなければならないのです。彼らはそれを他所から持ってきてしまったのでしょう。自分で火をつけた炭火で香をたいてしまったのです。そのことが主の怒りを招いたのです。
神は何をお怒りになるのか
私たちはこれを読むと、香をたく炭火がちょっと違っていたぐらいで人を焼き殺してしまうなんて、この神はずいぶんひどいことをする、と思うかもしれません。しかし考えてみなければならないのは、これは神様におささげする香をたく炭火、つまり聖なる火なのだということです。先週までロンドンオリンピックが行われていました。オリンピックでは必ず「聖火」が灯されます。あの火は、ギリシャのオリンピア神殿で太陽光線によって灯された火を、飛行機の中でも灯し続け、聖火ランナーが手から手へと伝えて会場まで運んで来るのです。もしもその聖火ランナーの一人が、「そんな面倒なことをして何になる。火なら何でも同じじゃないか」と言って、自分のライターで灯した火を次の人に渡してしまったとしたらどうでしょう。おそらく、オリンピック史上空前の不祥事となるでしょう。そこでは「火がちょっと違っていたぐらいで」とは言えないのです。オリンピックは宗教行事としてなされているわけではなくて、人間の取り決めに基づいてなされている人間の営みです。主なる神様のみ前に出て礼拝をささげることは、人間の営みであるオリンピック以上に、細心の注意を払ってなされなければなりません。ところが私たちは、人間の事柄にはいろいろと注意を払い、気をつかうくせに、神様を礼拝することにおいてはやけに暢気に、「まあいいや」と思ったり、「これぐらいのことはどうでもいいだろう」と思ってしまうことがあるのではないでしょうか。ナダブとアビフのしたことはまさにそういうことです。香をたくのにいちいち祭壇の炭火を持って来なくても、自分の炭火でも同じ火なのだからまあいいだろう、と思ったのです。神様がお怒りになったのは、炭火のことよりも、そういう彼らの心、神様に対する姿勢なのです。主なる神様を礼拝すること、神様と共に生きる信仰のことを、どのような姿勢で、どのような思いで行なっているか、それを神様は問われるのです。ですから神様が求めておられるのは表面的な形式を整えることではありません。炭火がどこから来たものかは見ただけでは区別がつかないのですから、表面的な形は整っているのです。問題は、人間の目に見えない所で神様のみ言葉に忠実に従っているか、です。主のご命令を、自分の思いによって勝手に割り引いてしまったり、自分の都合に合わせて変形してしまって、主に従うよりも自分の思いを第一にしてしまう、つまり主の僕として生きるのではなくて自分が主人となってしまう、そういうことに対して神様はお怒りになるのです。
祭司であるがゆえに
だとすれば、ナダブとアビフのしたことは、彼らだけの問題ではないと言わなければならないでしょう。私たちも皆同じような思いに陥ることがあるし、当時のイスラエルの人々の中にもそういう思いはあったのです。しかし、それらの人々の中で、ナダブとアビフだけがこのように滅ぼされました。それは、彼らが祭司という特別な務めにあったからです。祭司は、先ほども申しましたように、人々の礼拝を司り、神様と人々との間の執り成しをする者です。そのように一般の人々よりも神様に近い務めを与えられていたがゆえに、彼らの違反はより厳しく問われるのです。3節で、この出来事を受けてモーセが彼らの父であるアロンに語った言葉がそのことを示しています。3節です。「モーセがアロンに、「『わたしに近づく者たちに、わたしが聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現そう』と主が言われたとおりだ」と言うと、アロンは黙した」。「わたしに近づく者」とは祭司たちのことです。民を代表して神様に近づき、犠牲を献げる、その祭司たちに対して、主はより厳しく、よりはっきりと、「わたしが聖なること」をお示しになり、彼らがその聖なる神をないがしろにするならば滅ぼされるのです。そのようにしてすべての民の前に主の栄光が現されるのです。ナダブとアビフに起ったのはそういう出来事でした。それゆえに父アロンは「黙した」のです。「神様、私の息子たちに何ということをなさるのですか。ひどいじゃないですか」と不満の声をあげることはできないのです。我々は祭司だ、一般の人々より厳しく裁かれるのは仕方がないのだと彼も認めているのです。
6、7節に語られていることも、同じように祭司たる者の置かれている特別な立場を示しています。「モーセは、アロンとその子エルアザルとイタマルに言った。髪をほどいたり、衣服を裂いたりするな。さもないと、あなたたちまでが死を招き、更に共同体全体に神の怒りが及ぶであろう。あなたたちの兄弟であるイスラエルの家はすべて、主の火によって焼き滅ぼされたことを悲しむがよい。しかし、あなたたちは決して臨在の幕屋の入り口から出てはならない。さもないと死を招くことになる。あなたたちは主の聖別の油を注がれた身だからである。彼らはモーセの命じたとおりにした」。エルアザルとイタマルとは、アロンの下の二人の息子、即ちナダブとアビフの弟たちで、共に祭司に任職された人々です。モーセは彼らに「髪をほどいたり、衣服を裂いたりするな」と言っています。これは、兄弟の死を嘆き悲しんではならない、ということです。それは、「ナダブとアビフは罪を犯して滅ぼされたのだから、兄弟であってもそれを悲しんではならない」ということではありません。その証拠に、「あなたたちの兄弟であるイスラエルの家はすべて、主の火によって焼き滅ぼされたことを悲しむがよい」と言っています。つまり一般の人々は、彼らの悲劇的な死を悲しむがよい、しかし祭司として任職されているあなたがたは、兄弟の死であろうと、嘆いてその職務を離れることは許されない、ということなのです。それは、死体に触れると汚れを負うことになり、祭司の務めを行うことができないからです。だから祭司は、その務めにある間は、兄弟の死を嘆き、葬儀に参加することもできないのです。つまりこの第10章は、第9章で任職された祭司が、光栄ある重大な務めを与えられているがゆえに、一般の人々よりも制約の多い生活を送らなければならないし、神様によってより厳しく裁かれるのだということを語っているのです。
選ばれた民として生きる
このことは祭司という務めにある人のみの話ではありません。イスラエルの民が、神様に選ばれ、エジプトの奴隷状態からの救いの恵みを受け、神様との契約を与えられた神の民であるということには、この祭司の場合と同じような意味があるのです。そのことをはっきり語っているのが、旧約聖書アモス書の第3章1、2節です。そこを読んでみます(1431頁)。「イスラエルの人々よ、主がお前たちに告げられた言葉を聞け。―わたしがエジプトの地から導き上った全部族に対して―。地上の全部族の中からわたしが選んだのはお前たちだけだ。それゆえ、わたしはお前たちをすべての罪のゆえに罰する」。イスラエルの民は、地上の全部族の中から主なる神様に選ばれた民なのです。しかしそれは、「自分たちは選ばれている」と誇ったり、安心できるようなことではなくて、神様は彼らに、他の人々よりもよりしっかりとした信仰を求めておられ、不信仰や不従順に対しては彼らをより厳しく罰するのです。神様に選ばれた民として生きるとはそういうことなのです。
聖と俗を区別する
さて8~11節には、主がアロンにお語りになった言葉が記されています。実は主がアロン一人に直接語っておられる所は、レビ記の中でここだけです。いつもは、モーセを通してか、モーセと共にいるところへの語りかけです。アロンは今、二人の息子を神様の怒りによって失った悲しみの中にいます。そして今見てきたように、祭司であるがゆえに、そのことを神様に抗議することもできず、嘆き悲しむこともできず、息子たちの葬りに加わることもできずにいるのです。そういう苦しみの中にいるアロンに、主が直接語りかけられたのです。主は何をおっしゃったのでしょうか。9~11節です。「あなたであれ、あなたの子らであれ、臨在の幕屋に入るときは、ぶどう酒や強い酒を飲むな。死を招かないためである。これは代々守るべき不変の定めである。あなたたちのなすべきことは、聖と俗、清いものと汚れたものを区別すること、またモーセを通じて主が命じられたすべての掟をイスラエルの人々に教えることである」。この主のお言葉は直接的には少しもアロンの苦しみ悲しみへの慰めにはなっていません。むしろ主は新たにある命令を彼に語っているのです。しかしその命令によって、一つの大事なことが示されています。それは、主なる神様が、二人の息子たちのあのような罪による滅びにもかかわらず、アロンと残された二人の息子たちを、なお祭司として、ご自分とイスラエルの民との間に立ち、執り成しをする者として用いて下さるということです。しかも9節の終わりに「これは代々守るべき不変の定めである」と言われているということは、アロンの子孫が代々変わることなく祭司としての務めを与えられていくことを確認して下さっているのです。そして主がここでお与えになった新たな命令は、アロンとその子孫が祭司の務めを正しく果していくための注意です。「臨在の幕屋に入るときは」、つまり祭司の務めを行う時には、「ぶどう酒や強い酒を飲むな」、つまり酔っぱらって祭司の務めをするな、というのです。酔っぱらうと注意が散漫になり、緊張感が失われて、なすべきことをきちんとできなくなります。彼らが祭司としてなすべきことは何か、それが10節以下です。「あなたたちのなすべきことは、聖と俗、清いものと汚れたものを区別すること、またモーセを通じて主が命じられたすべての掟をイスラエルの人々に教えることである」。祭司としての務めにおいて一番大切なことはこれなのです。つまり、「聖と俗、清いものと汚れたものを区別すること」です。それをしっかり区別して、聖なるもの、清いもののみを神様にお献げするのです。そのことは、人々が持ってくる献げ物を調べて、規定に反するもの、傷や汚れのあるものは献げない、ということでもありますが、そういう外面的なことに留まるものではありません。聖なるものと俗なるもの、清いものと汚れたものをきちんと見分けることが求められているのです。それはどのようにして見分けることができるのか、その一番大切な基準は、神様のみ言葉です。み言葉に聞き従ってなされることは聖なるものであり、清いのです。しかしみ言葉に従っておらず、神様のご命令に反しているものは、たとえどんなに立派であり、美しく、清そうに見えても、俗なるもの、神様に献げるには相応しくない汚れたものなのです。まさにそういう意味で、ナダブとアビフのたいた香は「俗なるもの、汚れたもの」だったのです。つまり、祭司が聖と俗、清いものと汚れたものを区別するというのは、彼らの司る礼拝が、人間の思いや都合にひきずられ、それに合わされていくことによって、神様を主とし、神様に仕えるのではなく、人間が主となってしまうようなことにならないように、本当に神様のみ前にひざまずいて、み言葉に従う姿勢がそこに確立していくようにする、ということなのです。ですからそれは11節の「またモーセを通じて主が命じられたすべての掟をイスラエルの人々に教えること」でもあるのです。そういうことを、礼拝を司り、整えることによって行うのが祭司の務めなのです。主なる神様は、悲しみ苦しみの中にいるアロンとその遺された子たちに、この務めをもう一度与え、そのために用いていくことによって、悲しみの中にある彼らを慰め、再び立ち上がらせようとしておられるのです。
わきまえのある信仰
先月、第9章を読んだ時に、旧約聖書におけるこの祭司の職は、新約聖書においては、主イエス・キリストによって担われた、主イエスこそ、私たちと父なる神様との間に立って執り成しをして下さるまことの祭司となって下さったのだ、ということを聞きました。主イエス・キリストが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちは神様のみ前に出て礼拝をすることができるようになったのです。そしてそれと共に、主イエスによる救いにあずかったキリスト信者は、その祭司としての務めにあずかり、自分も祭司とされているのだ、ということも聞きました。私たちもまた、まことの祭司であられる主イエス・キリストの下で、隣人のために祭司の務めを行う者とされているのです。宗教改革の根本原理の一つである「万人祭司」とはそういうことです。そうであるならば、本日の第10章に語られている、祭司たる者に要求される厳しい信仰の姿勢、義務、責任は、イエス・キリストを信じる全ての信仰者にも求められていることだと言わなければなりません。つまりナダブとアビフの失敗は他人事ではないのです。私たち一人一人が、「主の命じられたものではない、規定に反した炭火」で香をたいてしまう、つまり神様に従い、神様に仕えるのではなく、自分の思いや都合に合わせた、自分勝手な礼拝、信仰、神様との関係に陥ってしまうことを警戒しなければならないのです。そのために私たちにも、「聖と俗、清いものと汚れたものを区別」することが求められています。一部の指導者たちのみがではなく、信仰者一人一人が、それを区別することができる目を養われていくことを願い求めていきたいのです。「聖と俗、清いものと汚れたものを区別する」、それは要するに、神様が喜んで受け入れて下さることと、そうでないことの違いが分かるようになる、ということです。本日共に読まれた新約聖書の箇所、ローマの信徒への手紙第12章の1、2節は、その違いの分かる信仰者となることへの勧めを語っています。2節にこうあります。「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」。「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえる」、これこそが、「聖と俗、清いものと汚れたものを区別する」ことです。このような「わきまえのある信仰」はどのようにして得られるのでしょうか。そのために勧められているのが「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき」ということです。「この世に倣ってしまう」それはこの世の考え方、人間の感覚や考えによる価値観に取り込まれてしまうことです。神様のみ言葉よりも人間の思いや都合が第一になってしまうことです。そうなってしまうと、「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえる」ことができなくなるのです。しかし私たちはそのようなこの世の考え方や価値観から自分で抜け出すことができません。そこから抜け出すには、神様によって「心を新たにして自分を変えていただ」かなければなりません。自分で自分の考え方や価値観を変えると言うよりも、神様によってそれらを打ち砕かれ、自分を変えていただくことをこそ求めていかなければなりません。それは具体的にはどうすることか、何をすればよいのか、それが1節に語られています。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」。「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げ」る、つまり自分自身を神様にお献げし、お委ねするのです。それは、私たちのために主イエス・キリストがして下さったことです。主イエスは、私たちの罪の赦しのためのいけにえとして、十字架にかかってご自分の体を献げて下さったのです。この主イエスを信じて、この主イエスの後に従って、自分自身を神様にお献げする思いをもって神様を礼拝する、そういう礼拝によってこそ私たちは、「心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるように」なるのです。そのような「わきまえのある信仰」に生きることによってこそ、私たちも、神様と他の人々との間を執り成し、主のみ言葉を人々に教えていく、つまり伝道をしていく、祭司の務めを果たしていくことができるのです。