主日礼拝

起き上がりなさい

「起き上がりなさい」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; 詩編、第145篇 1節-21節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書、第5章 1節-9節
・ 讃美歌 ; 442、167、356

 
1 この日、エルサレムではユダヤ人の祭りが行われていました。その祭りがどんなお祭りだったのか、福音書は具体的には書き記しておりません。けれども、エルサレム、しかもその神殿を中心に人々が集まって祝われる祭りであったことは確かでしょう。人々が各地から続々と集まってきて、にぎやかな話し声や家畜の鳴き声が町中にこだましていたことでしょう。そこには楽しいことがこれから始まるという期待、わくわくとして、いてもたってもいられないという興奮が湧き上がっていたに違いありません。
 ところがこのにぎやかさの片隅で、誰からも相手にされない、人々から忘れられ去られた場所がありました。それが、「ベトザタの池」です。それは羊の門の傍らにあったと言われています。実はこのベトザタの池があったと思われる場所が発掘されており、エルサレム神殿の北の端に、こうした場所が確かにあったことが確認されているそうです。それによりますと、この池は隣り合う二つの池、北の池と南の池から成っていたようです。その二つの池をぐるりと囲むように、屋根のついた廊下、回廊が建っていたわけです。四方を四つの回廊で囲まれ、北と南の池の間に五つ目の回廊が通っていたわけです。その回廊はしかし、人々が寄り付かない回廊だったのではないでしょうか。皆が避けて通らなかった池だったのではないでしょうか。祭りの中心的な舞台であるエルサレム神殿の中、あるいはそのすぐ近くにありながら、人々が近寄りたがらない、できれば忘れてしまいたい、そういう場所であったのだろうと思います。なぜなら、この回廊に並ぶようにして、たくさんの病や障がいを負った人々が横たわっていたからです。病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが大勢、横たわっていたからです。この場所には、祭りの喜びは訪れていませんでした。楽しい予感、うきうきとした雰囲気、叫びたくなるような興奮は、やってきていません。あるのは痛みに堪えられずにもれてくるうめき声、人々の世界から取り残された悲しみに打ちひしがれた者のすすり泣く声、自分を捨てた家族の無慈悲な姿を思い起こし、口元でぶつぶつ呪いの言葉を繰り返している声、それだけです。祭りのにぎやかさの陰には、そこから取り残された、何の喜びも楽しみもない、ただただ疲れ果てた、気力を失った世界が広がっていたのです。
 祭りに集った人々も、どこかであの羊の門のそばにあるベトザタの池のことを気に留めたかもしれません。今自分たちが祭りを楽しんでいる、そこからわずか北に進んだ壁の向こうには、病気や思うに任せない体で苦しんでいる人々が横たわっている、そのことが思いに浮かんだかもしれません。けれどもいつまでもそんなことを思っていたら祭りを楽しむことはできません。そもそも祭りは、そういう暗い現実を忘れて、日常を抜け出した楽しい世界にしばし憩うものです。気持ちが重くなること、気分が滅入ることは考えないようにしたいのです。私たち人間が作り、祝う祭りはそういうものでしょう。現実の世界、その暗さ、その厳しさ、その耐えがたさを忘れて、そこから逃れようとしないと、本当に祭りを楽しむことはできないわけです。そう考えてみますと、祭りとはなんとも頼りない、虚しいものだという気もしてきます。現実の厳しさ、私たちを押しつぶしてくるような暗さがあるにも関わらず、それを思いの中から振り払って、現実をしばし意識の外に追いやらないことには、どうにも祭りを楽しむことなどできないのです。現実から逃れようとすることで、人間の祭りは初めて祭りとなるのです。

2 一方、池に横たわっていた人々の方はどんな思いでこの時を過ごしているのでしょうか。彼らはこの地上で、およそ喜びや幸いを味わうことのできる人生から締め出されていました。この地上で幸せな人生を歩むことなど許されていないとしか思えなかった人々が、それでも一縷の望みをつないで、辿り着いた場所がこのベトザタの池でした。というのも、この池にはある言い伝えがあったからです。新共同訳になってから、3節後半から4節までの部分が本文からは削除されています。これは聖書の翻訳をする時もとになった写本には、もともと無かった部分と考えられているためです。ただ、3節後半から4節までの部分を含んだ有力な写本もあるため、こういう説明を含んだ写本もありますよ、という意味で、福音書の最後の頁に載せるようにしているのです。それが212頁に載っています。そこには次のようにあります、「彼らは、水が動くのを待っていた。それは、主の使いがときどき池に降りて来て、水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである」。このほとんど迷信のような言い伝えだけが、この世から見捨てられた人々の望みをかすかにつなぐものであったのです。発掘された池の後を見ますと、どうも北の池の方が南の池よりも少し高い位置にあり、そのため北の池から南の池に向かって、水路を通って水が流れることがあったようです。そのため水に動きが生まれたのです。多くの人々が、望みをつないでここに辿り着いたり、家族から連れて来られたりしていたのですから、あるいはその清い水によって病が癒されるようなことも実際あったのかもしれません。けれども、「水が動いたとき、真っ先に水に入る者」だけが癒されるというのが、この言い伝えの味噌です。一番最初の人だけしか癒されない。だとしたら、そこには何が起きるでしょうか。激しい競争です。夜もおちおち眠れない、神経をピリピリとがらせた、不機嫌な毎日です。先に池に降りて行く者を憎しみ、呪い、妬む生活です。水がチョロチョロと動き出す度に、この池はまさに修羅場と化したのです。
 「ベトザタ」という言葉の本来の意味ははっきりとしていませんが、一つの有力な意味は「慈しみの家」、という意味です。それゆえ、前の口語訳で使われていた「ベテスダ」という用語は多くのキリスト教社会福祉施設で用いられてきており、「ベテスダの家」といった名前のついた施設がたくさんあります。そこで人が神の慈しみに触れることのできる場所、神の憐れみに包まれる場所です。ところが今日のこの舞台は、その名前がつけられている割には、実際はなんと悲惨な場所でしょう。この地上で許される最も希望のある場所として辿り着いた所でなお、憎しみや妬みにとらえられ、他人を蹴落とさなければ幸福を得ることができないのです。そういう姿がしかし、私たちの現実の姿であることが、ここで示されているのではないでしょうか。人間関係が気まずくなって、新しい土地に引っ越していっても、その土地で長い間生活していれば、そこでもまた隣人と健やかな関係を築くことができず、苦しむことがあります。この職場は自分に合わなかった。別の職場に変われば、今度はすべてがうまくいくはずだ、そう思って新しい職場を求めても、そこでも傷つけ、傷つけられる関係しか作れない。それでもなお、自分の中にある問題に気づくことができず、周囲のあの人、この人が自分に悪意を抱き、自分を追い出そうとしているようにしか思えない。妬みや憎しみ、苦い思いを抱いて、人を裁きながら毎日を送っている。そうした人生模様が、実はこの池の光景に凝縮されているのです。

3 そうした私たちの姿を映し出したような、一人の人物がここに現れます。実に三十八年もの長きにわたって病気で苦しんでいる人です。イスラエルの民が、乳と蜜の流れる豊かな土地に入るまで、荒れ野をさまよった期間は四十年でした。しかしまた、旧約聖書には、この期間を三十八年とする数え方もあります(申命記2:14)。イスラエルの民が神の裁きを受けて、一つの世代がすべて死に絶えて、新しい世代と入れ替わるまで荒れ野をさまよった、それと同じだけの期間、ここであれすさんだ魂の遍歴を積み重ねてきた一人の病人がいたのです。おそらく若いころにこの病を患うようになり、治る見込みが無いものとみなされたのでしょう。家族からも見捨てられ、財産など何もなかったでしょう。伝染性の強い病気であったとすれば、隔離する意味でここにつれて来られていたのかもしれません。ここには多くの境遇を同じくする人々がいたはずです。しかしこの人は孤独でした。他の人もそうだったでしょう。彼らはただ一人だけが癒される、あのいつ起こるとも知れない水の動きを巡って、ライバル関係にあったのです。互いの慰め合いや励ましあい、会話や笑い、楽しみや喜びなど一切ない、そんなものは何十年も前に失ってしまった、そういう生活をしていたのです。
 ところがこの、魂の荒れ野に、一人のお方がやって来られます。祭りに興じる人々の誰もが避けて近寄ろうとしない場所、そこに来ると自分の日常の、穢れた思いと行いを思い出させられるようで、早く忘れてしまいたいような場所、そういうところに、しかも祭りの最中に、わざわざ歩み入ってきてくださった方があるのです。主イエス・キリストにほかなりません。主イエスはこの人が横たわっているのを、静かに見つめられ、そこですべてを知ってくださいました。この人の四十年近くにわたる苦しみ、救いを求めてここに来ながらも、依然として憎しみと裁き合いに生きるしかない哀れな現実、励ましや助け合い、慰め合いもない、単調で同じ光景が繰り返される毎日、それらすべてを深く理解されたのです。

4 「良くなりたいか」、この問いは愚問に思えるかもしれません。答えが分かりきっているような問いで、わざわざ問うようなことではない、と思われるかもしれません。けれどもそうでもない、ということがこの病人の答えで分かります、「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです」(7節)。この人は「はい、良くなりたいんです」と言うことができなかったのです。もう良くなりたいという思いや願いさえも失っていたのです。それほど病に取りつかれ、他人への非難と自分の現実への不満の中で生きることしかできなくなっていたのです。かつて私がバングラデシュを訪ねた時、泊まっていたYMCAの施設の前にある路地で、毎日のように物乞いをしている老人がいました。一緒に行ったバングラデシュの事情に詳しい先生によると、毎日家族が朝連れてきて、夜連れ帰っているだろうとのことでした。そのようにして物乞いをすることで過ごす毎日が日常となってしまっているのです。そうなると自分の惨めさを憂えたり、現状を何とかして変えたいと願ったりすることも、だんだん弱くなっていきます。この病人もあまりにも長い間、毎日のように他人への非難や妬み、自分の有様についての愚痴の中でしか生きてこなかったために、治りたかったはずの自分さえ失ってしまったのです。それほど心が歪み、魂がすさんでしまっていたのです。
 自分の惨めささえも感じられなくなり、他人の非難ばかりしているこの人に、しかし主はこう言われました、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」(8節)。これは主イエスにしか言えない言葉です。長い間病に苦しんでいる人に、「あなたの病は大したことはない。立ち上がりなさい」、などと誰が言えるでしょうか。それは無責任で力のない言葉です。けれども、主イエスにはそれが言えました。なぜでしょうか。主イエスが代わりにこの人の病を身に負われたからです。先ほど主はこの人を見て、そのすべてを理解されたと言いましたが、主はただ単にこの人を深く理解されただけではありません。この人の魂の荒れ野、すさんだ心、肉体の病、憎しみと呪いにまみれた人生全体、それらすべてをご自分のものとして引き受け、歩み通してくださったのです。「私が十字架の上であなたの惨めさ、あなたの受けるべき苦しみ、あなたの苦い思いをすべて代わりに担うから、あなたは起き上がりなさい」、そうおっしゃってくださるのです。この「起き上がりなさい」という言葉は、2章の19節で主イエスが神殿を三日で建て直してみせるとおっしゃった時の、「建て直す」というのと同じ言葉です。あるいは2章22節の「復活された」という言葉と同じです。「私がすべての悩みと苦しみ、いや死の力に打ち勝って復活するから、あなたは私の復活の光の中で立ち上がりなさい。そのようにして人生を建てなおしなさい。その光の中に留まり続けて歩みなさい」、それが「起き上がりなさい」に込められた主イエスのメッセージです。詩編の詩人が歌ったように、「主は倒れようとする人をひとりひとり支え うずくまっている人を起こしてくださ」(145:14)るのです。
 この人はすぐ良くなって、床を担いで歩き出したのです。後に主の十字架の死、そして死からの復活を告げ知らされたこの人は、その時主イエスのあの言葉の意味がはっきりと分かったに違いありません。「起き上がりなさい」!この光の中で立ち上がる時、私たちは自分の過去のさまざまなとらわれ、しがらみを克服し、それを軽々と持ち上げて歩みだすことができます。主は私たちに床を捨て去り、置いていくようにとはおっしゃらなかった。それを担いで歩め、とおっしゃったのです。かつては自分を苦しめた惨めな生活のしるしとしての床、三十八年にわたって自分を縛り付けていたあの床を捨てずに、背負っていけ、そうおっしゃる。しかし、それは依然として自分をとらわれの身に置き続けるような、かつての床ではもはやありません。それは癒しのしるし、救いを証しするしるしなのです。そしてこの床から私は解き放たれたのだ、自由の身とされたのだ、そのことをこの床を見るたびにいつも新しく思い起こしつつ、私たちは主の復活の光の中に立ち続けるのです。この復活の光の中に置かれるとき、たとえあの病人のように肉体の癒しが完全に与えられなくとも、心は神に向かって立つのです。立ち上がるのです。

5 この日は安息日でありました。人も家畜もすべて手の働きを休めて、安息のうちに憩う日です。けれどもそれまでの安息日には、この病人は本当の安息を得ることができずにいたのです。でも今は違います。本当の安息を与えられたのです。安息日の主であるイエス・キリストに出会って、本当の安息を知ったのです。その時私たちは知ります、本当の安息日は、横たわっている日ではなく、起き上がる日であること、起き上がって神の前に立つ日、礼拝をする日であることを知るのです。このベトザタの池が「羊の門」の傍らにあったのは、なんと意味深いことではないでしょうか。「世の罪を取り除く神の小羊」である主イエスという門を通って、私たちは神の庭である神殿に歩み行くことが許されるのです。主イエスを通って神の家に入っていきます。そこで礼拝をするのです。本当の安息を味わい知るのです。その時、この世のどんな祭りも知らない、慰めと喜び、癒しと平安に満ちた、本当の祭りが始まるのです!

祈り 主イエス・キリストの父なる神様、あなたの安息の中に憩わせてください。あなたが今、主イエスを通して私たち一人一人と出会ってくださり、「起き上がりなさい」とおっしゃってくださいます。どうか憎しみ合い、裁き合いを繰り返し、自分が変わらなければならない、癒されなければならない存在であることさえも分からなくなっている私たちを憐れみ、立ち上がる力をお与えください。そこで御名をほめたたえ、礼拝する幸いのうちに生かしてください。御子イエス・キリストの復活の光の中に留まり続け、苦しみや悩みの最中でも倒れることのない、あなたの恵みのご支配に信頼する人生を歩ませてください。
安息日の主なる、イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

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