「垂り穂は色づき」 伝道師 矢澤 励太
・ 旧約聖書; 詩編、第126篇 1節-6節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書、第4章 31節-42節
・ 讃美歌 ; 443、456、386
1 この日、弟子たちは食べ物を買うために町に行っていました。ユダヤからサマリアを通ってガリラヤへ向かう旅の途中です。お昼の時間にちょうどひと気の少ない井戸のそばにさしかかることになり、食事をとることのできる場所も、食料を手に入れる市場も見当たらなかったのでしょう。弟子たちは「先生、ここで少しお休みになって待っていてください。私たちが町に行って、すぐに食べ物を買ってきますから」、そう言って町へと出かけていったのでしょう。主イエスにおいしい昼食を取ってもらおうと、急いで町へ行き、市場で買出しをしてきたに違いありません。主イエスの喜ぶ顔を思い浮かべながら走って帰ってきた弟子たちは勇んで主イエスに勧めました。「ラビ、食事をどうぞ」。
ところがそれに対する主イエスの返事はどうだったでしょうか。「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」(32節)。弟子たちは、互いに顔を見合わせて、「誰かが食べ物を持って来たのだろうか」(33節)といぶかります。せっかく自分たちが苦労して町に買い出しに行って来たのに、誰かが主イエスを喜ばせる特権を自分たちから奪ってしまったのか、という不満の声が聞こえてくるようです。それだけではありません。主イエスは自分たちが買い出しに行っていることを知っているのに、誰か他の人から食べ物をもらってしまうなんてひどいではないか、なぜ食べ物を差し出されたとき、「あっ、今弟子たちが買いに行ってくれているので結構です」とか言ってくれなかったのか、そういった主イエスに対する不満も、弟子たちの反応の中には含まれているのではないでしょうか。
そのような弟子たちの心の中にある思いをも汲み取るかのように、主イエスは言葉を継いでおっしゃいました。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」(34節)。ここで主が語っておられるのは、肉体の糧になる食料のことではなくて、霊的な食べ物についてのことです。私たち人間は、いや生き物はすべて、食べる物がなくては生きていくことができません。私は先日検査を受けるために一日だけ大変限られた内容の食事をしなければなりませんでしたが、それだけでも力が出ず、何かに取り組む気力が弱まってしまいました。生き物が生きていくために食べ物がなくてはならないように、人が霊的に健やかに歩むためには、霊の食べ物を受けなければならないのです。
主イエスはこの霊の食べ物をよくご存知であり、その食べ物をいつも食していました。それは主イエスをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることそのものだ、そう主イエスはおっしゃいます。「主イエスをお遣わしになった方」、つまり父なる神の望んでおられることをこの地上で行い、父なる神が成し遂げようとしておられる救いの御業のためにご自分を捧げきって生きること、そのことがそのまま、自分の食べ物、自分の栄養になるのだ、主はそうおっしゃっておられるのです。父なる神とのこの上なき交わりの中を生きることで、主イエスの中には誰も奪うことのできない自由と平安が満ち満ちていたのです。
2 けれどもこの食事は、私たちも食べようと思えば簡単に食べられるものではありません。父なる神の御心を行い、その業を成し遂げるということは、そもそも私たち人間にできることではありません。だからこそ、それは私たちの知らない食べ物なのです。「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」とおっしゃった主の言葉の本当の意味を、弟子たちは理解できませんでした。「食べ物」という言葉を、肉の糧としての食物の意味でしか理解できなかったのです。それどころか弟子たちは、自らの手で主イエスを養ってやっているんだぐらいに、どこかで思い込んでいたのではないでしょうか。だからこそ、町からの買い出しが無駄になったと思い込んだ時、不満を抱いたのです。主イエスが来られたことで何が始まっているかということより、自分たちの労苦を評価してもらうことの方が彼らにとって大事だったのです。
それにも関わらず、私たちがこの霊の食べ物に与かるよう、主はここで弟子たちに呼びかけられるのです。「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている」(35節)。弟子たちは気づいていませんでした。彼らの周りに色づいた畑が広がっているのを。この畑は、シカルの井戸の水によって養われ、潤され、その実を育まれたのでしょう。この井戸から湧き出る水によって養われた畑が周囲に広がっていることに、弟子たちは十分な注意を払っていなかったのです。この井戸の水を通して、大きな実りがもたらされていることに、気づいていなかったのです。それと同じように弟子たちは、サマリアの町からぞくぞくと主イエスのもとに集まってくる町の人々に気づくことができませんでした。この人々は、主イエスが与える命の水がもたらした実りです。塚本虎二という人はこの箇所を説明を入れながら次のように訳しました。「目をあげて畑を見てごらん。麦畑の間を押し寄せてくるあのスカルの人たちを!畑は黄ばんで刈り入れを待っている」。
このすぐ前、サマリアの女性との対話の中で、主イエスは生ける水、永遠の命に至る水を私たちに与えてくださることを現してくださいました。互いに愛し愛され、信頼を受けてそれに応える、そういう関係を築いてくることのできなかったサマリアの女性は、自分の過去の過ちを冷ややかに見る町の人々をおそれ、今まで町の中に入っていくことができずにいたのです。ところが今や彼女は、主イエスの与える命の水を飲んで、罪を赦され、その大きな恵みの中を歩む者へと変えられました。そして与えられた命の水を携えて出かけていきます。今まで自分の罪をあばく人目を気にするあまり、入ることのできなかったサマリアの町に出かけていく者となったのです。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」。このようにして、命の水は主イエスから流れ出し、サマリアの町にも流れ込んでいき、主イエスを信じたサマリアの人々という豊かな実りをもたらしたのです。ところがそこに現れている大きな神の恵みに、弟子たちは気づくことができない。その恵みの収穫を共に喜ぶことができない。自分たちがはるばる町まで買い出しに行った、その労苦が評価され、報いを受けるかどうかが弟子たちの関心だったのです。大きな恵みの実りがまさにもたらされようとしている時に、弟子たちにはそのことが見えず、だれが主イエスに食べ物を持ってきたのだろうかと議論をしているのです。今ここで起こっている神の恵みの出来事を見ようとしない、いやそれに気づくことができない。それが私たちの姿ではないでしょうか。
3 自分たちが、どれほど大きな実りを与えられているか、しかもただで与えられているかということに、なかなか気づけないのが私たちの姿です。命を与えられてこの世に生まれ、日々生かされているのに、それを当たり前のことのように考え、自分の力で生きているような錯覚に陥っています。呼吸する空気も、生きのに必要な糧も、ただで受けていることの恵みを忘れて、当たり前のようにして過ごしています。「有り難う」という日本語は、元来「有る」ことが「難しい」という意味を持っています。当たり前のことではない、本来あり得ないことであるがゆえに、そこに驚きが生まれ、感謝が生まれるのです。日本人がこの「有り難う」という言葉を言わなくなってきていると言われるのは、物質的にあまりにも豊かさになってしまったために、それらが当たり前のことではなくて、恵みとして与えられているものである、という感覚を、私たちが失ってきているからではないでしょうか。私たちは伝道についても時々愚痴をもらします。日本は伝道が進まない、家族を誘ってもなかなか来てくれない、そういうことにため息をつきます。日本という土地、日本社会が福音を受け入れないようにできているんだ、と言って、社会や時代のせいにしたがります。不満や愚痴ばかりが多くなって、実は今まさに始まっている神様の恵みのご支配が見えなくなっていることに気づかないのです。「刈り入れまでまだ四か月もある」という言葉は、この「今」始まっている恵みのご支配を見ようとしない心の態度です。まだその時は来ていない。神の収穫の時はまだ来ていない、まだまだ自分ががんばって汗水垂らして働いて、人生の実りを生み出さなければいけないと、むきになっているのです。それゆえに今まさに、あのサマリアの町から人々が押し寄せてきている、その豊かな実りを見ようとしていないのです。
4 主イエスはそのように心が頑なになって、自分しか見えなくなっている弟子たちの有り様を誰よりもよくご存知であるゆえに、語りかけられるのです。「あなたがたに気づいてほしい。目を上げて押し寄せてくるサマリアの人々、スカルの町の人々を見てほしい。今始まっている豊かな実りの時に気づいてほしい。自分の中にあるとらわれから、私があなたがたを自由にしてあげよう。私はそのために父なる神から遣わされたのだから。さあ、私はあなたがたが自分では労苦しなかったものの実りを今、あなたがたにあげよう。彼らに洗礼を授けなさい。彼らに洗礼を授け、とこしえまであなたは神のものだと、宣言しなさい。今あなたがたに、私が命がけでもたらす実りを、収穫する喜びを与えよう。私と一緒に喜んでくれ」!
2節でわざわざ断り書きがなされているように、洗礼を授けていたのは主イエスではなく、弟子たちです。主イエスはここでも、サマリアの人々に洗礼を授け、喜びの刈り入れをする特権を弟子たちにくださったに違いありません。けれどもどうでしょう。サマリアの町の人々が主イエスを信じ、洗礼を授かるという実りがもたらされるために、弟子たちは何かをしたでしょうか。なくてはならない役割を果たしたでしょうか。いや、全く何もしていないのです。何一つしていません。彼らはずっと町に食べ物を買いに行っていただけです。その間に、主イエスとサマリアの女性との対話が行われ、彼女が町に出かけて主を証し、その声に導かれて、多くの人々が主イエスのもとへやって来たのです。同じ町に買い出しに来ていたであろう弟子たちは、この町で伝道らしい働きは何一つしていないのです。それなのに、町中の人たちが今主のもとへやって来て、大きな収穫がもたらされようとしている。彼らに洗礼を授ける収穫の恵みを弟子たちに与えてくださろうとしているのです。そのことにこそ、目を向けなさい、主は弟子たちにそう呼びかけておられるのです。目を上げて、色づいた畑と同じようにもたらされようとしている、主イエスを信じる者の群れという実りを見なさい、と促しておられるのです。自分たちが食べ物を買ってきて主イエスを養ってあげているのではない、むしろ主イエスこそがすべてを整えて、弟子たちに最後の収穫の恵みを味わわせてくださるのです。弟子たちこそが分け前をいただき、恵みに与からせていただいているのです。神は実に寛大なお方です。太っ腹なお方です。自分が手塩にかけて育て、毎日命の水をやり、懇ろに命の言葉をもって語りかけ、暑い日照りの日も草むしりを絶やさず、汗水垂らしてもたらせた豊かな実り、それを収穫するという一番いいところ、おいしいところを、弟子たち、私たち、教会に委ねてくださるのです。託してくださるのです。主イエス、また主に遣わされたサマリアの女性、また世々の証し人たちといった、他の人々が労苦し、私たちはその実りに与かっているのです。
5 この神の恵みの支配に目を閉ざしている私たちのために、主イエスは十字架におかかりになり、私たちが味わわなければならない裁きの苦しみを担ってくださったのです。聖書において、収穫とか刈り入れというイメージは、来るべき神の怒りと裁きを意味します。けれどもここでは主イエスは、刈り入れは恵みの時、喜びを分かち合う時だ、とおっしゃいます。神の怒りの裁きがついに降り注いだ時、それを私たちに代わってその身に受けてくださったのが主イエス・キリストだったのです。神の怒りの内に焼き滅ぼされるはずだった私たちが、その罪を赦され、永遠の命を与えられる恵みに、ただで与かっている。ここに、裁きの時がまた、恵みの時、喜びの時となる理由があります。恵みに与かるようにと、御言葉の種を蒔いてくださっているのは神です。そしてそこにもたらされる恵みの実りを収穫する務めに、先に収穫された私たちを遣わしてくださるのです。それは「種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶ」(36節)ためなのです。この喜びは、私たちがもたらすことのできるものではありません。私たちには永遠の命をもたらす種を蒔くことも、その種に芽を出させることも、これを育むことも、実を実らせることも、何一つできないのです。すべては神がもたらしてくださる恵みなのです。それにも関わらず、神は私たちが自分ではそのために労苦しなかった実りを刈り入れさせるために、私たちを遣わしてくださるのです。神はその永遠の命に至る実を、私たちに集めさせ、神の中にあるこの上ない喜びに、私たちをも与からせてくださるのです。
6 信仰を与え、引き起こしてくださるのは私たちではなく神です。確かにサマリアの女性は証しをし、町の人々はその証しの言葉を信じました。けれども町の人々は最後に言うのです、「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです」(42節)。私たちは自分が努力して、その実りとして人を信仰に導くのではありません。そうではなくて、最後は主イエス自らが町の人々に出会ってくださり、その求めに応じて彼らのもとにとどまり、まる二日間、昼となく夜となく、親しく言葉を交わしてくださったように、命の水を手ずから与えてくださるのです。そこで初めて、異邦の民として蔑まれていたサマリア人たちも、このお方が「世の救い主」、それゆえ自分たちの救い主でもあることを知るのです。
7 この夏は世界中がオリンピックに湧きました。私も休憩時間によくテレビを見ました。日本の体操が数十年ぶりに金メダルを取り、解説者が感無量のあまり解説できなくなり、大粒の涙を流して泣いた時には、私も思わずもらい泣きしそうになりました。このオリンピックを通じて、私たちは選手たちの労苦を介して、多くの喜びを共有し、共に喜ぶ体験を持ちました。自分ではどんなに頑張っても生み出せない、大きな実り、それを我がことのように喜んだのです。神は今、ご自身のもたらした豊作の喜びに私たちも与かって一緒に喜んでくれと声をかけ続けてくださっています。主イエスはこの父なる神の御心を行い、十字架の死と甦りにおいてその御業を成し遂げてくださいました。それは私たちを永遠の命という、自分がそのために全く労苦しなかった恵みの実りに与からせてくださるためなのです。オリンピックを共に喜ぶ私たちが、私たちを造られた神の、命がけでくださった恵みを、どうして喜べないことがあるでしょうか。
主は涙と共に種を蒔かれるのに、私たちが喜びの歌と共に刈り入れをするよう、招いてくださいます。主は種の袋を背負い、泣きながら出て行かれたのに、私たちが束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくるのをわがことのように喜んでくださいます。私たちはこの世で直面する涙や労苦も、主イエスの十字架におけるあの涙と労苦として担われていることを知る時、悲しみの中でも豊かな神の実りを与えられていることに気づかされ、立ち上がることができるのです。
祈り 主イエス・キリストの父なる神様、あなたがもたらしてくださる大きな恵みに疎い私たちを憐れんでください。あなたが日々注いでくださっている豊かな実りに鈍感な私たちを顧みてください。私たちが気落ちして、倒れ伏しそうになる時、涙と労苦の中で途方に暮れてしまいそうになる時、どうかいつも新しく呼びかけてください、「目をあげて畑を見るがよい」、と。そこであなたが御子イエス・キリストの十字架において背負ってくださっている涙と労苦を仰がせてください。あなたが御子において成し遂げられた御業の実りを共に喜び、その実りに与かって生きる者とならせてください。あなたの労苦の実りにただで与かっている恵みを畏れと感謝をもって思います。あなたがわたしたちのもとに留まっていてくださるがゆえに、私たちもあなたがくださっている刈り入れの恵みに留まり続けていることができます。あなたの黄金色の畑を歩ませ続けてください。
御子イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。