「主よ、その水をください」 伝道師 矢澤 励太
・ 旧約聖書; 申命記、第12章 1節-12節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書、第4章 1節-30節
・ 讃美歌 ; 357、432、404
1 その日、主イエスはエルサレムからガリラヤへと戻られる旅の途上にありました。一度上ってきて滞在していた都のエルサレムにこれ以上滞在していることができなくなったからです。主イエスが、あの洗礼者ヨハネよりも多くの弟子をつくり、その弟子たちが洗礼を授けているという話が、ファリサイ派の人々の耳にも入ったことが、そのきっかけでした。主イエスがユダヤにおいてこれ以上今の活動を続けていれば、その目立ってきた活動は、ファリサイ派が警戒するところとなり、やがては迫害や主イエスを捕らえようとする試みが始まっていくことは明らかです。主イエスはそのような時が来るということはよくご存知でありましたが、またその時はまだ来ていない、ということもご存知だったのです。主イエスはその地上のご生涯において、まだなさなければならないことがあったのです。そのことを父なる神との交わりのうちに示されていたのです。ですから、今ここでファリサイ派の人々に捕まる道を選ばず、いったんガリラヤに戻られる決断をされたのでした。
その際、主イエスは、当時のユダヤ人たちが使っていた道を通ってガリラヤに帰ることをしませんでした。当時のユダヤの人は、用事がある時は、わざわざ遠回りをしてガリラヤに行っていました。エルサレムから東の方にあるエリコという町を通って、さらにヨルダン渓谷まで行き、この川沿いの道をさかのぼって、ガリラヤ湖の南あたりからガリラヤに入ったのです。まっすぐサマリア地方を突っ切ってガリラヤ地方に入った方がどんなにか近道だったことでしょう。けれどもユダヤの人はそのような近道を使うのを嫌がったのです。なぜなら、ユダヤ人はサマリアの人たちと敵対関係にあったからです。かつてイスラエル王国が北と南に分かれていた時代、北王国を治めたオムリ王は異教の神バアルへの礼拝を奨励しました。また紀元前8世紀の末に北王国がアッシリアという帝国に滅ぼされた時には、たくさんの外国人がこのサマリアに移住させられたため、さまざまな異教の神々が持ち込まれ、またそれらを礼拝する風習が入り込んでいったのです。残っていたユダヤ人たちとの混血も進んだでしょう。このように、他の神々を崇拝し、異教の血が混じったこのサマリア人を、ユダヤ人は軽蔑し、馬鹿にしていたのです。
けれども主イエスはこうした背景を十分ご承知の上で、あえて直接、サマリア地方を突っ切って行く道を取られたのでした。周りの弟子たちはおそらく嫌がったことでしょう。できればいつもの迂回路を通り、サマリアの汚れを身に受けることなくガリラヤ地方に入りたいと願ったことでしょう。けれども主イエスはそこでなすべき事柄があるということを深く理解しておられたがゆえに、わざわざサマリアを通り抜ける道をお選びになったのでした。
2 主イエスはこのサマリア地方に入り、シカルという町にやって来られました。主イエスは旅の疲れをお覚えになり、この町にある井戸のそばに座り、休んでおられました。福音書はわざわざその時刻を記して、「正午ころのことである」と言っています。それは、そのすぐ後に描き出されるサマリアの女が水を汲みに来たという出来事が、普通はあり得ない、異常な出来事であったからです。亜熱帯性の気候であるこの地方では、井戸の水は朝早く汲みに来るのが女性たちの日課でした。あとは夕方になってどうしても足りなくなった時だけ汲み足しに来るだけだったのです。一番暑く、日照りの強い時間帯を選んで、わざわざ井戸の水を汲みに来ること自体、わけありのことであったのです。
人々が昼食を取っている時間帯に、わざわざ人目を盗むようにしてやってきたこの女性は、井戸のそばで独りの男性が休んでいるのを見つけて、どんなにか驚き、不安に思ったことでしょう。もしかしたらもう少し時間をおいて、一時か二時ころに出直して来ようかと、思い巡らしたかもしれません。けれどもその時にはもう主イエスの眼差しの下にとらえられていたのです。心を迷わせていた女性に、主イエスは語りかけられました、「水を飲ませてください」(7節)。女は答えました、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」(9節)。顔立ちや身なりで座っている男はユダヤ人であることが分かったのでしょうか。このサマリアの女は、あなたとわたしと何の関係があるのか、と言わんばかりの返事でもって、主イエスのお願いを拒絶してしまったのです。彼女もまた、先ほど触れたような、サマリア人とユダヤ人との歴史的な対立の中に身を置き、その枠の中に捕らえられたままでものを言っています。「ユダヤ人のあなた」、「サマリア人の女のわたし」、というレッテル貼りにこだわっているのです。そこから自由になれていないのです。
ところが、二人の会話は、この女性の心ない一言でもって終わりはしませんでした。主イエスから始まった語りかけは、それを切断しようとするこの女性の思いに反して、もう一度なされるのです。しかもとても不思議な言葉をもって、主イエスは話しかけられるのです、「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」(10節)。もしあなたが、わたしが誰であるのかを知っていたなら、あなたの方が水をください、と求め、その願いは生ける水をいただくことによってかなえられただろう、と言っているのです。女性はいぶかしく思って、さらに尋ねます、「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか」(11節)。「ヤコブの井戸」と呼ばれたこの井戸は、23メートルの深さがあったと言われています。何の道具もなしで、「生ける水」を与えることなどできるのですか、という問いです。そしてここでも、サマリアの女性はこだわりを見せています。「あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです」(12節)。なぜ今使っているこの井戸ではいけないのですか。今のままでいいじゃないですか、と言っているようです。けれども主イエスは、「生ける水」と、ヤコブの井戸からくみ出される水とは全く違うものであることを示されるのです。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(14節)。
先日、テレビでアフリカのどこかだった思いますが、ある地方の不思議な出来事が紹介されていました。夏の日照りや乾燥が厳しい季節の真っ只中で、その地方には雨季に降って地下水として蓄えられた水が、何かのきっかけでこんこんと地下から湧き出すのです。そして砂漠の只中に、大きな川が出現するのです。そしてその時期だけ、実にいろいろな水草や小動物たち、さらにバッファローやライオンなどがこの川の周りに集まり、にぎやかな世界を作り上げるのです。けれどもやがて地下水が尽きると、再び大地はカラカラに渇き、ひび割れが走り、水分を失ったサボテンは自らの重みに耐え兼ねて、ボキッと折れて倒れていってしまうのです。ヤコブの井戸からくみ出す水も、地下水を掘り当てたものです。そこからくみ出す水の量には限界があります。またそこからくんで飲む者は、毎日ここにくみに来なくてはなりません。そのおかげで、この女性も、人目をはばかりながらの水くみを、毎日続けなければならないのです。
ところが主イエスが与える水は「決して渇かない」と言います。その水そのものが、泉となって、「永遠の命に至る水」を湧き出させてくださるというのです。サマリアの女性は、それは願ってもないことだ、と思ったのでしょう、「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」(15節)と言います。ちょうど今流行っているカスピ海ヨーグルトが、最初にもらった後、培養すれば、何回もヨーグルトを作って楽しめるのと同じように、この女性はもしこの水を手に入れれば、一生その水から繰り返し水をくみ出していけると考えたのではないでしょうか。そうすれば、人目を避けて、毎日正午ころにびくびく水をくみに来る必要もなくなる。自分の住んでいるところで、誰にも知られずに、自分の罪を隠しはばかったまま、ひっそりと生きていこう、そう思ったことでしょう。基本的には今の状態を維持し、罪のしがらみを身にからみつかせたまま、それを神の前にも、人の前にも、隠しおおして生きていこう、という魂胆だったのです。
3 けれども、そのことを主イエスはお許しになりませんでした。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」(16節)!この一言が切り込んできたのです。女性の心には刺し貫かれたような痛みが走ったことでしょう。一番痛いところ、つらいところを突かれたに違いないからです。女性は「わたしには夫はいません」という当り障りのない返事ですませ、その場逃れをしようとしますが、主イエスはその背景にあることもすべてご存知であることを示されました。「あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ」(18節)。一人の喉が渇いた男性は、ユダヤ人であることが分かり、さらには「主よ」、と呼びかけるべき一人の教師として、女性の前に立ち現れてきました。「主よ」との呼びかけは、この女性にとっては救い主の意味ではなく、まだ一人の教師に対する呼びかけの意味に留まっているのです。それが今や「預言者」にまで来ています。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします」(20節)。そして礼拝をするべき場所についての問いが始まるのです。先ほどの、申命記第12章にも出てきましたが、ユダヤの人々にとってもサマリアの人々にとっても、「主がその名を置くために選ばれる場所」(11節)がどこであるか、ということが重大な問題だったのです。ここにもこの女性の過去へのこだわりが出てきます。エルサレムのみが神を礼拝する場所だ、と主張したユダヤ人に対抗して、サマリア人はゲリジム山という山に聖所を築いて、そこだけが神を礼拝する場所だと言ってがんばっていたのです。それなのにあなたは、わたしをエルサレムの宗教に改宗させようと言うのですか、と言って彼女は抵抗しているのです。
その時、主はこの女性に、「そうだ、エルサレムの宗教を信じなさい。そこをこれからのあなたの礼拝場所としなさい」とはおっしゃいませんでした。主はゲリジム山の宗教を信じよ、とも、エルサレム宗教を信じよ、ともおっしゃらなかった。そうではない、「婦人よ、わたしを信じなさい」とおっしゃったのです。もはやエルサレムもゲリジム山も問題とならない。どこで礼拝するかが問題となるのではない。礼拝するべきお方が今目の前に、ここにおられる、来てくださっている、そのことを見つめるべきなのです。「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である」(23節)!「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(24節)。霊なる神は人間の心の目を開き、自分の真実の姿を見させる、真理の神です。このお方の放つ光に照らし出される時、わたしたちの罪にまみれた姿があのサマリアの正午の日差しの中で暴き出されるのです。まさに白日の下にさらされるのです。この女性はどういう理由か分かりませんが、今まで五人の夫と結婚と離婚を繰り返し、しかも今は正式の結婚をしないまま、ある男性と同棲をしているというのです。倫理も道徳も破れ、崩れ去っています。この女性だって、願って今のような生活を送るに至ったはずはありません。愛し愛され、信頼しあう家庭生活を、どんなにか望み、夢見ていたことでしょう。どんなにか、今度こそは幸せな、互いに愛し合う家庭を築こうと、結婚するたびに思いを改めてきたことでしょう。けれども、あまりに本当の人格的な関係を結ぶことのできない自分の弱さと破れに打ちのめされ、もはやそのような努力や決心さえもしなくなった。かといって一人で生きることもできず、信頼や愛情など期待できないような今の関係に甘んじてしまう、人生をそんなものと思ってあきらめてしまっているのがこの女性なのです。そこに主イエスは、自ら水を求める渇ける一人の人として身を低くされて近づき、優しく語りかけてくださるのです。いきなり「わたしがメシアなんだから、わたしを信じなさい!ゲリジム山の礼拝なんかすぐにやめなさい!」、と怒鳴りつけるように叫んだのではないのです。「水」という、女性にとっての日常生活の切実な問題から入って、やがて女性に深く問いかけていかれたのです。「あなたが水をくみに来ているヤコブの井戸は本物か。あなたの夫は本当の夫なのか。あなたの信じている宗教は本物なのか」、と。けれども主は別の井戸、別の男性、別の神殿をこの女性に紹介したのではありません。女性を導き、もはや自らの罪の姿をもはや隠しおおせなくさせ、自分の罪を目の当たりにさせ、深い悔いと絶望を経験させたのです。
4 女性にとって主イエスは、一人の渇ける旅人、一人のユダヤ人、一人の教師、一人の預言者へと変化してきました。けれども、ついにこの女性自身が、自分の力で正しく主イエスがどなたであるかを知ることはできませんでした。なおも、すべてはキリストと呼ばれるメシアが来られる終わりの時にかかっていると、問題を先延ばしにしようとする女性に向かって、主イエスはついに「それはあなたと話をしているこのわたしである」(26節)とおっしゃり、ご自分がどなたであるのかを開き示されるのです。
食べ物の買出しから戻ってきた弟子たちが何も話しかけなかったのは、そこに主イエスが女性にご自身がどなたであるのかを示された時の緊張と喜び、感謝と賛美がみなぎっていたからではないでしょうか。救い主とついに出会った、このお方がメシア、キリストだ!ある人が本当に主と出会う瞬間には、周りは何もできない、邪魔もできない。友人や伝道者がそこに導かれる歩みに伴うことはできても、最後のところには誰もいない。ただ神がキリストにおいてその人にご自身を現される、その恵みの出来事のみがあるのです。そこで人は知らされるのです。主イエスが、あの一人の渇ける旅人として身を低くされたように、主はこの世で僕としての道を歩まれ、十字架の上で、この女性の罪も、そしてわたしたち一人一人の罪も味わい、担い、受けるべき罰を代わりに身に負ってくださったことを知らされるのです。この主イエスを父なる神が復活させてくださったことにより、罪の力、死の力がわたしたちを支配しつづけることはもはやありません。今キリストにおいて神と出会い、今神の霊と真理を示されて、わたしたちは真実な礼拝をすることができるし、そうするように招かれているのです。神はこの礼拝を通して、時間をかけて、わたしたちとたくさんの対話を積み重ねてくださいます。あのサマリアの女性にそうしてくださったように。そして誰にも言えないようなわたしたちの心の奥底にあるひだにまで触れ、そこにある痛み、棘を抜き取り、癒してくださいます。わたしたちの中にもある「過去の罪というサマリア」から解き放ってくださるのです。今、ここから、「永遠の命」に至る水をいただき、飲み続けることができるようにしてくださるのです。わたしたちは主イエスから忍耐強く、時間をかけて語りかけられています。その意味では、主イエスが自分にとってどなたであるのかなかなか見えてこないといって焦る必要はないでしょう。サマリアの女性も時間がかかったのです。けれども同時に、わたしたちは、いつも招かれているこの礼拝の大事さを思うべきです。続けて出席して、主イエスからの語りかけをあの女性のように聞き続けるのです。さらに、気長に焦らず待つと同時に、「それはこのわたしである」、「今がその時である」と宣言されている主の御言葉の前にいつも立たされていること、いつも今のわたしたちの姿勢、決断が問われていることも覚えたいと思うのです。
そしてこの「今」を知った者は、あの女性と同じように、過去のしがらみのまとわりついた水がめをそこにおいて、もはや人目をはばからず、町の中に入っていけるようになるのです。そしてそこで「もしかしたら、この人がメシアかもしれません」(30節)と言って、救い主を証しし始めるのです。そして人々は町を出て、イエスのもとへやってくるのです。新しい神の民が起こされ、霊と真理による礼拝が生まれるのです。わたしたちも今、ここで、霊と真理をもって与かっている礼拝において、まことに神と出会い、「今がその時」であることを知ります。そしてささやかな営みであっていい、主がそれを豊かに用いてくださることを信じ、ここから証しの場へと遣わされていくのです。
祈り 父なる神様、わたしたちは誰でも、あのサマリアの女性のように、心の奥底に、白日の下に曝せない痛み、悲しみ、悩みとうめきを抱えています。それをあなたの御前に投げ出さなくては、あなたの生ける水に与かることはできないことを示されております。どうかわたしたち一人一人が心のうちにあるわだかまりを、主イエスからの語りかけによって取り除かれ、癒され、十字架の血によって贖い取られた新しい命を今、ここから、生き始めることができますように。この暑い夏の盛りに、水を求めるわたしたちを、それにもまして、魂の永遠の命に至る水を湧き出させる、生ける水を慕い仰ぐ者とならせてください。
御子イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。