主日礼拝

捧げられた人生

「捧げられた人生」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; 詩編、第20篇 1節-10節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書、第3章 22節-30節

 
1 第3章で描き出されていた主イエスとニコデモとの対話を受けて、「その後(のち)」と福音書は語り出します。先の対話において取り上げられていたのは、洗礼でした。「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)、「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(5節)、そう主イエスはおっしゃいました。主がお語りになったことを、この時のニコデモはまだ十分に理解することはできませんでした。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」(4節)、ニコデモはそう言っています。主イエスが来られたことが何を意味するかということは、肉の目にはなかなか見えてこないのです。
 けれどもここに、主イエスが来られたことがどういうことを意味するのか、深く理解している人がいました。洗礼者ヨハネです。この洗礼者ヨハネが授けている洗礼と、主イエスが授けている洗礼とは、何が同じで何が違うのか、ヨハネはそのことを深くわきまえている人でした。主がニコデモとの話をされた中で語られたことが、今ヨハネとの関わりの中で、目に見える出来事として起ころうとしているのです。

2 そのきっかけとなったのは、ヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間に起こった「清めのこと」を巡る論争でした。このユダヤ人が、いったいどのような人だったのか、どんな論争を引き起こしたのか、福音書はそのことを具体的には記しておりません。けれども、その後のヨハネの弟子たちの問いかけを見ると、この一人のユダヤ人は、おそらく主イエスの名による洗礼を授かった人であったことがうかがわれます。そこで主イエスの洗礼を授かった人と、ヨハネの洗礼を授かった弟子たちとの間で、どちらの洗礼がまことの清めを与えるものかを巡って、論じ合いが起こったのです。
 一方で主イエスは弟子たちとユダヤ地方に行き、そこで弟子たちと一緒に滞在しながら、洗礼を授けておられました。他方でヨハネは、サリムの近くのアイノンという所で同じく洗礼を授けていたといいます。「アイノン」という地名そのものが、「水が豊富な泉」という意味を持っており、この場所が水が豊かであったことを表しています。正確な場所は特定されていませんが、ヨルダン川沿いのどこかと考えられています。このヨルダン川のこちら側で洗礼を授けているヨハネ、そしてヨルダン川の向こう側で洗礼を授けている主イエス、それぞれが別々に洗礼を授けている。二つの洗礼のいったいどっちが本物の洗礼なのか、ヨハネの弟子たちは不安になったと思うのです。
このようにしてヨハネ福音書は主イエスと洗礼者ヨハネが、同じ時に、それぞれで洗礼を授けていたことがあると書き記しているのです。他の福音書では、主イエスがヨハネから洗礼を受けた場面の後、洗礼者ヨハネはしばらく姿を消します。次に現れるのは、ヘロデによって捕らえられ、牢屋に入れられている最中に、弟子を遣いにやって、主イエスが本当に「来るべきお方」なのかを真剣に問いかける場面です。ヨハネと主イエスがそれぞれ同じ時期に洗礼を授けていた場面は描いていません。けれどもヨハネ福音書はわざわざ「ヨハネはまだ投獄されていなかったのである」(24節)と断って、二人がそれぞれに洗礼を授けていた時期があることを明らかにしているのです。そうするとそこで問題になってくるのは、ヨハネの洗礼と主イエスの洗礼との関係です。どちらが本当の罪の清めをもたらすのでしょうか。ヨハネの弟子たちの目には、二種類の洗礼がヨルダン川のこちら側とあちら側でまことの権威を巡って、せめぎ合っているように思えたのです。
ヨハネの弟子たちは言います、「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています」(26節)。弟子たちは一人のユダヤ人との論争に巻き込まれて不安になったのです。動揺したのです。「あなたたちの受けている洗礼は本物か。私はイエスというお方から洗礼を受けたし、私だけでなく、多くの人々がこの主イエスから洗礼を授かろうと、どんどん集まってきているよ、あの川向こうから聞こえてくる群衆のざわめき、喜びの叫びが聞こえないのですか」、そういう報告を受けてうろたえているのです。弟子たちのヨハネに対する問いかけの中には自分のこれまでの生きかたについての自信を失った姿があり、またこの事態に対して何も行動をとろうとしない師であるヨハネへの苛立ちがあります。「みんながあの人の方へ行っていますよ!何もしなくていいんですか。負けているじゃないですか。弟子を取られて悔しくないんですか!ここまであなたに従ってきた私たちの人生はいったいどうなるんですか!」そんな思いをぶちまけていた訴えがここに現れでているのです。

3 ヨハネは弟子たちの訴えを静かに聞いていましたが、やがて口を開いて答えました。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる」(28節)。私たちはこの先生にこのままついていっていいのだろうか、そんな不安を抱いている弟子たちに向かって、ヨハネはあっさりと、「あなた方も主イエスのもとへこれから行くことになるだろう、そのこと自体が主イエスこそがまことのメシア、救い主であることを証しするだろう」、と言っているのです。「あなたがたも、やがて主イエスのもとに行き、そこで洗礼を授かることになる。それは決して私の人生の失敗を意味しない。むしろそれこそが私が神様から与えられている役割なのだよ。あなたがたに主イエス・キリストを紹介しあなたがたが主につながって生きるようになれば、それで私の人生は成功なのだ」、ヨハネはそう言っているように思えるのです。
 洗礼者ヨハネにとっては、ことがらは初めからはっきりしていたのです。自分自身が最初から言っていたように、ヨハネは「メシアではない」のであり、「あの方の前に遣わされた者」であり、それ以上ではないのです。「救い主である主イエス・キリストを紹介すること」、それが神様からヨハネに与えられた役割です。自分がどれだけ多くの弟子を集め、どれだけの評判を手に入れるかということは、ヨハネにとって全く問題になっていません。自分の人生が成功か失敗か、それが大事な問題ではないのです。自分がどれだけの業績を積み上げることができるかが、一番大事な問題ではないのです。もし敢えて成功か失敗かを問うなら、今来られた主イエスを皆に紹介すること、救い主を指し示すこと、そのための働きに生涯を捧げること、それこそがヨハネにとっての「成功した人生」なのです。

4 私は先日、前日本銀行総裁の速見優(はやみ・まさる)さんが青山学院で行った講演を収めたパンフレットを読む機会がありました。その中で、信仰者として経済界で働くようになって、こういう経験をした、と振り返っておられます。「どんなに偉い人と一対一で話し合うようなときにも、神様の前では、私も罪人だけれども、この方も、どんなに偉い人でも神様の前では罪人であると。ともにキリストの十字架で救われた同じ罪人なんだというふうに思うと、前におられる偉い方の目を直接見ることができますし、自分の肩の力がさっと抜けてくる。・・・私の洗礼を受けた大村勇先生がよく言っておられたことですけれども、生前、どんなにうまく仕事をやったとしても、いくら積み上げてプラスが増えたとしても、人間がやったことは、みんな、自分を自慢するためにやったり、いろいろなことがあって、神様の前では、全部、括弧して、先にマイナスがついているんだぞと。神様の前では罪人であって、それをキリストは十字架によって救ってくださっているんだということを忘れないようにしてまいりたいというふうに思います」(速見優「私のキリスト者としての歩み」『青山学院大学相模原キャンパス開学記念講演会』18頁)。
 私たちの人生はどんなに仕事の成果を積み上げても、どんなに人からよい評価を受けても、どんなに名声を博しても、その歩み全体を括弧でくくった先に、太いマイナス記号がつけられているような人生です。よりよき業績、よりよい評価を得ようとすれば、その中でたくさんの人を蹴落とし、傷つけ、裏切ることも増えてきます。それだけマイナス記号を大きくしているのかもしれません。けれどもそれだけ罪にまみれ、マイナスで埋め尽くされるしかない人生が、主イエスの十字架によって清められ、神の大いなる恵みを指し示す人生になるなら、私たちの人生は本当の意味で成功した人生になるのではないでしょうか。土の器にすぎない私たちがそこに神の恵みを盛って、この恵みを周囲にも分かち合うような人生を刻むことができるなら、それこそが本当に幸いな人生ではないでしょうか。

5 「天から与えられなければ、人は何も受けることができない」、主はそうおっしゃいました。洗礼者ヨハネは地上にある一人の人間です。けれども「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」ということを、深く知っている人です。その人生は人間の目、この世の評価で測ったら、衰えでしかない人生、失敗のようにしか見えない人生かもしれません。弟子を失い、人々から見向きもされなくなっていく、そういう人生かもしれません。けれどもその人生は「あの方が栄える」のを見て、喜びに満たされる人生なのです。花婿の介添え人は耳を傾け、花婿の声が聞こえると、それで喜びに満たされるのです。天から与えられた神の独り子が今、ここに来てくださっているからです。
 キリストのものとされたたくさんの人たちが、このヨハネのように、キリストを指し示し、その栄光を表すことで満ち足りた人生を歩みました。幼い主イエスに神殿で出会ったシメオンは、これで安心して世を去ることができると、神に感謝しました。使徒パウロは「信仰に基づいてあなたがたが礼拝を献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます」と、フィリピ教会の人々に書き送りました。アメリカの公民権運動の指導者だったキング牧師は、人種差別の撤廃された良き社会、その「乳と密の流れる土地」に、自分は人々と一緒にたどり着くことができないと悟っていましたが、しかしその過程で大切な役割を果たし、主イエスの栄光を指し示すことができた恵みに満ち足りることを知っていました。山手にある外国人墓地には主イエスを日本の人々に紹介することを、自分の人生の喜びとした人たちが眠っているのです。作曲家のバッハは自分の作曲した作品の最後に必ず「神にのみ栄光あれ」というラテン語の頭文字を書き記したといいます。すべての作品を通してそのことだけを願ったのです。そして速見前総裁のように、社会的には注目される立場にあっても、そこで自分に与えられた賜物を、神の御心を尋ねつつ、主の栄光が現されることを願って用いている人々がいるのです。
 私たちはその意味で、伝道者に限らず、献身者です。自分の人生を主に捧げ、主の御名のために生きることを一番の喜びとするのです。花婿の介添え人として、花婿キリストを紹介する喜びをもって満ち足りるのです。花婿がこの世界に来てくださったこと、その声を今、ここで、確かに聴くことができること、その声を他の人たちにも聴かせてあげられること、それで私たちの人生は満たされるのです。

6 1週間後に私たちはペンテコステ、聖霊降臨日を迎えます。水で洗礼を授けたあのヨハネが指し示していた、聖霊による洗礼が始まった日です。そのわざは教会の誕生と共に始まりました。教会はこの時以来、霊に満たされて、十字架と復活の主をその人生にお迎えした喜びの宴を祝っているのです。
 その時私たちは、詩編の詩人と共に、こう歌うことができるのです、
「戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが 我らは、我らの神、主の御名を唱える。 彼らは力を失って倒れるが 我らは力に満ちて立ち上がる。
主よ、王に勝利を与え 呼び求める我らに答えてください」
(詩編20編8―10節)

 
祈り 父なる神様、私たちの救いに必要なものは、この地上には見出せません。ただ天から与えられた救い主、主イエス・キリストの御名のほか、私たちの救いのために必要なものは与えられておりません。どうかキリストを指し示し、この世にキリストを紹介する歩みが、また私たちの人生をまことの喜びで満たす人生であることを深く思わせてください。日々のささやかな言葉とわざも、あなたが清めて御業のために用いてください。私たちが成すひとつひとつの言葉とわざに、「これも主のため」という祈りを刻むことができますように。
 主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

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