主日礼拝

神の子羊

「神の子羊」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; イザヤ書、第53章 1節-12節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書、第1章 29節-34節
・ 讃美歌 ; 1、50、358

序 洗礼者ヨハネは、「あなたは、どなたですか」という問いに対して答えました、「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」。彼は人々が期待していた「メシア」ではないと公に言ってはばかりませんでした。再びやってくると期待されていた「エリヤ」でもないと言い表しました。神から特別な役割を与えられた「預言者」でもない、と言い切りました。そうではなくて、ヨハネは自分自身を「荒れ野で叫ぶ声」だ、と言ったのでした。このお方を証し、このお方を指し示し、このお方がやってきてくださる時のために備えをなすことが、彼にとってのただ一つの務めだったのです。

1 「荒れ野」は野鳥や野獣が住処としているところです。水も緑もなく、その中をさすらう者を危機に陥れる場所です。モーセがエジプトのファラオの下から追われ、深い人生の挫折を味わっている最中で、主なる神からの呼びかけと召し出しの声を聞いたのも、荒れ野の中にある神の山ホレブでした。主イエスが悪魔からの試みに遭われ、その試練と闘われたのもこの荒れ野という場所でした。イスラエルの民が40年の苦難の歩みを経験したのも、この荒れ野でした。荒れ野とはこのように、そこに生きる人間を深い挫折と危機的な状況に陥れる場所です。そこで自分を助け、救い出すために何もできないことを知る場所、自分の弱さ、力のなさを思い知らされる場所です。
 この魂の荒れ野の只中に、神の子はやって来てくださったのです。それは洗礼者ヨハネが「わたしは荒れ野で叫ぶ声」であると言って、自分の立場を明らかにした日の翌日のことでした。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(29節)。自分の方へ向かってこられた主イエスを見て、ヨハネはこのように証しをしたのでした。
わたしの育った山形の鶴岡という町には、羽黒山という山があります。この山は山伏が修行を行う山として有名な山です。その近くには「即身仏」と呼ばれるミイラが安置されているお寺があります。この「即身仏」というのは、いわゆる「人身御供」(じんしんきょうぎ・ひとみごくう)と呼ばれるもので、何か大きな災害や飢饉のある時、誰か徳の高い人や優れた力を持つ人が犠牲になって、ミイラとなったもののことを言います。たとえばひどい飢饉がその地方を襲った時、人々は神のたたりがこのような災難を引き起こしているのだと考えて、そのたたりを静めるために、念仏を唱え続けている山伏や徳の高い僧侶を樽の中に入れてそのまま土の中に埋めたのです。山伏や僧侶はその中で水も食糧も与えられないまま、やせ細り、念仏を唱えながら、死んでいくのです。そのような命のすり減らしによって神の怒りをなだめようとしたと言うのです。わたしも子供の頃、一度このミイラを見に行った記憶があります。やせ細り、目やほほもくぼんで、うつむいたような姿勢でそのミイラは安置されていました。ミイラを見つめながら、この人はいったいどんな思いをしながら死んでいったんだろう、と子供心に考え込んだのを覚えています。今までは徳の高い僧侶が、ひどい災害の時、自分から進んで犠牲になることを言い出し、人々に自分を埋めるようにと憐れみ深くおっしゃってくださったと考えられてきました。しかしわたしが育った教会の会員の方で、郷土史を熱心に研究しておられた方は、むしろ半ば強制的に犠牲にされていたことを論証しようとしていたようです。人間が自分の世界の中で、自分の力で、苦しみを解決しようとする場合、それはしばしば、このような悲劇的な結果を生んでしまうのではないでしょうか。
しかしここで洗礼者ヨハネが証ししたのは、この世界の中で犠牲にされるために引いてこられた聖人君子ではありません。悩みと苦悩の荒れ野をさまようわたしたちの世界に外からやってこられた「神の小羊」です。ヨハネの後に、ヨハネに指し示されてやって来られるお方ですが、実はヨハネよりも先におられたお方です。世の造られるより先に神と共にあり、神のふところにいる独り子である神です。このお方がご自分からわたしたちのところに来てくださったのです。このお方が、繰り返し犠牲を求めながらも救いに与かれず悩み苦しんでいる世界に来てくださったのです。いかに人間の中での犠牲を繰り返しても、神と隣人を憎む生き方から解放されないわたしたちを解放しに来てくださったのです。
かつてイスラエルの民は、エジプトの苦しみ極まる支配を逃れて、神の民として歩みだす時に、「過越しの小羊」を犠牲にしました。家の入り口の二本の柱と鴨居に子羊の血を塗ったところは、主の使いが過ぎ越してくださり、エジプト人の家の長男だけが命を取られたのです。神の呪いと裁きを免れ、神の顧みと救いをもたらしたのが、この「過越しの小羊」だったのです。今わたしたちのもとに来てくださっている「神の小羊」は、こうした犠牲が繰り返される必要がもはやないことを教えてくれているのです。「御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられた」のが主イエス・キリストにほかなりません。
先ほどお読みいただいた旧約聖書イザヤ書にも、神の民のために、苦難を身に負われた神の僕が現われています。7-8節で次のように言われています、「苦役を課せられて、かがみ込み 彼は口を開かなかった。 屠り場に引かれる小羊のように 毛を切る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった。 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり 命ある者の地から断たれたことを」。このお方が担ったのは「わたしたちの病」であり、このお方が負われたのは「わたしたちの痛み」でした。このお方が「わたしたちの背き」、「わたしたちの咎」のために打ち砕かれ、懲らしめられたのでした。「多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった」(12節)と言われているとおりです。

2 それは神ご自身が肉を取り上げて、わたしたちの間に宿り、神の怒りと呪いをご自身において引き受ける、という誰も思い描くことのなかった形で成し遂げられた救いの業でした。この時代の誰も思い巡らしたことのない形で、救いの御業が実行に移されたのです。もはやこの世が、償いの犠牲を探し求めて罪を重ねることがないように、神ご自身がことを成し遂げてくださったのです。犠牲を求めて罪を重ねる闇の夜に、救いの光が差し込んだのです。
このお方を指し示し、証しするのがヨハネの務めでした。けれども、ヨハネ自身はここで驚くべきことを告白しています。31節、「わたしはこの方を知らなかった」。さらにこの告白は33節でも繰り返されています。「わたしはこの方を知らなかった」。いったい知らない方をどのように証しするというのでしょうか。ヨハネは来るべきお方を証しするために神から遣わされているというのに、何と誰を証しし、指し示すべきであるのか知らないというのです。ヨハネの中には不安やおそれがなかったのでしょうか。神様はなんという無理難題を自分に課されるのだろうか、そんな思いを抱いたとしても、ぜんぜん不思議ではなかったはずです。いったいどんなふうに指し示すべきお方を見出せるというのでしょうか。若々しくて、力のみなぎった人を見つけ出しすことによってでしょうか。誰も知らないような知恵に富んでいる人を見つけることによってでしょうか。誰もできないような不思議な奇蹟を起こすことのできる人を探すことによってでしょうか。数年前逮捕された新興宗教の指導者は、逮捕されそうになったら空を飛んで東京まで逃げてくると信じられていたようですが、もし仮にそんなことができたとしても、それでこの人は神の子だと言えるでしょうか。水槽の中に張った水の中に20分も30分ももぐっていることができたなら、それで神の子と言えるのでしょうか。座禅を組んだまま、1メートルや2メートル空中に浮かぶことができたら、それでこの人が神の子だと言えるのでしょうか。そのような人間的な判断の基準を持ってきて、その物差しで、ある人が神様であるかどうかを測ることなどできるのでしょうか。
かつて主の僕サムエルは、王となるべき者に油を注ぐようにと、主なる神から遣わされました(サムエル記上16:1-13)。ベツレヘムにいるエッサイの息子たちの中に王となるべき者がいるというのです。会食に息子たちを招いて、食事をしている中で、サムエルは一人一人を注意深く見ていきます。その中にはエリアブのように、「彼こそ主の前に油を注がれる者だ」、そう思わざるを得ないほど立派な息子もいました。けれども、主はサムエルの心に語りかけられます、「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(7節)。誰が主に仕える王にふさわしいかは、主ご自身がお決めになる。それがここで言われていることです。それゆえにサムエルを遣わすにあたって、神はこうおっしゃったのでした、「いけにえをささげるときになったら、エッサイを招きなさい。なすべきことは、そのときわたしが告げる。あなたは、わたしがそれと告げる者に油を注ぎなさい」(3節)。
ここでのヨハネもそれと同じです。わたしたちは自分の中にある物差しを頼りにするなら、誰がまことの神の子であるのか決して分かることはないのです。誰が神の子であるのか、その基準、そのしるしもまた、神が備え、お与えになるものなのです。なすべきことは、そのとき主ご自身がお告げになるのです。ヨハネも、「わたしがそれと告げる者を神の子と証ししなさい」との天からの声を聴いているのです。その声は言います、「”霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である」(33節)。誰が神の子であるかを、わたしたちに知らせてくださるのも、神の”霊”の働きなのです。人間の勝手な基準ではないのです。神が神であることは、神様ご自身が開き示してくださることなのです。神がわたしたちの心の目を開いて、神様のことを知ることができるようにしてくださるのです。ヨハネは後に言っています、「天から与えられなければ、人は何も受けることができない」(3:27)。そこで神が天から与えてくださったしるしを見た時、ヨハネは確信を持って言うことができました、「わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである」(34節)。

結 ヨハネはこの方がイスラエルに現れるために、水で洗礼を授けに来ました。そのようにして「聖霊によって洗礼を授ける人」が来られることを指し示したのです。今教会で授けられる洗礼も水によって授けられますが、そこにも霊の降りがあります。聖霊がそこに臨んでおられ、生ける神が恵みと真理にみちたご自身をわたしたちに開き示してくださるのです。主イエス・キリストがまことに「神の子」であること、そのことを聖霊を通して主なる神ご自身が示してくださるのです。けれどもそのことは、水による洗礼という「しるし」と結びついて明らかにされるのです。主イエスの「聖霊による洗礼」は、ヨハネの「水による洗礼」を無意味にするのではありません。むしろ「水による洗礼」がまことに「神の小羊による罪の赦しと永遠の命」に結びつき、実を取るようにしてくださったのです。この聖霊は復活のキリストを通じて今わたしたちにも降り、わたしたちという器を用いて主を証しする者にしてくださいます。「世の罪を取り除く神の小羊」を証しする者とさせてくださるのです。わたしたちにはとてもできない、とおじける必要はありません。神がご自身を開き示してくださるのです。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない」のです。わたしたちは上から与えられる聖霊の導きに従って、この「天からの与えられるもの」にまわりの人々の心が向くように招くのです。つい先日も、ある方が教会を訪ねてこられ、奥様が教会に導かれたことへの感謝の気持ちをお伝えくださいました。この教会でかつて行われた賀川豊彦の特別伝道集会が行われた時、たまたまその看板を見かけ、それが導かれるきっかけとなったのです。この方にご自身を現し、導いてくださったのは生ける主なる神です。この主なる神が、伝道委員会の用意した看板をも用いて働かれたのです。わたしたちはこのように聖霊を受けて、神によって用いていただくのです。「世の罪を取り除く神の小羊」がご自身からこの世の荒れ野の只中にやってきてくださいます。十字架を背負うためにきてくださいます。そこに現わされた恵みと慈しみを思う時、わたしたちはたとえどんなにささやかな形であっても、主を指し示し、証しする道具として用いられることに、この上ない喜びを味わうのであります。

祈り 主イエス・キリストの父なる神様、肉の目と心によっては、わたしたちは決してあなたを知ることはできません。ただあなたが上から与えてくださる聖霊を通してのみ、ただあなたがご自身をわたしたちに開き示してくださることによってのみ、わたしたちはあなたを知ることができます。どうかわたしたちの隣りの家の人にも、学校の仲間にも、職場の同僚にも、町内会の方々にも、そして何よりわたしたちの家族にも、あなたがご自身を現してくださり、恵みとまことを現してください。あなたが空っぽの器とされたわたしたちに恵みの水を注ぎ込んでくださり、たとえどんなささやかな証しの業であっても、そのためにわたしたちを用いてくださいますように。
 世界の民に今こそ声高らかに、「世の罪を取り除く神の小羊」をほめたたえる時であることを知らせてください。
わたしたちのところにきてくださった「神の小羊」、主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

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