主日礼拝

天地の造り主

「天地の造り主」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:創世記 第1章1-10節
・ 新約聖書:ヘブライ人への手紙 第11章3節
・ 讃美歌:

使徒信条による教理説教の開始
 ヨハネによる福音書の説教を先週そもって終えたわけですが、その後はどうしようか、と以前から考えてきました。私はこれまで、クリスマスやイースター、あるいは伝道礼拝などの特別な礼拝を除いて、聖書の中の一つの書を連続して読み、そこからみ言葉に聞くという、いわゆる連続講解説教をしてきたのですが、今回は思い切ってそれを変えて、「使徒信条による教理説教」をしようと考え、長老会の了解を得ました。私たちは毎週の礼拝において、使徒信条を告白しています。聖書に基づいて代々の教会が信じ、受け継いできた信仰の基本的な内容がそこに要約されています。カトリックもプロテスタントも、どの教派の教会も、使徒信条に語られていることを信じており、その信仰に立っています。世界中のキリスト教会がこのことを信じている、という内容がここに語られているのです。その使徒信条の内容にそって、それぞれに関連する聖書の箇所を読み、み言葉に聞いていきたいと思います。使徒信条に導かれつつ聖書を読んでいくということです。そうすることによって、旧新約聖書全体が語っており、教会が信じ、それによって生かされてきた信仰の中心的な内容、それを「教理」と言いますが、それを聞き取り、身につけていきたいのです。教理が私たちの血となり肉となっていくことによってこそ、私たちは聖書の信仰に生きることができるようになるからです。

教理の学びと礼拝
 このような新たな試みを始めようと思った理由の一つは、今「コロナ禍」によって、教会のいろいろな集会、特に学びのための集会が出来なくなっていることです。中でも、毎週の主日礼拝の前に行われていた「求道者会」がもう一年以上行われていません。そこでは「ハイデルベルク信仰問答」を一年かけて読むことによって、教理を体系的に学んでいました。そういうことを毎年繰り返してきたのです。洗礼を受けることを考えておられる求道中の方々のみでなく、教会員の中で教理を学ぼうという志を持っておられる方々がそこに集っていました。そういう学びの場が今全くなくなってしまっているので、礼拝においてその補いができれば、と思ったのです。
 しかし礼拝は勉強会ではありませんから、この説教が教理についての講義や講演にならないように気をつけなければならないと思っています。礼拝は、神さまが私たちをみもとへと集めて下さり、語りかけて下さる場です。私たちはそこで、聖書を通して神さまのみ言葉を聞き、罪の悔い改めへと導かれ、主イエス・キリストの十字架による赦しにあずかって新しくされ、慰めと励ましを与えられて新しい一週間を歩み出していくのです。ここでなされていくのはそのような神さまへの礼拝であることを常に意識していなければなりません。使徒信条の解説を聞いて勉強をするのではなくて、教会の信仰の言葉である使徒信条を生み出した聖書の言葉を読むことによって、神さまのみ言葉を聞くのです。そういう礼拝を積み重ねていくことによってこそ、教理が私たちの血となり肉となっていき、聖書の信仰に生きることができるようになるのです。

極めて良かった
 さて使徒信条は「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と始まっています。天地の造り主であられる神を信じることが、私たちの、教会の信仰の根本であることが先ず語られているのです。神が、天と地を、つまりこの世界の全てをお造りになった、そのことは、旧約聖書、創世記の冒頭に語られています。いわゆる「天地創造」の話です。先程は、創世記1章の1?10節が朗読されました。本当は1章の全体と、それに加えて2章4節前半までを読みたかったのですが、長くなるので10節までとしました。しかしこの説教においては、2章4節前半までの全体を視野に置いてみ言葉に聞きたいと思います。1章には、神が六日間かけてこの世界の全てをお造りになったことが語られています。それを日ごとに見ていきますと、先ず光が創造され、光と闇とが分けられ、昼と夜とから成る一日が設けられました。それが第一日です。第二日には、世界を覆っていた水の間に大空が造られ、空間が設けられました。第三日には、地を覆っていた水が集められて乾いた所が現れました。つまり海と陸とが分けられたのです。そして陸には植物が芽生えました。第四日には、太陽と月と星が創造されました。第五日には、水の中の生き物と空を飛ぶ鳥が造られました。第六の日には、地上を生きる生き物たちが造られ、そして最後に人間が造られたのです。1章の終わりの31節には「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」とあります。その前のところにも何度か、神がお造りになったものを見て「良しとされた」ということが語られています。神が六日間でこの世界を、極めて良いものとして造り、ご自分の造ったこの世界を「良しとされた」ということが第1章に語られているのです。

神の祝福
 この「極めて良い」とか「良しとされた」という言葉は何を意味しているのでしょうか。私たちも、自分で何かを作って、「うん、これはなかなかよくできた」と自画自賛して自己満足にひたることがありますが、神もそのように、この世界を造って自画自賛しているのでしょうか。そうではありません。神が六日目に、お造りになったすべてのものを御覧になると、それは極めて良かった、と語られていることは、この六日目に人間が創造されたことと関係があるのです。人間の創造は、六日間の天地創造のみ業の最後になされています。天地創造のみ業のクライマックスが人間の創造なのです。そして神は28節でその人間を祝福して、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」とおっしゃいました。このような祝福の言葉をかけられているのは人間だけです。それだけでも、人間の創造が特別なことであるのが分かります。さらにその前の26節には「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」とあります。そして27節には「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された」とあります。つまり人間は、神にかたどって、神に似た者として造られたのです。神は人間をそのようなすばらしいものとして創造し、祝福を与えて下さいました。それが天地創造のみ業のクライマックスです。六日間の天地創造は、このことを目的としていたのです。つまり、天地創造のみ業は全て、人間が造られるための準備だったと言えるのです。天地創造とは、神がこの世界を、人間が生きるための場として造り、整え、準備が整ったところで最後に、ご自分に似た者として人間を創造し、祝福を与えて下さった、というみ業なのです。

混沌と闇の世界に秩序が与えられた
 このことを踏まえてもう一度この六日間を振り返ってみたいと思います。すると2節の「地は混沌であって、闇が深淵の面のあり」という言葉の大事さが見えてきます。混沌とは、秩序がないこと、メチャクチャなことです。そして闇が覆っている。世界は最初はそういう所だったのです。人間はそんな世界で生きることはできません。そこに神は「光あれ」とおっしゃって、光を創造して下さいました。混沌でありメチャクチャな世界に秩序を創り出し、人間が生きることができる世界へと整えて下さったみ業の第一歩がこの「光あれ」なのです。そして神は光と闇を分け、昼と夜を設けて下さいました。昼と夜による一日という人間の生活の基本的なリズムを整えて下さったのです。大空によって水と水の間に空間が築かれたのも、人間が生きることができる、空の下の世界が整えられたということです。地上の水が集められて乾いた所つまり陸が現れたのも、人間が生きるための大地が築かれたのです。太陽や月や星は、「季節のしるし、日や年のしるし」のためと言われています。それはつまり人間の生活のため、ということです。そして地の上に植物が生え、実を結ぶ木が生え、地上の動物、空の鳥、水の中の生き物たちが造られたのも、この世界に生きる動植物のいわゆる「生態系」が築かれたということであって、人間を始めとする生き物たちが生きるための世界が整えられたのです。このように神は、混沌で闇に覆われていた世界に、秩序を創り出し、人間が生きることができる環境を整えて下さって、それが整ったところで最後に人間を造り、祝福を与えて下さったのです。そしてそのみ業が完成したところで、その全てを御覧になって、「極めて良い」と言われたのです。つまりこの「極めて良かった」は、神の自画自賛の言葉ではなくて、私たち人間に対する神の愛の宣言であると言うことができます。神は私たち人間への愛のゆえにこの世界を造り、私たちが生きることができる場として整えて下さったのです。そして私たちをご自分にかたどって、神に似た者として造り、生かし、祝福を告げて下さったのです。神がこの世界の存在を喜び、私たち人間を愛し、祝福して下さっている。「極めて良かった」という言葉はそういうことを意味しているのです。

自然を支配する?
 しかも神は人間の創造において、「海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」と言っておられます。28節の祝福の言葉においても、「地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」と言っておられます。人間は神がお造りになった地を従わせ、支配する者とされているのです。この「支配させよう」という言葉はしばしば誤解され、批判を受けています。聖書は、キリスト教は、人間がこの世界や自然を好き勝手に支配できると言っている、そんなのは人間の傲慢であり、現在の環境破壊の原因がそこにある、このような考え方ではなくて、日本的あるいは東洋的な、人間も自然の一部であり自然は友であるという考え方の方が今の時代に相応しい、などと言われるのです。しかしそれは全く間違った捉え方です。この「支配させよう」は、自然を自分のために好き勝手に利用してよい、ということではありません。人間は、神がお造りになった世界を神のみ心に従って管理しなければならない、ということです。神はご自分がお造りになったこの世界の管理を人間に委ねたのです。自分たちと他の被造物である動物や植物が安心して生きることができるように環境を守っていく使命が人間に与えられた、それが「支配させよう」の意味なのです。そして人間は、その使命を果すことができるものとして創造されています。人間が神に似せて、神にかたどって創造された、ということがそれを語っているのです。人間が神に似ているというのは、神のみ心を受け止め、それに応えていくことができる、ということです。そして神と同じように、愛と慈しみをもって他者を生かすことができる、ということでもあります。神は人間がご自分のみ心を受け止めて、この世界を愛と慈しみをもって管理することを願って、人間をご自分に似せて創造したのです。しかしその人間は、神の下で生きることをやめて、神を無視して自分の思い通りに生きるようになってしまいました。それが人間の罪です。その罪によって人間は、被造物を神のみ心に従って管理するのではなく、自分勝手に利用するようになったのです。つまり環境破壊は、人間が自然を支配する者とされているから起ったのではなくて、人間が神に従うことをやめたために、自然をみ心に従って正しく支配することができなくなったために起ったのです。

この私を愛して下さっているゆえに
 今の話は少し脱線ですが、創世記第1章に語られている天地創造の話は、神がこの世界と人間とを造って下さったのは、私たち人間への愛のみ心によってなのだ、ということを語っています。この世界が存在しているのは、神の私たちへの愛によってなのです。いや「私たち」などという他人事のような言い方はやめましょう。神はこの私を、皆さん一人ひとりを、愛して下さっているので、この世界を創造して下さったのです。「天地の造り主を信じる」とはそういうことです。私たちは普通、自分という一人の人間がいなくてもこの世界は存在している、と思っています。たまたま自分という人間が今生きているけれども、自分などいなくなっても世界の大勢に影響はない、と思っています。この世の営みにおいては確かにそうかもしれません。しかし神のみ心においてはそうではないのです。神はこの私という一人の人間を愛して、その私が生きるための場としてこの世界の全てを造り、整えて下さっているのです。それが、創世記第1章に語られている天地創造の物語のメッセージなのです。

深い苦しみ、絶望の中で
 創世記1章のこの天地創造の話は、イスラエルの民が国を滅ぼされて、捕虜となって異国の地バビロンに連れて行かれていた、いわゆるバビロン捕囚の時代に書かれたと言われています。その時イスラエルの人々は深い苦しみの中にあったのです。しかもそうなってしまったのは、主なる神に聞き従わず、他の神々、目に見える偶像の神々、自分たちが望むご利益を与えるとされていた神々を拝むようになってしまったためだ、ということが自覚されていました。つまり自分たちの罪の結果、神の怒りによる裁きを受け、国を失い、故郷を失い、民族の滅亡の危機に陥っているのです。そこにはもう希望が見えない、絶望する他ないのです。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり」というのはまさにその時の彼らの状況だったのです。その闇に覆われた混沌の中に、神が「光あれ」と語って下さった、すると光があった、とこの物語は告げています。そして神は、そこから始めて、無秩序でメチャクチャなこの世界に一つひとつ秩序を与え、人間が生きることができるようにこの世界を整えていって下さり、そしてそこに私たち人間を創造し、祝福を与えて下さった、神はそのように私たちを愛して、生かして下さり、恵みを与えて下さっている、この世界がこうして存在しているのは、そして自分たちが生きているのは、この神の愛によるのだ、ということをこの話は告げているのです。絶望の中にあったイスラエルの民は、この天地創造の物語によって、暗闇の中に一筋の光を、希望を見出すことができたのです。

科学と聖書
 私たちは時として、聖書が語っている神による天地創造の物語と、科学が語っている宇宙や地球の成り立ち、生物の進化などについての知識との食い違いに戸惑いを覚えることがあります。しかしそれは、どちらが正しいか、というような事柄ではありません。科学は、この世界のしくみや、そこに働いている因果関係を説明しています。他方聖書に語られている天地創造の話は、この世界と私たち人間が存在しているのは神の愛のみ心によってだ、と語っている。つまり聖書は、この世界がこうしてあり、私たち人間が生きていることには意味がある、と語っているのです。科学は、意味を示してはくれません。私たちは聖書によってこそ、この世界と私たち人間は神の愛によって存在している、神がこの世界と私たちを「極めて良い」ものとして創造し、祝福して下さっている、という目に見えない、神の愛の真理を知り、それによって喜びと希望をもって生かされていくのです。

まことの安息を与えるために
 天地の造り主である神を信じるとは、この世界と私たち自身が、神の愛によって存在しており、生かされていることを信じることです。この世を生きる苦しみ悲しみを様々に味わっている私たちは、この信仰によって慰めと平安を与えられます。その点で、2章に入ってからの所も大事です。先程、本当は2章4節前半までを読みたいのだと申しました。そこまでがひとまとまりの、天地創造の話なのです。2章には、第七の日のことが語られています。六日間で世界の全てをお造りになった神は、七日目に安息なさったのです。それもまた私たちへの愛のゆえです。七日目のこの日は、極めて良いものとしてこの世界を造って下さった神のみ業を私たちが喜び、自分たちが神の愛によって生かされ、祝福を与えられていることに感謝し、神との交わりに生きるべき日として与えられているのです。そのためにこの日には、人間の営みをやめて神のみ前に集い、礼拝をするのです。そこにまことの安息が与えられます。私たちにまことの安息を与えて下さるために、神は第七の日に安息なさったのです。その第七の日をもって天地創造のみ業は完成されたと2章2節は語っています。天地創造のみ業は、私たちに神のもとでのまことの安息を与えることを目的としていたのです。
 私たちは今、主イエス・キリストの復活の記念日である日曜日を安息日として守り、その日にこうして神のみ前で礼拝をささげています。私たちへの愛によってこの世界の全てを造り整え、私たちに命を与え、祝福して下さった神は、独り子イエス・キリストの十字架と復活によって、神に背き逆らう罪に陥っている私たちを赦して、復活と永遠の命にあずからせて下さったのです。天地創造とキリストによる救いは、神の愛において繋がっています。その神の愛を告げるみ言葉を私たちは主の日の礼拝において聞きつつ歩んでいるのです。

神の愛に信頼して生きる
 新型コロナウイルスの感染が今また爆発的に増えてきて、医療崩壊の危機が再び浮上してきています。「地は混沌であり、闇が深淵の面にあり」という現実を私たちはこのことにおいて、またそれぞれが抱えている様々な悩み苦しみの中で体験しています。しかしこの世界と私たちとは、神の愛によって存在しており、支えられているのです。神はこの世界と私たちをと「極めて良い」ものとして造り、良しとして下さっています。私たちは神に背いている罪人であり、良しとされ得ない者ですが、神は独り子イエス・キリストの十字架と復活によって、その私たちを赦して下さり、義として下さっています。天地の造り主なる神と、その独り子イエス・キリストを信じる私たちは、人間の罪によって混沌とし、闇に覆われているこの世界の中で、私たちを根底から支え、喜びをもって生かして下さっている神の愛に信頼し、依り頼んで生きることができるのです。

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