「わたしの羊を飼いなさい」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:詩編 第23編1-6節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第21章15-19節
・ 讃美歌:120、470
主イエスの招きによる喜びの食事
本日の聖書箇所、ヨハネによる福音書第21章15節以下の冒頭に、「食事が終わると」とあります。この食事は、先週読んだ1節以下に語られていたように、ティベリアス湖、つまりガリラヤ湖の湖畔において、復活した主イエスが弟子たちのために用意して下さり、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と招いて下さったものです。弟子たちはこの食事において、復活して生きておられる主イエスと共にいる喜びを深く味わったのです。この食事は教会において行われる聖餐を指し示していると先週申しました。復活の主がこの食事を用意して下さり、弟子たちの取った魚もそこに加えられました。復活の主の恵みによる招きの中で、人間の捧げ物、つまり自分自身を主にささげる献身が生かされ、用いられてこの恵みの食卓が整えられたのです。それはまさに、信仰を告白して洗礼を受けた者が、主の恵みによってあずかる聖餐の食卓を現しています。そして弟子たちの取った魚というのも実は、彼らが夜通し漁をしても何も取れなかったのに、主イエスのお言葉に従ってもう一度網を打ったことによって取れたものですから、根本的には主イエスが与えて下さったものです。私たちの信仰や献身もまた、主イエスの恵みによって与えられたものなのです。この恵みの食事である聖餐にあずかることによって、私たちは、復活して生きておられる主イエスとの交わりを確かなものとされ、その喜びで満たされるのです。新型コロナウイルスによって今その聖餐にあずかることができなくなっていることは、私たちにとって大きな苦しみであり試練です。しかしそのことをただ嘆いているだけでなく、聖餐の意味と大きな恵みを聖書のみ言葉によって示されつつ、主イエスが私たちを再び聖餐へと招いて下さる日を待ち望みたいと思います。そうすることによって、聖餐に再びあずかることができるようになった時、それは以前にも増して大きな喜びの時となるでしょう。
三度繰り返して
さて本日の箇所には、この食事の後で、主イエスとシモン・ペトロの間でなされた問いと答えが記されています。主イエスはここでペトロに、三度繰り返して、「わたしを愛しているか」と問われたのです。ペトロはその都度、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えました。そういうことが三度繰り返されたのです。三度繰り返してというのは普通ではありません。普通なら、三度もそのように問われたら、「私の愛をそんなに疑っているのか」と腹を立てるでしょう。主イエスはペトロの愛をそんなに信じられず、疑っていたのか、とも読めるのです。けれども、主イエスのこの三度の問いかけには前提があります。それは18章において、主イエスが捕えられ、大祭司の屋敷に連行された時に、その中庭で様子を伺っていたペトロが、周囲の人々から「お前もあのイエスの弟子だろう」と言われて、三度「違う」と言って、主イエスとの関係を否定したということです。三度主イエスのことを「知らない、関係ない」と言ったペトロに、主イエスは三度「わたしを愛しているか」と問われたのです。
裏切りの言葉を上書きさせるために
それは、ペトロが本当に自分のことを愛しているのかは疑わしいから、三度ぐらい念入りに確かめなければならない、ということではありません。主イエスは、ペトロの愛を疑っておられたのではなくて、主イエスのことを三度知らないと言ってしまったペトロに、三度このように問いかけることによって、彼から「あなたを愛しています」という答えを三度引き出しておられるのです。それによって、彼が語ってしまった、主イエスとの関係を否定する言葉を、一つひとつ上書きするように、言い換えさせて下さったのです。主イエスのことを三度「知らない」と言ってしまったペトロは今や、三度主イエスを「愛しています」と言うことによって、主イエスを愛し、従っていく者として新しく生き始めることができたのです。つまり彼はこのことによって、主イエスを裏切り、関係を拒んでしまった大きな罪を赦されて、新たに歩み出すことができたのです。復活して生きておられる主イエスが、ペトロの罪を赦して、ご自分を愛する者として新しく生かして下さったということを、この話は語っているのです。あの食事の後にこのことが語られていることに意味があります。主イエスを知らないと言ってしまった罪を悔い改めて、主イエスを愛する者になったことによってあの恵みの食事に招かれたのではないのです。復活した主イエスが恵みの食事に招いて下さり、主イエスと共にいる喜びを味わわせて下さった、その体験の中で彼は罪を赦され、主イエスを愛する者として新しく生き始めることができたのです。
アガパオーとフィレオー
ところで、主イエスの問いとペトロの答えを原文で読むと気付かされることがあります。主イエスがペトロに「わたしを愛しているか」と三度問われた内の最初の二回は、「愛する」を意味する言葉として「アガパオー」が用いられています。それは聖書において「愛」を表す大事な言葉である「アガペー」の動詞の形です。それに対してペトロが「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えた、その「愛している」は「フィレオー」という言葉です。これも「愛する」という言葉ですが、それの名詞の形は「フィリア」となります。ペトロの答えは三回共「フィレオー」ですが、主イエスの問いは、二回目までは「アガパオー」で、三回目は「フィレオー」となっています。この言葉の変化に意味を見出している解釈があります。「アガペー」は聖書において、神の愛、見返りを求めない無償の愛を示す言葉であるのに対して、フィリアは人間どうしの愛や友情を示す言葉だ、とよく言われます。その違いをここに読み込むと、主イエスはペトロに、「わたしをアガペーの愛で愛するか」と問われ、ペトロはそれに「あなたをフィリアの愛で愛しています」と答えた。そういう問答が二度繰り返された後に、主イエスは三度目には問いの言葉を変えて、「わたしをフィリアの愛で愛するか」と問われた、ということになります。つまり主イエスは元々は「アガパオー」という言葉を使ってペトロに、神の愛に応える完全な愛で主イエスを愛することを求めておられたが、ペトロはそれに対して、わたしがあなたを愛している愛は、人間としての弱さや欠けをもった愛でしかありません、という思いを込めて「フィレオー」という言葉で答えた。主イエスは三度目には、ペトロのその思いを受け止めて、問いの言葉を変えて下さり、「あなたの愛は人間としての弱さや欠けのある愛だ。それでよい。その愛でわたしを愛するか」と問うて下さった、つまり求める愛のレベルを下げて下さったのだ、という解釈があるのです。
これはけっこう魅力的な解釈です。確かに、私たちが主イエスを愛し、神さまを愛する愛は、欠けがあり弱さがある不十分なものでしかありません。ペトロと同じように私たちも、主イエスのことを「知らない」と言ってしまう罪に陥ることがあります。だからペトロがここで、「あなたをアガペーの愛で愛します」とは言えなかった気持ちが分かる気がするのです。自分の愛が神のアガペーの愛に応える完全な愛だという自信を持つことはペトロにはできなかったろうし、私たちもそのような自信は持てない、と思うのです。けれども、魅力的ではあってもこの解釈は正しくないと思います。「アガパオー」と「フィレオー」の意味をそのように区別する必要はありません。同じことを別の言葉に言い替えて語ることは聖書においてよくなされています。それに、主イエスがこの三回目の問いで、求める愛のレベルを下げて下さったというのは、この箇所の捉え方として正しいとは言えません。なぜなら、主イエスが三度目に「フィレオー」を使って「わたしを愛しているか」と問われた時、ペトロは「悲しくなった」と語られているからです。主イエスが彼の思いを受け止めて三度目に求める愛のレベルを下げて下さったのだとしたら、ペトロはほっとしたはずです。しかし彼はこの三度目の問いを、これまでの二度と同じ問いとして聞いたのです。そして主イエスが三度同じことを問われたので「悲しくなった」のです。
わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです
しかし見つめるべきもっと大事なことは、彼が主イエスに答えた、「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」という言葉です。三度目の問いに対してはそれをさらに強く、「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と答えています。ペトロは主イエスの「わたしを愛しているか」という問いに、「わたしはあなたを愛しています。本当です。信じてください」と答えたのではなかったのです。「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。それは何か自信たっぷりの言葉のようにも聞こえますが、実はそうではありません。ペトロは、「私はこんなにあなたを愛しています」とはもう言えないのです。彼は以前、「あなたのためなら命を捨てます」と威勢のよいことを言っていました。しかしいざとなると、三度、主イエスとの関係を否定してしまったのです。その彼が、「私はあなたを愛しています」といくら言ったところで、「どの口が言っている」ということになるのです。アガパオーだろうがフィレオーだろうが、全く信憑性がない、信用できない言葉でしかないのです。ですから、主イエスが三度目に「わたしを愛しているか」と問われたので彼が悲しくなったというのも、「イエスさまは自分の愛を信用して下さっていないのか」と悲しくなったのではないでしょう。信用していただけるような愛など自分の中にはないことを彼は思い知らされているのです。悲しくなったのは、三度目に問われたことによって、彼が三度主イエスを「知らない」と言ってしまったことを主イエスが意識しつつ問うておられることがはっきり分かったからでしょう。自分には、主イエスを愛しているなどと言う資格は全くないことを、彼はもう一度ここで確認させられているのです。
主イエスが愛して下さっているからこそ
そのペトロが、「わたしはあなたを愛しています」と主イエスに言うことができるとしたら、つまり主イエスを愛する者として新しく生きることができるとしたら、それはひとえに、主イエスのみ心にかかっています。彼の裏切りにもかかわらず、主イエスがなお彼を愛して、罪を赦して下さり、新しく生かして下さる、その主イエスの恵みが与えられることによってのみ、彼は主イエスを愛することができるのです。そして彼は、主イエスがそのように自分を愛し、罪を赦して、新しく生かして下さっていることを確信しています。なぜなら既に、復活した主イエスが彼の前に現れて下さり、「あなたがたに平和があるように」と語りかけて下さり、一晩中一匹も魚がとれなかったのに奇跡的な大漁を与えて下さり、さらに、主イエスが整えて下さった食事に招いて下さり、復活した主イエスが共にいて下さる喜びを味わわせて下さっているからです。主イエスを愛しているなどと言う資格の全くない自分を、主イエスはなお愛して下さっており、罪を赦して、招いて下さっており、主イエスを愛する者として新しく生かして下さっていることを、彼は既に体験しているのです。それゆえに、主イエスから「わたしを愛しているか」と問われた時、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えることができたのです。三度目にそれを問われて、自分の陥った裏切りの罪を改めて示され、悲しくなりながらも、「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と答えることができたのです。彼のこの答えは、「わたしはあなたが、罪人であるわたしをなお愛して下さり、赦してくださって、新しく生かして下さっていることを知っています。あなたのその愛によって、わたしはあなたを愛することができるのです」という信仰の告白なのです。ペトロはもはや、自分が主イエスを愛していることによってではなくて、主イエスが、深い罪にもかかわらず自分を愛し、赦して下さっていることのゆえに、主イエスを愛し、主イエスに従って生きることができる者とされているのです。
わたしの羊を飼いなさい
ペトロのこの答えを受けて主イエスは、「わたしの羊を飼いなさい」とおっしゃいました。主イエスの羊である教会の信者たちを養い、守り、導く務め、教会の指導者としての務めがペトロに与えられたのです。ヨハネ福音書のこの21章は、この福音書を書いたヨハネの信仰を受け継いでいた教会が、ペトロの教えを受け継いでいた教会と合流したことを受けてつけ加えられたのだろう、ということを先週お話ししました。その意味ではここに、ヨハネの信仰を受け継いでいた教会の人々が、ペトロを自分たちの指導者として受け入れたことが示されていると言うことができます。ヨハネ福音書が書かれた事情がここからも伺えるのです。しかしそのような事情を超えて、ここには教会とその指導者について大事なことが示されています。最も大切なことは、主イエスが教会の信仰者たちのことを、つまり私たちのことを、「わたしの羊」と言っておられることです。教会は、私たちは、主イエスの羊の群れです。主イエスご自身が私たちの羊飼いとなって下さっているのです。主イエスはこの福音書の10章11節で「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」とおっしゃいました。主イエスが十字架にかかって命を捨てて下さったことによって、私たちは罪を赦されて、主イエスの羊とされたのです。そして復活して生きておられる主イエスが、今も良い羊飼いとして私たちを養い、守り、導いて下さっているのです。その羊飼いである主イエスが、ペトロに、「わたしの羊を飼いなさい」とお命じになり、彼を教会の指導者としてお立てになったのです。ここに、教会の指導者とはどのような者であるべきかが示されています。教会の牧者、羊飼いはあくまでも主イエスです。指導者はその主イエスに従い、仕えることによって、主イエスの羊を飼う働きをするのです。そしてペトロがこの務めに立てられたのは、彼が罪のない、清く正しい立派な人だったからではありません。彼は主イエスを三度「知らない」と言った罪人であり、自分ではもう「主イエスを愛している」などと言う資格のない者です。その彼を主イエスが愛して下さり、罪を赦して下さり、主イエスを愛する者として新しく生かして下さったのです。彼は、自分が主イエスを愛し、主イエスに仕えることができるのは、自分の力や正しさによるのではなくて、主イエスが自分を愛し、罪を赦し、生かして下さっているその恵みのみ心のみによるのだということを知っているのです。主イエスが教会の指導者としてお立てになるのはそのような人です。主イエスが良い羊飼いとして、群れから迷い出た罪人である自分のために命を捨てて救って下さったことを弁えている人こそ、主イエスの羊を飼う働きを負うことができるのです。
自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた
18節で主イエスはペトロに、「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」とおっしゃいました。「若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた」、それは、ペトロが自分の信念、熱心さ、清さ、正しさに依り頼んで、自分の思いによって生きていたこと、言い換えれば、自分が主イエスを愛している、その愛に自信を持って生きていたことを指しています。その自信によって彼は、「あなたのためなら命を捨てます」と言ったのです。しかしその彼の愛、信念、熱心さは、いざと言う時にはもろくも崩れ去り、主イエスを三度「知らない」と言ってしまう罪に陥ったのです。「自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた」結果がこの裏切りの深い罪の現実だったのです。しかし今や彼は、自分の愛や信念や熱心さによってではなくて、主イエスが罪深い彼をなお愛して、赦しを与え、新しく生かし、用いて下さる、その主のみ心によって生かされています。そのことによってこそ彼は使徒として、教会の指導者としての務めを果たすことができるのです。
主イエスが招いて下さっているから
その歩みにおいては「両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」ということが起ります。それは「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして」語られたことだとあります。両手を伸ばし、は十字架につけられた姿を指しており、他の人に帯を締められ、はやはり十字架に縛りつけられることを指していると言われます。ペトロはローマで、十字架につけられて殉教の死を遂げたと言われています。しかもペトロ自身が、主イエスと同じ姿ではおこがましいので、頭を下にしての「逆さ十字架」にすることを求めたとされています。本日の箇所の最後の19節で主イエスがペトロに「わたしに従いなさい」とおっしゃった、そのみ言葉にペトロは従って主イエスの羊の群れである教会を牧して歩み、死に至るまで主イエスに従い抜いて、神の栄光を現したのです。ペトロがそのように歩むことができたのは、彼が主イエスを深く愛し、信念を持って熱心に従っていったからではありません。主イエスを愛しているなどと言う資格はない、そんなことはとうてい言えない罪人である彼を、主イエスが愛して下さって、彼の深い罪を赦して、生まれ変わって新しく生きる者として下さった、その主イエスの恵みによってのみ、彼は主イエスを愛し、従っていくことができたのです。それは私たち全ての者に与えられている恵みでもあります。私たちも、「あなたは私を愛しているか」という主イエスの問いに、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」とお答えすることができるのです。自分の愛に自信があるからではなくて、主イエスが私たちを、この礼拝へと、ご自分のもとへと、確かに招いて下さっているからです。