主日礼拝

わたしである

「わたしである」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:出エジプト記 第3章13-14節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第18章1-11節
・ 讃美歌:16、531

主イエスが逮捕された園
 ヨハネによる福音書の第18章に入ります。13章からずっと、いわゆる「最後の晩餐」における話が続いてきました。場面が全く動かなかったわけですが、18章1節の「こう話し終えると、イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた」によって、場面が再び動き出したのです。キドロンの谷はエルサレムの東側にあり、その向こうにはオリーブ山があります。そこにあった「園」に主イエスと弟子たちは入ったのです。2節によれば、主イエスと弟子たちはこの園に度々集まっていたので、主イエスを裏切ったユダもその場所を知っていたのです。この園は、マタイ、マルコ福音書では「ゲツセマネ」と呼ばれています。よく「ゲツセマネの園」と言われますが、「園」という言葉はヨハネ福音書のみに出てきます。「ゲツセマネの園」というのは、マタイ、マルコの記述とヨハネの記述を合わせたものです。ちなみにルカ福音書ではどうなっているかというと「いつもの場所」とだけ語られています。この場所の呼び方も福音書によってこのように違っているのです。そしてマタイ、マルコ、ルカ福音書には、この場所で主イエスが祈られたこと、いわゆる「ゲツセマネの祈り」が語られていますが、ヨハネにはそれがありません。ヨハネにおいてこの園は、主イエスが祈った場所ではなくて、捕えられた場所です。本日の箇所に語られているのは、小見出しにあるように、主イエスがユダの裏切りによって逮捕されたということです。

一隊の兵士
 この主イエスの逮捕の場面を他の福音書の記述と比べてみると、いろいろなことが見えてきます。最後の晩餐の場から出て行ったユダが、祭司長たちから遣わされた人々を、主イエスがおられる「いつもの場所」に案内し、主イエスは捕えられた、ということはどの福音書も共通して語っています。しかし主イエスを捕えようとして来たのはどのような人々だったかは、他の福音書とヨハネでは大きく違っています。3節です。「それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやファリサイ派の人々の遣わした下役たちを引き連れて、そこにやって来た」とあります。ユダが「一隊の兵士」を連れて来たと語っているのはヨハネだけです。「一隊の兵士」はローマ帝国の兵士を意味しています。つまりヨハネだけが、主イエスの逮捕の場面に、祭司長や律法学者、ファリサイ派の人々つまりユダヤ人の宗教的指導者たちが遣わした人々だけでなく、ローマの兵士たちを登場させているのです。しかも「一隊」は通常600人ほどの兵士から成り、「千人隊長」によって率いられていたのだそうです。600人もの兵隊が主イエスを捕えに来た、そういう物々しい場面を語っているのはヨハネだけなのです。そのことの意味はこの後語られることによって見えて来るので、後回しにします。

松明やともし火
 さらに3節の終わりには、彼らは「松明やともし火や武器を手にしていた」とあります。他の三つの福音書では、彼らが「剣や棒」を持って来たと語られています。それはヨハネの語っている「武器」に当るわけですが、ヨハネはその他に彼らが「松明やともし火」を手にしていたと言っているのです。夜なんだから当たり前のことにも思われますが、ヨハネ福音書のこれまでの記述からして、このことには意味があると言えます。「松明やともし火」をわざわざ語ることによってヨハネは、このことが夜の闇の中で、闇の支配の下で起っていることを際立たせようとしているのです。ユダが最後の晩餐の席から出て行ったと語っている13章30節の最後にも、わざわざ「夜であった」と語られていました。ユダの裏切りによる主イエスの逮捕は、夜の闇の中で、暗闇の支配の下で起っているのです。
 主イエス・キリストは、闇が支配しているこの世に来られたまことの光です。この福音書の1章5節に「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」とありました。9節にも「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」とありました。そして8章12節には「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」という主イエスのお言葉が語られていました。12章46節にも、「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た」とありました。つまりこの福音書は、この世を支配している暗闇と、まことの光として来られた主イエスとの対決を語っているのです。ユダの裏切りによる主イエスの逮捕、そして十字架の死は、その対決において、主イエスが暗闇の力に支配されてしまったように思える出来事です。「松明やともし火」は、この出来事全体を覆っている深い闇をかえって際立たせているのです。

進み出る主イエス
 4節には、「イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、『だれを捜しているのか』と言われた」とあります。ご自分が闇の力に捕えられ、十字架につけられて殺されることを、主イエスは何もかもご存じでした。それを知りつつ、ご自分から敢えて捕えようとしている人々の前に進み出て行かれたのです。続く5節には「彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは『わたしである』と言われた」とあります。主イエスは逃げ隠れすることは全くなく、あなたがたが捕えようとしているナザレのイエスは自分だ、とはっきりお示ししなったのです。つまり主イエスの逮捕は、逮捕されたと言うよりも、主イエスご自身が自らを進んで彼らの手に、闇の力にお委ねになったという出来事だったのです。この場面の描き方も、他の三つの福音書とヨハネでは大きく違っています。他の福音書では、ユダが、それこそ夜の闇の中でイエスをを間違えなく捕えるために、主イエスに接吻をして挨拶するから、その人をつかまえるように、という手筈を整えていたことが語られています。ユダは接吻という愛や尊敬を示す行為によって主イエスを裏切り、主イエスを捕えようとしている人々に引き渡したのです。しかしヨハネ福音書は、主イエスご自身が、自分がナザレのイエスだ、と言って進み出たと語っています。ユダのことは5節の後半に「イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた」と語られているだけです。「いた」というのは「立っていた」という言葉です。彼はそこに立っていただけで何もしていないのです。彼は確かに主イエスを裏切り、捕えようとしている人々の手引きをしましたが、主イエスの逮捕自体は、主イエスご自身の意志によって実現したことをヨハネ福音書は語っているのです。

わたしである
 さて本日の箇所で最も大事なのは次の6節です。「イエスが『わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた」とあります。「倒れた」という言葉は、マタイ福音書2章において、東の国から来た学者たちが、お生まれになった主イエスの前に「ひれ伏した」というのと同じ言葉です。主イエスを捕えようとして来た人々は、後ずさりして地に倒れ、主イエスの前にひれ伏したのです。主イエスが「わたしである」とおっしゃった時にそういうことが起ったのです。なぜそんなことが起ったのか、その秘密は「わたしである」という主イエスのお言葉にあります。その言葉には、人々を後ずさりさせて地にひれ伏させるほどの力があったのです。つまりこのお言葉には、「誰を捜しているのか」「ナザレのイエスだ」「それは私だ」という表面的な意味をはるかに超える力があったのです。
 この「わたしである」という言葉は、ヨハネ福音書にこれまで何度か出て来ており、とても重要な意味を持っていました。6章20節では「わたしだ」と訳されており、8章28節と58節では「わたしはある」と訳されていました。本日の箇所の「わたしである」も皆原文は同じ、英語で言えば「I am.」という言葉です。これは、主イエスが、生きておられるまことの神としてご自身をお示しになる言葉です。この言葉の由来は、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、出エジプト記第3章14節にあります。ここはモーセが主なる神と出会い、エジプトで奴隷とされているイスラエルの人々を解放する務めを与えられ、遣わされる場面です。モーセが主に、人々があなたのお名前を尋ねたら何と答えたらいいでしょうか、と問うたのに対して主は「わたしはある。わたしはあるという者だ」とお答えになったのです。つまり「わたしである」という言葉は、主なる神がご自身の名としてお示しになった言葉なのです。これは、主なる神が「わたしの名前は何々です」と自己紹介をした、という単純な話ではありません。イスラエルの人々にせよ、モーセにせよ、神のお名前を知ろうとする、それは、神を自分の理解できる存在として捉えたいという願いの現れです。要するに、神さまのことを分かってしまいたいのです。分からなければ信じることなどできないではないか、と私たちも思います。それは確かに信仰において必要な問いです。しかしその問いに対して主なる神は「わたしはある、わたしはあるという者だ」とお答えになる。それは、私たち人間が神のお名前を知り、神を理解してしまうことを神は拒んでおられる、ということでもあります。「あなたがた人間が分かろうと分かるまいと、わたしはわたし自身であり、わたしの意志を実行する者としてここにいる」と神は宣言しておられるのです。つまりこの言葉は、私たちが神のお名前を知り、神のことを分かってしまい、神を自分の心の中にうまく収めてしまうことはできない、ということを示しています。「わたしはある」という言葉によって私たちは、生きておられ、私たちの思いを超え、理解を超えてみ業を行われる神に直面させられるのです。そういうことを、「神の現臨に触れる」と言います。神が現にここにおられることを体験する、ということです。ヨハネ福音書は、主イエスにおいてまさにこの「神がここにおられる」ということが実現している、と語っているのです。そのことが、主イエスの逮捕の場面でも起っている、それが「わたしである」という主イエスのお言葉によって彼らが後ずさりして地に倒れたという出来事です。彼らはここで、人間の思いをはるかに超えたまことの神の現臨に触れて、地に倒れ、ひれ伏したのです。
 その「彼ら」とは、祭司長やファリサイ派の人々が遣わした下役たちだけでなく、「一隊の兵士」つまり600人からのローマの兵隊たちでもありました。ユダヤ人の下役たちだけでなく、今この地を圧倒的な権力をもって支配しているローマの兵士たちも、後ずさりして地に倒れ、ひれ伏さざるを得ないような、神としての権威と力を主イエスはお示しになったのです。ヨハネが「一隊の兵士」をここに登場させているのは、この主イエスの権威と力を示すためです。神に敵対する力、暗闇の力が主イエスを捕え、支配下に置いたように見えるけれども、神に敵対する暗闇の力は、この世でどんな政治的、軍事的権力を握っていたとしても、主イエスのまことの神としての権威と力の前では、後ずさりして地に倒れ伏すしかないのだ、ということがここに示されているのです。

主イエスによる救い
 7節において主イエスはもう一度「だれを捜しているのか」とお尋ねになり、彼らは再び「ナザレのイエスだ」と答えています。主イエスは今度はそれに対して「『わたしである』と言ったではないか。わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい」とおっしゃいました。先ほどと同じことが繰り返されていますが、今回の「『わたしである』と言ったではないか」は、まことの神としてご自身をお示しになった先ほどの「わたしである」とは違って、「ナザレのイエスはわたしだから、わたしをつかまえなさい」という言葉です。だから今度は彼らが地に倒れることは起りません。600人のローマの兵士をも含む彼ら全てをひれ伏させることのできる神としての権威と力を持っておられる主イエスが、ご自分から彼らに身を委ね捕えられることによって、「この人々」つまり弟子たちを救おうとしておられるのです。主イエスの十字架の死によって実現した救いがここに示されています。まことの神であられる主イエスが、ご自分から進んで、お一人で十字架の死への道を歩んで下さったことによって、私たちは、滅びに至る死から救われたのです。

剣を抜いたペトロ
 このように主イエスご自身が捕えようとする人々に身を委ねようとしておられる中で、シモン・ペトロは剣を抜き、大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落としたと10節にあります。しかし主イエスは「剣をさやに納めなさい。父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」とおっしゃいました。このエピソードは四つの福音書全てが語っていますが、剣を抜いて切りかかったのがシモン・ペトロだと語っているのはヨハネだけです。ペトロは主イエスを捕えようとする者たちに立ち向かおうとしましたが、それは主イエスのみ心ではありませんでした。「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」というお言葉は、主イエスが、捕えられ、十字架につけられて殺されることを、父なる神から自分に与えられた杯として、つまり父なる神のみ心として受け止め、そのみ心に従ってこの杯を飲もうとしておられることを示しています。敵対する全ての者を地にひれ伏させることができる力を持っておられる主イエスが、父なる神のみ心に従って彼らに身を委ね、十字架の死へとご自分の意志で歩んでいこうとしておられるのです。そのことによってこそ、暗闇の力に支配されているこの世に、神の救いの光がもたらされるのです。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」という1章5節は、「暗闇は光に勝たなかった」と訳せるし、その方が相応しいと言えます。暗闇に対する光の勝利が語られているのです。その勝利は、まことの神である主イエスが暗闇の力に身を委ねて捕えられ、十字架にかけられて死に、そして復活なさったことによって実現したのです。暗闇の力へのまことの勝利への道は、父がお与えになったこの杯を飲むことにこそあるのだ、と主イエスはおっしゃったのです。

新型コロナウイルスによる恐れの中で
 ペトロは剣を抜いて切りかかりましたが、600人からの兵士に対抗できると思ったわけではないでしょう。むしろ恐怖のあまり訳がわからなくなって剣を抜いて振り回したのではないでしょうか。闇が圧倒的な力をもって迫って来る中で、パニックに陥り、訳がわからなくなって暴れたのです。主イエスの逮捕において600人のローマの兵士が動員された、というのは歴史的事実ではないでしょう。これはむしろ、この福音書が書かれた頃に、教会がローマ帝国の圧倒的な力による圧迫を感じていたことの現れだと思います。ヨハネの教会の人々は、ローマ帝国の権力による圧迫を感じており、そのことを主イエスの逮捕の場面と重ね合わせることによって、この出来事を自分たちの現在の体験と重なるものとして捉えたのです。それは主イエスのご生涯の正しい受け止め方だと言えます。教会は、それぞれの時代に、それぞれの地域において、自分たちを圧迫している「一隊の兵士」と向き合ってきたのです。現在私たちを圧迫している「一隊の兵士」は、新型コロナウイルスだと言うことができます。このウイルスが、圧倒的な力をもって私たちに迫って来ており、礼拝や集会を妨げ、私たちの信仰を脅かし、教会を滅ぼそうとしています。社会全体においても、いろいろな活動を妨害し、仕事を奪い、生活を圧迫しています。このウイルスによって、闇の力がこの世界と私たちを支配しようとしているのです。その恐れの中で、平穏な気持ちを失い、不安のあまり抑制がきかなくなって、ペトロのように剣を振り回して、周りの人たちを傷つけてしまうようなことが、私たちにも起っているのではないでしょうか。

まことの光である主イエスを見つめて
 私たちがそこでしっかり見つめなければならないのは、自分の力でこの闇の力に勝利することはできない、ということです。剣を抜いて振り回したペトロも、結局はその場から逃げ去ってしまったのだし、さらにこの後、主イエスのことを三度「知らない」と言ってしまうのです。私たちを覆っているこの世の闇の力は、私たちの勇気や努力、頑張りによって対抗できるようなものではないのです。ペトロの姿はそのことを示しています。しかしヨハネ福音書は、同時に、この世の闇の力はまことの神であられる主イエスの前で倒れ伏すしかないことをはっきりと示しています。主イエス・キリストにおいて、光は既に暗闇の中に輝いており、暗闇は光に勝つことはできないのです。全ての人を照らすまことの光である主イエスが既にこの世に来られたのです。世の光である主イエスに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つのです。この福音書は、主イエスの暗闇に対する勝利を示すと共に、その主イエスが、父なる神から与えられた杯を飲み干し、暗闇の支配にご自分の身を委ね、十字架にかかって死んで下さったことを告げているのです。それは主イエスが、闇の力の下で恐れ苦しんでいる私たちのところに来て下さり、私たちと同じ苦しみを負って下さったということです。父なる神はその主イエスを復活させ、永遠の命を生きる者、私たちを照らすまことの光、救い主として下さいました。主イエスの十字架の死と復活によって神は、暗闇の力に勝利して、私たちを解放し、まことの光の中で生きる者として下さったのです。
 暗闇の力は、新型コロナウイルスによって今私たちを脅かしていますが、まことの光である主イエスに勝つことはできません。私たちはそのことを信じて、主イエスに従い、父なる神からそれぞれに与えられている杯を飲む者でありたいのです。弟子たちも、主イエスの復活の後、聖霊の力を受けて、それぞれの杯を飲み、この世の闇の力に対抗して、主イエスによる救いを宣べ伝えていきました。そこには苦しみもありましたが、その中で彼らは、「あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした」という恵みを体験していったのです。私たちも、主イエスを見つめて歩むことによって、この恵みを体験していきたいのです。

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