主日礼拝

私たちが一つとなるため

「私たちが一つとなるため」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第110編1-4節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第17章20-26節
・ 讃美歌:

私たちのための祈り
 主イエスが最後の晩餐において長い説教を語られ、その最後になさった祈りが、ヨハネによる福音書17章です。この祈りを三つの部分に分けて読んできました。1?5節は、主イエスご自身に栄光を与えてください、という祈りでした。6?19節は、父なる神が世から選び出して主イエスに与えて下さった者たち、つまり弟子たちのための祈りでした。本日読む20節以下が第三の部分ですが、20節に「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします」とあります。「彼ら」というのは弟子たちですが、その弟子たちの言葉によって主イエスを信じる人々のために、主イエスは祈られたのです。弟子たちは、復活なさった主イエスによって、使徒として世に遣わされていきました。「使徒」とは「遣わされた者」という意味です。その使徒たちの伝道によって人々が主イエスを信じるようになり、教会が生まれました。「彼らの言葉によってわたしを信じる人々」とは、教会に連なる信仰者たち、つまり私たちのことです。私たちは、使徒たちの言葉によって主イエスを信じているのです。使徒たちの言葉は新約聖書にまとめられています。礼拝において新約聖書が読まれ、その説き明かしである説教が語られることによって、私たちは使徒たちの言葉を聞いているのです。使徒たちの言葉によって主イエスを信じて生きている私たちのために、主イエスが祈って下さったのが本日の箇所なのです。
 しかし先週の説教では、6~19節の「弟子たちのための祈り」も私たちのための祈りなのだ、ということをお話ししました。弟子たちとは、主イエスを信じ、従っている者たちです。使徒たちの言葉によって主イエスを信じた私たちも、主イエスの弟子となるのです。だから弟子たちのための祈りは即私たちのための祈りでもあります。6?19節も、20節以下も、どちらも主イエスが私たちのために祈って下さった祈りなのです。

彼らを守ってください
 けれども、19節までの祈りと、本日の20節以下の祈りには違いもあります。先週の箇所の祈りにおける主イエスの中心的な思いは、11節に語られていました。そこには、「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください」とありました。主イエスはまもなく、十字架の死と復活によってこの世を去って父のもとに行こうとしておられるのです。しかし弟子たちはこの世に残り、この世を生きていきます。その弟子たちを守って下さるようにと、主イエスは父なる神に祈って下さったのです。つまりこの祈りは、主イエスが父のもとに行かれた後、主イエスのお姿をこの目で見ることなしにこの世を生きていく弟子たちのための祈りです。主イエスが目に見えるお姿としてはいなくなったこの世を弟子として生きる彼らの歩みには苦しみが伴います。主イエスが世の人々から憎まれたように、彼らも世の人々から憎まれ、迫害を受けるのです。その彼らを守って下さるように、という思いが19節までの祈りの根本にあります。そしてそれは私たちに向けられた主イエスの思いでもあります。私たちも、主イエスのお姿をこの目で見ることができない中を、主イエスを信じて生きている。そこにおいて世の人々の無理解に苦しんだり、迫害を受けたりするのです。その私たちのために、父なる神の守りを祈り願って下さったのが19節までの祈りだったのです。

すべての人を一つにしてください
 本日の20節以下の祈りはそれとは違います。主イエスはここで、私たちを「守ってください」と祈られたのではありません。では何を祈られたのか。21節が、この部分の祈りの要約となっています。主イエスはこう祈られました。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」。主イエスが祈り願っておられるのは、全ての者が一つにされることです。「全ての者」というのは、弟子たちの言葉によって主イエスを信じた全ての者、つまり全ての信仰者のことです。全ての信仰者が一つとなることを主イエスは祈られたのです。そしてその「一つ」は、「あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように」一つ、と言われています。父なる神と、独り子主イエスとが、お互いがお互いの内にいると言えるほどに一つであられる、父なる神と独り子主イエスとの間には、切り離されることのない絆があって一つであられる、それと同じように、主イエスを信じる信仰者たち、つまり私たちも一つにされる、切り離されることのない絆で結ばれるようになる、ということを主イエスは祈り願われたのです。そしてその願いは、「彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」と言い換えられています。「わたしたち」とは主イエスと父なる神です。主イエスと父なる神の間に、お互いがお互いの内にいると言えるほどの一つである交わりがある、その交わりの内に、「彼ら」つまり私たちもいるようにして下さい、と主イエスは祈られたのです。主イエスと父なる神の一つである関係の中に、私たちも入れられる。それによって私たちは一つとされるのです。つまり「すべての人を一つにしてください」という主イエスの祈りは、私たち信仰者みんなの思いが一つになりますように、ということではありません。そのように人間の思いが一つになることではなくて、主イエスと父なる神の間の一つである関係の中に私たちも入れられること、つまり父なる神と独り子主イエスが一つとなって抱いておられる思いを、私たちも抱くようになることを、主イエスは祈られたのです。そのことによってこそ、「すべての人が一つになる」のです。つまり私たちが一つになることは、人間どうしの思いを突き合わせて、対話をして一致点をさぐることによって実現するのではないのです。人間の思いをいくら突き合わせても、それで一つになることはできません。そうではなくて、父なる神と独り子主イエスとの一つである交わりの中に私たちも入れていただいて、父なる神と独り子主イエスが一つとなって抱いておられる思いを知ること、具体的には、この福音書の3章16節の、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された、独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」というみ言葉が語っている神の愛を知ること、そして私たちもこのみ言葉に従って独り子を信じて、永遠の命にあずかる者となることです。そこにおいてこそ、私たちは一つとなることができるのです。主イエスはそのことを父なる神に祈り願って下さったのです。

父と子と私たちが一つとされる
 この、私たちが一つとされるための祈りが本日の箇所において繰り返されています。22節にも、「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つとなるためです」とあります。父なる神が主イエスに与えて下さった栄光を、主イエスが私たち信仰者に与えて下さるのです。これも、父なる神と独り子主イエスとが一つであるところに私たちも加えられて、父と子と共に私たちが主イエスの栄光にあずかるということです。また23節にも「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです」とあります。父なる神が主イエスの内におられ、その主イエスが私たち信仰者の内にいて下さるのです。それによって、私たちの内に父と子なる神がいて下さることになります。そのようにして父と子と私たちが一つとされるのです。私たちが完全に一つとなることはそこに実現するのです。このように主イエスはここで、私たち信仰者が、父なる神と独り子主イエスとの交わりの中に入れられ、父と子と私たちの思いが一つとなることによって、全ての信仰者が一つとされることを祈り願っておられるのです。

一つになれていない現実
 主イエスが後の教会の人々のためにこのような祈りをなさったことをヨハネ福音書が語っているのは、この福音書が書かれた当時の教会に、一つになれていない現実があったからです。この福音書は紀元1世紀の終わり頃に書かれましたが、その頃には既に、教会に対する迫害が始まっていました。それと共に、教会の中にいくつかの流れが生まれていたのです。この福音書が書かれた教会は、使徒ヨハネの信仰を受け継ぐ群れでした。この福音書の中に、「イエスの愛しておられた弟子」というのが出て来ますが、それがこの福音書を書いた弟子のヨハネのことだと考えられています。他方に、使徒ペトロとその後継者を中心として築かれた教会がありました。両者の間には、対立というほどではないにしても、微妙な関係があったことが、この福音書における「イエスの愛しておられた弟子」とペトロとの描き方に現れています。同じ主イエスをキリスト、救い主と信じていながらも、人間の群れである教会どうしの間に、いろいろな食い違いが生じて、なかなか一つになれなかったのです。それは今日に至るまでずっとそうです。キリスト教会には様々な教派があって、なかなか一つになれないいろいろな違いがあります。そういうことが、この福音書が書かれた紀元1世紀末に既にあったのです。そのような後の教会の歩みを見越して、主イエスは、「すべての人を一つにしてください」と祈られたのです。

一致はどのようにして実現するのか」
 このようにここには、教会が一つとなれていない現実が見つめられており、そこに一致がもたらされるために主イエスが祈って下さったことが語られています。そしてその祈りには、先ほど見たように、私たちが何によって一つとなることができるのかが示されているのです。いろいろな違い、場合によっては対立すら生じてしまっている現実の中で、私たちが本当に一つとなる道は、お互いによく対話して一致できるところを探すことにあるのではありません。主イエスと父なる神との間の、一つである関係の中に私たちも入れられること、つまり父なる神と独り子主イエスが一つ思いとなって私たちの救いを実現して下さった、その父と子の一つなるみ心を私たちが本当に知り、そのみ心を信じて救いにあずかる者となり、父と子なる神との交わりに生きることによってこそ、私たちは一つとされるのです。

私たちが一つとされるために
 24節以下に語られているのもそのための祈りです。24節には「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです」とあります。主イエスは天地創造の前から、父に愛されている子であり、神としての栄光を父から与えられていたのです。私たち主イエスを信じる信仰者は、父なる神に選ばれて主イエスに与えられ、主イエスと共に生きる者とされたことによって、父なる神の独り子主イエスへの愛を知らされ、主イエスの栄光を見させていただいたのです。この恵みによって私たちは一つとされるのです。また25節には「正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています」とあります。父なる神を知らず、父が遣わされた独り子主イエスをも知らずに歩んでいるのがこの世です。私たちはその世から選び出されて、主イエスを信じる者とされ、主イエスが父なる神から遣わされた独り子であり救い主であられることを知っており、信じているのです。この信仰においてこそ私たちは一つとなることができるのです。26節には「わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです」とあります。主イエスは私たちに父なる神の御名を知らせて下さり、父なる神を信じさせて下さるのです。父なる神を信じるとは、主イエスに対する父なる神の愛を知り、その愛が私たちにも注がれていることを信じることです。この信仰によってこそ私たちは一つとなることができるのです。

聖霊なる神のお働きによって
 父なる神と独り子主イエスの間の一つである関係、互いに愛し合う関係の中に私たちも入れていただいて、父と子なる神の愛を受け、私たちも父と子なる神を愛して生きる、それが私たちを一つに結び合わせる信仰です。その信仰を私たちに与えて下さるのが、聖霊なる神です。ここには聖霊のことは直接には語られていませんが、父なる神と独り子主イエスとの一つである関係の絆となっているのが聖霊なる神です。私たちを父と子の関係の中に入れて下さり、父と子なる神との交わりを与えて下さるのも聖霊なる神です。教会はその聖霊のお働きによって誕生し、聖霊に導かれて歩んでいます。後の教会のための主イエスのこの祈りは、今教会においてみ業を行って下さっている聖霊のお働きによって実現しているのです。私たちを一つにして下さるのも、この聖霊なる神なのです。

信仰者の使命
 さてこのように、主イエスのこの祈りは、使徒たちの言葉によって主イエスを信じ、教会に連なる信仰者として生きている私たちが、父と子なる神との交わりに聖霊によってあずかり、父と子と聖霊なる神を信じて生きることにおいて一つとなることを祈り求めています。そのように祈ることによって、主イエスはあることを実現しようとしておられるのです。21節の後半にそのことが語られていました。「そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」というところです。私たち信仰者が一つとされることによって、世が、つまり父なる神も独り子主イエスも知らずにいる人々が、父なる神が独り子主イエスをお遣わしになったほどに世を愛して下さっていることを信じるようになるのです。そのことは23節にも語られていました。「彼らが完全に一つとなるためです」に続いて、「こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります」とありました。父なる神が愛する独り子主イエスをこの世に遣わすことによって、主イエスへの愛を世の人々にも注ごうとして下さっていることを、世の人々が知るようになる、そのために私たち信仰者は立てられているのです。つまりここには、使徒たちの言葉によって主イエスを信じる者となった私たち信仰者に与えられている使命、聖霊なる神が私たちを導いて、父と子なる神との交わりに生きる者として下さったことの目的が示されているのです。私たちは、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という神の愛を世の人々に証しし、伝えるために、先に信仰を与えられ、教会に連なる者とされているのです。主イエスはここで、私たちがその使命をしっかり果たすことができるようにと、父なる神に祈り願って下さったのです。「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました」とか、「わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます」と言われているのは、私たちが主イエスの神としての栄光を、そして父なる神の御名を、人々に証しし、伝えていくことができるようにして下さる、という約束なのです。

大祭司の祈り
 主イエスは最後の晩餐における長い説教の最後に、私たちのために祈って下さいました。1?5節の、ご自分に栄光を与えて下さい、という祈りも、実は私たちのための祈りでした。主イエスに神の子としての栄光が与えられることによってこそ、その主イエスから私たちに永遠の命が与えられる、という救いが実現するのです。また6?19節において主イエスは、主イエスのお姿をこの目で見ることができない中を生きていく私たちを、父なる神が守って下さり、私たちが神に属する者、聖なる者として、この世にしっかり踏み留まりつつ、信仰者として生きていくことができるようにと祈って下さいました。そして本日の20節以下では、父なる神と独り子主イエスとの一体である交わりの中に、私たちが聖霊のお働きによって入れられ、父なる神と主イエスが一つとなって私たちを愛し、成し遂げて下さった救いにあずかることによって私たちも一つとされ、神の愛を世の人々に証しし、伝道していくという教会の歩みのために祈って下さったのです。
 ヨハネ福音書17章の主イエスのこの祈りを、「大祭司の祈り」と言うことがあります。主イエスはこの後、私たちのために十字架の死と復活による救いを成し遂げて下さいました。罪人である私たちの救いのために、主イエスがご自分の命をいけにえとしてささげ、罪の赦しと永遠の命を与えて下さったのです。民の罪の贖いのために、年に一度、犠牲の動物をいけにえとして献げ、民のために神にとりなしをすることが大祭司の務めでした。主イエスは私たちのためのまことの大祭司として、動物ではなくご自分の命を献げて、罪の赦しと永遠の命という救いを実現して下さったのです。その大祭司主イエスが、私たちのために父なる神に祈り、とりなしをして下さったのがこの祈りです。この祈りに、父なる神が、独り子主イエスと一つになって実現して下さった神の愛が示されており、聖霊なる神が私たちをその愛の中で生かし、その愛を証しする者として下さることが示されています。私たちの信仰の歩みは、この大祭司主イエスのとりなしによって支えられているのです。私たちは今、新型コロナウイルスによる不安や恐れ、ストレスの中にありますが、そのような今こそ、主イエスが私たちのために祈って下さったこの祈りをかみしめ、主イエスがこのように私たちを支えて下さっていることを見つめつつ歩んでいきたいのです。

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