「主イエスの友」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:申命記 第7章6-8節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第15章11-17節
・ 讃美歌:
私たちはどのような実を結ぶのか
礼拝において、ヨハネよる福音書の第15章を読み進めております。15章の始めのところで主イエスは、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」とお語りになりました。枝である私たちは、ぶどうの木である主イエスにつながっていることによってこそ実を結ぶことができる、主イエスから離れてしまったら、実を結ぶことなく枯れてしまうし、そのような枝は切り取られて焼かれてしまうのだ、と語られていたのです。このぶどうの木のたとえは、教会を表しています。主イエスというぶどうの木に、枝である私たちがつながっている、それが教会です。枝どうしが集まってゴチャゴチャやっていても、そこには実は実りません。枝である私たちはそれぞれが主イエスにつながっていてこそ、生き生きと生きることができ、豊かな実を結ぶことができるのです。そのようにして、多くの枝それぞれに豊かに実が実る一本の木となります。枝である私たちどうしの交わりは、一人ひとりが主イエスとつながっているところにこそ成り立っているのです。
主イエスはそのように私たちを、ぶどうの木であるご自分につながる枝として下さっています。それによって私たちは豊かに実を結んでいくのです。それはどのような実なのでしょうか。主イエスというぶどうの木につながっている枝となることによって、私たちはどのような実を結ぶのでしょうか。本日の箇所、11節以下にはそのことが語られています。
喜びの実り
11節に「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」とあります。私たちが結ぶ実は、先ず第一に、喜びという実です。主イエス・キリストを信じる信仰に生きる私たちは、喜びに満たされていくのです。その喜びは、「わたしの喜びがあなたがたの内にあり」とあるように、主イエスご自身の喜びです。主イエスご自身が喜んで生きておられる、その喜びが私たちの内にも満たされていくのです。主イエスはどのような喜びに生きておられるのでしょうか。前回読んだ9、10節にそれが語られていました。9節に「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた」とありました。主イエスの喜びは、父なる神に愛されている喜びであり、私たちを愛して下さっている喜びです。神に愛されているがゆえに私たち人間を愛しておられる、それが主イエスの喜びなのです。神に愛されているなら神を愛して生きることになるのではないか、と思うかもしれません。その通りです。しかし10節には「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように」とありました。父なる神に愛されている主イエスは、父なる神を愛し、父の愛にとどまって歩まれたのです。具体的には、父の掟を守って生きたのです。父の掟を守るとは、父なる神のみ心に従って生きるということです。そのみ心とは、主イエスが私たち罪人である人間を愛して、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死ぬことでした。父なる神は、愛する独り子主イエスが、私たち罪人のために死ぬことによって私たちの救いを成し遂げることを願っておられたのです。父に愛されている主イエスは、ご自分も父を愛し、そのみ心に従って、私たちを愛し抜いて下さったのです。そのようにして、この福音書の3章16節に語られていたあのこと、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という神の救いが実現しました。父なる神に愛されている主イエスは、その愛に応えて、父なる神の私たちへの愛のみ心を実現することをこそ喜びとして歩まれたのです。この主イエスの喜びが、私たちの喜びとなり、私たちもこの喜びに満たされて生きるようになる、それが主イエスにつながる枝である私たちが結ぶ実なのです。
互いに愛し合う実り
それゆえに12節にこう語られています。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」。父なる神に愛された主イエスが、ご自分の命を与えるほどに私たちを愛して下さった、その愛を受けた私たちは、その愛に応えて、主イエスを愛して生きるのです。そして主イエスを愛するとは、主イエスの掟を守ること、主イエスのみ心に従うことです。主イエスの掟、み心とは、私たちが互いに愛し合うことです。主イエスが、父なる神に愛されているがゆえに父を愛し、そのみ心に従って私たちを愛して下さったように、私たちも、主イエスに愛されているがゆえに主イエスを愛し、そのみ心に従ってお互いに愛し合って生きるのです。これが、主イエスにつながる枝である私たちが結ぶ第二の実りです。主イエスの喜びが私たちの内にも満たされるという第一の実りは、互いに愛し合うという第二の実りを生むのです。
友のために自分の命を捨てる
主イエスが愛して下さったように私たちも互いに愛し合うとはどのようなことなのか、それをさらに具体的に語っているのが13節です。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」。主イエスは、私たちの救いのために、ご自分の命を捨てて下さいました。それが十字架の死です。主イエスは私たちの全ての罪を背負って、私たちの身代わりとなって十字架にかかって死んで下さったのです。神に逆らっている罪人である私たちのために命を捨てて下さるほどに、私たちを徹底的に愛して下さったのです。「これ以上に大きな愛はない」。その通りでしょう。その愛に応えて私たちも、友のために自分の命を捨てる愛に生きる、そのような愛で互いに愛し合っていく、それが、主イエスが私たちに求めておられることなのです。
これはとても重いことです。私たちはそのような愛に生きた人のことを、自分の命をささげて人を助けた人のことを聞いています。塩狩峠の話とか、コルベ神父とか、あるいは駅のホームから落ちた人を助けようとして轢かれて死んだ韓国からの留学生の話などです。それらは素晴しい、感動的な話です。しかし自分にはそんなことはとてもできない、と思います。友のために自分の命を捨てることなど自分にはできない、と思うのです。しかし前回も申しましたように、この「捨てる」というのは「置く」という言葉です。主イエスは私たちへの愛のゆえにご自分の命を十字架の上に置いて、死んで下さいました。その愛に応えて私たちも友を愛して生きるというのは、友のために死ぬことだけでありません。自分の命の一部である時間を、また自分の知識や能力や技術を、あるいはお金を、その他自分のものであるいろいろなものを、ただ自分のためにではなくて、友のために置くこと、友を支え助けるために用いること、そういうことが、主イエスが私たちのために命を捨てて下さった愛に応えて生きていくことなのです。それは私たちにできないことではありません。どんな小さなことでも、友のために自分の何かをささげることによって、私たちは主イエスが愛して下さったように互いに愛し合って生きていくことができるのです。そのように生きることが身についていく中で私たちも、友のために本当に命を犠牲にすることが自然にできるようになるかもしれません。それは私たちの決意や努力によることではなくて、神さまの導きによることです。そういうことを最初から目指す必要はないのです。どんな小さなことでも、私たちが友のために自分の命を用いていこうとすることによって、私たちは主イエスご自身の喜びを感じ取り、その喜びに自分も生きていくことができるのです。
主イエスの友となる実り
主イエスの喜びに私たちも満たされるという実、そして互いに愛し合うという実に加えて、14、15節には、私たちが主イエスの友となる、という実を結ぶことが語られています。「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」。主イエスは、ご自分に繋がっている枝である私たちを、友と呼んで下さるのです。私たちは主イエスの友として生きることができるのです。「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」というみ言葉を私たちは、自分が主イエスの命令を、つまり「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」という主イエスの掟を守って、友のために自分の命を捨てるないし用いる者となるなら、主イエスの友となることができる、というふうに捉えてしまいがちです。そうだとすると、私たちはまだ主イエスの友にはなれていない、友と呼んでもらうには程遠い、ということになるでしょう。しかしそうではありません。主イエスはもう既に、私たちを友と呼んで下さっているのです。そのことを示しているのがあの13節の「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」というみ言葉です。これは、主イエスが私たちのために既にして下さったことです。主イエスは私たちのためにご自分の命を捨てて、十字架にかかって死んで下さったのです。つまり主イエスは、神に背き逆らっている罪人である私たちの友となって下さり、その私たちのためにご自分の命を捨てて下さったのです。「わたしはあなたがたを友と呼ぶ」というみ言葉は、あなたがたがちゃんとお互いに愛し合う者となれたら、という条件付で語られているのではなくて、主イエスが十字架の死によって既に与えて下さっている恵みなのです。
私たちはこの恵みをいただいているので、主イエスが友と呼んで下さっているその愛に応えて、主イエスのお命じになることを行っていくのです。つまり主イエスが愛して下さったように、私たちも互いに愛し合って生きていくのです。そこでは、主イエスが愛するように言っておられるのは友であって、友ではない人、敵はその限りではない、という屁理屈はもう通りません。主イエスがご自分の命を捨てて愛して下さった私たちは、主イエスの、父なる神さまの、友ではなくてむしろ敵だったのです。自分たちを造り、生かして下さっている神さまのことを無視して、自分が主人となって生きていたのです。その私たちを主イエスは友と呼んで、命がけで愛して下さいました。だから私たちも、自分に敵対する人、自分を苦しめる人をも、友として愛していくのです。互いに愛し合いなさい、という主イエスの掟の「互いに」には、仲のよい、親しい仲間のことだけでなく、私たちが敵と感じている人たちのことも含まれているのです。
僕ではなく友
主イエスが私たちを友として下さっている。そのことのもう一つの意味は、「もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない」ということです。僕ではなくて友とされているのです。僕と友とはどう違うのでしょうか。「僕は主人が何をしているか知らない」とあります。僕とは奴隷のことです。奴隷は、主人に命じられたことをその通りにするだけの者です。主人がどのような思いで、何を願ってこのように命じているのか、などということは奴隷は考えないし、考えるべきでもないのです。従わないと罰を受けるから命じられた通りにする、それが奴隷、僕です。主イエスは私たちをそのような僕、奴隷ではなくて友として下さっているのです。友は、お互いに相手が何を思い、何を願っているのかを知っています。そしてその相手の思いに添うように、その願っていることが実現するように、自分で考えて相手のために行動するのです。頼まれたことするだけでは本当の友とは言ええません。頼まれなくても相手の気持ちを分かって行動してこそ友です。
私たちは本来、神の独り子であられる主イエスと肩を並べて「友よ」などと言える者ではありません。主イエスは文字通り私たちの主であり、私たちは従う者つまり僕です。しかしその私たちを主イエスは、もはや僕ではなく友と呼んで下さっています。それは私たちが主イエスの掟を、主人に命令された奴隷のようにただ行うのではなくて、主イエスの思いを、そのみ心を、願いをしっかり分かって、その愛のみ心に応えて、自発的に行っていく者となるためです。主イエスの思い、み心は、父なる神のみ心と一つです。主イエスはそれを私たちに知らせて下さいました。「父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである」と言われているのはそのことです。主イエスが人間としてこの世を生きて下さったことによって、そして十字架にかかって死んで下さったことによって、そして復活によって、私たちを愛し、救って下さる神の愛が私たちにはっきりと示されているのです。私たちは主イエスによって神の愛のみ心をはっきりと知らされたので、自分からその愛に応えて、神さまを愛し、互いに愛し合って生きるのです。そのようにして私たちは、もはや奴隷ではなく主イエスの友として生きていくのです。主イエスというぶどうの木につながっている枝である私たちはそういう実を結ぶのです。
私たちが結び実のまとめ
このようにここには、主イエスというぶどうの木につながっている私たちがどのような実を結んでいくのかが具体的に示されています。私たちは、主イエスご自身が、父なる神に愛されているがゆえに私たちを愛して下さり、ご自分の命さえも与えて下さった、その主イエスご自身の愛の喜びに揺り動かされて、互いに愛し合い、自分の命を友のために用いる愛の喜びの実を結んでいきます。その歩みの中で私たちは、主イエスの愛のみ心を知り、それに応えて自発的に愛に生きる主イエスの友、言わば愛における同志となっていくのです。主イエスというぶどうの木につながっている枝にはこのような豊かな実が実っていくのです。
わたしがあなたがたを選んだ
このことは、私たちがそのような実を結ぶために頑張って努力していくことによって達成されるのではありません。このような実を結ぶ枝となりなさい、そのために熱心に励みなさい、いっしょうけんめい信仰に励めば、あなたがたもいつかこのような実を結ぶことができますよ、と言われているのではないのです。そのことを語っているのが16節です。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」。「あなたがたがわたしを選んだのではない」。私たちが主イエスという木を見つけて、これはいい木だ、この木につながる枝となれば、豊かな実を結ぶことができる、と思って主イエスにつながったのではありません。また私たちが、主イエスというぶどうの木からせっせと水や養分を摂取して自分を養い育て、信仰のトレーニングに励んで鍛え上げられたマッチョな信仰者となることによって豊かな実を実らせていくのでもありません。「わたしがあなたがたを選んだ」のです。主イエスが私たちを見出して下さって、ご自分のぶどうの木の枝として下さったのです。私たちはそれに全く相応しくない、神さまに背き、逆らってばかりいる罪人だったのに、その私たちのために主イエスがご自分の命を捨てて下さって、これ以上ない大きな愛で愛して下さったのです。私たちが主イエスの枝とされたのは、ただひたすら主の恵みによることなのです。それは、「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るように」して下さるためです。私たちが自分の熱心さや努力によって実を結ぶのではなくて、主イエスが私たちをご自分の愛によって養って下さり、育てて下さって、互いに愛し合って生きるという実を結ばせて下さるのです。しかもその愛の実りは、一時の夢と消え去ってしまうのではなくて、残るものです。今の言葉で言えば、持続可能な、サステイナブルなものです。私たちの力や努力による実りだったら、それは私たちの力の衰えと共にしぼんでしまって残らないでしょう。しかし主イエスにつながっている枝とされた私たちには、主イエスの愛が常に新たに豊かに注がれて来ているのです。その愛によって私たちは、愛の実を結び続けることができるのです。
愛による信頼の関係
またそこでは、「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられる」ようになると主イエスはおっしゃいました。14章から15章にかけて、このような言い方が何度か出て来ています。それは私たちが主イエスを、そして主イエスの父である神を、心から信頼して、神が最も良いものを必ず与えて下さると信じて生きることができるようになることだと繰り返しお話ししてきました。それが先程の、主イエスの友となる、ということです。主人と僕、奴隷の間には信頼関係はありません。あるのは支配と恐れによる服従です。友と友の間にあるのは、支配や恐れではなくて愛による信頼の関係です。主イエスに選ばれて、そのぶどうの木の枝とされた私たちは、主イエスの愛を受け、主イエスと父なる神を信頼して、本当に必要な良いものを神が与えて下さることを信じて生きることができるのです。そのような信頼関係に生きる者へと、主イエスが私たちを任命して下さっているのです。
「互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である」と17節にもう一度主イエスの掟が繰り返されています。この命令、掟を私たちは、僕、奴隷としてではなく、主イエスと父なる神を心から信頼して生きる友として聞くのです。そして命じられたからではなくて、主イエスと父なる神の愛のみ心を知っており、信頼しているから、自発的にそのように生きていくのです。主イエスというぶどうの木につながる枝とされた私たちは、そのような豊かな実を結んでいくのです。