「裏切る者、愛されている者」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:イザヤ書 第53章4-5節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第13章21-30節
・ 讃美歌:58、539
足を洗って下さった主イエス
ヨハネによる福音書第13章において、主イエスは弟子たちと共に「最後の晩餐」の席に着いておられます。この晩餐において主イエスが弟子たちの足をお洗いになったことが、13章のはじめに語られていました。足を洗うことは当時奴隷の仕事とされていました。主イエスは身を低くして、奴隷のようになって弟子たちに仕えて下さったのです。このことは、この晩餐の後、主イエスが捕えられ、十字架につけられて死ぬことを指し示しています。神の独り子であられる主イエスが、人間となって下さっただけでなく、十字架にかかって死んで下さるほどに徹底的にご自分を低くして、罪人である私たちに仕えて下さったのです。このことによって、神に敵対している私たちの罪は赦され、清められ、救いが与えられたのです。主イエスがそのようにして下さったのは、13章1節に語られていたように、弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた、というみ心によってです。主イエスが私たちをこの上なく愛し抜いて下さり、十字架にかかって死んで下さることによって、私たちの罪にまみれた、泥だらけの足を洗って下さって、救いを与えて下さった、そのことを象徴的に表しているのが、弟子たちの足を洗って下さったという出来事だったのです。
弟子たちの中にユダがいた
主イエスによって足を洗っていただいた弟子たちの中に、主イエスを裏切るイスカリオテのユダがいたことが、20節までのところに繰り返し語られていました。2節に「夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた」とありました。また10節後半には「あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない」とあり、これを受けて11節には「イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、『皆が清いわけではない』と言われたのである」とありました。さらに18節には「わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない」とありました。ユダが裏切ろうとしていることを主イエスはご存知であり、またそれは旧約聖書に預言されていたこと、つまり神のご計画の中に既にあったことなのだ、ということがこれらの言葉によって示されていたのです。
心を騒がせておられる主イエス
本日の21節において主イエスは、弟子たちの一人が裏切ろうとしていることを弟子たちにあからさまにお語りになりました。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」。「皆が清いわけではない」とか「あなたがた皆について、こう言っているのではない」などという持って回った言い方ではもはやなく、はっきりと「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と告げられたのです。21節前半には、主イエスがこのことを「心を騒がせ、断言された」と語られています。「断言された」というところは、以前の口語訳聖書では「おごそかに言われた」であり、新しい聖書協会共同訳では「証しして言われた」となっています。いろいろに訳されていますが、要するに主イエスは、ただ「言った」のではなくて、強い思いを込めてこれをお語りになったのです。その思いが「心を騒がせ」という言葉に示されています。この「騒がせ」という言葉は、12章27節の「今、わたしは心騒ぐ」にも使われていました。ここは主イエスが、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」とお語りになって、ご自分が十字架にかかって死ぬことによって救いを実現することをお告げになった直後のところです。そのすぐ後のところでは、「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」と言っておられ、やはり十字架にかけられて死ぬことによって人々に救いをもたらすことが語られています。十字架の死によって人々の救いを実現することが、父なる神から託されたご自分の使命であることを主イエスが深く意識しておられる所に、この「心騒ぐ」という言葉が使われているのです。また11章33節には、死んで葬られたラザロの墓の前でその姉妹マリアや人々が泣いているのを見た主イエスが「興奮して」とあります。これも「心を騒がせて」という言葉です。主イエスはこの時、ラザロを捕えている死の力と対決してラザロを復活させ、悲しんでいる人々に救いを与えようとしておられたのです。ラザロの復活も、主イエスご自身の十字架の死と復活によって実現する救いの先取りです。ご自分の十字架の死と復活によって死の力からの救いが実現することを主イエスはここでも見つめて「心を騒がせ」ておられるのです。それは主イエスが十字架の死を前にして不安や恐れを抱いているということではありません。主イエスは、十字架の死と復活によって人間を救おうとしておられるのです。それは、罪と死の力に支配されて苦しみや悲しみに陥っている私たちのことを、主イエスが深く憐れみ、同情し、共に悲しんで下さっているということです。その憐れみのみ心によって主イエスは心を騒がせ、十字架にかかって死んで下さることによって私たちを救おうとしておられるのです。つまり主イエスが心を騒がせておられるのは、ご自分の恐れや不安のためではなくて、私たちを心から愛して下さっているゆえです。愛して下さっているから、無関心ではおれずに、心を騒がせておられるのです。主イエスによる救いは、罪と死の力に支配されている私たちを主イエスがこの上なく愛し抜いて下さり、私たちへの憐れみのゆえに心を騒がせて下さったことによって実現しているのです。
ユダのために心を騒がせておられる主イエス
このようにこれまでの所にも、主イエスが罪ある人間への憐れみのゆえに心を騒がせておられることが語られていましたが、本日の箇所においても主イエスは心を騒がせつつ語っておられます。ここで主イエスが心を騒がせておられるのは、主イエスの招きによって弟子となり、共に歩んできた者の一人が、悪魔のささやきを受けて、裏切ろうとしているからです。弟子の一人であるユダが、主イエスのもとから去って行こうとしている。罪に支配されて滅びへと陥ろうとしている。主イエスはそのことを平気でいることはできないのです。心を騒がせて、「あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ろうとしている」とおっしゃったのです。
立ち帰る機会を与えておられる主イエス
これを聞いて「弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた」と22節にあります。自分たちの一人が裏切ろうとしている、と主イエスがお告げになったことに弟子たちが戸惑ったのは当然です。主イエスのすぐ隣にいた一人の弟子が、「主よ、それはだれのことですか」と尋ねました。すると主イエスは「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」とお答えになり、イスカリオテのユダに、パン切れを浸してお与えになりました。ユダがそのパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った、と27節にあります。先程読んだ2節に語られていたように、悪魔、サタンはこの夕食の前に既にユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていました。しかし主イエスが差し出したパン切れを受け取ったこの時に、サタン自身が彼の中に入ったのです。裏切る考えを抱いていたユダが、この時本当に裏切る者となったのです。主イエスが、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と言って差し出したパン切れを彼が受け取った時にそのことが起った。そこには、主イエスとユダとの隠された心のやりとりがあります。主イエスがこのパン切れをユダに差し出したのは、「私はあなたが私を裏切る思いを抱いていることを知っている」ということを意味しています。けれどもそれは、「お前が裏切ろうとしていることは私にはお見通しだぞ」ということではありません。このパン切れをユダに差し出した主イエスは、彼に、それを受け取るのか、受け取らないのかを問うておられるのです。それは、あなたは今抱いている思いの通りに私を裏切る者になるのか、それともその思いを捨てて私のもとに弟子として留まるのか、と問うておられるということです。つまり主イエスは、裏切りの思いを抱いているユダに、なおここで最終的に、引き返す道を、主イエスのもとに留まる可能性を残しておられるのです。裏切る思いを抱いていることを知りつつユダの足を洗って下さったことも、「皆が清いわけではない」とか「あなたがた皆について、こう言っているのではない」と、思わせぶりなことをおっしゃったことも全て、悪魔のささやきを受けているユダに、主イエスのもとに立ち帰る機会を与えておられたということです。主イエスは、ご自分を裏切り、去って行き、滅びに陥ろうとしているユダをもこの上なく愛し抜いておられ、彼のために心を騒がせ、そして彼が悔い改めて主イエスのもとに留まることを期待しつつ語りかけておられるのです。
しようとしていることを、今すぐ、しなさい
それゆえに、27節で、ユダが主イエスの差し出したパン切れを受け取ったことは、主イエスがなお期待しておられる悔い改めを拒み、裏切ることを選び取ったことを意味しています。その時「サタンが彼の中に入った」のです。ユダは主イエスの思いに応えるのではなくて、サタン、悪魔に自らを委ね、支配させたのです。そのユダに主イエスは「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」とお語りになりました。それは、あなたは今、自分の歩む道を選び取った、その道を行きなさい、ということです。主イエスは私たちのために、救いに至る道を開いて下さいます。しかし無理やりに、強制的にその道を歩ませることはなさいません。私たちが自分でその道を選び取り、歩んで行くのでなければ、本当の救いにはならないからです。救いは主イエスによって強制的に与えられるものではなくて、私たちが求めていくべきものなのです。主イエスは私たちに、自分がしようとしていることをしていく人生を歩ませようとしておられます。つまり私たち一人ひとりにも、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と言っておられるのです。私たちは何をしようとしているのでしょうか。そこに、私たちが幸いな人生を歩むのか、絶望の内に滅びに至るのかがかかっているのです。「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」とユダにお語りになった主イエスの心は、深い悲しみと嘆きに満たされていたのです。
闇の中へと出て行ったユダ
28、29節には、「座に着いていた者たち」つまり弟子たちは誰も、主イエスがなぜユダにこう言われたのかが分からなかった、とあります。ある者は、金入れを預かっていたユダに、始まろうとしている過越祭に必要な物を買いなさいとおっしゃったのか、あるいは貧しい人に施しをするようにおっしゃったのだと思ったのです。このことは、主イエスがここで、「このユダが私を裏切ろうとしている」ということを弟子たちに示してユダを責めようとなさったのではなかったことの証拠です。「あなたが私を裏切ろうとしている」というメッセージは、ユダのみが聞き取ったのであって、他の弟子たちには分からなかったのです。そこにも、ユダの悔い改めを願い、待っておられる主イエスの思いが示されています。しかし30節には、「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった」とあります。ユダは、主イエスのメッセージを受け止めることなく、裏切ることを選び取り、主イエスのもとを出て行ったのです。「夜であった」というのは象徴的です。ユダは主イエスのもとから、外の闇の中へと出て行ったのです。この福音書の8章12節において主イエスは「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」とおっしゃいました。また1章5節には「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」とありました。ユダは命の光である主イエスのもとを去り、暗闇の中を歩く者、暗闇に属する者となったのです。
イエスの愛しておられた者
さて、ユダの裏切りが決定的となったこの箇所に、一人の新しい登場人物が現れています。それは23節の「弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者」です。この人は「弟子たちの一人」なのですから、これまでも「弟子たち」が出て来た時にはそこにいたはずです。しかし「イエスの愛しておられた者」という言い方は本日の所に初めて出て来ました。そしてこの人はこの後何回か出て来ます。「最後の晩餐」において初めて登場したこの人は、19章の主イエスの十字架の死の場面においては、ただ一人彼のみが主イエスの十字架の下にいたと語られています。そして20章の主イエスの復活においても、主イエスの墓がからっぽであることをペトロと共に確認しています。そして最後の21章にも登場しています。その24節にはこう語られています。「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている」。これによれば、この福音書を書いたのはこの「イエスの愛しておられた弟子」だということです。この福音書の著者が、自分をこのような形で登場させているのかもしれないのです。このようにこの人は、この後のところでとても大事な役割を果たしていくのです。
裏切る者、愛されている者
そのことはこれから次第に見ていきますが、本日の箇所において考えたいのは、ユダの裏切りが決定的となったこの箇所に、「弟子の一人で、イエスの愛しておられた者」が初めて登場していることの意味です。この人はある意味で、ユダとは対照的な人物です。主イエスを裏切り、去って行ったユダに対して、この人は、主イエスの十字架の下にいた唯一の弟子、つまり主イエスのもとに最後まで留まった人であり、この福音書を書いて、主イエスによる救いを証しした人です。この人が本日のこの箇所で初めて登場しているのは、裏切って去って行ったユダとこの人とのコントラストを際立たせるためだと言えるでしょう。主イエスの弟子たちの中から、このように正反対の二人の人が現れたのです。どうしてそのようなことになったのでしょうか。「イエスの愛しておられた者」という言葉から私たちは、この弟子は主イエスに特別に愛されていたのだと思います。それに比べてユダは、この人ほどは主イエスに愛されていなかったのかな、と思います。ユダは自分がこの人に比べて主イエスに愛されていないと感じていた、つまり主イエスの弟子たちへの愛には偏りがあった、えこひいきがあった、それで、愛されていることをあまり感じることのできなかったユダが悪魔の唆しに負けて主イエスを裏切る者となってしまったのではないか、などと思ったりするのです。しかしこの13章をちゃんと読めば、そうではないことが分かります。確かにこの弟子は「イエスの愛しておられた者」と言われていますが、それは、この人だけが主イエスに愛されていたということではありません。繰り返し読んでいる13章1節にあったように、主イエスは弟子たちを愛して、この上なく愛し抜いておられたのです。弟子たちは皆、主イエスに愛し抜かれていたのです。ユダもその一人でした。主イエスは弟子たち全員の足を洗って下さったのだし、ユダの足をも洗って下さったのです。先ほど見たように本日の箇所も、主イエスがユダへの愛のゆえに心を騒がせつつ、悔い改めを期待して語りかけたことを示しています。ユダも含めて、弟子たちは皆、「イエスの愛しておられた者」であり、主イエスが愛のゆえに心騒がせておられた者たちだったのです。しかしその弟子たちの中のある者は裏切って去って行き、ある者は最後まで主イエスのもとに留まり、主イエスによる救いを証しする人になりました。同じように主イエスに愛されていた者たちの中から、そのように正反対の歩みをする者が生まれたのです。それは、主イエスに愛された度合いの違いによることではありません。ユダは主イエスに愛されていなかったのではないし、主イエスがこの弟子だけをえこひいきしておられたのでもありません。ユダは、彼の足を洗って下さり、彼のために心を騒がせ、ご自分のもとに留まることを願って語り掛けられた主イエスの愛を拒んで、裏切る者となったのです。他方あの弟子は、自分にも他の弟子にも注がれている主イエスのこの上ない愛を受け止めて、その愛を喜び、感謝して、その愛に応えていったのです。それによって彼は「イエスの愛しておられた弟子」となったのです。つまりこの二人の姿は、私たちが、この二人のどちらにもなり得ることを示しているのです。それを選び取るのは私たちです。自分に注がれている主イエスの愛を拒み、主イエスのもとから去って行くなら、私たちもユダと同じ裏切る者になるのだし、主イエスの愛を受け止めて、それに応えて主イエスのもとに留まり続けるなら、私たちも「イエスの愛しておられた弟子」として生きることができるのです。