「一粒の麦」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:ダニエル書 第7章13-14節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第12章20-26節
・ 讃美歌:51、531
主日礼拝の再開
4月の第一主日以降、私たちは、新型コロナウイルスの感染拡大によって、共に集まって礼拝をすることができませんでした。本日からようやく、再び共に集っての礼拝を再開します。二ヶ月半ぶりの礼拝であり、2020年度の最初の礼拝でもあります。ウイルス感染の危険が無くなったわけではありませんし、むしろ今、社会活動が再開されていく中で、感染の第二派を警戒しなければなりません。なのでこの礼拝も三回に分けて一回の出席人数を抑え、席も間隔も開けて座っていただいています。そしてこれは三月の終わりもそうでしたが、讃美歌を歌うことも、使徒信条や主の祈りを共に唱えることもしません。非常に制約された形での礼拝です。しかしそれでも、こうして共に集って主を礼拝することができることは大きな喜びです。先ずはそのことを感謝して、再びこの礼拝を休止にしなくてすむように細心の注意を払いながら歩みたいと思います。
主イエスのご生涯の最後の週に入っている
この四月以降は、説教の音声をホームページで聞けるようにし、また希望者には原稿を郵送して、それぞれの家でみ言葉を聞いてきました。そのようにして、3月までに続いてヨハネによる福音書からみ言葉に聞いてきたのです。四月からはちょうど11章に入るところでした。11章には、「ラザロの復活」の話が語られています。その箇所を礼拝でご一緒に読むことができなかったのはまことに残念なことでしたが、しかし、ウイルス感染の不安と恐れを覚えつつ、しかし共に集って礼拝ができないという苦しみの中で、「私は復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」という主イエスのお言葉を聞くことができたことはまことに幸いなことでもあったと思います。死んで葬られていたラザロを主イエスが復活させて下さったことに、私たちも慰めと希望を見出しつつ歩むことができました。そして今は第12章に入っています。ユダヤ人の最大の祭りである過越祭を前にして、主イエスがエルサレムに入られたことが12節以下に語られていました。これはいわゆる「受難週」の最初の日である日曜日の出来事だと考えられています。この週の金曜日に主イエスは十字架にかけられて殺されるのです。主イエスの地上のご生涯の最後の週に既に入っているのです。
ギリシア人たちの来訪
本日は20節以下を読むわけですが、最初の20節に「さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた」とあります。「祭り」とは「過越祭」です。ユダヤ人たちにとって、過越祭をエルサレムで祝い、その祭儀、礼拝に集うことは心からの願いでした。だから過越祭には多くの人々がエルサレムに来たのです。エルサレムに入る主イエスを喜びの叫びをあげて歓迎したのはその人たちだったと12節に語られていました。そのように過越祭を祝うためにエルサレムに来ていた人々の中に数人のギリシア人がいたとヨハネは語っています。過越祭はエジプトで奴隷とされていたイスラエルの民を主なる神が救い出して下さったことを喜び祝う、ユダヤ人の祭りです。その祭りを異邦人であるギリシア人が共に祝おうというのは珍しいことです。しかし当時からそういう人々はいました。異邦人でも、ユダヤ人の信仰に関心を持ち、それを学び、主なる神を礼拝しようとしていた人々はいたのです。そのようなギリシア人たちが何人か、主イエスに会いに来たのです。
21節によれば、彼らは弟子の一人である「ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポ」のもとに来て、主イエスへの取次を求めました。フィリポはそれをアンデレに話し、二人で主イエスに伝えたと22節にあります。いささか回りくどい話ですが、ここは、この福音書の1章40節以下を意識して語られています。1章にもフィリポとアンデレが出て来ます。主イエスの最初の弟子となった人の一人がアンデレであり、アンデレが自分の兄弟であるシモン・ペトロを主イエスのもとに連れて行ったことによってペトロも弟子になったとヨハネ福音書は語っています。また43節以下には、主イエスがフィリポに出会って「わたしに従いなさい」と招いて弟子にしたこと、そのフィリポがナタナエルという人を主イエスのもとに連れて来たことが語られています。つまりアンデレとフィリポは、人を主イエスのもとに連れて行く働きをしたのです。そしてこの二人はガリラヤのベトサイダの出身だったことが1章にも語られています。ガリラヤには異邦人が多く住んでいたので、本日の箇所のギリシア人たちも、ベトサイダでフィリポとアンデレの知り合いだったのでしょう。1章におけるペトロとナタナエルと同じように、フィリポとアンデレの手引きによって何人かのギリシア人たちが主イエスのもとに来たのです。
時が来た
そのことを聞いた主イエスは「人の子が栄光を受ける時が来た」とおっしゃいました。唐突に聞こえますが、とにかく主イエスは「時が来た」とおっしゃったのです。これまでのところには、「まだ時が来ていない」ということが繰り返し語られていました。2章4節で主イエスはご自分の母に、「わたしの時はまだ来ていません」とおっしゃいました。7章8節では「わたしはこの祭りには上って行かない。まだ、わたしの時が来ていないからである」と言っておられました。8章20節には、エルサレムの神殿の境内で教えておられた主イエスが、神を「父」と呼んだことにファリサイ派の人々が腹を立てたことが語られていましたが、そこには「しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである」とありました。主イエスの時は、これまでのところではまだ来ていなかったのです。しかしここで主イエスは「人の子が栄光を受ける時が来た」とおっしゃいました。「人の子が栄光を受ける」というのは先程共に朗読したダニエル書7章から来ていますが、主イエスはご自分のことを「人の子」と言っておられました。主イエスご自身が栄光を受けることによって、ダニエル書の言葉が実現する時がいよいよ来た、と宣言なさったのです。
天と地を結ぶ救い
この話は1章を意識していると申しましたが、1章の最後の51節に、フィリポが連れて来たナタナエルに主イエスがこうお語りになったとあります。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」。これは、主イエスの弟子となった者たちが将来見ることになることの予告です。主イエスに従う弟子たちは、天が開けて、天使たちが人の子主イエスの上に昇り降りするのを見るようになるのです。それは、人の子主イエスによって天と地とが結び合わされ、神と私たち人間との交わりが確立される、ということでしょう。罪によって神との交わりを失ってしまっている私たち人間が、主イエスによって神との良い関係を回復されるのです。主イエスによってそのような救いが実現することをあなたがたは見ることになる、「人の子が栄光を受ける」とはそういうことなのです。人の子主イエスが、天と地、神と人間を結びつける救い主として栄光を受けるのです。主イエスは1章でナタナエルにそのことを予告なさいました。その予告が実現する時がいよいよ来たのです。
救いは異邦人にも
その時が来たことを主イエスは、数人のギリシア人が尋ねて来たことによってお知りになりました。過越祭にエルサレムに集まって来ていた多くのユダヤ人たちが、主イエスこそ救い主であると思って歓呼の声をあげて迎えたことが12節以下に語られていました。それは主イエスのご生涯において最も栄光に輝く時だったと言えます。しかし主イエスはそれを見て「人の子が栄光を受ける時が来た」と言われたのではありませんでした。何人かのギリシア人たちが会いに来たことこそが、主イエスの時、人の子が栄光を受ける時がいよいよ来たことのしるしなのです。それは、人の子主イエスが救い主として栄光を受けることによって実現する救いは、ユダヤ人だけではなくて、異邦人であるギリシア人にも、つまり世界の全て人々にまで及ぶものであることを意味していると言えるでしょう。人の子主イエスは、ユダヤ人であれギリシア人であれ、全ての者を神と和解させ、神と良い関係をもって生きる者とする救い主として栄光をお受けになるのです。その時がいよいよ来たのです。
一粒の麦
その救いはどのようにして実現するのでしょうか。何が起ることによって、人の子主イエスは栄光をお受けになるのでしょうか。そのことを24節が語っています。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」。これは麦の栽培における一つの真理です。畑に落ちた一粒の麦の種が死ななければ、つまり一粒の麦としてのあり方を失うことなく保ち続けるなら、それは一粒のままであり、多くの収穫にはなりません。しかし死ねば、ということは麦粒としての姿を失い、そこから芽が出て葉が出て育っていくなら、もう一粒の麦ではなくなる、蒔かれた時の姿はどこにもなくなる。そうなってこそ、その麦は多くの実を結ぶことができるのです。麦に限らず、どんな種でもそうです。蒔かれた種が種のままであり続けるなら、その種は実を結ばない。種としては死んで、芽を出し葉が茂り花が咲いてこそ実が実るのです。主イエスが救い主として栄光を受け、すべての人々のための救いが実現することにおいても、このようなことが起る、とこの譬えは語っているのです。
主イエスの十字架と復活による救いの実り
それはつまり、主イエスは救い主として栄光を受けるために死ななければならない、ということです。つまりこの譬えは主イエスが十字架にかけられて死ぬことを指し示しているのです。種だったら、芽を出し葉が茂り、種としての姿が失われていくことこそがその種が生きていることのしるしであり、種の姿が変わらなかったらその種はむしろ死んでいることになります。だから「一粒の麦が地に落ちて死ぬ」という言い方は種の話としてはちょっとおかしいとも言えます。しかしヨハネが見つめているのは主イエスのことです。主イエスにおいては、十字架にかかって死ぬことによってこそ、全ての人々の救いという豊かな実が実るのです。それはただ死んだことによってではありません。独り子主イエスを遣わして下さった父なる神は、十字架にかかって死んだ主イエスを復活させて下さったのです。主イエスに新たな命と体を与えて、永遠の命を生きる者として下さったのです。つまり主イエスは十字架の死を通して、復活して永遠の命を生きる者へと変えられたのです。それによって父なる神は、主イエスに与えて下さった復活と永遠の命を、主イエスを信じる私たちにも与えようとしておられるのです。主イエスの十字架の死は、父なる神による復活によって、私たちにも復活と永遠の命が与えられるという豊かな実を結んだのです。つまり一粒の麦が地に落ちて死ぬことによって多くの実を結ぶという譬えは、主イエスの十字架の死だけでなく、復活と永遠の命をも見つめており、私たちが主イエスの復活と永遠の命にあずかっていく、という豊かな救いの実りを見つめているのです。
主イエスによる新しい時を生きるために礼拝がある
主イエスの時がいよいよ来ました。主イエスは捕えられ、十字架にかけられて死に、そして復活することによって、救い主としての栄光をお受けになるのです。私たちは、このことによってもたらされた新しい時を生きています。神の独り子であられる主イエス・キリストが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちの罪は赦されました。罪によって失われていた神と私たちとの良い関係が回復されたのです。主イエスを信じて洗礼を受け、主イエスと結び合わされた私たちは、主イエスと共に神の子として、神に愛されている者として生きています。そして主イエスを復活させて下さった神は、私たちにも復活と永遠の命を与えると約束して下さいました。私たちは主イエスによる救いにあずかり、復活と永遠の命を信じて待ち望む者とされています。主イエスの十字架の死と復活によって到来した新しい時、新しい現実を生きています。主の日に、神のみ前に出て礼拝をすることによって、私たちはこのことを常に新たに示され、再確認し、主イエスによって与えられた新しい時、新しい現実の中で生きて行くのです。その主の日の礼拝をこれまでしばらくの間私たちは奪われていました。本日から再びそれが与えられたことは大きな喜びです。なお制約された形での礼拝でありますけれども、この礼拝の恵みに支えられて、主イエスの十字架と復活によって到来した新しい時を生きていきたいと思います。
自分の命を愛する者は、それを失う
新しい時、新しい現実を生きていく私たちへの、主イエスからの大切な勧めが25節です。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」。これはまさに、主イエスの十字架の死と復活によって到来した新しい時を生きる者、主イエスによる救いにあずかった者の新しい生き方を示している言葉です。この言葉を、主イエスの十字架と復活による救いと切り離して、一般的な教訓として読んではなりません。この教えは決して、自分の命を愛してはならないとか、生きていることを喜んではならない、命を憎み、早く死んだ方がいいと思うべきだ、ということではありません。主イエスはそんなことを私たちに求めてはおられません。主イエスは私たちが、自分の命を愛することを、生きていることを喜び、人生を大切にすることを願っておられるのです。そのために主イエスは、私たちの全ての罪をお一人で背負って、十字架にかかって死んで下さったのです。ご自分が死ぬことによって、私たちが罪を赦されて、神との良い関係を回復して、新しく生きることができるようにして下さったのです。そして父なる神は、主イエスを復活させて、永遠の命を生きる者として下さいました。その復活と永遠の命を、主イエスを信じる者全てに与えると約束して下さったのです。主イエスの十字架の死と復活によって、私たちは自分の命を本当に愛して、大切にして、喜んで生きることができるようになったのです。主イエスによるこの救いにあずかっている私たちは、「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」というみ言葉が真実であることが分かります。自分の命を本当に愛しているのは、自分ではなくて主イエスであり、主イエスの父なる神であることが分かるからです。自分が自分の命をどれだけ愛し大切にしても、永遠の命に至ることはできません。自分が守ろうとしている命はいつか失われるのです。しかし自分の命を自分で愛し守ろうとするのではなくて、神にお委ねするなら、神は独り子主イエスの十字架と復活による救いに私たちをあずからせて下さり、私たちを永遠の命へと導いて下さるのです。私たちに本当に命を得させ、永遠の命に至らせるのは、神の愛なのです。そのことに気付かされる時、私たちは、自分の命よりも大切なものがあることを知らされるのです。それは主イエスの父である神との交わりであり、神の愛です。主イエスの十字架と復活によって到来した新しい時を生きるとは、この神との交わりに生きること、神の愛の中で生かされることです。その時私たちは、神が与えて下さっている自分の命を本当に愛することができます。生きていることを喜び、人生を大切にすることができます。様々な苦しみや悲しみ、不安や恐れの中でも、肉体の命を越えた永遠の命への希望を失わずに生き続けることができるのです。
いのちより大切なもの
星野富弘さんの「花の詩画集」の中にこういう詩があります。「いのちが一番大切だと思っていたころ、生きるのが苦しかった。いのちより大切なものがあると知った日、生きているのが嬉しかった」。多くの人がこの詩に感銘を受け、「いのちより大切なもの」って何だろう、といろいろ考えています。しかし私たちにはそれは明白です。いのちより大切なもの、それは主イエスの父である神との交わりであり、神の愛です。それを知らずに自分で自分の命を愛し、大切にし、保とうとしている間は、生きることは苦しいことです。大切な命を失ってしまう恐れと不安がいつもそこにあります。しかし、神が、その独り子をお与えになったほどに自分を愛して下さっていて、独り子を信じる者に永遠の命を得させて下さることを知ったなら、生きていることは本当に嬉しいこととなるのです。生きていることだけでなく、肉体における人生を終えて主のもとに召されることもまた、同じように嬉しいこととなるのです。新型コロナウイルスに脅かされて、不安と恐れの中にいる私たちに今最も必要なことは、「いのちより大切なもの」を知ること、主イエスの父である神の愛を知ることです。そのために主の日の礼拝があります。感染に十分に警戒しつつこの礼拝を守り、主イエスに従い、仕えていきましょう。「そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる」と26節にあります。主イエスと共に生きている私たちを父なる神が本当に大切にしてくださることを、私たちは礼拝においてこそ体験していくことができるのです。