「滅びないために死ぬ」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:イザヤ書 第49章4-6節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第11章45-57節
・ 讃美歌:323、513
ラザロの復活によって起ったこと
ヨハネによる福音書第11章を読み進めてきて、その最後のところに来ました。この第11章には、「ラザロの復活」のことが語られています。死んで葬られて四日経っていたラザロが、主イエスの「ラザロ、出て来なさい」という呼び掛けによって、復活して墓から出て来たことが先週読んだ所に語られていました。本日の箇所には、このラザロの復活の結果何が起ったかが語られています。
先ず冒頭の45節に「マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた」とあります。死んだラザロを復活させるという偉大な奇跡を見た多くの人々が主イエスを信じたのです。「しかし」と次の46節にあります。「しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた」。イエスがラザロを復活させたことをファリサイ派の人々に告げた、それは、悪意をもって通報したということです。その結果、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集してイエスをどうするかを協議したと47節にあります。その結論は58節です。「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ」。最高法院が、イエスを殺そうという結論を出したのです。つまりこの箇所には、ラザロの復活の結果ユダヤ人たちの間に正反対の二つのことが起ったことが語られています。ある人々はイエスを信じたけれども、他の人々はイエスへの敵意を募らせ、イエスを殺そうと決意したのです。
しるしを見て信じる信仰は本物ではない
多くのユダヤ人たちがイエスを信じたとありますが、彼らが信じたのは、ラザロの復活という奇跡を目撃したからです。ヨハネ福音書において、主イエスの奇跡は「しるし」と呼ばれています。最高法院の人々も「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか」と相談しています。ラザロの復活は主イエスがなさった最後にして最大のしるしなのです。多くのユダヤ人がそのしるしを見てイエスを信じたわけですが、主イエスご自身はそのようにして信じた人のことを信用しておられなかった、ということが2章23、24節に語られていました。23節の途中から読みます。「そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった」。しるし、つまり奇跡を見たから信じるというのは、本物の信仰ではないのです。そのことは4章48節の「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」という主イエスのお言葉にも示されています。主イエスは、この福音書において七つのしるし、奇跡をなさいました。そのクライマックスがラザロの復活であるわけですが、しかしそれと共に、しるしを見たから信じるというのは本物の信仰ではない、ということをも繰り返し語って来られたのです。
見ないで信じる者の幸い
本物の信仰とは、主イエスのみ言葉を聞くことによって、主イエスを神の子、救い主と信じることです。そのような信仰への勧めが最終的に語られるのが、20章24節以下の、復活した主イエスとトマスとの出会いの場面です。他の弟子たちから、主イエスが復活したと聞かされたトマスは、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言ったのです。そのトマスに主イエスが現れ、語りかけて下さったことによって彼は「わたしの主、わたしの神よ」と信仰を告白することができました。すると主イエスは「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」とおっしゃいました。見たから信じるのではなくて、み言葉を聞くことによって、まだ見ていない神の救いを信じることこそが本物の信仰です。そこにこそ、まことの幸いが与えられるのです。このことがヨハネ福音書の大事なメッセージです。11章にもそのメッセージが語られています。ラザロの死を嘆き悲しんでいる姉妹マルタに主イエスが、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と語りかけました。マルタはそれ応えて、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と信仰を告白したのです。彼女はラザロの復活を見たから信じたのではありません。ラザロは死んで墓に葬られており、復活の「ふ」の字も目に見える現実とはなっていない中で、マルタはこの信仰を告白したのです。主イエスはそのマルタに、ラザロの復活というしるしを見せて下さいました。マルタは、しるしを見たから信じたのではなくて、み言葉によって主イエスを信じて歩む中で、大いなるしるし、奇跡を見させていただいたのです。つまり主イエスがしるしをなさったのは、それを見て人々が信じるようになるためではなくて、見ないで信じる者に、その救いの確かさを示して下さるためだったのです。
今私たちに必要な「見ないのに信じる信仰」
私たちが今必要としているのも、この「見ないで信じる信仰」と、そこにこそ与えられるまことの幸いです。新型コロナウイルスによって共に礼拝を守ることができなくなってまもなく一ヶ月半になろうとしています。その間もこのように限られた者たちによる礼拝がなされ、説教が語られ、その音声や原稿を共有することによって、辛うじてみ言葉を聞きつつ歩むことができているわけですが、それは、礼拝堂に共に集い、共にみ言葉を聞き、祈り、賛美し、そして聖餐にあずかる礼拝の代わりになるものではありません。私たちの信仰も、それを育み養う母体である教会も、今大きな危機に直面しているのです。その私たちに今本当に必要なもの、求めていくべきものはまさに、主のみ言葉によって、見ないで信じる信仰です。この危機からの解放はまだ見えない、皆が集まる礼拝をいつ再開できるのか、見通しはまだないし、以前のように多くの者が共に集まる礼拝が今後行えるのかも定かではありません。世の中のあり方も、私たちの生活のあり方も、このウイルスによって大きく変わっていくのかもしれません。経済的に困難を覚える人も増えています。普通の生活ができないストレスが大人にも子どもにも嵩じてきており、恐れや不安が私たちの心を支配しています。世の中全体がこのような苦しみ、恐れ、不安に捕われている今、私たちに「見ないで信じる信仰」、「み言葉によって信じる信仰」が与えられていることは、あるいはその信仰へと招かれていることは、まことに幸いなことです。み言葉によって私たちは、神がこの世界の全てを創造し、支配しておられることを示されています。そしてその神が、独り子イエス・キリストをお与えになったほどにこの世を、私たちを愛して下さり、主イエスの十字架の死と復活によって私たちをも神の子とし、死に支配されることのない永遠の命を与えると約束して下さったことを示されています。ラザロの復活は、主イエスの十字架と復活によって神が実現して下さった救いのしるしです。ヨハネ福音書11章を読んできた私たちは、「私は復活であり、命である」という主イエスのお言葉を聞いています。主イエスの父である神の愛が、死の力に既に勝利して、私たちを死の支配から解放して新しい命を与えて下さる、という救いを示されているのです。このことを「見ないで信じる」信仰によってこそ私たちは、今この世を覆っている不安と恐れに押し潰されることなく歩んで行く幸いを与えられるのです。
最高法院の人々の困惑と決断
ラザロの復活によって多くの人々が主イエスを信じました。その信仰は今見てきたようにしるしを見て信じる信仰であり、本物とは言えなかったのですが、しかし本日の箇所が主に注目しているのはこの人たちのことではなくて、もう一方の人々、ラザロの復活によって主イエスへの敵意を募らせ、殺そうと決意した人たちのことです。それはユダヤ人の最高法院を構成していた祭司長たちやファリサイ派の人々です。主イエスがラザロを復活させたとの通報を受けた彼らは、「これは困ったことになった」と思ったのです。彼らが心配していたのは48節のことです。「このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」。ユダヤはこの時既にローマ帝国の支配下にあり、ローマの総督の下で、ある程度の自治を認められているに過ぎませんでした。民衆は、神の民である自分たちユダヤ人が異邦人であるローマ人に支配されていることを不満に思っており、ローマの支配から解放してくれる救い主が現れることを期待していたのです。そこに、死者をも復活させる力を持ったイエスが現れて「私について来い」と呼びかければ、民衆はこぞって従い、そしてローマへの反乱が起る。そうなれば、ローマ帝国は圧倒的な軍事力をもって攻めて来て、エルサレムの神殿も破壊され、この国は滅亡するに違いない、と彼らは考えたのです。神風が吹くと信じて本土決戦を主張していた昔の日本の指導者たちよりも彼らの方がよほど冷静かつ客観的にこの世の現実を見つめていたと言えます。彼らはラザロを復活させたイエスが、国を滅ぼし民族を滅亡させる原因となる、と考えたのです。
すると、その年の大祭司だったカイアファがこう言いました。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」。一人の人間が死ぬのと、国民全体が滅びるのと、どちらを選ぶべきか考えなさい、ということです。一人の人間とは主イエスのことです。国を滅ぼす元凶となるイエスを今のうちに抹殺することが、国民全体を救うことになるのだ、とカイアファは言ったのです。「国民全体」と言っていますが、彼らが考えているのは決して一人ひとりの国民のことではありません。彼らが恐れているのはエルサレムの神殿の崩壊であり、そこで彼らが行なっている祭儀が無くなってしまうことです。彼らの権威の源がそこにあるのです。つまり彼らが守ろうとしているのは、かつての日本において「国体」と呼ばれていたものです。それは天皇制とそれを中心とする支配体制のことでした。国体が護持され、天皇制が守られなければ国民全体が滅びる、と言われ、そのために国民が苦しむ戦争が続けられていたのと同じ論理がここで用いられているのです。
カイアファの言葉は、最高法院の人々の思いを一つにしました。これまでにも彼らは、ファリサイ派の人々を中心に、主イエスに対して憎しみを抱いていたし、殺そうとしたこともありました。しかしここに至って、その思いは正当な根拠を得たのです。イエスを殺すのは単なる憎しみのためではない、国を守るために必要な、正しいことなのだ、と思えるようになったのです。良心の呵責から解放された彼らは、53節にあるように、「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ」のです。
神の救いのみ心
ラザロの復活の結果としてこのことが起った、と本日の箇所は語っています。神の独り子イエス・キリストが、死に支配されている者を解放し、新しい命を与えて下さるという救いの最大のしるしであるラザロの復活がなされたことによって、その主イエスを殺そうという人間の思いが決定的となり、しかもそれを正しいこと、必要なこととする理由が見出されたのです。何とも皮肉なことだと私たちは感じます。しかしそれはむしろ神のみ心、ご計画によることだったのだ、ということを31節が語っているのです。「これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである」。イエスが死ぬことによって国民全体が救われるというカイアファの言葉は預言だった、つまり神が彼を用いてみ心をお示しになったのです。勿論それはカイアファが自覚していたことではありません。彼は本当に、イエスを抹殺することがユダヤ民族を守ることだと思っていたのです。しかし神は、その年の大祭司であった彼を用いてみ心をお示しになったのです。主イエスが国民の救いのために死ぬ、というみ心です。カイアファの言った通り、主イエスが死ぬことによって国民全体が救われるのです。それはローマ人からの救いではなくて、罪と死の支配からの救いです。主イエスが私たち罪人の代表として、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さることによって、私たちの罪を赦し、罪の支配から解放して下さることが神のみ心です。そして神はその主イエスを復活させて下さることによって、死の力に勝利して下さり、主イエスを信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るという救いを実現して下さるのです。カイアファも、彼の言葉を聞いて主イエスを殺すことを決断した最高法院の面々も、この神のみ心、救いのご計画の中に置かれていたのであって、結果的にその実現のために用いられたのです。神のみ心やご計画に敵対しているように見える者たちも、結局は神のご支配の下にあり、神のご計画こそが実現していくのだ、ということヨハネ福音書は語っているのです。
散らされている神の子らを一つに集めるために
「イエスが国民のために死ぬ」。その国民とは、神の民であるユダヤ人のことです。しかし52節にはさらにこう語られています。「国民のためばかりでなく、散らされている神の子らを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである」。「散らされている神の子ら」とは、元々の意味は、世界の各地に散らされているユダヤ人たちということですが、ここには新しい意味が加えられています。神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛されました。その「世」とは、ユダヤ人だけでなく、世界中の全ての人々のことです。神は世の全ての人々が、独り子を信じることによって一人も滅びないで永遠の命を得ることを願っておられるのです。神を見失い、罪と死に支配されてしまっている全ての人々をこの救いにあずからせ、ご自分の民として集めようという愛のみ心によって、神は独り子主イエスを遣わして下さり、主イエスはその神のみ心に従って人々の罪を背負って十字架にかかって死んで下さったのです。主イエスの十字架の死は、全世界に散らされている神の子らを主イエスのもとに集め、主イエス・キリストを頭とする一つの神の民とするためでもあったのです。私たちも、元々は神に背き逆らっていた者ですが、主イエスの十字架の死による救いの恵みによって主イエスのもとに集められて、神の子とされているのです。また、今私たちに起っていること、共に礼拝を守ることができず、それぞれの家に分れて聖書を読み、音声や原稿によってみ言葉を聞き、祈ることしかできないというのはまさに「散らされている」という事態です。その私たちを、十字架にかかって死んで下さった主イエスが、今ご自分のもとに集め、一つの神の民として下さっているのです。そのことを「見ないで信じる」ことによって、私たちは一つの神の民として歩む幸いを与えられるのです。
神の救いのご計画は前進している
ラザロの復活の結果として、ユダヤ人の最高法院は主イエスを殺すことをはっきりと決意しました。こうして主イエスのご生涯は十字架の死に向かって決定的に動き出しました。本日の箇所の最後の55節以下には、「さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた」とあります。57節にあるように、祭司長たちとファリサイ派の人々は、主イエスがこの過越祭に来るのを、手ぐすね引いて待ち構えています。この過越祭の時に、主イエスは彼らによって捕えられ、十字架の死を遂げるのです。まさに暗雲立ちこめる中で11章は閉じられています。しかし主イエスの十字架の死が決定的となったまさにその時、大祭司カイアファの口から、主イエスが死ぬことによってこそ神の民が滅びから救われるという預言が語られました。彼らが敵意をもって企み、実行した主イエスの十字架の死によって、神の救いのみ心、ご計画が実現することを、神が彼の口を通して宣言して下さったのです。このことによって私たちははっきりと知ることができます。最高法院の人々が敵意を募らせ、主イエスを殺そうと決意した、そのことによって神の救いのご計画が前進したのだ、ということをです。主イエスの十字架の死によって、私たちに救いを与えて下さることが神の救いのご計画だったのです。それだけではありません。父なる神は死の力に勝利して主イエスを復活させ、永遠の命を生きる者として下さいました。独り子主イエスを信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るためです。主イエスの復活によって私たちにも復活と永遠の命を与えて下さることが神の救いのご計画だったのです。ラザロの復活はこの主イエスの復活を指し示しており、私たちにも与えられる復活のしるしです。主イエスが殺されることが決定的となるという暗雲立ちこめる現実の中で、私たちに永遠の命を与えて下さる神の救いのご計画が着実に前進していることを、ヨハネ福音書は語っているのです。このみ言葉を聞きつつ歩んでいる私たちは、見ないで信じるまことの信仰に生きることができます。共に集まることができずに散らされてしまっている不安な現実の中でも、主イエスが私たちをご自分のもとに集めて下さり、十字架の死による罪の赦しと、復活による永遠の命の約束を与え、神の子として新しく生かして下さっていることを信じる幸いを与えられているのです。