「永遠の命に至る水」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:詩編 第1編1-6節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第4章1-15節
・ 讃美歌:299、404、432
ヤコブの泉の傍らで
ヨハネによる福音書を主日礼拝において読み進めておりまして、本日から第4章に入ります。本日は第4章の1~15節を読むのですが、お気づきのようにこの話は15節で終わりではありません。42節まで続いています。その最初の部分のみを本日は読むわけですが、本日の箇所の中心となるのは、13、14節です。そこに主イエスのこういうお言葉が記されています。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。本日の説教の題、「永遠の命に至る水」もここから取りました。この言葉が語られたのは、5、6節にあるように、シカルというサマリアの町の近くの、ヤコブの井戸のところです。井戸というと私たちは、狭い縦穴が垂直に深く掘られていて、その底に湧いている水をポンプでか、昔であれば釣瓶を落として縄で引き上げて水を汲む場所を思い浮かべます。しかし最近出た新しい翻訳である「聖書教会共同訳」においては、欄外に、この「井戸」という言葉は直訳すると「泉」だと語られています。今読んだ14節に「泉」という言葉がありましたが、それとこの「井戸」は同じ言葉なのです。ですからこの「ヤコブの井戸」は、町中の辻にある井戸ではなくて、町の外にある泉であり、人々は毎日町を出てそこに水を汲みに来たのです。当時の人々の生活は、今日の私たちのように、水道の蛇口をひねれば清潔な水がふんだんに出るというものでは勿論なかったわけで、生活のための水はこの泉に汲みに来て、水がめに汲んで家まで持ち帰らなければなりませんでした。この泉がシカルの町からどれくらい離れていたのかは分かりませんが、8節には、「弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた」とありますし、28節には、「女は、水がめをそこに置いたまま町に行き」ともあります。シカルの町とこの泉との間には一定の距離があったことが分かります。このヤコブの泉のほとりで、そこに水を汲みに来た一人の女性と主イエスとが出会い、そこで語られたのがこの13、14節のみ言葉だったのです。
渇くことのない水
13節で主イエスは、「この水を飲む者はだれでもまた渇く」とおっしゃいました。かなりの時間をかけて、苦労して泉から汲んで持ち帰った水は、飲む者の渇きを一時癒しますが、しかししばらくすればまた喉は渇きます。水分をこまめに取らないと脱水症状を起して危険だ、ということが最近はよく言われるようになりました。人は生きるために水を飲まなければなりません。しかし水はとても重いものですから、一度にそうたくさん汲んで来ることはできません。だからじきになくなり、また泉へ汲みに行かなければならないのです。水道やペットボトルのある生活に慣れている私たちには想像もできないような苦労が、昔の人々の生活にはあったのです。そのことを意識しておかないと、14節の主イエスのお言葉の意味を正しく捉えることはできないでしょう。「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。飲んでもじきにまた喉が渇くということのない、一度飲めばもう決して渇かない水を私が与える、と主イエスはおっしゃったのです。しかもこの水は、一度飲めばその効果が持続するのでもう渇くことがない、というものではありません。主イエスが与えて下さる水は、その人の内で泉となるのです。つまり新鮮な水が滾々と湧き出る泉が自分の内に出来るのです。その水によっていつも新たに潤され、渇きを癒されるのです。汲めど尽きせぬ水が自分自身の中にいつも湧き出るようになるから、もう渇くことがなくなるのです。主イエスのこのお言葉を聞いてこのサマリアの女性は「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてももいいように、その水をください」と願いました。そういう泉が自分の中にあれば、もう遠くの泉へ水を汲みに行く必要がなくなる、と思ったのです。水を汲みに行く必要がなくなることがどんなに有り難いことであるか、今の日本では、災害で断水を経験した一部の人にしか分からなくなっています。しかしこの当時は、誰もが日常的に、水の確保の大変さを感じていたのです。
立場の逆転
本日は、彼女が主イエスにこの水を与えて下さるように願ったところまでを読むわけで、その後どうなったかは次回のお楽しみ、です。本日は、この女性が主イエスにこのように願うに至った、その経緯に注目したいのです。15節で彼女は主イエスに「その水をください」と願ったわけですが、主イエスとこの女性との最初の出会いにおいては、7節に語られているように、主イエスの方が彼女に「水を飲ませてください」と願っておられたのです。主イエスのこの一言から、この女性と主イエスの会話が始まりました。その会話の中で、いつか立場が逆転して、彼女が主イエスに、その水をください、と願うようになったのです。これはとても面白いことだと思いませんか。ここでいったい何が起ったのでしょうか。
サマリアのシカル
主イエスはこの時、旅をしておられました。3、4節にそのことが語られています。「ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなかった」とあります。聖書の後ろにある付録の中に地図があります。旧約新約が合わさっている聖書ですと地図の6に「新約時代のパレスチナ」というのがありますのでご覧いただきたいのですが、主イエスはユダヤからガリラヤへ行かれた。ユダヤは、この地図の下の方、死海の西側あたり、エルサレムを中心とする地域です。ガリラヤは上の方、つまり北の方の、ガリラヤ湖のあたりで、そこに主イエスがお育ちになったナザレや、2章で水をぶどう酒に変える最初の奇跡をなされたカナがあります。ユダヤからガリラヤへ北上していく時に通らなければならないのが、その間にあるサマリアで、この地図の真ん中あたりです。そこに「ゲリジム山」という山があり、その北に「シカル」があります。ユダヤからガリラヤへの旅の丁度半ばに、主イエスはこのシカルというサマリアの町に来られたのです。5節には、このあたりは「ヤコブがその子ヨセフに与えた土地」だったとあります。ヤコブは主なる神から「イスラエル」という名を与えられた人であり、彼の子どもたちからイスラエルの十二の部族が興りました。ヨセフはヤコブの子ですが、このヨセフだけは、「ヨセフ族」とはならずに、ヨセフの二人の子どもたち、マナセとエフライムがそれぞれ一つの部族となりました。つまり「ヤコブがその子ヨセフに与えた土地」というのは、マナセ族とエフライム族に与えられた土地ということで、それが丁度このあたりでした。そのことは付録の地図の3「カナンへの定住」を見ると分かります。マナセとエフライムの領域の境目あたりにゲリジム山があり、その北に、旧約の時代にはシケムと呼ばれていた町があります。これが新約においてはシカルです。その近くに、「ヤコブの井戸」と呼ばれる泉があったのです。主イエスは旅に疲れて、その泉のそばに座っておられた、と6節にあります。そこに、サマリアの女が水を汲みに来ました。旅に疲れ、喉が渇いていた主イエスは彼女に、「水を飲ませてください」と願ったのです。11節には、この女性が「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです」と言ったとあります。つまりこの泉は自分の手で水をすくって飲むことはできない、汲むものがなければ水は手に入らないのです。主イエスはそれを持っていない。彼女は水を汲みに来たのですから、それを持っています。だから主イエスは彼女に「水を飲ませてください」と頼んだのです。
頼み事を通して出会って下さる主イエス
主イエスがこのように願ったことから、主イエスと彼女との間に会話が始まり、二人の出会いが起りました。それは決して、たまたま偶然に起ったことではありません。この後のところを読んでいけば分かりますが、主イエスは既に彼女のことを知っておられ、彼女を救いへと招くために、主イエスの方から声をかけ、出会って下さったのです。このように主イエスはいろいろな仕方で、いろいろなきっかけを用いて私たちと出会い、招いて下さいます。この時は、「水を飲ませてください」と頼むことによってこの女性と出会われたのです。これを私たちに当てはめるなら、教会から何かを依頼されたことが自分と主イエスの出会いのきっかけだった、というようなことになるでしょう。例えば集会のために部屋を使わせて下さいと依頼されたとか、何らかの仕事を請け負ったとか、あるいは、教会員である家族を通して、自分の専門知識や資格や技術を用いる何かの働きを頼まれて、自分は信仰を持ってはいないけれども、家族が通っている教会のために協力した、というようなことです。教会はそういう時けっこう厚かましく、お金がないので無償で、あるいはほんの僅かなお金でやってくれませんか、などと頼むことがあります。そういう願いを喜んで引き受けてくださるご家族もけっこうおられます。教会がそのような方々によって支えられているというのは有り難いことであり、そしてそれが伝道に繋がっていくことがあるのです。あるいは、自分の子供が伝道献身者となる、ということも同じようなことだと言えます。それは主イエスから、「あなたのお子さんを私の救いの業のために下さい」と頼まれるということなのです。そのように、自分は信仰を求めてはいなかったけれども、主イエスから直接に、あるいは教会から、何かを頼まれたことがきっかけとなって礼拝に出席するようになり、そして主イエス・キリストと出会い、信仰を与えられる、ということがあるのです。それは実は主イエスが、その何かを用いてその人と出会って下さり、ご自分のもとへと招いて下さったということなのです。このサマリアの女性も、そのような仕方で主イエスと出会い、招かれたのです。そこにおいては、最初は主イエスの方から、あるいは教会から、頼まれて何かをしてあげていたのが、どこかで、自分の方から主イエス・キリストの救いを求めるようになる、という逆転が起ります。主イエスから水を飲ませてくださいと頼まれたこの女性が、主イエスに水をくださいと求めるようになったのと同じようなことが、私たちにも起り、求めていなかった私たちが主イエスの救いを求めるようになるのです。
二つの驚き
この女性が自分から主イエスに水を求めるようになったのは、いくつかの驚きが積み重なったことによってでした。その驚きは主イエスが彼女にもたらしたものです。つまりこの逆転は自然の成り行きで起るのではなくて、主イエスがそのみ業によって作り出しておられるのです。そもそも主イエスの方から「水を飲ませてください」と声をかけられたことは、彼女にとって大きな驚きでした。9節で彼女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言っています。これは驚きを語っている言葉です。彼女はここで二つのことに驚いたのです。一つは、当時、ラビと呼ばれている律法の教師は、公の場で女性に声をかけることはしなかったからです。彼女は、主イエスと弟子たちの一行を、律法の教師が弟子と共に旅をしているのだと思ったのです。律法の教師は、自分が汚れを受けてしまうリスクのあることは一切しません。弟子たちだけが町へ買い物に行っているというのもそういうことだと彼女は思ったのです。そういう律法の教師が、女である自分に親しく声をかけ、水を飲ませてくださいなどと頼むなんて、普通は考えられないことです。彼女は先ずそのことに驚いたのです。
そして第二の、より大きな驚きは、イエスはユダヤ人であり、自分はサマリア人だということです。9節の後半に「ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである」とあるように、ユダヤ人とサマリア人は当時、お互いに敵意を抱いており、口もきかないような関係でした。そうなったのには歴史的ないきさつがあるわけですが、ここではそれには触れません。とにかくユダヤ人がサマリア人にものを頼むなどというのはあり得ないことだったのです。このように主イエスの方から「水を飲ませてください」と声をかけられたことに彼女はとても驚いたのです。その驚きは彼女の中に主イエスについての一つの思いを芽生えさせたと言えるでしょう。それは、この人は自分が知っている律法の教師たちとは全く違う、という思いです。この人は、男と女を分け隔てする、今日の言葉で言えば差別の思いに捕われていない。またこの人は、ユダヤ人とサマリア人の間の、決して乗り越えることができないと思われる分厚い壁、お互いを隔てて住む世界を違うものとしている障壁をも、事もなげに乗り越えている。こんな人には今まで出会ったことがない。そういう思いを彼女は抱いたのだと思うのです。彼女は、自分の周りに様々な壁、差別があることを感じながら生きていました。この後のところにはそのことがはっきり示されているのですが、本日の箇所からも、彼女が男と女の、またユダヤ人とサマリア人の間の隔たり、差別を感じていることが分かります。しかし今目の前にいるこの人は、そのように人を分け隔てし、差別する思いから全く解放されて、自由に生きている、ユダヤ人が、話しかけるのすら汚らわしいと思っているサマリア人の、しかも女である自分に、平気で語り掛け、水を飲ませてくださいと頼み事さえしている、その主イエスの姿に彼女は新鮮な驚きを感じたのです。
生きた水を与える方?
そして彼女の主イエスに対する驚きは、10節の言葉によってさらに大きくなりました。「サマリアの女である私にどうして水を飲ませてくださいと頼むのですか」という問いに対して、主イエスはこうおっしゃったのです。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」。彼女には主イエスのこの言葉の意味はさっぱり分からなかったでしょう。しかし、「水を飲ませてください」と言った「その人」というのは目の前にいるこの人であり、その人が、私はあなたに生きた水を与える、と言っていることだけは分かったのです。それはいったいどういうことだろうか、水を飲ませてくださいと願っているこの人が私に水を与えるだなんて、そんなことがどうしてあり得るだろうか、と彼女はますます驚き、混乱しました。そしてこう言ったのです。11、12節です。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです」。彼女は、主イエスが与えると言っておられる「生きた水」を、泉から湧き出る普通の水として捉えています。だから、あなたは汲む物を持っていないのにどうして私に水を与えることなどできるのですか、と言ったのです。しかしここで彼女は、主イエスの言葉に、泉から汲まれた普通の水を与えることとは違う何かを感じ取ってもいます。「あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか」以下の言葉がそれを表しています。ユダヤ人と同じくサマリア人にとっても、ヤコブは自分たちの先祖です。そのヤコブが、息子ヨセフを通して、自分たちの先祖であるマナセとエフライムにこの地を与え、ここで生きるようにしてくれたのです。ヤコブがこの井戸を与えてくれたというのは、自分たちが生きていく場としてこの地を与えてくれたことを意味しているのです。そのことを持ち出している彼女の言葉には、あなたも先祖ヤコブと同じように、水を与えるだけでなく、私たちが生きていく場を、言い換えれば私たちに命を与えて下さる方なのですか、という問いが込められています。つまり彼女は、「私がだれであるかをあなたが知っていたなら、あなたの方から私に生きた水を求め、私はそれを与えるだろう」という主イエスの言葉に驚かされつつ、そこに自分たちを本当に生かしてくれる神の力と権威を、おぼろげながら感じ始めているのです。
主イエスが起し、育てて下さる思い
主イエスはご自分から彼女に語りかけ、出会っていかれたことによって、主イエスに対する驚きをもたらし、それによって主イエスが与える生きた水を求める思いを少しずつ育てていかれたのです。その上で、あの13、14節のみ言葉をお語りになったのです。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」。それを聞いた彼女は、「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてももいいように、その水をください」と願いました。このようにして、水を飲ませてくださいと主イエスから求められた彼女が、自分から主イエスに水を求める者へと変えられたのです。
彼女が求めているのはなお、泉から汲む普通の水です。決して渇かなくなる水があれば、繰り返しこの泉に汲みに来なくてもよくなるから、と言っています。けれどもその彼女の心の中には同時に、よく分かってはいないながらも、普通の水を超えた、自分を本当に生かす「生きた水」「永遠の命に至る水」を求める思いが芽生えてきていると言えるでしょう。「水を飲ませてください」と自分に頼んできたこの方は、実は私たちを本当に生かす水を与えて下さる方なのかもしれない、と彼女は思い始めているのです。「主よ」という呼び掛けがそのことを示しています。主であられる方に、渇くことのない命の水を求める思いを、主イエスご自身が彼女の中に起し、与えて下さったのです。
命の水の泉である主イエス
主イエスは私たちと出会って下さり、語りかけて下さることによって、私たちの中にも、主イエスが与えて下さる生きた水、永遠の命に至る水を求める思いを起し、与えて下さいます。その水は、私たちの渇きを一時癒すだけの、その場しのぎの水ではありません。それは私たちの内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出るような水、つまりむしろ泉と言うべきものです。主イエス・キリストは私たちの内に、新鮮な水が滾々と湧き出る泉を与えて下さるのです。私たち自身の中をいくら深く掘っても、そのような泉が湧き出ることはありません。この泉は、主イエス・キリストご自身です。主イエス・キリストご自身が私たちの内に来て下さり、宿って下さることによって、泉となって下さるのです。それは私たちが主イエスを信じて、主イエスと共に生きる者となること、洗礼を受けてキリストの体である教会の一員とされることによって与えられる恵みです。主イエス・キリストと結び合わされることによって、主イエスが私たちの内で泉となり、生きた水によって私たちの渇きを癒し、潤していって下さるのです。
その主イエスは私たちの救いのために、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さった方です。そして私たちの先駆けとして復活して、永遠の命を生きておられる方です。十字架にかかって死んで、復活して下さった主イエスが与えて下さる水ですから、それは「永遠の命に至る水」、肉体の死を超えて、私たちを、主イエスの復活と永遠の命にあずからせてくれる水です。その命の水の泉となって下さった主イエス・キリストが今私たちと、いろいろな仕方で出会って下さり、私たちを招いて、永遠の命に至る水を求める思いを起して下さっているのです。「その水を私にください」と求めさえすれば、主イエスという涸れることのない泉が私たちの内に宿って下さり、私たちを決して渇くことのない生きた水によって潤して下さり、流れのほとりに植えられた木のように豊かに実を結ばせて下さるのです。