主日礼拝

天に上った者

「天に上った者」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:民数記 第21章4-9節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第3章11-15節
・ 讃美歌:50、156、456

ニコデモ
 ヨハネによる福音書の第3章を礼拝において読み進めておりますが、この第3章から登場したのがニコデモという人です。この人は1節によれば、ファリサイ派に属する人で、ユダヤ人たちの議員でもありました。つまりユダヤ人たちの宗教的な指導者であると同時に、政治的にも高い地位にあった人です。そのニコデモがある夜、人目を忍んでこっそりと主イエスを訪ねて来たのです。彼は主イエスのことを「神のもとから来られた教師」であると信じています。主イエスのなさったしるし、つまり奇跡を見て、こんなことは神が共におられるのでなければなし得ないと思い、神から遣わされた教師であるイエスの教えを聞こうとして来たのです。そのニコデモと主イエスの対話が前回読んだ10節までのところに語られています。主イエスは、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」とおっしゃいました。しかしニコデモにはそのお言葉がどうしても分かりませんでした。それで10節において彼は主イエスから、「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」と叱られてしまったのです。

「わたしたち」と「あなたがた」
 本日はその続きの11節からを読むのですが、ここも、10節までの主イエスとニコデモの対話の続きとして語られています。けれども10節までとは語り方が違っています。10節までのところで主イエスは「わたし」と言っておられ、ニコデモに対して「あなた」と言っておられました。ところが11節からは「わたしたち」、「あなたがた」と複数で語っておられるのです。ニコデモとの一対一の対話が、いつのまにか複数の者たちの間での対話に変っているのです。ヨハネ福音書は所々でこういう語り方をしています。主イエスとある個人との会話の中に、「わたしたち」と「あなたがた」という言い方が入り込んで来るのです。それは何のためかというと、主イエスの言葉に、ヨハネ自身が連なっている教会の言葉を載せて語るためです。つまり「わたしたち」という言い方によって、主イエスご自身の言葉と、ヨハネ福音書が書かれ、読まれた教会の言葉とが重ね合わされているのです。

ヨハネの教会の置かれた状況
 ヨハネ福音書が書かれたのは、紀元1世紀の終わり頃であると考えられます。ということは、主イエスの十字架と復活と昇天、そして聖霊の降臨によって教会が誕生してからもう五十年以上の時が経っているということです。エルサレムにおいて、ほんの一握りの人々から始まった教会は、この間に驚くべき早さで成長し、発展してきました。それに伴って教会を取り巻く状況もかなり変ってきています。紀元60年過ぎ頃には、ローマで、あの皇帝ネロによる最初の迫害が起りました。教会は、成立からおよそ30年で、エルサレムから遠く離れたローマで迫害を受けるほどの群れに成長したのです。
 ユダヤにおいても状況は大きく変化しました。キリスト教は、最初はユダヤ教の中の新しい一派として捉えられていました。使徒たちはユダヤ人たちの会堂で説教をし、伝道していったのです。しかし紀元70年に、ユダヤはローマ帝国に反抗して起こした戦争に破れて独立を失い、エルサレムの神殿も破壊されてしまいました。主なる神の臨在の場である神殿は絶対に陥落することはないと信じていたユダヤ人たちは、国を失うと共に、信仰的な拠り所を失ったのです。その破局の中で、ユダヤ教の指導者たちは、残されたもう一つの拠り所によってユダヤ教を再建し、神の民としてのユダヤ人の歴史を守ろうとしました。そのもう一つの拠り所とは「律法」です。神殿は失われ、犠牲を献げる祭儀はできなくなったが、主なる神から与えられた律法を守り、律法に生きる民となることで、神の民であり続けることができる、そう主張してユダヤ人たちをリードしていったのが「ファリサイ派」でした。このファリサイ派によって、今日まで続くユダヤ教の基礎が据えられたのです。ヨハネ福音書が書かれたのはちょうどその頃、つまりファリサイ派によって、律法を中心としてユダヤ教が再建されつつあった時代だったのです。その動きの中でファリサイ派は、イエスをメシア、救い主とする教えは律法に従って生きる正しいユダヤ教の教えではないとして、イエスを信じる者たちをユダヤ人の共同体から追い出そうとしていました。つまり、主イエスを救い主と信じるキリスト教会と、律法に生きるユダヤ教との違いが明確になり、ユダヤ教によるキリスト教会への迫害が始まったのです。ヨハネ福音書が書かれた当時の教会はそういう状況の中にありました。ヨハネはそのことをこの福音書の中に描き出しています。それがはっきりと現れているのが9章22節です。そこを読んでみます。「両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである」。「イエスをメシアであると公に言い表す者」つまりキリスト教徒はユダヤ人の会堂から追放する、そういう迫害は、主イエスが地上を生きておられた時代にあったことではありません。これはヨハネ福音書が書かれた、1世紀終わり頃のユダヤにおける状況なのです。第3章において、ファリサイ派に属する、議員でもあるニコデモが夜に主イエスのもとを訪ねて来たことにも、この状況が反映しています。夜訪ねて来るとは、人目を忍んでということです。それは今見たように、この時代には、イエスを神からのメシアと信じる者は会堂から追放する、という取り決めがなされていたからです。主イエスが生きておられた時代にはそのようなことはありませんでしたから、他の福音書では、ファリサイ派の人でも、昼間に主イエスのところに来て質問したり、論争をしかけたりしています。人目を忍んで来るのはヨハネ福音書が書かれた時代のことなのです。そしてそこにはもう一つ、その頃起っていたことが描かれています。それは、ファリサイ派による迫害が始まっていた中でも、ひそかに主イエスを信じ、教会の教えを聞きたいと思っていた人々がいた、ということです。心の中ではイエスを救い主と信じているが、会堂から追放され、ユダヤ人の共同体から村八分にされてしまうのは嫌だから、おおっぴらにその信仰を告白することができない、そういうどっちつかずの状態にいた人が、当時けっこういたのです。そのことが12章42節にも語られています。「とはいえ、議員の中にもイエスを信じた者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった」。ニコデモはこの人たちの代表なのです。
 このようにヨハネ福音書の著者は、主イエスのご生涯を描く中に、自分たちの教会の現在の状況を書き込んでいます。主イエスが地上を歩んでおられた時のことと、現在の教会で起っていることとを重ね合わせて語っているのです。それゆえにこの福音書における主イエスのお言葉は、主イエスのお言葉であると同時に、ヨハネの教会が今人々に告げ知らせている言葉でもあるのです。主イエスがニコデモに語っている言葉に載せて、教会が当時の人々に語りかけているのです。ヨハネ福音書のこのような特徴を捉えておくことが、この福音書を理解するためには必要なのです。
 そしてついでに申しておきますと、このようなヨハネ福音書の姿勢は、私たちが主イエスを信じる信仰者として生きようとすることにおいて大切にすべきことです。なぜなら、主イエスを信じて生きるとは、主イエスの教えやみ業を、過去の歴史上の出来事として受け止めるだけでなく、今この時代を生きている自分たちの問題として、自分たちに対する語り掛けとして受け止めることだからです。ヨハネ福音書はまさにそういう姿勢で主イエスのご生涯を振り返り、語り直しているのです。

知っていること、見たことを証ししている教会
 背景の説明が長くなりましたが、これらのことをふまえて、改めて11節を読んでみたいと思います。主イエスはニコデモに、「はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているのに、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない」とおっしゃいました。「はっきり言っておく」は前回の箇所にもありましたが、「アーメン、アーメン、私はあなたに言う」という文章で、主イエスが大切なことを告げる時のサインのような言葉です。以前の口語訳聖書でも、また最近出た聖書協会共同訳でも「よくよく言っておく」と訳されています。そして「わたしたちは」とあるのは、今見たように著者ヨハネがその一員である教会のことです。主イエスを救い主と信じ、主イエスに従って歩んでいる教会は、「知っていることを語り、見たことを証ししている」、つまり教会は、神の独り子主イエス・キリストのご生涯と十字架の死、そして復活を通して実現された神による救いの恵みを知っており、それを自分たちのための出来事として体験しており、その救いの恵みを証ししているのです。しかし、「あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない」、その「あなたがた」とは、イエスを救い主と信じる者たちを会堂から追放しようとしているユダヤ教徒たちです。ニコデモはその中心であるファリサイ派の一員でありつつ、しかし主イエスを神ものとから来た教師であると思っています。でも会堂から追放されることを恐れて、人目を忍んでこっそりと主イエスの教えを聞きに来ています。迫害の中でどっちつかずの態度をとっている人です。そういう人たちに対してヨハネの教会が語りかけている言葉が11-15節に記されているのです。

天から降って来た者、天に上った者
 12節には、「わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう」とあります。ここは、「地上のこと」とは何で「天上のこと」とは何か、と考えるべきところではありません。このお言葉が語っているのは、地上のことであれ、天上のことであれ、つまり信仰において知り、受け止めるべき真理の全ては、「わたし」、つまり主イエス・キリストによってこそ示されている、ということです。主イエスのみ言葉によってこそ、私たちは地上のことも天上のことも知り、信じることができるのです。
 なぜそうなのか、なぜ主イエスによってでなければ信仰の真理を知ることができないのか、その理由を語っているのが13節です。「天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない」。地上のことであれ天上のことであれ、信仰において知っておくべき全てのことが主イエスによってこそ示されるのは、人の子つまり主イエスのみが、天から降って来た者であり、また天に上った者でもあられるからです。主イエス・キリストは、ご自身がまことの神である言として、父である神と共に初めから天におられ、天地創造に関わっておられました。そのことがこの福音書の第1章の冒頭に語られていました。1章1-5節です。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」。そしてこの命でもあり光でもある言が、肉となってこの世に来て下さり、地上を歩んで下さったのです。それが主イエスの地上のご生涯です。つまり主イエスこそ、「天から降って来た者」なのです。そして主イエスはこの地上において、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さいました。私たちのための救いのみ業を、ご自身の命をささげて実現して下さったのです。その主イエスを父なる神は復活させ、永遠の命を生きる者とし、天に上らせて下さいました。今主イエスは天において、再び父なる神と共におられます。この主イエスこそ「天に上った者」でもあるのです。

水と霊とによって生まれなければ
 独り子である神主イエスが天から降って来て救いのみ業を成し遂げ、父なる神によって天に上げられたことによって、私たちの救いのために必要な全てのことが成し遂げられました。この世界は、そして私たちは、今や父なる神と独り子主イエスによるこの救いの恵みの下にあるのです。その救いは地上においては今は隠されていて、誰の目にもはっきりと分かるものにはなっていません。しかし教会はその地上において、父なる神と独り子主イエスによる救いをはっきりと知っており、それを見ており、そのことを証ししています。ヨハネの教会もそうだし、私たちの教会も同じです。なぜ教会はこの救いをはっきりと知り、それを見ることができるのでしょうか。それは前回の箇所に語られていたことによってです。主イエスは3節で、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」とおっしゃいました。神の国を見る、それが父なる神と主イエスによる救いをはっきりと知り、それにあずかることです。その救いを見るためには、新たに生まれなければならないと主イエスは言っておられます。しかし私たちは、自分の力で新たに生まれることはできません。ニコデモが言ったように、もう一度母親の胎内に入って生まれることなどできないのです。だから私たちは、自分の力や努力によって、父なる神と独り子主イエスによる救いを見ることも信じることもできないのです。この救いが私たちに隠されているのはそのためです。しかし主イエスは5節で「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」とおっしゃいました。自分の力で新たに生まれることのできない私たちを、神が、水と霊とによって新たに生まれさせて下さるのです。そして私たちを神の国に、父なる神と独り子主イエスによる救いに入れて下さるのです。それは教会で洗礼を受けることを意味しています。洗礼を受けることによって、私たちは救い主イエス・キリストと結び合わされ、新しく生まれ変わってキリストの体である教会の一員とされます。教会は、洗礼を受けてキリストと結び合わされ、新しく生まれた者たちの群れなのです。それゆえに教会は、父なる神と独り子主イエスによる救いをはっきりと知り、それを見つめ、証しをしつつ歩むことができるのです。
 洗礼において私たちを新しく生れさせ、キリストの体である教会に連なる者として下さるのは聖霊なる神です。聖霊によって新たに生まれることによって私たちは、父なる神と独り子主イエスによる救いをはっきりと知り、それを見つめて証しする者となるのです。父なる神と独り子主イエスによる救いをはっきり知り、見つめ、証しすることは聖霊なる神による、ここに、父と子と聖霊という三者にしてお一人なる神による救いがあります。教会は、聖霊によって新しく生まれ変わり、父なる神と独り子主イエスによる救いをはっきりと知らされたので、それを証しすることができるのです。

迫害の中で証しを続ける教会
 しかしそのように教会が、私たちが、父なる神と独り子主イエスによる救いを証ししても、「あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない」という現実があります。そもそもこの救いの事実は、水と霊とによって新たに生まれなければ知ることのできないものなのですから、私たちの証しがなかなか受け入れられないのは当然のことです。私たちがもっと分かりやすく上手に語れば理解してもらえる、というようなものではないのです。しかし大事なことは、なかなか受け入れてもらえないという現実の中で、聖霊が働いて下さることを信じて、証しをし続けることです。ヨハネの教会も、迫害の中で証しをし続けました。「わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししている」という言葉がそのことを示しています。そのように教会が証し、伝道をし続けているからこそ、ここに描かれているニコデモのように、迫害を恐れつつも、人目を忍んでこっそりと教えを聞きに来るような人たちが現れるのです。ニコデモはこの後も何度か登場します。ファリサイ派の一員であり、地位の高い議員でもあるという立場の中で彼は、主イエスと弟子たちにある共感をもって発言していくのです。そして最後には、十字架につけられた主イエスの遺体を丁寧に埋葬するために、香料を持って登場します。このニコデモが最終的に主イエスを信じる信仰者となったのかどうか、そこははっきりしません。しかしこの福音書から分かることは、ヨハネの教会が、ニコデモのような半信半疑の状態にいる人が、主イエスを本当に信じる者となるために、聖霊の働きを信じて証しをし続けたということです。

主イエスの十字架を証しする言葉
 そのことを示しているのが14節だと思います。父なる神と独り子主イエスによる救いを告げる教会の証しを受け入れようとしない人たちにとって、最もネックとなっているのは主イエスの十字架の死です。十字架にかけられて死刑に処されたイエスが、神の独り子だとか救い主だなどということはとうてい信じられない、と彼らは思っているのです。つまり十字架の死が、主イエスを信じる上での大きな障害となっているのです。14節は、その主イエスの十字架の死が、私たちの救いのために必要不可欠なことであり、またそれは神のみ心によることだったのだ、ということを示そうとしているのです。「モーセが荒れ野で蛇を上げたように」というのは、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、民数記21章4?9節に語られていることです。エジプトにおける奴隷の苦しみから主なる神によって解放され、荒れ野を歩んでいたイスラエルの民が主に不平を言ったために、主は彼らの間に「炎の蛇」を送りました。それはおそらく疫病のことだろうと思われます。そのために多くの死者が出ましたが、モーセが主の言葉に従って「青銅の蛇」を旗竿の先に掲げたところ、それを見上げた者は命を守られたのです。この青銅の蛇が竿の先に上げられたことが、主イエスが十字架にかけられたことと重ね合わされています。主イエスの十字架の死は、神に対する罪によってもたらされる滅びからの救いのためにあの青銅の蛇が上げられることが必要だったように、私たちが罪を赦され救われるためにどうしても必要なことだったのです。そしてモーセがあの蛇を上げたことが主なる神のご命令によることだったように、主イエスの十字架の死も、父なる神の私たちに対する恵みのみ心によることだったのです。15節に語られているように、父なる神はこのことによって、御子主イエスを信じる者が永遠の命を得るための道を開いて下さったのです。

伝道の中で与えられた言葉
 ヨハネの教会の人々はこのようにして、イエスを救い主と信じようとしない人々に、主イエスの十字架の死によってこそ私たちの罪の赦しが実現したのだ、と証ししていったのでしょう。モーセが上げた蛇と主イエスの十字架を重ね合わせるこの説明が、どれだけ当時のユダヤ人たちに説得力を持ったのかは分かりません。このような説明によって主イエスが救い主であることが納得できたわけではないでしょう。しかし大事なことは、彼らがこのように、主イエスのことが信じられずにいる人々に、いろいろな手段を用いて熱心に語りかけ、伝道していったということです。そこには勿論、その人々のための熱心な祈りが伴っています。そのような祈りと伝道の中でこそ、聖霊なる神がみ業を行って下さって、人を新しく生まれ変わらせ、父なる神と独り子主イエスによる救いを分からせ、信じさせ、その信仰の告白へと導いて下さるのです。その教会の伝道の中から生まれたのが、次の16節の有名な言葉です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。私たちの信仰を一言で言い表しているこの珠玉の言葉は、教会が聖霊のみ業を信じて伝道していったことの中で与えられたものなのです。

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