「礼拝の場を築く」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:エレミヤ書 第7章1-11節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第2章13-22節
・ 讃美歌:231、99、492
エルサレムに上る主イエス
本日の箇所であるヨハネによる福音書第2章13節以下には、ユダヤ人の最大の祭である過越祭に、主イエスがエルサレムに上った時のことが語られています。先週読んだ12節までのところは、ガリラヤのカナにおける最初のしるし、つまり奇跡の話でした。その最後の12節には、主イエスと母、兄弟、弟子たちがガリラヤの町カファルナウムに滞在していたことが語られていました。本日の箇所の最初の13節で主イエスは、そこからユダヤのエルサレムへと移動なさったのです。ヨハネ福音書は、主イエスがこのように何度かエルサレムに上ったことを語っています。それはユダヤ人の祭の時です。ヨハネ福音書は、エルサレムにおけるユダヤ人の祭りを舞台として、主イエスのお姿を、主イエスがどのような救い主であられるのかを語ろうとしているのです。本日の箇所においては、過越祭が背景となっています。ヨハネは過越祭において、主イエスをどのような方として描いているのでしょうか。それをご一緒に読み取っていきたいと思います。
わたしの父の家を商売の家としてはならない
さて過越祭にエルサレムに上った主イエスは、その祭の中心である神殿に行かれました。そしてその境内で、牛や羊や鳩を売っている人たちや、両替をしている人たちを御覧になった、と14節にあるいます。神殿の境内でこのような商売がなされているということを読むと、私たちはすぐに、神社のお祭の時にその境内や参道に沢山の屋台や露店が並んで、食べ物やお土産を売っている様子を思い浮かべます。しかしエルサレム神殿で行なわれていたのは、そういう商売とは違います。ここで売られていた牛や羊や鳩は、神殿の祭儀つまり礼拝において犠牲としてささげるためのものです。神にささげる犠牲の動物は、傷のないものとして祭司に認められたものでなければなりませんでした。それゆえに、遠くから巡礼に来る人のために、祭司の認定ずみの動物が境内で売られていたのです。人々はそれを買って神に犠牲をささげて礼拝をしたのです。両替をしている者というのも、神に献げることができたのは特別なお金だけだったので、普通のお金からその献金用のお金への両替をしていたのです。つまりこれらの商売はみな、神殿の祭儀、礼拝のためになされていたことです。礼拝する人の便宜をはかるための、礼拝ビジネスが行なわれていたのです。勿論その手数料を取る、という商売にもなっていたわけですが、決して、綿飴や焼きそばを売っていたのではありません。しかし主イエスはその光景を見て、「縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。『このような物をここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない』」、このように主イエスは激しく怒られたのです。怒りの感情をこれのど剥き出しにし、しかも暴力的に振る舞っておられる主イエスのお姿が語られているのはこの場面だけですから、びっくりしてしまいます。主イエスのこの激しい怒りの中心にあるのは、「わたしの父の家を商売の家としてはならない」という思いです。主イエスは神殿を「わたしの父の家」と言っておられます。「独り子である神」であられる主イエスは、神を「わたしの父」と呼ぶことのできる唯一の方です。その主イエスにとって神殿は「わたしの父の家」なのです。これは、神が神殿に住んでおられるということではありません。天地を創造された神は、人間が造った建物にお住みになるわけではない、ということを、最初に神殿を造ったソロモン王が語っています。神殿というのは、神が住んでおられる所ではなくて、民がそこに集って礼拝をする、その礼拝に神がご臨在下さって、民と出会い、交わりを持って下さる、そのための場所です。つまり神殿が「神の家」と言われているのは、そこが礼拝の場所だからです。生きておられる神のみ前に出て礼拝をし、神との交わりに生きるための場が神殿なのです。その神殿が、たとえ礼拝の便宜をはかることが目的だったとしても、人間の商売の家、つまり人間が金儲けをする場とされていることに、主イエスは激しくお怒りになったのです。
主イエスへの反感
17節には、この主イエスの激しい怒りの姿を見た弟子たちが、「『あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす』と書いてあるのを思い出した」とあります。弟子たちは主イエスのお姿に、旧約聖書の言葉の実現を見たのです。それは詩編第69編の10節です。今の訳では「あなたの神殿に対する熱情がわたしを食い尽くしているので、あなたを嘲る者の嘲りがわたしの上にふりかかっています」となっています。ここに語られているのは、神の神殿を思う熱情に満たされているがゆえに、人々の嘲りが自分にふりかかっている、ということです。こういうことがまさに主イエスに起っている、と弟子たちは思ったのです。ご自分の父である神を礼拝する場である神殿を思う熱情にかられて、このように怒り、乱暴な振舞いをなさる主イエスは、人々を敵にまわし、反感をかい、嘲られてしまう、と弟子たちは心配したのです。その心配はすぐに現実となりました。ユダヤ人たちはイエスに「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言ったのです。これは主イエスに対する激しい反感、敵対の言葉です。神殿を「わたしの父の家」と呼び、祭司たちの許しを得て礼拝のためになされている商売を妨害するお前はいったい何様だ、こんなことをする権威がお前にあると言うのか、お前が神を父と呼び、神殿のあり方について指図することができる者であることのしるし、つまり証拠を見せろ、と彼らは言ったのです。
エルサレムの神殿
それに対して主イエスは「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」とおっしゃいました。それを聞いたユダヤ人たちはびっくりして「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言いました。この時のエルサレムの神殿について、聖書の後ろの付録の「用語解説」の「神殿」の項を見ておきたいと思います。付録の28頁ですが、「神殿」の項の最後のところにこうあります。「紀元前20年ごろヘロデ大王は大規模な修理拡張工事を始めた。イエスの時代には、周囲に回廊を巡らした広い境内と、白い大理石の美しい本殿を持つ、りっぱな建造物であった」。「この神殿を建てるのに四十六年もかかった」と言っているのは、このヘロデ大王による修理拡張工事のことです。この工事によって、この時のエルサレム神殿は、バビロン捕囚から帰った人々によって再建された質素な神殿とは比べものにならない立派な、壮麗なものとなっていたのです。その神殿を壊してみよ、三日で建て直してみせる、と言った主イエスに、人々はびっくりすると言うよりもむしろあきれかえったのです。
礼拝の中心を再建する
しかし主イエスのこのお言葉は、決して大言壮語ではありません。主イエスが「この神殿を壊してみよ」と言っておられる「神殿」という言葉は、本来は、神殿の中心であるいわゆる「至聖所」を意味する言葉です。その至聖所こそ、主なる神が臨んで下さる場であり、そこには年に一度大祭司だけが入ることができ、イスラエルの民全体の罪の贖いの儀式をしたのです。この至聖所を囲むように、礼拝の場が何段階かに分けて築かれていたのが神殿でした。そこで礼拝をしていたユダヤ人たちは、至聖所において大祭司が年に一度神のみ前に出る、そのまことの礼拝に思いを馳せつつ、神が臨んで下さるわけではないその周囲で礼拝をしていたのです。ヘロデ大王はその礼拝の場をさらに拡張して周囲に回廊を巡らし、異邦人も入れる広い庭を造りました。それがここで「神殿の境内」と言われている所です。しかしそれらは神殿の本質的な部分ではありません。神殿の中心は、神がそこに臨んで下さり、現れて下さる至聖所なのです。主イエスは、それを壊してみよ、三日で建て直す、とおっしゃったのです。それは、四十六年かけてヘロデが拡張した回廊や大理石の本殿を三日で建て直すということではありません。神殿の中心にある神のご臨在の場である至聖所を、つまり礼拝の中心を建て直す、ということであり、神の民のまことの礼拝を再建する、ということなのです。
神殿を破壊しているのは誰か
「この神殿を壊してみよ」という挑発的な言葉も、こんな神殿は壊れてしまえばいい、ということではありません。主イエスはユダヤ人たちに、あなたがたは、罪人が神による赦しの恵みによって生ける神のみ前に出て、神との交わりに生きるという礼拝の中心、本質を見失って、人間の願いや欲望をかなえるために神を利用するような礼拝を行い、またそれを人間のビジネスの場としてしまっている、そのようにしてあなたがた自身がまことの礼拝を破壊している、と言っておられるのです。そして「三日で建て直してみせる」というのは、あなたがた破壊しているまことの礼拝を、わたしは三日で建て直すのだ、ということです。「建て直してみせる」は直訳すれば、「私はそれを立ち上がらせる」であって、「してみせる」というような挑発的な、大見得を切るような言い方はここの翻訳としては相応しくありません。主イエスは、罪人である人間が神による赦しをいただいてみ前に出て礼拝をし、生ける神との良い交わりを与えられるというまことの礼拝の場が失われ、「商売の家」という言葉で代表されるような、人間の営みの場、人間の思惑や欲望が支配し、神がそのために利用されるような場となってしまっていることに激しく怒り、あなたがたが破壊したまことの礼拝を私が再建する、と宣言なさったのです。
まことの礼拝を打ち立てて下さる主イエス
ここで主が語っておられることは、先週読んだガリラヤのカナにおける最初のしるしにおいて示されていたのと同じことだと言うことができます。あのしるしにおいては、ユダヤ人の清めのための水がめに満たされた水が、主イエスが共に席に着いておられる祝宴のための喜びのぶどう酒に変えられました。この奇跡は、主イエスが来られたことによって神と人間との関係が決定的に変わったことを示しています。神と人間との関係が変わることは、礼拝が変わるということです。それまでは、罪人である人間は自らを清めることなしには神のみ前に出て礼拝をすることができなかったのです。その清めはそう簡単にできることではありませんから、年に一度、大祭司だけしか、まことの礼拝をすることができなかったのです。普段行なわれている人々の礼拝は、そのまことの礼拝を映し出す影のようなもの、あるいはまことの礼拝を遠くから眺めているようなものでした。つまり人々はまことの礼拝に連なることができなかったのです。しかし主イエスは、まことの礼拝を打ち立て、私たちをそこに連ならせて下さったのです。私たちの誰もが、罪を赦された喜びをもって神のみ前に出て、生ける神との良い交わりに生きていく、そういうまことの礼拝を主イエスが実現し、そのまことの礼拝の場であるまことの神殿を私たちのために築いて下さったのです。
三日で建て直される神殿
そのまことの礼拝の再建を「三日で」なさると主イエスは宣言なさいました。それは、主イエスが十字架にかかって死に、三日目に復活なさることを指しています。主イエスの十字架の死と復活によって、新しい、まことの礼拝が確立し、その礼拝の場であるまことの神殿が築かれ、私たちに与えられたのです。主イエスの十字架の死は、神の子である主イエスが私たちの全ての罪を背負って、それを帳消しにするために引き受けて下さったものでした。私たちはそれによって、罪を赦され、清められ、義とされて、生ける神のみ前に出て礼拝をすることができるようになったのです。私たちはもはや犠牲の動物をささげることも、水によって身を清めることもなしに、神のみ前に出ることができます。神への捧げものも、特別に清い何かを準備する必要はないのであって、罪と汚れに満ちている私たち自身を、神にお捧げすることができるのです。その私たちを神は清めて、み業のために用いて下さるのです。主イエスが十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちはそのようなまことの礼拝をささげることができるようになったのです。
そしてそこでは三日目の復活が大事です。「三日で」は復活をこそ見つめているのです。主イエスは復活によってこそ、新しいまことの神殿を打ち立てて下さったのです。21節には「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」とあります。主イエスの復活によって、キリストの体である新しいまことの神殿が築かれた、それは教会のことです。教会は主イエス・キリストの体である、と聖書は語っています。教会は、私たちの罪の赦しのために十字架にかかって死んで下さった主イエスが、復活して永遠の命を生きておられる、その主イエスのもとに集められ、その救いにあずかり、主イエスと結び合わされた群れです。私たちは、洗礼を受けることによって教会に加えられ、その一員となります。洗礼は、罪に支配されている生まれつきの私たちが、主イエスの十字架の死と一つとなることによって死んでしまい、罪から解放され、そして復活された主イエスとも一つになって、キリストの体の部分として、新しい命、永遠の命を生き始めることです。主イエスの十字架の死と復活によって、そしてさらには聖霊の働きによってですが、地上にキリストの体である教会が築かれたのです。このキリストの体である教会こそが、主イエスが三日で建て直すと宣言されたまことの神殿、まことの礼拝の場なのです。
教会の礼拝においてこそ
22節には、「イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」とあります。主イエスが三日で神殿を建て直すとおっしゃったのが、十字架の死と復活、そして教会の誕生による救いを指していたのだということを弟子たちが信じることができたのは、主イエスの十字架と復活を目撃し、そこに築かれた教会に連なって生きることの中でこそでした。私たちも今、教会の礼拝へと招かれています。教会における礼拝においてこそ私たちは、主イエスの十字架による罪の赦しを、また主イエスの復活による永遠の命の約束を、体験し、信じて新しく生き始めることができるのです。
過越の小羊である主イエス
さて、主イエスによるまことの礼拝の回復、まことの神殿の再建が、ユダヤ人の過越祭が近づく中、エルサレムの神殿において告げられたとヨハネ福音書は語っています。過越祭は、エジプトで奴隷とされていたイスラエルの民を主が解放し、エジプトから脱出させて下さった時の主なる神の救いのみ業に由来しています。主の使いがエジプトの全ての初子、つまり最初に生まれた男の子を打ち殺す、という恐るべきみ業をなさり、それによってようやくイスラエルの民は解放されたのです。その時、イスラエルの初子は一人も打ち殺されることはありませんでした。「過越の小羊」の血がイスラエルの民の家の戸口に塗られ、それが目印となって、主の使いはその家を過ぎ越した、通り過ぎたのです。過越の小羊が犠牲となって死ぬことによって、イスラエルの初子は救われ、民全体が奴隷の苦しみから解放された、そのことを記念するのが過越祭です。このエジプトの奴隷状態からの解放の恵みによって、イスラエルの民は、主なる神の民、主を礼拝しつつ生きる民として新しく歩み出すことができました。ですからこの過越祭において、まことの礼拝の回復、まことの神殿の再建が告げられたのは相応しいことです。礼拝の回復とまことの神殿の再建は、主なる神の民、主を礼拝しつつ生きる民が新たに興されるということでもあるのです。そのことが、主イエス・キリストの十字架の死と三日目の復活、そして復活した主イエスのもとに教会が結集されることによって実現したのです。主イエスが十字架につけられたのは、やはり過越祭の時でした。ヨハネ福音書は、主イエスが過越の小羊として十字架にかけられ、殺されたことを強調して語っています。1章29節で、洗礼者ヨハネが主イエスのことを「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と証ししたことも、主イエスが過越の小羊であられることを示しています。主イエスは私たちの罪を背負って十字架にかかり、私たちの身代わりとなって死んで下さったのです。主イエスが私たちに代って死んで下さったことによって、本来罪人として打ち殺されるべき私たちが救われ、主なる神を礼拝しつつ生きる主の民とされたのです。私たちのための過越の出来事が、主イエスの十字架の死によってなされたのです。そのおかげで私たちは、罪を赦され、神のみ前に出て礼拝をすることができるようになったのです。ヨハネ福音書は、私たちのための過越の小羊として、十字架にかかって死んで下さることによって私たちにまことの礼拝を与えて下さった救い主イエス・キリストを描いているのです。
礼拝の場を築く
主イエスが与えて下さったまことの礼拝の場、つまり新しいまことの神殿が、キリストの体である教会です。三日目に復活して永遠の命を生きておられる主イエス・キリストのもとに召し集められ、洗礼によってキリストと結び合わされ、主イエスの父である神を礼拝している教会こそ、主が建て直して下さった神殿なのです。その教会とは建物のことではありません。私たちの教会は今、会堂の外壁の補修工事を行なっています。四十六年まではかからず、三ヶ月の工期で、もうすぐ完成する予定です。今年のクリスマスは、見違えるようにきれいになった会堂で迎えることができるでしょう。このことのために私たちはこれまで献金をささげてきました。横浜市や国からの補助もいただいていますが、皆の祈りに基づく献金によってこそ、この工事が行われているのです。つまりこれは私たちの信仰の業です。この工事の完成を間近にしている今、私たちがしっかりと弁え、見つめていかなければならないのは、教会堂とは、礼拝がなされる場だということです。本日の説教の題を「礼拝の場を築く」としたのは、この工事を覚えてのことでもあります。私たちは今、礼拝の場を築き、整えるための工事をしているのです。そしてその礼拝は、建物を美しく補修し整えることによって可能となるのではありません。あるいは神がこの建物の中にお住まいになっているからここに来れば礼拝ができるのでもありません。まことの礼拝は、神の独り子主イエス・キリストの十字架の死と、三日目の復活によってこそ打ち立てられ、与えられているのです。そのまことの礼拝の群れである教会へと、私たちは聖霊によって召し集められているのです。その礼拝のための器がこの教会堂です。ここで私たちが、主イエスの十字架の死と復活によって与えられたまことの礼拝をささげていくならば、そこにはキリストの体である教会が築かれていきます。父なる神の家であるまことの神殿がここに建て上げられていくのです。会堂補修工事の完成を目前している今、私たちは、主イエス・キリストが十字架の死と復活によって実現し、与えて下さった真実な礼拝をここでささげるための祈りを深くし、そのために聖霊の導きを求めていきたいと思います。美しく整えられた会堂を、まことの礼拝の場として主にお献げする、そういうクリスマスを迎えようではありませんか。