主日礼拝

荒れ野で叫ぶ声

「荒れ野で叫ぶ声」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第40章1-8節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第1章19-28節
・ 讃美歌:15、193、237、73

証し人ヨハネ
 新約聖書には四つの福音書があって、それぞれが、主イエス・キリストのご生涯を違った角度から見つめ語っています。それぞれの特徴ある語り方を通して、主イエスのお姿が立体的に描き出されている、と言うことができます。その違いは、主イエスよりも先に現れて主イエスのための備えをした洗礼者ヨハネについての語り方にも表れています。主イエスが現れる前に洗礼者ヨハネが活動したことは四つの福音書に共通して語られていますが、そのヨハネの描き方はそれぞれに違っているのです。ヨハネによる福音書は洗礼者ヨハネをどのように描いているのでしょうか。既に6、7節に洗礼者ヨハネのことが語られていて、そこにはこうありました。「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである」。ヨハネは証しをするために来た、これがヨハネ福音書における洗礼者ヨハネの位置づけです。「光について証しをするため」ともあります。その「光」とは、9節に「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」と言われている光、つまり主イエス・キリストのことです。すべての人を照らすまことの光である主イエスについて証しをするために、洗礼者ヨハネは神によって遣わされたのです。

お前は何者だ
 本日の箇所の冒頭の19節は、「さて、ヨハネの証しはこうである」と始まっています。ヨハネがどういう証しをしたのかがこの19節以下に語られていくわけです。今見たようにヨハネは主イエスについて証しをするため遣わされたのですから、ここには、ヨハネが主イエスについて語ったことが記されているのだろう、と私たちは思います。ところがこの19節以下に語られているのは、「あなたはどなたですか」と問われたヨハネが、「わたしはこれこれではない、これこれだ」と答えたということです。つまりヨハネはここで自分のことを語っている、自分のことを証ししているのです。
 エルサレムのユダヤ人たちから遣わされた人々はヨハネに、「あなたはどなたですか」と尋ねました。それは勿論彼の名前を尋ねたのではありません。ヨハネは、25節以下に語られているように、人々に洗礼を授けていました。ヨハネがどのようなことを教えて洗礼を授けていたのかをヨハネ福音書は語っていませんが、他の福音書によれば、彼は人々に罪の悔い改めを求め、悔い改めて神に立ち帰ることの印として洗礼を授けていたのです。つまり彼が授けていた洗礼は、人々と神との関係を正しく整えることを意味していたわけで、神から遣わされた者としての権威がなければできない大それたことだったのです。エルサレムから来た人々は、「お前にそんな権威があるのか、何様だと思ってそんな大それたことをしているのか」という思いを込めて「あなたはどなたですか」と尋ねたのです。ですからここはこんな丁寧な訳し方ではなくて「お前はいったい何者だ」と訳した方がよいのです。ヨハネはそういう厳しい問いを受けたのです。

ヨハネの証し
 ヨハネはこの問いに対して、「公言して隠さず、『わたしはメシアではない』と言い表した」と20節にあります。ここは以前の口語訳聖書では「彼は告白して否まず、『わたしはキリストではない』と告白した」と訳されていました。原文であるギリシア語の言葉は「キリスト」です。新共同訳がそれを「メシア」と訳したのは、元のヘブライ語の言葉に戻したということですが、それは翻訳とは言えません。キリストも、元の言葉であるメシアも、いずれも神が約束して下さった救い主を意味しています。エルサレムから遣わされた人々は、お前は自分が救い主だとでも思っているのか、と厳しく問うたのです。それに対してヨハネは、「いや、私は救い主ではない」と言ったのです。ところでこの20節の翻訳には、キリストと訳すかメシアかと訳すかということ以上に大事なことがあります。ここの原文には、「告白する」という言葉が二度繰り返されているのです。新共同訳ではそのことが分かりませんが、「彼は告白して否まず、『わたしはキリストではない』と告白した」という口語訳にはそれがはっきり表されています。このことの大事な意味については後で触れたいと思います。
 さてヨハネが「私はメシアではない」と言ったことを受けて人々は「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねました。エリヤは旧約聖書に出てくる預言者ですが、救い主メシアの先駆けとしてもう一度現れる、と旧約聖書にあります。お前は自分が救い主メシア、キリストではないけれどもエリヤだと言うつもりなのか、と彼らは問うたのです。それに対してもヨハネは「違う」と答えました。すると彼らは更に「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねます。「あの預言者」というのは「モーセのような預言者」のことで、やはり神による救いが実現する時に遣わされると考えられていた人です。しかしヨハネはそれに対しても「そうではない」と答えました。「お前は何者だ」という問いに対するヨハネの答えは、「わたしはメシアでも、エリヤでも、あの預言者でもない」だったのです。つまりヨハネは、「わたしは救い主ではないし、神による救いをもたらす者でもない」と言ったのです。

わたしは荒れ野で叫ぶ声である
 しかしエルサレムから来た人々は、彼の答えが「○○ではない」ということばかりなので満足しません。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか」と問うたのです。あなたは何者なのかと問うているのだから、○○ではない、と言うだけではなくて、私はこれこれだ、とはっきり言ってほしい、ということです。それに対してヨハネは、イザヤ書の言葉を用いて「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」と答えました。ここも口語訳聖書で読んでみると、「わたしは、預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』である」となっていました。この訳の違いは、「預言者イザヤが言ったように」をヨハネの言葉の中に入れるか入れないかですが、原文の訳としては「イザヤの言葉を用いて」という新共同訳は不自然であって、「イザヤが言ったように」という口語訳の方が自然だと言えます。しかし新共同訳にも魅力があります。それは、ヨハネが自分は何だと言ったのかがはっきりする訳となっていることです。ヨハネは、「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」と言ったのです。これはイザヤ書第40章3節の引用です。洗礼者ヨハネの出現が、先ほど読まれたイザヤ書40章の成就であることは、他の三つの福音書も共通して語っています。しかしヨハネ自身が「わたしは荒れ野で叫ぶ声である」と語っているのはこのヨハネ福音書のみです。洗礼者ヨハネは「荒れ野で叫ぶ声」だった。ヨハネは自分が「荒れ野で叫ぶ声」であることを自覚して、その「声」であることに徹して生きたのだ、とヨハネ福音書は語っているのです。

自分のことを語りつつ主イエスの証しをしたヨハネ
 ヨハネは「声」であることに徹して生きた、それは即ちヨハネは証しのために生きた、ということです。ヨハネは主イエスを証しする声として生きたのです。彼は、私はメシアでもエリヤでもあの預言者でもない、救い主ではないし神による救いをもたらす者でもない、私は「主の道をまっすぐにせよ」と叫ぶ声だ、と語ったことによって、主イエス・キリストを証ししたのです。「ヨハネの証しはこうである」という19節からのところでヨハネは、問いに答えて自分のことを語っています。しかし彼は自分のことを「○○ではない」と語ることによって主イエスを証ししたのです。自分はメシアではない、それは主イエスこそがメシアであるということです。自分は神による救いをもたらす者ではない、それは主イエスこそがその救いをもたらす方だということです。そして、自分は「主の道をまっすぐにせよ」と叫ぶ「声」だと言ったことによって彼は、到来しようとしている救い主イエス・キリストに人々の心を向けさせようとしたのです。このようにヨハネは、自分のことを語ることによって、まことの救い主であられる主イエスの証しをしたのです。
 26節以下には、救い主でも救いをもたらす者でもないあなたがなぜ洗礼を授けるのか、と問いつめる人々に彼がこう答えたことが語られています。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない」。この答えも、なぜ洗礼を授けているのかという問いへの直接の答えではなくて、あなたがたの知らないまことの救い主が既に世に来ておられる、私はその方のための備えをしているのであって、その方の履物のひもを解く値打ちもない者だ、と言うことによって主イエスを指し示しています。「わたしは」と自分のことを語っていながら、実は自分のことではなくて主イエスのことを、主イエスこそが救い主であられることを証ししている、それがヨハネの証しだったのです。

証しは信仰告白でもある
 ヨハネ福音書は、洗礼者ヨハネが主イエスを証しするために神から遣わされたことを語っています。そのことは既に6節以下に語られていました。先月そこについて説教をした時に私は、証しをするとは、自分が目撃したこと、知っていることを証言することだ、と申しました。そしてこのヨハネ福音書全体が、主イエスについての証言として語られているのだ、とも申しました。しかし本日の箇所におけるヨハネの証しを読むことによって気づかされるのは、ヨハネはただ自分が主イエスについて見聞きして知っていることを語っているだけではない、ということです。彼の証しは「わたしは誰なのか」という内容になっている。彼は自分のことを語っているのです。正確に言えば、主イエスと関係を持って生きている自分のことを語っているのです。それによって主イエスを証ししています。ここに、主イエスを証しするとはどういうことかが示されています。主イエスを証しするとは、何かの事件にたまたま出くわした人が、「こんなことを目撃しました」と証言するようなこととは違うのです。主イエスを証しすることは、自分自身のことを語ることです。自分が主イエスと関わってどのように生きているのかを、つまり自分とは何者なのかを語ることによってこそ、私たちは主イエスを証しすることができるのです。主イエスについての証しは、第三者としての証言ではあり得ません。自分がどう生きているかを抜きにしてイエスとはこういう方だと語ることはできないのです。そういう意味で、主イエスについての証しは常に信仰の告白でしかあり得ません。証しとは証言であると同時に信仰告白であるということを、洗礼者ヨハネの証しは示しているのです。その意味で、先程申しましたように20節の原文に「告白した」という言葉が二度語られていることには大事な意味があるのです。ヨハネは告白をしたのです。「私は救い主ではない」と告白したことによって、「私の後に来る主イエスこそが救い主であられる」という信仰を告白したのです。

ヨハネ福音書の教会の置かれた状況
 そしてこの「告白する」は、ヨハネによる福音書が書かれた教会の置かれていた事情を知る上で重要な言葉です。この福音書の9章22節にこのように語られています。「両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである」。また12章42節にもこのように語られています。「とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった」。この二つの箇所において「公に言い表す」と訳されているのが、本日の20節に二度出て来る「告白する」という言葉なのです。いずれにおいても、主イエスをメシア、救い主と信じてその信仰を告白する、という意味で使われています。そしてユダヤ人、ファリサイ派の人々が、主イエスを信じる信仰を告白する者を会堂から追放すると決めていたことがどちらの箇所においても語られています。これが、ヨハネ福音書が書かれた教会が当時置かれていた状況だったのです。この福音書は、他の三つの福音書よりも少し後の時代に書かれました。その時代、初めのうちはユダヤ教の一派と思われていたキリスト教会の信仰が、ユダヤ教とは違うことが明確になってきて、ユダヤ人たちの会堂から排斥され、迫害を受けるようになっていたのです。その違いの根本は、主イエスこそがメシア、キリスト、神から遣わされた救い主であると信じ告白することです。そのように告白する者は会堂から追放する、というユダヤ人、ユダヤ教の側の意志が明確になっていたのです。ユダヤ人たちをそのように指導していたのがファリサイ派です。ファリサイ派が、イエスを救い主と信じる者たちを会堂から追放していたのです。本日の箇所の24節に「遣わされた人たちはファリサイ派に属していた」とあることはその事情を反映しています。19節にはその人々が「祭司やレビ人たち」だったとありますが、それはあり得ません。祭司やレビ人というのは神殿に仕える人々で、紀元70年のローマ帝国によるエルサレム神殿の破壊によって彼らは歴史から姿を消しました。彼らに代って、律法を守って生きることを中心として今日に至るユダヤ教を築いていったのがファリサイ派です。祭司やレビ人がファリサイ派だったというヨハネの記述は歴史考証的に間違っているわけですが、ヨハネ福音書は要するにユダヤ人の指導者たちがこぞって、イエスを救い主と告白する人々を迫害していた、という状況を語ろうとしているのです。洗礼者ヨハネはそのファリサイ派の人々に対してはっきりと主イエスを証しし、イエスこそメシア、キリスト、神が遣わして下さった救い主であられるという信仰を告白したのです。ヨハネ福音書はそういうヨハネを、主イエス・キリストを信じる信仰を告白して生きる信仰者の模範として描いています。主イエス・キリストを信じる信仰に生きるとは、このヨハネのように、主イエスこそ救い主であられるという信仰を人々の前で言い表し、告白し、主イエスを証しする声として生きることなのです。

主イエスを証しして生きる喜び
 そのような信仰告白、証しが、先程申しましたように、自分自身のことを語ることと分ち難く結びついているということが、本日の箇所から私たちが受け止めるべき大切なメッセージです。ヨハネは、「あなたは何者か」という問いに答えて、「私はこういう者だ、このように生きているのだ」と語ったのです。彼は、私は救い主ではない、救いをもたらす者でもない、ただ、まことの救い主を指し示し、その方に仕える者に過ぎないと言いました。自分はその方の履物のひもを解く資格もない、とも言っています。履物のひもを解くことは当時奴隷の仕事とされていました。つまりヨハネは、自分は主イエスに奴隷として仕える資格もない者だ、と言ったのです。このように自分自身のことを語ることによって彼は主イエスを証しし、主イエスへの信仰を告白し、主イエスを指し示す声として生きたのです。
 彼がこのように自分自身には何の力も資格もない、奴隷となる価値すらない、と語ったことは、彼が、自分には何の力もない、自分は何もできない、何の価値もない、と卑屈になり、自分などどうせ何もできないんだ、と自嘲的に、暗く、寂しい、悲観的な、後ろ向きで消極的な、喜びのない生き方をしていた、ということでしょうか。あるいは、自分が決して前面に出ないように、いつも謙遜に、控え目に、目立たないようにしていなければ、という不自由で窮屈な思いによって無理をして生きていた、ということでしょうか。そのどちらでもありません。彼は窮屈な思いも無理もしてはおらず、むしろ全く自由に生きています。洗礼を授けるなど何様のつもりだ、と厳しく批判されても、堂々と、私はイザヤが預言していた「荒れ野で叫ぶ声」として、救い主の到来に備えて洗礼を授けているのだ、と答えることができました。私自身は救い主でも、救いをもたらす者でもない、後から来られる救い主の履物のひもを解く資格もない者だ、と語っているヨハネは、卑屈になっているのでも、自嘲的になっているのでもなくて、喜びに満たされているのです。神が自分を遣わし、用いて下さっていることを彼は自覚しています。自分がそういう者として生きている、生かされていることには意味があるということを彼は豊かに感じているのです。主イエス・キリストこそ救い主であられるという信仰を告白し、主イエスを証しして生きる者は、このように自分自身を確立することができます。自分とは何者か、自分は何のために生きているのか、をはっきりと自覚して、人生を喜んで積極的に生き、敵対する者たちの前でも自由に堂々と歩むことができるのです。それらは全て、主イエス・キリストを信じる信仰を告白し、主イエスを証しする者に与えられる恵みです。主イエス・キリストは、ご自身がまことの神であり、神の「言」であられるのに、肉となってこの世に来て下さった方です。その主イエスは、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さることによって私たちの罪を赦して下さり、復活によって、私たちが死を超えた永遠の命に生きる者とされるための道を拓いて下さいました。この主イエスを信じてその救いにあずかり、主イエスの下で、主イエスと共に生きるなら、私たちは、洗礼者ヨハネと共に、自分自身のことを喜びをもって語ることによって主イエスを証しし、主イエスを指し示す喜ばしい声として生きることができるのです。

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