「ヨセフの夢」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書; 創世記 第37章1-36節
・ 新約聖書; ローマの信徒への手紙 第8章28節
・ 讃美歌 ; 313、528
不幸な家庭の物語
月に一度、私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書の創世記を読み進めています。これまで私たちは、第12章以来、イスラエルの民の父祖であるアブラハム、その子イサク、その子ヤコブの物語をたどってきました。本日は第37章を読むのですが、この37章から、ヤコブの息子ヨセフの物語が始まります。ヨセフの物語は、37章から始まり、38章をとばして39章から創世記の最後の50章まで続いていく大変長い物語です。そしてこの物語は、イスラエルの民が、神様が彼らに与えると約束して下さっていたカナンの地を離れて、エジプトに移り住むようになったいきさつを語っています。エジプトに移り住むことができたことによって彼らは、飢饉によって飢え死にしてしまうことを免れたのです。つまりヨセフ物語は神様の恵みによる救いの物語であり、その発端が本日ご一緒に読む37章なのです。
しかしこの第37章を読む限り、そこには神様の恵みによる救いのみ業などどこにも見られません。それどころか、ここに語られているのは、人間の罪と、それによって引き起こされた悲惨な出来事ばかりです。そもそもこの37章には「神」という言葉が一度も出てきません。ここに繰り広げられているのは、まさに神不在の、人間の悲劇です。それは具体的に言うならば、一つの家族の崩壊の有り様です。その家族とは、ヤコブの家族です。2節に「ヤコブの家族の由来は次のとおりである」とあります。しかし「由来」という訳語はこの後語られていくこととは合わないのであって、ここはむしろ「家族の歴史」とでも訳すべきです。ヤコブの家族、その子供たちの歴史が語られていくのであって、そしてそれは大変不幸な歴史なのです。トルストイの小説「アンナ・カレーニナ」の冒頭に、「幸福な家庭というのはどれも似たり寄ったりだが、不幸な家庭はそれぞれに不幸である」という有名な句がありますが、ヤコブの家庭の不幸とはどのようなものだったのでしょうか。
子育ての失敗
ヤコブには12人の男の子がいました。これらの子供たちは皆ヤコブの子ですが、4人の女性から生まれた人々です。ヨセフは、その中の下から二番目です。このヨセフと、その下のベニヤミンの二人は、ヤコブが最も愛した妻ラケルの産んだ子でした。そういうこともあって、また3節にあるように、年寄り子でもあったので、ヤコブはヨセフを他のどの子供よりもかわいがっていたのです。ここに、この家庭の不幸の源がありました。親の偏った愛が、兄たちの嫉妬を引き起こしたのです。また、その愛を受けたヨセフ自身も、甘やかされた、無神経な、鼻持ちならない人間に育っていったようです。2節には、彼は兄たちのことを父ヤコブに告げ口した、とあります。この兄たちというのは、父の側女ビルハやジルパの子供たちです。わざわざそう書かれているところを見ると、ヤコブの妻であったレアとラケルの産んだ子供たちと、彼女らの召し使いだったビルハとジルパの産んだ子供たちとの間にはある区別があったようです。ヨセフがこの兄たちと一緒に羊の群れを飼っていたというのは、ヤコブがヨセフを使ってこの兄たちの様子を探らせていたのかもしれません。いずれにしても、兄たちにとってこのヨセフの存在は不愉快なものです。またヨセフは、自分が見た夢、兄たちの麦束が自分の麦束の前にひれ伏したとか、太陽と月と十一の星が自分の前にひれ伏したという夢のことを、得意になって兄たちや父に語るという、まさに彼らの神経を逆撫でするようなことをしています。こんなことを言えば兄弟たちがどのように思うか、という人の気持ちが全く分からない、今流行の言葉で言えばKY(空気が読めない)です。これらのことは、父ヤコブの、ヨセフへの偏愛、えこひいきという、子育ての失敗によることだったと言えるでしょう。親の子育て、教育の失敗が、家族の、家庭の崩壊の危機を招いているのです。それは私たちの誰にとっても他人事ではないでしょう。親である者は誰もが、自分の子育てについて、いろいろと後悔の念を抱きます。子供を育てていく中で、あの時もっとこうすればよかった、こうすべきだった、ということに後から思い当たるのです。親の立場にはない人も、自分の親、育ててくれた人々によって様々な影響を受けていることを感じます。勿論よい影響もあるけれども、悪い影響もあるのです。自分がこうなってしまったのは親のせいだ、と感じることがあるのです。私たちは皆罪ある人間ですから、親の子育ての失敗の影響を誰もが受けているし、また自分の子育ての失敗を誰もが嘆くのです。ヨセフの物語は、そのような、罪ある人間の子育ての失敗によって生じた家庭の悲劇、苦しみから始まっているのです。
シャーロームの喪失
さて、ヤコブのヨセフへのえこひいき、偏愛は、彼のために裾の長い晴れ着を作ってやった、ということにも現れている、と3節後半が語っています。このことは、単なるえこひいきというより以上の重大な意味を持っています。この「裾の長い晴れ着」という言葉は、他の箇所としてはサムエル記下の13章18、19節にのみ出てきます。そこでは、未婚の王女の着る服を意味しています。つまりヤコブはヨセフを、この家庭の中で王女様のように持ち上げていたのです。裾の長い服というのは、労働には適しません。他の兄弟たちが皆、裾の短い働きやすい服を着て、汗水流して働いている中で、ヨセフは、王女様のようにのうのうと暮らしていたのです。兄たちにとってそれは、父がヨセフを自分たちの王様にし、自分たちはその家来にされているように感じられることだったのです。そのために、4節、「兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった」のです。これが、この家庭の陥った不幸の中心です。穏やかに話すことができなくなる、穏やかさ、平安、平和が失われてしまったのです。この「穏やか」という言葉は、旧約聖書の原語のヘブライ語で「シャーローム」という言葉から来ています。「シャーローム」は旧約聖書において大変大事な言葉であり、また非常に豊かな内容を持った言葉です。通常は「平和」と訳されます。しかし日本語の「平和」という言葉では言い尽くせない豊かな意味を持っています。即ち、単に争いやもめ事のない、平穏無事な、ということではなくて、神様の祝福が満ち溢れている状態を表している言葉なのです。ですからこの「穏やかに」というのも、争いや問題がなくて穏やかだというのではなくて、神様の祝福に満たされている穏やかさ、神様の祝福による平和、平安をもって、ということです。そういう穏やかさが、この家庭から失われてしまったのです。つまりヤコブの家庭が陥った問題は、平穏無事だったところに波風が立ったということではなくて、神様の満ち溢れる祝福、シャーロームを失ってしまったということだったのです。
ここに、今日の社会において私たちが直面している問題の根本が示されていると言えるでしょう。家庭の崩壊とか、家族の力の喪失ということを私たちは今日実感していますが、その根本的原因は、神様の祝福によって与えられる平和、平安、即ちシャーロームを失っていることにあるのではないでしょうか。平穏無事であること、波風が立たないことばかりをいくら求めていっても、それは根本的な解決になりません。家庭は、問題や争いが「ない」という消極的なことによってではなく、神様の祝福がそこに「満ち溢れている」という積極的なことによってこそ、人を生かし、支え、育み、平安を与えるものとなるのです。家庭の崩壊、不幸は、神様の祝福を失うことによってこそ起るのです。
殺意
ヤコブの家庭はまさに、神様の祝福に満たされたシャーロームを失いました。「穏やかに話すこともできなかった」とはそういうことです。シャーロームが失われた家族には、憎しみが生まれ、それはどんどん募って、兄弟殺しへところがり落ちていきます。12節以下で父ヤコブはヨセフを、羊の群を放牧している兄たちのところに遣わして、その様子を報告させようとしています。ヤコブは14節でヨセフにこう言っています。「では、早速出かけて、兄さんたちが元気にやっているか、羊の群れも無事か見届けて、様子を知らせてくれないか」。この「元気にやっているか」「無事か」という言葉もシャーロームです。兄たちがシャーロームであるか、羊の群れがシャーロームであるか、を確かめさせようとしているのです。しかし、そのシャーロームはとっくの昔に失われています。18~20節「兄たちは、はるか遠くの方にヨセフの姿を認めると、まだ近づいて来ないうちに、ヨセフを殺してしまおうとたくらみ、相談した。『おい、向こうから例の夢見るお方がやって来る。さあ、今だ。あれを殺して、穴の一つに投げ込もう。後は、野獣に食われたと言えばよい。あれの夢がどうなるか、見てやろう』」。兄たちの思いは、ヨセフに対する憎しみ、殺意で満たされてしまっているのです。 家庭の崩壊 そのような憎しみと殺意の中で、この兄弟の長男であるルベンは、ヨセフの命をなんとか助けようとします。それが21節以下です。彼は長男として、最年長者として、分別ある行動を取ろうとしたのです。しかし、シャーロームを失って坂道を転がり始めた憎しみ、殺意は、彼一人の分別や責任感によってもはや止めることはできませんでした。ルベンは、22節にあるように、ヨセフを穴に投げ込むだけにしておいて、後で助け出し、父のもとに帰そうと思っていたのです。しかしその計画ははずれ、ヨセフは通りかかった隊商に奴隷として売られてしまいます。この場面の記述は錯綜していて、兄たちが一旦ヨセフを穴に投げ込んだが、そこから離れて食事をしていると、イシュマエル人の隊商が通りかかり、それを見たユダが、ヨセフをあの隊商に売ろうと提案し、そうすることになった。ところが彼らが穴の所に戻って見たら、ヨセフは既にミディアン人の商人たちによって穴から引き上げられ、イシュマエル人に売られてしまった後だった、という複雑な話になっています。これはおそらく、ヨセフは兄たちによって奴隷に売られたという話と、ミディアン人たちによって見つけ出されて売られたという二つの話がもともとあって、それが無理に結合されたためにこのようになったのでしょう。いずれにしても、長男ルベンの善意にもかかわらず、ヨセフは奴隷としてエジプトに売られてしまったのです。神様の祝福、シャーロームを失った家庭は、現実においてもこのように崩壊してしまったのです。31節以下の話は、その行き着く先を示しています。兄たちはヨセフの着物に山羊の血をつけ、ヨセフが野獣に食い殺されたように見せ掛けます。自分たちの犯した罪を隠し、責任を逃れるためにこのような偽装をするのです。父ヤコブはこの知らせを聞いて深く嘆き悲しみます。34、35節「ヤコブは自分の衣を引き裂き、粗布を腰にまとい、幾日もその子のために嘆き悲しんだ。息子や娘たちが皆やって来て、慰めようとしたが、ヤコブは慰められることを拒んだ。「ああ、わたしもあの子のところへ、嘆きながら陰府へ下って行こう。」父はこう言って、ヨセフのために泣いた」。慰められることを拒むほどの悲しみ、絶望のどん底に、ヤコブは突き落とされてしまったのです。この家庭の不幸はここに極まったのです。その不幸の原因は何か、誰が悪いのか、と問うならば、ヤコブにも、ヨセフにも、兄たちにも、それぞれに原因があり、悪い点があったと言わなければならないでしょう。また同時に、それぞれに同情すべき点もあると言えるでしょう。誰か一人が決定的に悪いわけではない、みんながそれぞれ罪を犯している、そのような中で、一つの家庭からシャーロームが失われ、そこに連なる者たち全てが、苦しみ悲しみ嘆きに陥っていったのです。このヤコブの家庭の話は、私たちにとって決して他人事とは言えないでしょう。
ヨセフの夢
37章はこのように、ヤコブの家庭が、人間の罪によって神様の祝福を、シャーロームを失い、その結果そこに連なる者たちが深い苦しみを負ったことを語っています。しかしこの37章の出来事には、もう一つ別の側面があるのです。その別の側面を見るために私たちはここで、ヨセフの見た夢に注目したいと思います。ヨセフは5節以下で、二つの夢を見たことを語っています。「畑で束を結わえていると、兄たちの束が自分の束にひれ伏した」という夢と、「太陽と月と十一の星が自分にひれ伏した」という夢です。これらの夢はどのような意味を持っているのでしょうか。
神の計画
今日私たちは、夢というものが、人間の心の奥底に隠された深層心理から生じるものだ、という説明を聞いています。確かに私たちの見る夢にはそういうことが多々あると思います。しかし、創世記を、また聖書全体を読んでいく時に私たちは、夢というものをそのように理解してしまってはならないのです。聖書において夢は、神様が人間にみ心を、またこれから起ることを示すためにお用いになる手段です。神様が夢においてみ心を、ご命令をお告げになるという場面が、旧約聖書にも新約聖書にも多々あります。聖書において夢は、人間の深層心理から生まれるものではなくて、神様がみ心を示し教えて下さるためのものなのです。ですから、ヨセフがあのような夢を見たというのも、彼が父に甘やかされ、溺愛されていたために、自分が家族の中で誰よりも偉いんだという傲慢な思いに陥っていた、その思い上がりがああいう夢になって表れた、ということではありません。あの夢は、ヨセフのねじ曲がった鼻持ちならない性格から生じたのではなくて、神様が、これから起ること、神様ご自身のご計画を示すために与えられたのです。その神様のみ心、ご計画においては、兄弟たちは皆、ヨセフの前にひれ伏すようになる、父ヤコブすらも、ヨセフの前にひれ伏すようになるのです。そのことによって、彼ら一族が、即ち神様の民イスラエルが、守られ、生き延び、そしてさらに繁栄していく道が開かれることになっていたのです。
神の計画への挑戦
けれども兄弟たちは、ヨセフの夢を受け入れることができませんでした。彼らはそこに神様のみ心やご計画の示しを見るのではなくて、ヨセフの傲慢を、兄たちを差し置いて自分がこの家の主人になろうとする思い上がりのみを見たのです。そしてヨセフに対する敵意と殺意を抱いたのです。先程読んだ20節にこうありました。「さあ、今だ。あれを殺して、穴の一つに投げ込もう。後は、野獣に食われたと言えばよい。あれの夢がどうなるか、見てやろう」。「あれの夢がどうなるか、見てやろう」。これは兄たちにとっては、我々が皆ヨセフの前にひれ伏すなどというあいつの夢はけしからん。そんな傲慢な夢を実現させてなるものか、という思いです。しかしそこには、意識はされていなくても、実際には、神様のみ心、ご計画への反逆、挑戦があったのです。「あれの夢がどうなるか、見てやろう」というのは、深いところでは、「神の計画がどうなるか、見てやろう。神よ、お手並み拝見」ということだったのです。
兄たちのヨセフに対する嫉妬、その怒りや憎しみは私たちにもよく分かります。彼らの気持ちには同情を覚えます。私たちが同じ立場だったら同じように思うでしょう。しかし私たちがこの物語から教えられるのは、私たちのそのような嫉妬や怒りや憎しみの思い、自分にはそれを抱く当然の理由がある、と思うその思いが、神様のみ心、ご計画に対する反逆である場合も、このようにあるのだということです。神様のみ心、ご計画は私たちには測り知ることができません。神様は時として、私たちの思いや願いとは全く違う仕方で、私たちが、それは理不尽だ、と思うようなことを通してみ業をなさることがあるのです。そのみ業は、決して気紛れになされているのではありません。神様は、人をゲームの駒のように勝手に動かして楽しんいるような方ではないのです。私たちには理不尽に思えるようなことを通して実現されるのは、神様の恵みのみ業です。私たちの救いのためのみ業です。ヨセフの物語で言えば、ヨセフが奴隷に売られ、連れていかれた先のエジプトで王様に継ぐ地位を得て、兄弟たちも、父ヤコブすらもその前にひれ伏さなければならないようになることを通して、彼ら一族が飢饉から救われ、守られていったのです。兄弟たちには、ヨセフの傲慢、思い上がりとしか思えなかったあの夢が、神様の救いのみ業の予告だったのです。私たちの人生にもこのようなことがあります。私たちには理解できない、納得のいかない、怒りと憎しみしか湧いてこないようなことを通して、神様の救いのみ業、恵みのみ業が前進していく、ということがあるのです。私たちは、このことを忘れないようにしなければなりません。私たちは何かに対して、これは理不尽だと怒ることがあり、その自分の怒りや憎しみは正しい、当然のことだと思うことがあります。それがいけないわけではありません。しかし私たちは、その自分の思いを絶対化してしまわないように気をつけなければならないのです。それが、神様の恵みのご計画への反逆となってしまうこともあり得るということを、いつも覚えていなければならないのです。
神の守りと導き
神様は、人間の目から見たら理不尽と思われるような、罪に満ちた現実の中で、それらをも用いて、救いのみ業をおし進めて下さいます。その中で、私たちをとりかえしのつかない罪から守って下さるのです。兄弟たちの殺意が渦巻く中で、神様は先程のルベンの善意を、また26、7節のユダの、「弟を殺して、その血を覆っても、何の得にもならない。それより、あのイシュマエル人に売ろうではないか。弟に手をかけるのはよそう。あれだって、肉親の弟だから」という提案を用いて、ヨセフの命を守り、彼をエジプトへと送って下さったのです。37章には、神不在の、人間の罪とそれによる悲惨な出来事が語られていると最初に申しましたが、その中でも、神様は生きて働いておられ、この不幸な、崩壊していく家族を守り、導いて下さっているのです。人間の罪をも、それによって生じる悲惨な出来事、苦しみや悲しみをも用いて、救いのみ業を実現して下さっているのです。シャーロームを失い、罪の坂をころげ落ちていく人間を守り導いて、より大きなシャーローム、祝福のために用いて下さるのです。
万事が益となるように共に働く
この物語を通して私たちは、主イエス・キリストによる救いを見つめることができます。神様の独り子であられる主イエスが、私たちと同じ人間となってこの世に来て下さり、私たちの罪を全てその身に背負って、十字架の苦しみと死とを引き受けて下さったのです。まことの神であられる主イエスを人間が十字架につけて殺すという、この上もなく理不尽な、あってはならない罪を通して、神様の救いのみ業、私たちの罪の赦しが実現したのです。この主イエス・キリストの十字架による救いを信じる者であるがゆえに、私たちは、人間の罪とそれによって引き起こされる悲惨な出来事が、より大きなシャーロームのために、神様の祝福の実現のために用いられることを信じることができるのです。本日共に読まれた新約聖書の箇所は、ローマの信徒への手紙の第8章28節です。「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」。このみ言葉は、単なる希望的観測を語っているのではありません。おめでたい楽観主義を語っているのでもありません。神様が、罪によってシャーロームを失い、絶望と自暴自棄の中に落ちていくしかない私たちを、その独り子イエス・キリストの十字架の苦しみと死とによって赦して下さり、より大きなシャーロームへと、神様の祝福の満ち溢れる恵みへと導いて下さる、そのことを信じるがゆえに私たちは、「万事が益となるように共に働く」と信じることができるのです。ヨセフの物語も、そのような神様の導きの物語なのです。
この物語が私たちに教えているのは、神様が私たちの罪と、それによって引き起こされる悲惨な出来事、苦しみをも、より大きな祝福のために用いて下さる、その神様のみ心、ご計画を信じて、今自分に与えられている、変えることのできない現実を受け入れ、その中で神様のみ心を求めていくことです。具体的に言うならば、兄弟たちの嫉妬と憎しみによってエジプトに奴隷として売られてしまうという現実の中にも神様の守りと導きがあることを信じて、み心を求めて祈り続けることです。独り子イエス・キリストの十字架の死による救いを与えて下さった父なる神様は、私たちが今受けている不当な苦しみを、慰められることを拒むような悲しみを、また自分の罪が招いた悲惨な出来事の全てを、より大きな祝福、平安、シャーロームのために用いて下さり、万事を益として下さると、私たちは信じることができるのです。