夕礼拝

ヤコブの夢

「ヤコブの夢」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; 創世記 第28章10-22節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書 第1章43-51節
・ 讃美歌 ; 434、476
 

起原を語る書
 旧約聖書の初めにある創世記のことを英語でGenesisと言います。それは「起原」という意味の言葉です。つまり創世記は、この世界の様々なことの起原を、信仰に基づいて語っている書物なのです。「創世」という言葉から私たちが受ける印象は、この世を創る、ということです。ですからここには神様がこの世界をお創りになった天地創造のことが語られているのではないかという印象を持つかもしれません。しかし天地創造のことは最初のほんの数章に語られているだけです。「創世記」という呼び方にふさわしいのはこの最初の数章だけではないか、と思うかもしれません。しかし創世記とは、天地創造を記した書という意味ではなくて、様々な事物の起原を記した書なのです。天と地とそこにある植物や動物、そして人間の起原を語っているのが1、2章の天地創造の物語であり、また人間の罪の起原が、3章の、アダムとエバが神様に命令に逆らって食べてはいけないと言われていた木の実を食べてしまったという話において語られています。また、神様の救いの歴史を担うイスラエルの民の起原が、12章から始まるアブラハムの物語なのです。このように創世記は、この世界と人間の、また人間の罪と、神様による救いの起原を語っています。そしてそれだけでなく、様々な地名の起原も語られています。ある地名がある物語と結びつけられて、「それゆえに、この場所はこれこれの名で呼ばれるようになった」という話があちこちに出てくるのです。そういう話を「原因譚」(原因を語る話)と言うのですが、本日読む箇所、28章10節以下も、ある地名の起原を語る原因譚の一つです。19節から分かるように、これはベテルという、イスラエルの歴史において大変重要な役割を果たすようになる町、聖なる町の名前の由来を語っている物語なのです。ベテルとは「神の家」という意味です。神様がここにおられる、ここで神様と出会うことができる、そういう聖なる場所であるベテルの起原が、イスラエルの先祖アブラハムの孫であるヤコブの、旅の途上でのある体験、彼が見た夢と結びつけられているのです。ヤコブが夢の中で神様と出会った、ここに神様がおられる、とう体験をした、その場所がベテルという名で呼ばれるようになったのです。

ヤコブの見た階段
 ヤコブが見た夢とはどのようなものだったのでしょうか。12節にそれが語られています。彼は「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びて」いるのを見たのです。前の口語訳聖書ではこの「階段」は「はしご」となっていました。「ヤコブのはしご」という言葉がここから生まれました。「はしご」というと私たちは消防自動車のはしごのようなものを想像してしまいますが、ここでイメージすべきものはむしろ、山の頂上にあるお寺に向かって真っ直ぐに登っていく石段のようなものです。そのような階段が天に向かってのびており、そこを神の御使いたちが上り下りしているのをヤコブは見たのです。この階段は、天と地とをつなぐものです。神様の世界と人間の世界とをつなぐ架け橋がここにある、ということを、ヤコブはこの夢において体験したのです。
 私たちの人生は普段、人間の世界の中で、つまり人間どうしの横の関係の中で営まれています。ヤコブはこの時、そういう水平的な、横のつながりの世界の中に、垂直的な事柄、人間の世界を越えた神様の世界との接触が起っていることを体験したのです。それを「宗教的体験」と言うことができるでしょう。日常の世界を超えた、人間どうしの関係における常識や論理を超えた、神様の世界に触れるという体験です。そのことが起った場所がベテルでした。ヤコブはこのベテルで何を体験したのでしょうか。

逃亡の旅路
 そのことを考えるために先ず私たちは、ヤコブがこの時どのような歩みをしていたか、どのような人間関係、横のつながりの世界を生きていたのかを見つめなければなりません。10節を見ると、彼はベエル・シェバからハランへの旅の途上にありました。ベエル・シェバはパレスチナ南部の町であり、ヤコブの父イサクがそこに井戸を掘り当てて家族と共に住んでいた所です。この町の名前の起原が26章33節にあります。つまりヤコブにとってここは父の家、故郷なのです。しかし今ヤコブはその故郷を離れて、シリアのはるか北方、ユーフラテス川の上流にあるハランへと旅をしています。彼はどうしてこのような旅をしなければならなかったのでしょうか。その事情が27節に語られていました。ヤコブは、兄エサウと双子の兄弟でした。この二人は全くと言ってよい程正反対な息子たちでした。この二人の違いは25章27節に語られています。それによれば、エサウは「巧みな狩人で野の人」だったのに対して、ヤコブは「穏やかな人で天幕の周りで働くのを常とした」とあります。この穏やかというのは、性格が温和ということではなくて、むしろ悪賢いと言った方がよいでしょう。この双子の兄弟の内、どちらが父イサクの跡取りとなるか、が彼らの家の大問題でした。順等に行けば勿論、双子とは言え兄であるエサウが跡取りとなるべきところです。しかし、25章の終わりに語られているように、ヤコブは、腹のすいたエサウから、一杯の煮物と引き替えに、長男としての権利を買い取ってしまったのです。これはそれだけだったら二人の間の個人的な事柄にすぎなかったでしょう。誰が跡取りとなるかは、父イサクが誰に祝福を与えるかにかかっているのです。27章には、老い先短いことを意識したイサクが、エサウに祝福を与えようとしたことが語られています。ところが、ヤコブを気に入っていた母リベカが、イサクの目がかすんでよく見えないのをいいことに、ヤコブにエサウの着物を着せ、エサウになりすまさせて、父イサクの祝福を代わって受けさせてしまったのです。ヤコブはこうして、長男としての権利を買い取っただけでなく、エサウに与えられるはずだった祝福をも奪い取ってしまったのです。この出来事によってエサウとヤコブの間は徹底的に険悪になってしまいました。27章41節にこうあります。「エサウは、父がヤコブを祝福したことを根に持って、ヤコブを憎むようになった。そして、心の中で言った。『父の喪の日も遠くない。そのときがきたら、必ず弟のヤコブを殺してやる』」。エサウはヤコブに殺意を抱くようになったのです。それを察知したリベカは、ヤコブを守るために彼をハランへと旅立たせたのです。その口実は、ハランにいるリベカの兄ラバンの娘を嫁に迎えるためということでした。こうしてヤコブは、ベエル・シェバの父の家からハランへと旅立ったのです。つまりこの旅は、兄エサウの憎しみ、殺意を逃れての逃亡の旅です。ヤコブはこの時、人間関係、横のつながりにおいて、最悪の状態に置かれていたのです。兄が自分を殺そうとしている、しかもそれは決していわれのないことではないのです。彼は確かに兄を陥れ、父をも騙して祝福を奪い取ってしまったのです。そのためにこのように、逃亡者となって故郷を離れ、遠い異国へと落ちのびて行こうとしているのです。このヤコブの姿は、人間関係における破れと挫折に苦しむ人間の姿だと言わなければならないでしょう。私たちの人生は、人との交わりの中で営まれていくものです。その人生において、人との関係、交わりが壊れてしまう。しかも自分のしたこと、犯した罪のためにです。自分が人を傷付け、裏切ってしまったために、交わりが破壊され、共に生きることができなくなり、憎しみを受け、逃亡者となって故郷を離れていかなければならない。このように、人間どうしの横のつながり、水平的な関係が、自分の罪のために破れてしまうという苦しみの中でヤコブは、垂直的な関係、神様の世界との接触を体験したのです。人間関係に失敗し、挫折し、人生の逃亡者となっている自分の目の前に、神様の世界との人間の世界とをつなぐ架け橋が伸びているのを見たのです。この体験は彼の人生を変えるような、大きな意味を持っていました。

人間の願望の投影?
 しかし、この体験の意味を考えていく前に、私たちは一つの問いを片付けておかなければならないだろうと思います。その問いは、ヤコブが夢でこの階段、神様の世界との架け橋を見た、ということから生じる問いです。夢というのは大変不思議なものです。それは心理学的にも研究されていて、夢によってその人の心の奥底に隠れている気持ちを知ることができると言われます。つまり夢は、人間の隠された深層心理から生まれるものだと言われるのです。このヤコブの夢も、彼の深層心理から生まれたものだったのではないのか、というのがその問いです。つまり、人間関係の破れによって一人逃亡の旅路にあるヤコブの心には寂しくよるべない思いが深くあった。その苦しみの中で彼は、人間を超えた力が自分を支えてくれることを求めていた、神様とのつながりを求めていた、そういうヤコブの心の奥にある願望がこのような夢となって現れたのではないのか、というのです。
 神様とは、信仰とはそのように、人間の心の中にある、苦しみや悲しみから救われたい、慰めを得たいという願いの投影されたものだ、という考え方があります。しかし私たちは、この夢をそのように、ヤコブの願望の投影と考えてはならないのです。なぜなら、もしもこの夢が彼の願望の現れだったならば、それは、彼自身がこの天へと伸びる階段を上っていく、というものとなったに違いないからです。ヤコブは常に、自分をより高くしたい、より高い所に立ちたいと考えていました。彼が兄エサウから長男の権利を奪い、父の祝福をも奪ったのはそういう思いからです。自分が跡取りに、家族の長になりたかったのです。この夢がヤコブの思い、願いから出たものならば、地上から天へと伸びるこの階段は、自分が天へと、神様の世界へと上っていくためのものとなったはずです。逃亡の旅路にある自分への慰めと支えをそこにこそ見出したいというのがヤコブの願いだったと思うのです。しかしこの夢はそういうものではありませんでした。天と地をつなぐ階段を上り下りしているのはヤコブではなくて神の御使いだったのです。ですからこの階段は、人間が天へと、神様の世界へと上っていくためのものではありません。そうではなくてこれは神様の御使いが、つまり神様ご自身が、人間の世界へと降って来られるための階段なのです。ヤコブがこの夢によって体験したのは、自分が神様の世界へと上昇していくことではなかったのです。ヤコブ自身はあくまでも地上に留まっています。そのヤコブのもとに、主なる神様が降って来て、13節にあるように彼の傍らに立ち、語りかけられたのです。つまりこの夢は、神様がヤコブに語りかけ、み旨を告げるためにお用いになったものだったのです。

神の約束
 神様はこの夢によって彼に何を告げられたのでしょうか。13節以下のみ言葉にそれが示されています。神様はヤコブに、あなたが今横たわっている土地をあなたとあなたの子孫に与える、と約束して下さったのです。また、あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなって世界に広まり、地上の氏族はすべてあなたとあなたの子孫とによって祝福に入る、と約束して下さったのです。さらに、「わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る」とも約束して下さったのです。つまり神様は、ヤコブが自分の罪のために兄の憎しみを受けてもはやそこに留まることができず逃げ出さなければならなくなったこの地を、彼に与えると約束して下さったのです。また、彼が父を騙して兄から不正に奪い取った祝福を、神様が改めて彼に与えて下さり、彼がその祝福を全人類にもたらす祝福の担い手となると約束して下さったのです。そして、一人ぼっちで逃亡の旅を続ける彼に、神様がいつも共にいて下さり、どこに行っても守り、必ずこの地に連れ帰ると約束して下さったのです。つまりこの約束は、言い換えるならば、神様が彼の罪を全て赦して新しく生かして下さるということであり、これからの彼の歩みにおいていつも共にいて下さり、彼を守り導いて下さるということなのです。この約束を、彼自身の願望の現れであるとは言えないでしょう。ここに約束されている恵みは、人間が望むことができる範囲をはるかに超えています。どんなに楽観的な、あるいはずうずうしい人間でも、ここまでの恵みを期待することはとうてい出来ないようなことです。このような恵みの約束を与えることができるのは、神様ご自身のみです。それゆえにこの夢は、ヤコブの願望の現れではありません。ヤコブの心からこの夢が生じたのではなくて、主なる神様がこの夢を用いて、恵みのみ心をヤコブに示して下さったのです。ヤコブは、自らの罪による人間関係の破れ、人生の挫折、行き詰まりの中で、自分の中からは決して出てこない、神様による赦しと祝福のみ言葉を聞き、神様が共にいて守り導いて下さっていることを知らされたのです。つまり彼は神様による救いを体験したのです。神様の救いとはこのようなものです。それは決して、私たちの心の中の願望の投影ではありません。私たちが、人間関係における破れや挫折の苦しみの中で、そこから救われたいと願う、そのためにこうなったらいいのに、ああなったらいいのにとあれこれ願い、期待します。しかし神様は、それらの期待を遥かに超えた思いがけない仕方で私たちの罪を赦し、祝福を与え、共にいて下さるのです。

主よ、みもとに
 神様がこの夢によって告げて下さったもう一つのこと、それは、神様の救いは、私たちが天へと伸びる階段を自分で上っていくことによって得られるものではない、ということです。私たちが自分で考える救いはいつもそういうものです。天への階段をできるだけ高く、神様の近くにまで上っていき、自分を高めることができれば、それによって救いを得ることができるだろう、と私たちは思うのです。しかし神様が私たちに与えて下さる救いは、私たちが天へと上っていくことによってではなくて、むしろ神様ご自身がこの階段を通って私たちのところに降りてきて下さり、私たちと共にいて下さることによってこそ実現するのです。先ほど、讃美歌434番「主よ、みもとに」を歌いました。本日の聖書の箇所に基づく讃美歌です。しかしこの讃美歌の歌詞に語られているこの箇所の解釈にはいささか問題があると言わなければなりません。この歌詞は、ヤコブの夢に出てきた階段を私たちも一歩一歩上って、主のみもとに近づいていくのだ、と歌っています。そしてそのことが、死んで神様のみもとに行く、ということと重ね合わされて、この讃美歌はよくお葬式で歌われます。しかしヤコブの夢の話は、そういうことを語っているのではないのです。私たちが、ヤコブの階段を上って神様のみもとに近づいていくのではなくて、神様ご自身が私たちのところに降りてきて下さり、救いの約束を告げて下さったということこそ、この箇所の最も大切なポイントなのです。つまり私たちが主のみもとに近づくことができるのは、自分を高めて立派な人になることによってでもなければ、死んで天に上ることによってでもなくて、主なる神様が、私たちのところに降りてきて下さって、今、この場で、「わたしはあなたと共にいる」と語りかけて下さることによってなのです。

主イエス・キリストにおいて
 私たちも、このヤコブと同じことを体験することができます。ヤコブが見た夢を私たちも見るのです。そのことを約束して下さった方がおられます。その方こそ主イエス・キリストです。その約束が、本日共に読まれた新約聖書の箇所、ヨハネによる福音書第1章の最後のところ、51節に語られています。このようにあります。「更に言われた。『はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる』」。「神の天使たちが昇り降りするのを見る」、これはまさにヤコブがあの夢で見たことです。「人の子の上に」とあります。「人の子」とは主イエス・キリストのことです。つまりヤコブが見たあの階段は、新約聖書においては主イエス・キリストなのです。主イエスこそ、天と地の、神様と私たちの間の架け橋です。主イエス・キリストにおいて、神様ご自身が一人の人間となってこの世に降ってきて下さり、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さっているのです。そしてその主イエスが今も私たちの傍らに立って、罪の赦しを宣言して下さり、神様がいつも共にいて守り導いて下さる祝福を告げて下さっているのです。

信仰の自立
 16節にこうあります。「ヤコブは眠りから覚めて言った。『まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった』」。主なる神様が共におられるのに、そのことを知らずにいる、それが私たちの姿です。ヤコブは、自分の罪のために交わりを失い、故郷を追われて逃亡の旅にあるという苦しみの中で、父イサクを、そして祖父アブラハムを導かれた主なる神様の恵みから自分は引き離されてしまったと思っていました。自分はもはや神様の恵みの下にはいない、神様は自分の罪をお赦しにならない、もはや共にいては下さらない、それが、水平的な事柄だけを見つめているヤコブの目に写る現実だったのです。しかし神様はこの夢によって、ヤコブに、神様が彼のところに降りてきて下さる階段を見せて下さったのです。今この現実の中でも、神様が共におられるという垂直的な現実を示して下さったのです。このことによって彼は、信仰者として大きく脱皮することができました。それまでの彼の信仰は、つまり神様との関係は、父イサクの下での、父を通しての関係でした。人間に依存する、つまり水平的な次元に留まっている、自立していない信仰だったのです。しかしこの夢によって彼は、自分がどこにいても、どのような状態にあっても共にいて下さる神様の前に一人で立つ者となったのです。垂直的な、神様との関係に生きる者となり、信仰において独り立ちしたのです。

畏れ
 17節にはこうあります。「そして、恐れおののいて言った。『ここは、なんと畏れ多い場所だろう。これはまさしく神の家である。そうだ、ここは天の門だ』」。常に共にいて下さるまことの神様のみ前に立つことは、恐れを伴うことです。「わたしはあなたを祝福し、あなたと共にいる」というみ言葉を聞いた彼は、「ああよかった、これで安心だ」と思ったのではなくて、むしろ、「ここは、なんと畏れ多い場所だろう」と思ったのです。生けるまことの神様と出会う時、私たちは安心するよりもむしろこのような畏れを覚えます。そうでないなら、その神は私たちの願望の投影に過ぎない偽物でしょう。信仰とは、生ける神様のみ前に畏れをもって立つことです。そこでこそ私たちは本当の救いを、罪の赦しと祝福を受けることができるのです。

礼拝において
 この生ける神様に出会った者は、神様を礼拝せずにはおれません。18節にあるように、ヤコブは朝早く起きて、枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注ぎました。それは、そこを礼拝の場所としたということです。神様が彼の傍らに立ってみ言葉を語りかけて下さった、そこは礼拝の場所、聖なる場所となるのです。このようにしてそこはベテル、神の家となりました。そこに神様が住んでおられるというわけではありません。そこへ行けばいつでも神様に会えるというのでもありません。逆に言えば、そこへ行かなければ神様に会うことができないのではありません。ベテルは、神様がそこでヤコブに出会って下さったこと、「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」ということが起ったことを記念する場所です。つまりベテルは、私たちの人生のどのような場所においても、私たちが自分の罪のために人との交わりに挫折し、故郷を離れて逃げていかなければならない、そんな状態にあっても、私たちの思いや期待をはるかに超えた仕方で、神様が共にいて下さり、私たちの罪を赦して下さり、祝福を与えて下さるのだということを証ししている場所なのです。その恵みは今や神様の独り子イエス・キリストによって、その十字架の死と復活によって私たちに与えられています。私たちがこの礼拝において、主イエス・キリストの福音を、即ち主イエスによって神様が私たちの全ての罪を赦し、祝福を与え、いつも共にいて下さるという約束のみ言葉を聞く時、この礼拝の場こそが、私たちにとってのベテル、神の家、天の門なのです。私たちはここから、地上の旅路を新たに歩み出します。相変わらず人と人との水平的関係の中で営まれる人生であり、人間の罪のゆえに様々な問題が生じ、苦しみや悲しみに満ちた旅路です。しかし私たちは、この礼拝において、主イエス・キリストが、神様と私たちとをつなぐ架け橋となって下さったことを知らされているのです。そして、「わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守る」という約束のみ言葉を与えられているのです。この主イエス・キリストの父なる神様との垂直的関係によって、私たちの地上の旅路は支えられ、導かれていくのです。

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