「主が与えてくださる伴侶」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書; 創世記 第24章33-67節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙二 第6章14-18節
・ 讃美歌 ; 352、463
イサクの嫁取り
「信仰の父」アブラハムの生涯もいよいよその終わりにさしかかってきました。本日ご一緒に読む第24章は、アブラハムの生涯における最後の課題が果たされたことを語っています。それは、息子イサクに嫁を迎えるということです。この24章の「イサクの嫁取りの物語」は、一つの短編小説とも言えるような長い物語です。ただいまは33節以下を朗読していただきました。ここに、アブラハムの僕の口から、それまでの経緯が語られていますので、全体の筋を知ることができます。アブラハムがこの僕を、息子イサクの結婚相手を捜すために遣わしたのです。この僕は24章2節によれば、アブラハムが「家の全財産を任せている年寄りの僕」です。アブラハムがこの僕に全幅の信頼を置いていたことが分かります。この僕は15章2節に出てくる「ダマスコのエリエゼル」と同一人物だと考える言い伝えがあります。15章はまだ息子イサクが生まれる前のところです。そこでアブラハムは、自分には子供がないから「家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです」と言っています。跡継ぎがいなかったアブラハムは、自分の最も信頼している親族の一人であるエリエゼルを後継者にしようと考えていたのです。しかしその後、神様がイサクを与えて下さいました。それでアブラハムはこのエリエゼルに、跡取り息子イサクの後見人を頼んだのではないか。「僕」という言葉は、「仕える者」ですから、それが親族の一人であってもおかしくはありません。最も信頼しており、一時は自分の後継者にと思っていたエリエゼルに、息子イサクの将来を託し、その嫁選びをも任せた、というのは大いにあり得ることです。いずれにしてもこの僕は、いわばアブラハムの分身として、イサクの結婚相手を探す旅に出たのです。
故郷の娘を
「旅に出た」と申しましたが、その事情は37節以下に語られています。アブラハムは彼に、「あなたはわたしの息子の嫁を、わたしが今住んでいるカナンの土地の娘から選び取るな。わたしの父の家、わたしの親族のところへ行って、息子の嫁を連れて来るように」と命じたのです。アブラハムは、創世記12章で、故郷を離れて旅立ちました。神様の祝福の約束を受けて、神様が示す地へと、行き先を知らずに旅立ったのです。その旅路を神様は導いて下さって、彼は今カナンの地に住んでいます。神様は、この地をあなたの子孫に与える、と約束して下さったのです。それゆえに息子イサクとその家族、子孫たちはこれからこのカナンの地に住み、生きていくのです。しかしアブラハムは、イサクの結婚相手を、今住んでいるカナンの地から得ようとはしませんでした。自分の出身地、親族がいる故郷から嫁を連れて来るためにこの僕を遣わしたのです。その理由はこの24章には特に語られていません。しかしそれは、前回読んだ23章に語られていたこととつながりがあると思います。
寄留者として
23章には、アブラハムの妻サラが死んで、その墓がカナンの地のヘブロンに設けられたことが語られていました。アブラハムはこの墓を買い取って自分の正当な所有地としたのです。この23章のポイントは、アブラハムが、カナンの地の人々と同化してしまうことなく、あくまでも寄留者、旅人としての歩みを貫いた、ということでした。彼は、サラの墓を手に入れるに際して、カナンの地の住人の一人になってしまうことを慎重に避けているのです。そこに、アブラハムが信仰の父と呼ばれる所以があります。信仰者とは、神様の語りかけに従って旅立った者です。神様の導きに従って、神様が示す地へと旅していくことが信仰の本質なのです。そういう意味で、信仰者はこの地上において常に旅人、寄留者です。地上のどこかに定住し、そこの住人になってしまうことはないのです。パウロがフィリピの信徒への手紙3章20節で「しかし、わたしたちの本国は天にあります」と言っているのはそのことです。またヘブライ人への手紙の11章13~16節にもこのようにあります。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのに良い機会もあったかもしれません。ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません。神は、彼らのために都を準備されていたからです」。信仰をもって生きる時に私たちは、たとえ生まれ育った地に生涯留まって生きるとしても、そこを究極的な故郷とするのではなく、天の、本当の故郷に向けて旅する者として生きるのです。アブラハムがイサクの結婚相手をカナンの地から得ようとしなかった理由もそこにあります。それは、イサクがカナンの地の人間になってしまうことを避けるため、旅人、寄留者としての信仰の歩みを貫くためです。イサクがこれからこの地の人々とうまくやっていくためには、その人々の中から嫁をもらった方がずっとよかったでしょう。しかしアブラハムは敢えてそれをせずに、遠い故郷から嫁を迎えることによって、信仰者としてこの世を生きる姿勢をはっきりと示したのです。
神のしるしを求める
さてこの僕はアブラハムのそのような思いを受けて、10節によればアブラハムの兄弟ナホルの町であるアラム・ナハライムにやって来ました。そこで彼は、イサクの嫁となる娘リベカと出会うのですが、それは、彼が町中を歩き回って、イサクの嫁となるにふさわしい娘を捜し回った結果ではありませんでした。彼はこの町の外れの泉の所に着くと、祈ったのです。その言葉が42節以下に語られています。要するに、この泉に水を汲みに来た娘に、彼が「水を飲ませてください」と願った時に、その娘が彼にも、また彼の連れていたらくだの群れ、それは10節によれば10頭の群れでしたが、そのらくだたちにも水を汲んで飲ませてくれるなら、その人こそイサクの嫁となるべき人であるしるしとして下さい、と祈ったのです。つまり彼は、相応しい人を自分で捜し回るのではなくて、神様が示して下さることを祈って求めたのです。これは考えようによっては、自分の足で捜し回るのではなくて、ただ座って、神様が「この人だよ」と示して下さるのを待っているだけなのですから、楽をしようとしていると言えるかもしれません。しかしここには同時に、この僕の深い知恵が、人を見極める鋭い感覚が働いていると言うこともできます。彼が神様に祈って求めたしるしは、自分と、10頭のらくだに水を飲ませてくれる、ということです。それは、旅人とその連れている家畜に対する愛といたわりの行為です。そういう気持ちを持っている人を彼は見いだそうとしているのです。らくだ10頭に水を飲ませるというのは簡単なことではありません。42節には泉とありますが、11節では「井戸」となっています。この地方の井戸は、私たちが思い浮かべる、釣瓶を落として綱を引いて水を汲み上げるようなものではなくて、大きな丸い穴です。その周囲を巻くように、底の水のところまで降りていく階段がつけられているのです。ですから、一杯の水瓶に水を汲むためには、階段を降りていって水を汲み、それを担いで昇って来なければなりません。10頭のらくだに水を飲ませるのに、何度降って昇らなければならなかったでしょうか。旅人とらくだのために、そういう労をいとわずに奉仕する気持ちを持っている人を彼は見つけだそうとしているのです。こういう場面は、その人の人となりを見極めるのに最も適した状況であると言うことができるでしょう。21節には、「その間、僕は主がこの旅の目的をかなえてくださるかどうかを知ろうとして、黙って彼女を見つめていた」とあります。らくだのために黙々と水を汲むリベカの姿を彼はじっと見つめて、この人がイサクの嫁として相応しいかどうかを見極めようとしていると言うことができるのです。
けれどもここで最も大事なことは、彼が基本的に、イサクの結婚相手の人選を神様に委ね、神様の示しを祈って求めている、ということです。イサクの結婚相手は最終的には神様が選び与えて下さると信じて、そのみ心を求めているのです。今の21節の「主がこの旅の目的をかなえてくださるかどうかを知ろうとして」というところも、彼の旅の目的をかなえて下さるのは主であるという前提のもとに語られているのです。
主の御意志ですから
このようにしてこの僕は、リベカを見出しました。15節にあるように、彼女は、アブラハムの兄弟ナホルとその妻ミルカの息子であるベトエルの娘でした。つまりアブラハムの兄弟の孫だったのです。まさに、アブラハムが願っていた通りの人でした。彼女の家に客となった僕は、出された食事に手をつけるより前に、自分がここへ来た理由を語っていきます。そこからが先ほど読まれた33節以下です。一部始終を語った最後にこの僕は、このように言って主なる神を賛美しました。48節です。「わたしはひざまずいて主を伏し拝み、主人アブラハムの神、主をほめたたえました。主は、主人の子息のために、ほかならぬ主人の一族のお嬢さまを迎えることができるように、わたしの旅路をまことをもって導いてくださいました」。主なる神様が恵みによって彼をリベカのところに導いて下さったのです。しかしこの結婚は、リベカとその家族の了解なしには実現しません。彼が一人で、「この人こそイサクの嫁となるべき人だ」と思っているだけでは仕方がないのです。そこで彼はこう言います。49節「あなたがたが、今、わたしの主人に慈しみとまことを示してくださるおつもりならば、そうおっしゃってください。そうでなければ、そうとおっしゃってください。それによって、わたしは進退を決めたいと存じます」。つまり、リベカをイサクの嫁に下さるつもりがあるのかないのか、その返事を求めたのです。それに対して、ラバンとベトエルが答えました。ベトエルが先ほど出てきたようにリベカの父です。ラバンはその息子で、リベカの兄です。この書き方からすると、既にベトエルは隠居し、ラバンが家長となっているようです。彼らはこう答えました。50、51節「このことは主の御意志ですから、わたしどもが善し悪しを申すことはできません。リベカはここにおります。どうぞお連れください。主がお決めになったとおり、御主人の御子息の妻になさってください」。ラバンとベトエルは、リベカをイサクに嫁がせることを承知したのです。彼らは、「このことは主の御意志ですから」「主がお決めになったとおり」と言っています。僕の話を聞いて彼らは、このことが主なる神様の導きによることであり、主がリベカをイサクと結婚させようとしておられることを確信したのです。あの僕が主のみ心を求めて祈り、その結果示されたことを、今度はリベカの家族が、主のみ心として受け止めたのです。こうして、イサクとリベカの結婚が決まりました。
幸せな結婚とは?
私たちはこの話を読むと、いったい結婚する当事者たちの思いはどうなっているのか、本人を無視して、親たちが勝手に「これは主のみ心だ」と言って話を決めてしまうのはおかしい、と思います。「結婚は両性の合意によって成り立つ」ということに慣れている私たちはそのように感じるのです。しかしこの時代の結婚においては、こういうことが当たり前でした。自分の結婚の相手は自分で決める、というのはむしろ最近の話なのであって、親が息子の嫁を選び、嫁の親が承諾すれば結婚が決まるということは、日本でもつい最近まであったわけです。しかしそういう社会的背景は別にしても、この話には私たちが聞くべき大切な教えがあると思います。それは、この結婚を決めた親たちは、自分たちの家の繁栄や安泰といった損得を考えて決めたのではないということです。アブラハムの僕は、主のみ心を求めて祈り、示されたみ心に従いました。ラバンとベトエルも、「主がお決めになったこと」としてこれを受け入れたのです。つまりこの結婚を決めた人々は皆、主なる神様のみ心を求め、それに従う信仰の決断をしたのです。そしてそれはリベカもそうでした。アブラハムの僕は翌日すぐに「主人のところへ帰らせてください」と言い出します。リベカを直ちにイサクのもとへ連れていきたいと言うのです。しかしこれは、当時の結婚のしきたりに反することでした。55節でリベカの兄と母が、「娘をもうしばらく、十日ほど、わたしたちの手もとに置いて、それから行かせるようにしたいのです」と言っているように、しばらくの間家族との別れの時を持った上で送り出すのが普通だったのです。娘を遠くに嫁にやる家としては当然のことだと言えるでしょう。しかし僕はなお、すぐに帰ると言い張ります。そこで彼らはリベカを呼んで、その口から返事をさせます。本人が、「もうしばらく待ってください」と言えば、この僕も受け入れざるを得ないだろうと思ったのです。ところがリベカは、「お前はこの人と一緒に行きますか」という問いに、「はい、参ります」と答えます。今日にも旅立ってイサクのもとへ行くことを彼女も望んだのです。彼女は勿論イサクのことを知りません。会ったこともありません。しかし彼女はイサクとの結婚を積極的に受け入れ、すぐに旅立つことを望んだのです。それは、リベカもまた、自分の結婚を、主なる神がお決めになったこと、主のみ心として受け止め、それに従う信仰の決断をした、ということです。私たちはこのことをしっかりと見つめなければなりません。つまりここで起っているのは、一組の男女が出会い、お互いのことを好きになり、この人と共に生きようと決心して結婚する、というのとは全く違うことです。それらのことが全くない中で、当事者たちをも含めた全ての者たちが、主なる神様のみ心に従う信仰の決断をして、この結婚が成立したのです。そしてその信仰の決断の結果として起ったことが、最後の67節にこう語られています。「イサクは、母サラの天幕に彼女を案内した。彼はリベカを迎えて妻とした。イサクは、リベカを愛して、亡くなった母に代わる慰めを得た」。この短い文書には、イサクがリベカを愛し、リベカもイサクを愛し、お互いがお互いにとって慰めとなり支えとなるよい夫婦関係が、祝福された家庭が築かれていったことが伺えます。つまりここでは、主のみ心に従う信仰の決断による結婚が先にあり、その結果として、互いに愛し合う祝福された関係が与えられたのです。それは私たちが今日普通に考えている順序とは逆です。今日の社会においては、まず二人が出会って知り合い、やがて愛し合い、それによって結婚して家庭を築く、というのが唯一正しい順序だと思われています。そうでない結婚は、昔の封建的な因習をひきずった、人間の権利を無視した結婚であるかのように考えられがちです。しかしそのような考え方の中で、そもそも結婚する人が少なくなっていき、離婚がとめどなく増えていき、家庭の崩壊に歯止めがかからないという現実が起っています。つまり、二人が愛し合い、その愛に基づいて結婚する、というのがいかに不確かな、脆い関係であるかということを、現実が証明しているのです。そのような現実の中で、このイサクとリベカの結婚は、大切なことを教えていると思います。本当に祝福された幸福な家庭を築くために必要なのは、二人が愛し合っているとか、お互いをよく理解しているとか、さらにはお互いが知り合っているということですらないのです。自分の結婚を、相手との生活を、主なる神様のみ心に従うという信仰の決断において受け止めることこそが、結婚が本当に祝福されたものとなるための唯一の条件なのです。
これは、恋愛結婚より見合い結婚の方がよいという話ではありません。恋愛だろうと見合いだろうと、出会いのきっかけは何であろうと、結婚を、神様に従う信仰の決断とすることが大切だということです。またこれは、結婚するなら同じ信仰を持っている者どうしでなければいけない、ということでもありません。確かに、この世を寄留者として歩む信仰者が、この世に故郷を見出している人と家庭を築いていくことには困難が伴います。本日共に読まれた新約聖書の箇所、コリントの信徒への手紙二の6章14節には、「信仰のない人々と一緒に不釣り合いな軛につながれてはなりません」と教えられていますが、信仰のある人とない人とが共に歩もうとすると、「不釣り合いな軛につながれる」ようなことになる場合が多いのは確かです。しかし実はそれよりももっと大事なことは、たとえ相手が信仰者でなくても、その結婚を、主なる神様に従う信仰の決断において受け止めるということなのです。そうすればそこにも、神様に祝福された幸せな家庭が築かれていくことは十分可能なのです。
神の約束の実現
さてしかし、この24章は、幸せな結婚のための秘訣を語ろうとしているのではありません。イサクとリベカの結婚は、本人の、また周囲の人々の、信仰の決断においてなされました。皆が、主なる神様のみ心に従って歩んだのです。その結果何が起ったのか。それは、イサクとリベカが幸せな家庭を築いた、というだけのことではありません。もっと大きなこと、もっと深い意味のあることがここで実現しているのです。
アブラハムが、今住んでいるカナンの地からではなく、故郷からイサクの嫁を迎えようとしたのは、主なる神様を信じ、従っていく信仰者としての生き方、この地上では寄留者である歩みを貫くためだったと先ほど申しました。カナンの地の人々の中に埋没し、そこから自由であることができなくならないように、主なる神様を知らない人々の間にあって、それらの人々とは一線を画しつつ、信仰者としての生き方を貫こうとしたのです。しかし彼が考えていたのはそのことだけではありませんでした。カナンの地の人々とは一線を画す、ということと同時に、彼は、イサクが、神様が与えると約束して下さったこのカナンの地に留まり、そこの人々との関係を大切にしていくこと、つまり今生かされている地における生活を責任をもって整えていくことを同時に考え、努めていたのです。23章を読んだ時にそのことをもお話ししました。24章においても、そのことが見つめられています。それは5~8節を読むことによって分かります。このようにあります。「僕は尋ねた。『もしかすると、その娘がわたしに従ってこの土地へ来たくないと言うかもしれません。その場合には、御子息をあなたの故郷にお連れしてよいでしょうか。』アブラハムは答えた。『決して、息子をあちらへ行かせてはならない。天の神である主は、わたしを父の家、生まれ故郷から連れ出し、『あなたの子孫にこの土地を与える』と言って、わたしに誓い、約束してくださった。その方がお前の行く手に御使いを遣わして、そこから息子に嫁を連れて来ることができるようにしてくださる。もし女がお前に従ってこちらへ来たくないと言うならば、お前は、わたしに対するこの誓いを解かれる。ただわたしの息子をあちらへ行かせることだけはしてはならない。』」。僕が問うているのは、故郷でイサクのよい嫁が見つかったとして、その人や家族が、結婚するのはよいが、カナンまで行くのは嫌だ、もともとあなたがたの故郷はこっちなんだから、帰ってきて、ここで所帯を持ったらよいではないか、と言ったらどうするか、ということです。その場合にはイサクをあちらに連れて行って結婚させる、ということでもよいか、ということに対して、アブラハムは、イサクを決してあちらに連れて行ってはならない、と言っています。それは何故かというと、主なる神様が、アブラハムをその故郷から旅立たせ、そしてこのカナンの地を「あなたの子孫に与える」と約束して下さったからです。この約束を信じて、その実現に希望を置いて歩むことが、アブラハムの信仰を受け継ぐことなのです。そのためには、イサクはこのカナンの地に留まり、そこで家庭を持たなければならないのです。つまり、あくまでも旅人、寄留者として歩みつつ、主が与えて下さっているこの地にしっかり留まってそこで生きることを大切にしようとしているのです。これが、23章においても示されていた、アブラハムがその人生の最後に到達した信仰のあり方です。この信仰のゆえに、アブラハムは信仰の父と呼ばれるのです。私たちが学び、見倣うべき信仰者としての生き方がここに示されているのです。
救いの歴史の前進
イサクとリベカの結婚において実現したのは、このような信仰者としての生き方がアブラハムからイサクへと受け継がれたということです。そしてそれは言い換えれば、アブラハムから始められた主なる神様の救いの歴史が前進した、ということです。この救いの歴史は、アブラハムの子孫であるイスラエルの民の歴史としてさらに前進し、そして主イエス・キリストの十字架と復活において頂点に達するのです。そして今や、主イエスを信じる信仰において、それが私たちにも及んでいます。私たちも、主なる神様がアブラハムに約束して下さった祝福を受け継ぐ者とされているのです。アブラハムが、イサクが、リベカが、またその周囲の人々が、主なる神様のみ心に従うという信仰の決断をしたことによって、私たちにも及ぶ主の救いの歴史が前進したのです。これが、イサクとリベカの結婚によって実現したことです。彼らの結婚は、彼ら二人の事柄であるのみでなく、彼らの子孫として生まれて下さった主イエス・キリストによって私たちにまで及ぶ、神様の恵みの出来事だったのです。