「祝福」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書; 創世記 14:1-24
・ 新約聖書; ヘブライ人への手紙 7:1-10
古代世界の戦争
創世記第14章は、創世記の中でもかなり特異な章であると言うことができます。特にその前半には、古代の中近東世界における国際政治上の一つの出来事、多くの民族、国を巻き込んだ戦争のことが語られているのです。その戦いは、四人の王の同盟軍と、五人の王の同盟軍との戦いです。四人の王とは、シンアルの王アムラフェル、エラサルの王アルヨク、エラムの王ケドルラオメル、ゴイムの王ティドアルです。これらの国々は、いわゆるメソポタミア地方、今日のイラクのあたりにあったと考えられています。聖書の後ろの付録の地図の1「聖書の古代世界」には、「エラム」の名のみが出てきます。これらの王たちの同盟軍と戦ったのは、ソドムの王ベラ、ゴモラの王ビルシャ、アドマの王シンアブ、ツェボイムの王シェムエベル、ツォアルの王ベラです。これらの国々は、今日のパレスチナの南部、死海の周辺にあったようで、その多くは今は死海の底に沈んでいるとも考えられています。これらの五人の王たちは、4節にあるように、十二年間、エラムの王ケドルラオメルに支配されていましたが、十三年目に背いたのです。支配されていた、というのは、弱い国がより強い国に貢物を納め、いわゆる朝貢国となっていたということです。古代の世界でこれはしばしばなされていたことで、弱小国は強大な国の家来となることで自らの安泰を図っていたわけです。しかしそれらの国も、折あれば他国の支配から独立しようと機会を伺っていました。そして近隣の諸国が同盟して宗主国に対して反乱を起こすことがしばしばあったのです。十二年間おとなしくエラムに従っていた五人の王たちは、十三年目に同盟を結んで反乱を起しました。それに対してエラムの王ケドルラオメルは、翌年、他の三人の王と組んで、反乱軍の鎮圧のために遠征して来たのです。5~7節に、この四人の王の軍勢が進んだ経路が語られています。彼らは、反乱を起こした五人の王の同盟軍と対戦する前に、多くの国、民族を征服しつつ進んできました。それはおおよそ、ヨルダン川の東側を北から南へと進み、それから向きを変えて死海の方向へと進んで来たということのようです。向かう所敵なしという感じで、ヨルダン川周辺の諸民族を撃ち従えつつ進んで来たのです。そしていよいよ五人の王たちの反乱軍と、シディムの谷という所で戦いになりました。五人の王たちの軍勢は打ち破られ、敗走しました。そして当時の戦争の常として、ソドムとゴモラの町は略奪を受けたのです。戦争に負けた国、町は徹底的に略奪され、人々は捕虜として連れ去られて奴隷に売られるというのが当時の戦争です。ソドムとゴモラの人々もその犠牲となったのです。
この世の現実
これが、12節までに語られていることです。これは、当時の世界の現実です。ここに語られているような戦いが歴史的に本当にあったのかどうかについては、疑問があります。これは、古代の中近東世界に伝えられていたいろいろな民族間の戦いについての伝承をもとにして作られたお話であろうというのが学者たちの判断です。そういう意味ではこれは歴史的事実ではないでしょう。けれども、ここに語られているようなことは、当時の世界において繰り返し起ったことです。そういう意味でこれは当時の世界における現実を赤裸々に描写している話だと言えます。この世の現実がここに描き出されているのです。現代の世界の現実はこれとは全く違う、と私たちは言うことができるでしょうか。戦争のたびに略奪が起こり、奴隷に売られるようなことはさすがに今日はなくなっています。しかし、根本的なところでは、今日の国際政治の状況も、そんなに変わってはいないのではないでしょうか。東西冷戦が終わり、平和になるかと思ったら全く逆に、様々な地域紛争が後を絶ちません。国と国とが宣戦布告をして戦う戦争は少なくなっていますが、逆に様々な武力対立があちこちで起っています。そして多くの人々がその犠牲になっています。武力衝突に巻き込まれることよって人々が受ける苦しみや損害は、古代の世界とそんなに違うわけではない、いやむしろ今日の方が大きくなっているとも言えるでしょう。そういう意味ではこの世界は、何千年も昔の聖書の時代からあまり進歩してはいないように思うのです。
この世の現実と信仰者の歩み
さてこの14章は、このような古代世界の国際政治上の対立、戦争に、神様の民イスラエルの最初の先祖となるアブラム、後のアブラハムが巻き込まれていったことを語っています。彼の甥であるロトが、ソドムに住んでおり、エラムの王ケドルラオメルの軍勢によって略奪を受け、財産もろとも連れ去られてしまったのです。逃げ延びた一人の男がそのことをアブラムに知らせました。そこから、アブラムにとってこの戦争とその結末は対岸の火事ではなくなったのです。否応無しにその中に巻き込まれていったのです。 創世記は12章以来、このアブラムが、主なる神様の呼びかけを受けて故郷を離れて旅立ち、神様が示す地へと旅をしてきたことを語ってきました。神様のみ言葉に応えて旅立ち、神様の導きに従って歩む、それは信仰の旅路です。私たちはこのアブラムの歩みを、神様を信じて生きる信仰者の歩みとして見て来ました。そこに起ってくる様々な困難は、信仰における試練であり、アブラムはいろいろと失敗をしながら、罪を犯しながら、しかし神様の守りと導きによって歩んできたのです。本日の14章が教えているのは、このアブラムの信仰の歩みが、この世の、この世界の政治的軍事的現実のまっただ中にあるのだ、ということです。私たちは、自分の信仰者としての歩みが、この世界の歴史的、政治的、社会的現実と無関係に営まれていると考えてはならないのです。私たちは、この世の、国際社会の、政治的社会的現実の中で、神様を信じて生きているのです。そして、アブラムがそうであったように、私たちも、この世の政治的社会的あるいは軍事的な現実の中に、巻き込まれていくのです。そこで決断を迫られ、行動を求められていくのです。信仰に生きることは、そういうことと無関係に生きることではない、ということをこの箇所は教えているのです。
決断
アブラムは決断を求められました。捕虜となり、このままでは奴隷に売られてしまう甥のロトを助けに行くかどうか、という決断です。13章で読んだように、アブラムとロトは、お互いの家畜の群れが大きくなり、共に生活することができなくなったので、別れたのです。ロトは豊かに潤ったヨルダン川流域の低地地方を選び、その中心であるソドムに住むようになりました。ロトは明らかに、より豊かな、よい地を選び取ったのです。その結果彼は今このような悲惨な目にあっているのです。それはある意味では自業自得だとも言えます。自分が選んだ道においてこういう目にあったのだから、仕方がないではないか、私が危険を犯してまで助けに行くことはない、そういう考えがアブラムの心に浮かび、助けに行くことをためらう思いがあったとしても不思議ではありません。しかしアブラムは、そのためらいを捨てて直ちに助けに行くことを決断します。自分の身の安全よりも、親族を助ける義務を果たすことを選んだのです。
神の恵みの奇跡
彼はただやみくもに敵を追ったのではありませんでした。訓練を受けた精鋭部隊318人を召集して追撃したのです。しかも15節にあるように、夜、軍勢を二手に分けて敵を襲いました。数少ない手勢で大軍と戦うために最も効果的な作戦を立てたのです。その結果、連戦連勝だったケドルラオメルの軍勢は打ち破られ、敗走しました。この勝利はアブラムの周到な作戦とよく訓練された精鋭部隊の奮闘によることではありますが、しかし318人で四人の王の連合軍に勝利することは、やはり根本的には神様の恵みによる奇跡と言わなければならないでしょう。アブラムは、神様の守りと助けによって、捕虜になっていた全ての人々を取り返し、略奪された財産をも取り戻すことができたのです。以上が16節までに語られていることです。ここまでのところから私たちは、信仰者の歩みがこの世の具体的な、政治的社会的な現実のただ中にあり、その状況の中での決断を迫られることがあること、そしてその中で自分のなすべきことをしっかりと決断し、全力を尽くして実行していく時に、神様が共にいて助けて下さるということを読み取ることができます。しかし、この14章が語ろうとしていることはそれだけではありません。むしろもっと大事なことが、17節以下に示されていくのです。
メルキゼデクの祝福
18節に突然一人の人物が現れます。メルキゼデクという人です。この人は、聖書の中で最も謎に満ちた人物です。18節は彼のことを「いと高き神の祭司であったサレムの王」と言っています。サレムとはエルサレムの別名です。エルサレムの王であり、いと高き神の祭司でもあった人です。彼はこの創世記14章にのみ登場し、ここのみで姿を消してしまいます。詩編の110編4節にもその名がありますが、それはこの14章に基づいて詩に歌われているだけです。この謎の人物が、しかしここでは大変大きな役割を果しています。彼は、敵を打ち破って凱旋してきたアブラムを祝福したのです。その祝福の言葉が19、20節にあります。そこをもう一度読んでみましょう。「天地の造り主、いと高き神にアブラムは祝福されますように。敵をあなたの手に渡されたいと高き神がたたえられますように」。この祝福は二つの文章から成っています。一つは、アブラムがいと高き神によって祝福されますように、ということを、もう一つは、いと高き神がたたえられますように、ということを語っています。この「祝福されますように」と「たたえられますように」は、原文においては実は同じ言葉です。いずれも「祝福されよ」という言葉で、それがそれぞれの文章の冒頭に置かれているのです。ですから原文の語順を生かしてここを訳すならばこうなります。「祝福されよ、アブラム。いと高き神によって、天地の造り主なる。祝福されよ、いと高き神、あなたの敵をあなたの手に渡された」。メルキゼデクはこの二つの「祝福されよ」を語ったのです。そのことによってこの人は、新約聖書をも含む聖書全体の中で、大変重要な位置を持つ人となったのです。この祝福はどのような意味を持っているのでしょうか。
祝福と賛美のキャッチボール
アブラムは、この世の政治的軍事的現実の中に巻き込まれ、決断を迫られ、自分の義務を果たすために精一杯努力しました。そして大きな成果を得ることができました。そのことは、それだけなら、彼の努力や周到な計画、優れた戦術の生んだ成果です。彼はそれを自分の手柄として誇ることもできたでしょう。しかしこのメルキゼデクによって彼は、神様からの祝福を受けたのです。この祝福によって、彼の決断と努力とそして得た成果の全体が、いと高き神様の、天地の造り主であられる方の祝福という意味と輝きを得たのです。アブラムの勝利は、天地の造り主であるいと高き神様が、敵を彼の手に渡して下さったという神様の祝福だったのです。このことが、第一の「祝福されよ」によって明らかにされています。そして、この神様の祝福によって、今度は第二の「祝福されよ」が実現していくのです。「祝福されよ、いと高き神」、「いと高き神がたたえられますように」、つまり神様への賛美です。アブラムが神様によって祝福されたことを通して、今度はいと高き神様が祝福されるのです。神様に対しては、「祝福される」ではなくて、ここにあるように「たたえられる」「賛美される」と訳すべきでしょう。アブラムが神様によって祝福されることを通して、神様ご自身も祝福を受け、ほめたたえられ、賛美されるのです。ここには、神様と人間の間での、祝福と賛美の、言ってみればキャッチボールがあります。神様が、信仰者のこの世における精一杯の努力と働きを祝福して下さるのです。それによって、信仰者の歩みに神様の祝福という意味が与えられ、人間の努力や働きに神様からの輝きが与えられます。そしてそのことを通して、今度は信仰者がその祝福を神様にお返しする、それが賛美です。いと高き神が真実に賛美され、あがめられ、礼拝される、そこに、神様の栄光が輝いていくのです。神様と私たち人間、信仰者の交わりにおいては、このように、祝福と賛美とがキャッチボールのようにやり取りされていくのです。
約束の前進
ここで私たちは、12章2、3節においてアブラムに与えられた神様の約束を思い起こしたいのです。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」。彼が祝福の源となり、地上の全ての人々が彼によって祝福を与えられる、という約束です。この約束を受けてアブラムは旅立ったのです。この約束が実現するためには、先ずアブラム自身が、神様の祝福を豊かに受ける必要がありました。祝福を受けていない者がどうして祝福の源となることができるでしょうか。アブラムが、全ての人々の祝福の源となるために、先ず彼自身が神様の祝福を豊かに受け、それに応えて神様を賛美するという祝福と賛美のキャッチボールを始めなければならなかったのです。そのことが、この14章において始まったのです。メルキゼデクによって告げられた祝福と賛美によって彼は、祝福の源となるための大事な一歩を踏み出したのです。ですからこの14章は、アブラムに与えられた神様の約束がその実現へと一歩前進した、大事な箇所です。この約束は、次の15章では「契約」という明確な形をとります。12章の約束が、契約へと進展する、その橋渡しをしているのがこのメルキゼデクによる祝福であると言うことができるのです。それは言い換えるならば、神様の祝福こそが、救いの歴史を前進させていくのだ、ということです。
まことの祭司イエス・キリスト
本日共に読まれた新約聖書の箇所は、ヘブライ人への手紙の第7章です。ここに、メルキゼデクのことが語られています。ヘブライ人への手紙はこのメルキゼデクのことを主イエス・キリストを指し示す者として位置づけています。3節にこうあります。「彼には父もなく、母もなく、系図もなく、また、生涯の初めもなく、命の終わりもなく、神の子に似た者であって、永遠に祭司です」。メルキゼデクが、先祖についても、生まれについても何の説明もなく突然現れ、消えていったことから、このように言われるようになったのです。イスラエルにおいて祭司は、アブラムの孫の一人であるレビの血を引くレビ族の者だけがなることができました。しかしこのメルキゼデクは、レビが生まれるよりずっと前の祭司です。つまり彼はレビ族の系統ではない別の祭司です。しかもその彼がアブラムを祝福したのですから、彼こそはレビ族の祭司に優るまことの、永遠の祭司であるイエス・キリストを指し示しているのだ、とヘブライ人への手紙は言っているのです。祭司は、神様と人間の間のとりなしをする人です。神様と私たち人間の間には、人間の罪のために、敵対関係が、裂け目が生じてしまっています。つまり私たちは神様の祝福を失っており、そのために祝福と賛美のキャッチボールに生きることができなくなってしまっているのです。それが、創世記が11章までにおいて語ってきた人間とこの世界の現状です。そしてその失われた祝福を回復させるために、神様はアブラムを選び、彼を召し出して、信仰者として立て、祝福の源としようとしておられるのです。その祝福の歴史、救いの歴史が、12章から始まっているのです。この神様の祝福の約束は、主イエス・キリストにおいて実現しました。私たちとの間の敵対関係を最終的に解消し、裂け目をなくすために、神様はその独り子イエス・キリストをまことの大祭司として遣わして下さったのです。主イエスは私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さることによって、ご自分の命をいけにえとしてささげ、私たちの罪を赦し、神様との敵対関係を解消し、裂け目を閉じて下さったのです。このまことの大祭司であられる主イエス・キリストによって、神様の祝福が私たちに与えられ、また私たちが神様を賛美する、あの祝福と賛美のキャッチボールが回復されたのです。つまり、アブラムに与えられた祝福の約束、彼が祝福の源となるという約束は、まことの大祭司イエス・キリストによってこそ実現したのです。
私たちは、まことの大祭司イエス・キリストによって実現したこの神様の祝福を、毎週の礼拝において新たに与えられ、味わいながら生きています。今まさに私たちは、主イエスの十字架の苦しみと死とを特に覚える受難節、レントの時を歩んでいますが、主イエスのこの苦しみと死こそ、私たちに祝福を与えるために主イエスがまことの大祭司としてささげて下さった犠牲だったのです。この主イエスの苦しみと死という尊い犠牲によって与えられた祝福を受けて、私たちは、やはりこの礼拝において、神様を心から賛美し、ほめたたえるのです。神様と信仰者との真実な交わりがここに生まれるのです。
自由な生き方
アブラムは、メルキゼデクから神様の祝福を与えられた後、出迎えたソドムの王にこう言いました。22、23節です。「わたしは、天地の造り主、いと高き神、主に手を上げて誓います。あなたの物は、たとえ糸一筋、靴ひも一本でも、決していただきません。『アブラムを裕福にしたのは、このわたしだ』と、あなたに言われたくありません」。これは、神様の祝福を本当に知った者だけが語ることのできる言葉です。ソドムの王はアブラムに、21節でこういう提案をしたのです。「人はわたしにお返しください。しかし、財産はお取りください」。これは、あつかましい、ずうずうしい申し出です。ソドムの王はケドルラオメルとの戦いに破れて全てを失ったのです。そして今度はアブラムがそのケドルラオメルを打ち破って全てを得たのです。古代の戦争の常識からすれば、今や全てはアブラムのものです。ソドムの王は、財産は取ってもよいが人は返してくれ、などと言えた義理ではないのです。ところがアブラムは、戦いに勝って得たものすべてを彼に返してしまうのです。「わたしはあなたから何一つ取るつもりはない」と言うのです。それは、「アブラムを裕福にしたのは、このわたしだ」と言われたくないからです。それは、恩に着せられるのはいやだ、ということではありません。自分を守り、養い、裕福にして下さっているのは、天地の造り主であるいと高き神、主なのであって、自分でもなければソドムの王でもない、ということです。つまり神様の祝福こそがこの私を生かし、導いていて下さるのだ、と言って、彼は神様をほめたたえ、賛美しているのです。つまりここには、あの祝福と賛美のキャッチボールがあります。神様と信仰者との真実な交わりがあるのです。そしてそれがあるところには、この世の富や力から自由な生き方が与えられます。この世の現実のまっただ中で、自らに与えられた義務をしっかりと果たしつつ、しかしこの世の富や力にこだわらず、神様をこそ信頼して生きるという本当に自由な生き方をすることができるようになるのです。
私たちの信仰の歩みは、アブラムの場合と同じように、この世の現実の中に置かれています。政治的、経済的、社会的、また国際社会のシビアな現実が私たちを取り囲み、私たちは様々なきっかけによってそのまっただ中に巻き込まれていきます。そこで決断を迫られ、義務を果たすことを求められ、困難な状況に置かれ、苦しい目に遭うこともしばしばです。しかしまさにそのような現実の真っただ中にあって、私たちは、主イエス・キリストの父なる神様を礼拝する恵みを与えられています。礼拝において私たちは、主イエス・キリストによって実現した神様の祝福にあずかり、そして神様を心から賛美し、ほめたたえることができます。祝福と賛美のキャッチボール、神様と信仰者の真実な交わりに生きていくことができるのです。そのことによって私たちは、この世のシビアな現実のただ中で、しかし政治や社会や経済を支配しているいかなる力からも自由に、あるいはこの世の富やそれを拠り所とする思いからも自由に、天地の造り主であられる神様に信頼して歩むことができるのです。