夕礼拝

命を守るのは誰?

「命を守るのは誰?」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; 創世記 12:10-20
・ 新約聖書; マタイによる福音書 6:25-34
 

救いの歴史の担い手

 創世記は第12章から、アブラハムの物語に入ります。アブラハムは、イスラエルの民の最初の先祖です。彼から、神様の民イスラエルの歴史が始まるのです。それは、神様による救いの歴史の始まりだ、ということを、前回、12月の説教において申しました。神様は、まだこの12章においてはアブラムと呼ばれているアブラハムを選び、彼を祝福の源とし、彼の子孫を大いなる国民とするという約束を与えて下さって、そのイスラエルの民を通して地上の全ての民に神様の祝福を与えて下さるという救いの歴史をお始めになったのです。アブラハムは、救いの歴史の最初の担い手となったのです。
 彼はどのようにして救いの歴史の担い手となったのでしょうか。それは、彼が、神様のみ言葉を聞いて旅立ったからだ、ということを、私たちは先月、12章1~9節のみ言葉から聞きました。アブラハムがイスラエルの民の最初の先祖と言われるのは、彼が、神様の命令に従って、生まれ故郷、父の家を離れて、神様がお示しになる地へと、行き先を知らずに旅立ったからです。アブラムの旅立ちから、イスラエルの民の歴史が、即ち救いの歴史が始まったのです。神様のみ言葉を聞いて、神様がお示しになる地へと、行き先を知らずに旅立つこと、それが信仰です。アブラハムはその信仰のゆえに、救いの歴史の担い手となったのです。それゆえにこのアブラハムのことを、「信仰の父」とも呼びます。彼から始まるイスラエルの民の歴史は、神様による救いの歴史であり、同時に人間の信仰の歴史でもあるのです。アブラハムはその最初の担い手なのです。
 救いの歴史の最初の担い手であり、信仰の父であるアブラハム。そのように言うと私たちは、彼はさぞ立派な、信仰の深い、神様に固く信頼して揺るがない人だったのだろう、と想像します。しかし聖書は、彼の旅立ちの直後に、そのイメージを粉々に打ち砕くようなエピソードを語っているのです。それが本日の箇所、12章10~20節です。

飢饉を避けてエジプトへ

10節はこのように始まっています。「その地方に飢饉があった。アブラムは、その地方の飢饉がひどかったので、エジプトに下り、そこに滞在することにした」。「その地方」とはどこでしょうか。9節からのつながりで読めば、「ネゲブ地方」ということになります。しかし9節と10節をそのようにつなげて読むのがよいのかどうか、疑問もあります。1~9節に語られていたことは、アブラムが生まれ故郷、父の家を離れて旅立ったこと、そして、主なる神様に導かれてカナン地方に来たこと、そこで主が再び彼に現れ、「あなたの子孫にこの土地を与える」という約束を与えて下さったことです。神様が彼の旅路をどこへ導いていこうとしておられるのか、その目的地、彼とその子孫とが所有し、住むことになる地とはこのカナン地方であることが示されたのです。「ネゲブ地方」というのはそのカナンの地の南の荒れ野です。もともと作物が豊かに実る地ではありません。ですから10節に「その地方に飢饉があった」と言われているのは、ネゲブ地方ではなくて、カナンの地のことと考えた方がよいと思うのです。神様が彼と子孫とに与えると約束して下さったカナンの地、それは後に「乳と蜜の流れる地」と呼ばれるように肥沃な地です。しかしそこに飢饉が起ったのです。食料が不足し、このままでは飢えに苦しまなければならない、という状況が生じたのです。アブラムはまだ、ここに一坪の土地も得てはいません。6節の後半に、「当時、その地方にはカナン人が住んでいた」とあったように、カナンの地は彼のものではなく、彼はただ余所から移住してきた旅人に過ぎないのです。そういう弱い立場ですから、飢饉の影響をもろに受けたのでしょう。それで彼はその地方、即ちカナン地方から、エジプトに避難したのです。豊かな国エジプトなら、彼らが食物を得る道も開ける、飢え死にしなくてすむ、アブラムはそう考えたのです。

信仰の試練

ここに、この物語が描いていく問題が既に示唆されています。神様の約束を信じて旅立ち、はるばる旅して神様が示す地へとやって来たアブラムが、神様が与えると約束して下さったその地を見捨てて、そこを去ってしまったのです。飢饉で飢え死にしそうになったのだから仕方がないじゃないか、とも思います。しかしここで考えなければならないのは、このアブラムの旅路は、信仰の旅路である、ということです。彼は神様の約束のみ言葉を信じて、それに従って旅立ちました。そして神様に導かれるままに歩んできたのです。その旅路において今、飢饉という苦しみが、試練が襲ってきたのです。それは信仰の試練です。神様を信じ、約束の約束のみ言葉に信頼する信仰が問われているのです。しかしアブラムがしたことは、神様を信じてより頼むことではなくて、エジプトに下っていく、ということでした、それは、自分で生き延びる道を考え、工夫した、ということです。自分の命を自分で守ろうとしたのです。そのために最善と思われる道を自分で選んだのです。10節に語られているのはそういう事柄なのです。
 創世記は、そのことの善し悪しを語ってはいません。そういうアブラムの姿を淡々と描いています。そこに描かれているのは、私たちの姿でもあるのではないでしょうか。私たちも、神様のみ言葉を信じて、旅立ちます。それが、信仰者になるということです。しか しその信仰の旅路において、様々な苦しみ、試練が襲ってきます。何を信じ、何により頼んで生きるのか、ということが問われる事態が生じるのです。その時私たちも、このアブラムと同じことをするのではないでしょうか。つまり、神様を信じ、その約束のみ言葉により頼むよりも、自分の力で何とかしようと思い、人間の常識において最善と思われる道を歩んでいこうとすることが多いのではないでしょうか。神様を信じて信仰の旅路を歩みながら、いざという時には神様ではなく、自分の力に頼り、自分でどうにかしようとする、それがエジプトに下っていったアブラムの姿であり、私たち自身の姿でもあるのです。

アブラムの予測と計画

 そしてそのような歩みの中で、11節以下のことが起っていくのです。11節から13節を読みます。「エジプトに入ろうとしたとき、妻サライに言った。「あなたが美しいのを、わたしはよく知っている。エジプト人があなたを見たら、『この女はあの男の妻だ』と言って、わたしを殺し、あなたを生かしておくにちがいない。どうか、わたしの妹だ、と言ってください。そうすれば、わたしはあなたのゆえに幸いになり、あなたのお陰で命も助かるだろう」」。アブラムの妻サライは美しい女性でした。美しい妻を連れたよそ者の男が飢饉を避けて流れてきたとなると、そこには恐ろしい結果が生じかねません。その男を殺して妻をわがものにしようとする者が現れることが大いに考えられるのです。しかし同じように流れてきた者でも、夫婦でなくて兄と妹だったら、事態は全く変ってきます。美しい妹を手に入れたいと思う者は、その兄に取り入り、気に入られようと大事にするのです。ですから、彼らが夫婦であるか兄妹であるかによって、エジプトにおける彼らの、特にアブラムの立場は雲泥の差となります。賢いアブラムはそのことをしっかり予測しているのです。そして妻サライに、「自分の妹だということにしておいてくれ」と言ったのです。このアブラムの予測と計画は見事に的中します。彼らがエジプトに入るとすぐに、サライの美しさが評判となり、エジプト王ファラオが彼女を宮廷に召し入れるということになったのです。そしてその兄であるアブラムには「羊の群れ、牛の群れ、ろば、男女の奴隷、雌ろば、らくだなど」が与えられました。ファラオは彼に最大級の厚遇を与えたのです。ファラオの好意を得たアブラムのエジプトにおける立場はもはや安泰です。しかしこれは何ということでしょうか。ファラオの宮廷に召し入れられるとは、その後宮、ハーレムの妾の一人になるということです。アブラムがここでしたことは、自分の妻を、ファラオの妾として売り渡したということです。その見返りとして、彼は財産や安定した地位を得たのです。つまり創世記はここで、信仰の父アブラハムを、妻を売り渡して自分の身の安泰と財産を得た卑劣漢、最低の男として描いているのです。

自分の力で命を守る

 このようなアブラムの姿に私たちは失望と幻滅を覚えるわけですが、そのような卑劣な歩みがどこから始まっているのか、ということをよく考えてみる必要があります。それは11節からではなく、むしろ10節から、つまり彼が、飢饉という試練の中で、生き延びる道を自分で何とか切り開こうとしたことから始まっていると言うべきなのです。自分の力と工夫で何とか命を守ろうとして彼はエジプト行きを決断しました。そのように自分で自分の命を守ろうとあれこれ考え、思い悩むうちに、エジプトへ行ってからの生活についても大きな不安が生じてきたのです。サライは美しい女だ、サライを見たエジプト人は、よそ者である自分を殺してサライを手に入れようとするのではないか、どうしたらよいだろう…。そして彼はそこでも、自分の知恵で命を守る手を考えたのです。それが、サライを妻ではなく妹ということにしよう、ということです。そうすれば命を狙われることもなくなり、逆に手厚くもてなしてもらえるようになる。彼も勿論最初からサライをファラオの妾に売り渡そうなどと思っていたわけではないでしょう。しかし自分の身を守ろうとして、夫婦であることを隠した結果、事態はどんどん独り歩きしていって、気がついたらサライがファラオに召し入れられることになってしまい、今さら「これは実は私の妻です」とは言えなくなってしまったのでしょう。つまりアブラムが自分の妻を売り渡すような卑劣な男になってしまった原因は、彼が苦しみ、試練の中で、自分の力と工夫で自分の身を守ろうとしたことにあったのです。それは先ほど申しましたように、信仰の問題です。神様の約束のみ言葉を信じて旅立ち、神様の導きによって歩んでいく、その信仰の旅路において、苦しみ、試練に遭う時、神様を信頼し、み言葉に寄り頼むのではなく、自分の力と工夫で何とかしようとする、つまり神様に寄り頼む信仰を貫くことができなくなってしまう、そのような歩みの結果として、私たちは、このアブラムのように、とんでもなく卑劣なまた情けない姿をさらけ出してしまうことになるのです。

神の怒り

 さて17節に至って、この物語において初めて、主なる神様が登場します。「ところが主は、アブラムの妻サライのことで、ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせた」。アブラムの嘘が招いたこの事態に、神様が行動を開始されたのです。神様はファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせました。神様の怒りが現わされたのです。神様の怒りはどこに向けられているのでしょうか。ファラオと宮廷の人々に向けられているのでしょうか。だったら彼らにとってはとんだとばっちりというものです。彼らは、アブラムとサライが夫婦であることを知らなかったのですから、知らずにしたことで神様の怒りを受けるのではたまりません。しかしこの話の続きを読むと、この神様の怒りは、彼らを滅ぼすためではなかったことが分かります。ファラオらが病気になったのは、そのことによって、サライが実はアブラムの妻だったことを彼らが知るに至るためであり、そしてサライをアブラムに返し、彼らを全ての持ち物と共にエジプトから去らせるためでした。ですから神様の怒りはファラオらに向けられているわけではないのです。神様がお怒りになるとしたら、その相手はむしろアブラムであるはずです。神様を信頼することができずに、自分で何とかしようとして右往左往し、その挙げ句このような事態を引き起こしたのはアブラムです。アブラムこそ神様の怒りに打たれるべき者であるわけですが、しかしそうはなっていません。アブラムは結局、神様のみ業によって、妻サライを返してもらい、また全財産を守られて、無事にエジプトから出ることができたのです。何のおとがめもなくただ得をした、という感じです。それではいったい神様の怒りはどこへと向けられているのでしょうか。
 神様がここでなさったことは、アブラムの不信仰がもたらしたとんでもない事態に直接介入してそれを正すことです。つまりサライをアブラムの妻という本来の立場に戻すことです。そのことは、卑劣で情けないアブラムの失敗を回復する、というより以上の大きな意味を持っています。それは、1~9節に語られていたように、アブラムとサライの夫婦は、神様の救いの約束を担う者たちだからです。その約束が語られている2、3節をもう一度読みます。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」。また7節の「あなたの子孫にこの土地を与える」もその約束のみ言葉です。つまりアブラムとサライの夫婦に、神様がこれから子供を与え、その子供がさらに子供を産み、子孫が大いなる国民となる、そのイスラエルの民によって、神様の祝福つまり救いが、地上の全ての人々に広げられ、伝えられていく、そういう神様の救いの歴史を担う最初の者として、アブラムとサライの夫婦は選ばれ、立てられているのです。もしもサライがファラオの妾になってしまったら、この神様の約束が実現せず、救いの歴史が途絶えてしまいます。神様の救いのご計画がおじゃんになってしまうのです。それゆえに神様は、怒りをもって直接介入なさったのです。つまり神様の怒りは、ファラオにでもアブラムにでもなく、救いの歴史を途絶えさせ、ご自分の約束の実現を妨げる事態に対して向けられているのです。神様は、救いのご計画を妨げるあらゆる力を打ち破って、救いの歴史を前進させ、祝福の約束を実現して下さる。この物語はそのことをこそ語っているのです。

不信仰の父

 そしてそこから振り返って見る時に、アブラムがここでしたことがいかに重大な罪であったかが分かるのです。彼は単に妻を裏切る卑劣で情けない男になってしまっただけではありません。彼は、自分が妻サライと共に神様によって選ばれ、祝福を担う者とされているという恵みをないがしろにしてしまったのです。神様の語りかけに応えて旅立った、その信仰の持つ重大な意味を見失ってしまったのです。苦しみ、試練の中で、神様の約束を思うのでなく、自分の力と工夫とで自分の道を切り開こうとする不信仰に陥り、神様の祝福をみすみすどぶに捨ててしまったのです。信仰の父アブラハムは、実はこのような不信仰の父でもあったのです。しかしそれにも増してこの話が語り、描いているのは、主なる神様が、アブラムのそのような不信仰によってご自分の救いのご計画がおじゃんになってしまうことを決して放置してはおかれない、ということです。アブラムが、不信仰によって祝福をみすみすどぶに捨ててしまおうとする時に、神様は自ら行動を起こし、彼が祝福を担い続けることができるように、救いの歴史が継続していくように計らって下さったのです。神様の救いの歴史はそのようにして進んでいきます。私たちは、信仰によって、つまり神様の語りかけに応えて旅立つことによって、その歴史を担う者として立てられます。しかしそれは実は私たちが担っているのではなくて、神様によって担われているのです。私たちはしばしば、神様の約束のみ言葉を忘れ、それに信頼することができなくなって、自分の力に寄り頼み、その不信仰の結果祝福をどぶに捨ててしまうようなことをします。しかし神様は、そのような不信仰な私たちをなおも担って、救いの歴史を前進させ、私たちが神様の祝福から落ちてしまわないように守って下さるのです。主イエス・キリストの十字架の死は、そのための神様の恵みのみ業です。神様の独り子主イエスが、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さったのです。それによって私たちの罪を赦して下さったのです。救いのご計画を妨げ、せっかく与えられた祝福をどぶに捨ててしまうような私たちの罪を、主イエスはご自分の命をささげて赦して下さり、罪人である私たちを神様の救いに、祝福にあずからせて下さるのです。主イエスの十字架の死と復活によって、神様の救いの歴史は、私たちの罪と不信仰にもかかわらず、前進し、完成へと近付いているのです。

信仰の父

 私たちは、主イエス・キリストの十字架と復活によって、神様の救いのご計画の中に置かれています。私たちの信仰は、この主イエスによって担われ、支えられているのです。私たちの信仰は、神様の助けをちょっと借りて、しかし基本的には自分の力や知恵や工夫によって生きていくことではありません。聖書は、そのように自分の力で生きようとすることを不信仰と言うのです。聖書の教える信仰とは、自分の力によって生きてしまう、その結果情けない、卑劣な歩みに陥ってしまう不信仰な私たちが、神様の恵みによって担われ、支えられて生きることです。アブラハムの歩みは、まさにそのような歩みでした。それゆえに彼は「信仰の父」なのです。自分の力で立派な信仰者として歩み通したから信仰の父なのではありません。神様にどこまでも信頼する強い意志の力によって信仰の父となったのではありません。むしろ、自分の力で何とかしようとした結果、妻を裏切り、神様の祝福をどぶに捨ててしまうような情けない、愚かなふるまいに陥ってしまう、そのような彼が、神様の恵みによって担われ、支えられて生きた、そこに、彼が「信仰の父」である所以があるのです。

思い悩むな

私たちの信仰は、自分の力で何事かを成し遂げ、立派に生きることではありません。神様の恵みによって生かされること、具体的には主イエス・キリストの十字架の死によって罪を赦され、その復活によって永遠の命の約束を与えられて、その恵みに支えられ、慰められ、力づけられて歩むことです。それでは私たちはどうすればよいのでしょうか。情けない、愚かで弱い自分が神様に支えられて生きるのが信仰であるならば、私たちはただ情けない、愚かな人間であればよいのでしょうか。そうではないのです。いやもっと正確に言えば、そういうことには決してならないのです。アブラムは、自分の命を自分で守ろうとしました。その結果、自分が情けない、愚かで弱い者であることを思い知らされたのです。そういう情けない、愚かで弱い私たちが、主イエス・キリストによる救いの恵みに支えられていることを知らされる時、私たちはもはや、自分の命を自分で守ろうと思い悩むことから解き放たれるのです。そのことを語っているのが、本日共に読まれた新約聖書の箇所、マタイによる福音書第6章25節以下です。「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」。それは自分の命を自分で守ろうとしてあれこれ思い悩む必要はない、ということです。それは何故か。「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」、「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」、私たちの命を守り、養い、導いて下さるのは、天の父であられる神様なのだ、だから、あなたがたはもう、思い悩む必要はないのだ、と主イエスは教えて下さったのです。情けない、愚かで弱い私たちが、主イエス・キリストによる救いの恵みに支えられていることを知らされる時、このように、自分の命や生活を自分で守ろうとする思い悩みから解放されるのです。そして神様の父としての恵みに自らを委ねて生きる者とされるのです。そこには、あのアブラムの歩みとは全く違う歩みがおのずから生まれます。神様の恵みによって担われ、支えられていることを知らされる時、私たちは、天の父の恵みに信頼して、委ねて、平安の内に神様に従う者へと変えられていくのです。私たちが自分の力でそのような者になるとか、ならなければいけない、というのではありません。私たちはもともとやはり、情けない、愚かで弱い者です。自分の力で頑張ろうとすればするほど、その弱さを思い知らされていくのです。しかしその私たちが主イエス・キリストの恵みによって担われ、支えられていくところに、まことの信仰が生まれます。その信仰によって私たちは、主イエスによって生かされ、力づけられ、思い悩みから解放されて父なる神様に信頼して生きる者へと変えられていくのです。

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