夕礼拝

契約の虹

「契約の虹」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; 創世記、第9章 1節-17節
・ 新約聖書; ペトロの手紙一、第3章 8節-22節
・ 讃美歌 ; 227、419

新しい世界の始まり
 夕礼拝において前回創世記第7、8章についての説教をしましたのは5月15日ですので、3か月ぶりにその続きを読むことになります。創世記は6章から9章にかけて、いわゆる「ノアの大洪水」もしくは「ノアの箱舟」の物語を語っています。本日の第9章はそのしめくくりであり、洪水が終わり、ノアとその家族が箱舟を出て、新しい生活を始めるに当って神様から与えられたみ言葉を語っているところです。これは前回お話ししたことですが、ノアの洪水の物語は、人間の罪に対する主なる神様の、天地創造のみ業を撤回するような徹底的な審きと、その審きによる滅びを通して天地創造を再びやり直して下さる救いのみ業とを語っています。つまりただ大洪水で全てが押し流されたというのではなくて、神様によって古い世界が滅ぼされ、新しい世界が始められたのです。その新しい世界の始まりが、本日の創世記第9章なのです。

産めよ、増えよ、地に満ちよ
 新しい世界の始まりにおいて、神様がノアとその家族にお与えになったのは、祝福の言葉でした。それが1節です。「神はノアと彼の息子たちを祝福して言われた。『産めよ、増えよ、地に満ちよ』」。「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という祝福は、創世記第1章28節で、神様が人間にお与えになった祝福と同じです。洪水によって古い世界が滅ぼされ、新しい世界が始まるに際して、神様はこの祝福を改めて人間にお与え下さったのです。この祝福は、人間が生きていくことを根本的に肯定しています。肉体をもってこの世を歩み、結婚して子供を産み、子孫を増やしていく、そういう人間の基本的な営み、人生の根本を、神様が祝福し、肯定して下さっているのです。私たちが今生きているこの世界は、このノアの洪水以後の、ここで新しく始められた世界です。つまり神様のこの祝福の言葉が、その始まりにおいて響き渡ったその世界を、私たちは生きているのです。私たちの人生にも、この神様の祝福のみ声が響き続けています。この祝福のゆえに私たちは、この世を生きることは、人生は、そして命を子孫へとつないでいくことは、良いこと、すばらしいことだと言うことができるのです。  しかし私たちはしばしば、このことがわからなくなってしまいます。生きていることは本当に良いことなのか、この人生には本当に意味があるのか、生きる価値があるのか、あるいは自分のようなものが生きている意味があるのか、自分など死んでしまった方がよいのではないか、その方が楽なのではないか、と思ってしまうことがあるのです。今日のように社会が複雑化し、ストレスの多い、苦しみや悲しみに満ちた生きにくい時代になると、そのような思いがますます強くなります。年間3万人を超える人々が自ら命を断つという現実がこの国にはあります。インターネットには自殺願望を持つ人々のサイトがあり、それを利用して殺人事件が起りました。実際に実行するまでに至らなくても、自ら命を断つことを考える人が大変増えています。漠然となりとも、生きていても仕方がないのではないか、死んでしまった方がいいのではないか、と思ったことのない人はいないのではないでしょうか。そのような思いに私たちが捉えられてしまうことの一番根本的な原因は、人生に対する、生きていることに対する神様のこの基本的な祝福を見失っていることだと思います。私たちは、自分自身の中に生きる意味や目的、生き甲斐を見いだそうとしていくなら、それを見失い、絶望に陥ることを防ぐことができないのです。「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という神様からの祝福の言葉を常に聞いていくことによってこそ、私たちは、生きていることが恵みであり、良いことであると知ることができるのです。

恐れとおののき
 このように、最初の天地創造における祝福と同じ祝福が、洪水後の新しい世界の歩み出しにおいて与えられたわけですが、しかしこの洪水後の世界は、それ以前の世界と同じではありません。いくつかの点で違うところがあり、新しいことが起っているのです。そのことが神様の祝福の言葉にも現れています。先ず2節に「地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる」とあります。これは1章28節の後半の「海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」と似ていますが、違いがあります。1章の方では、神様が人間に、この世界に生きる被造物を支配し、管理する務めをお与えになったことが語られていました。この9章でもそのことは、彼らが「あなたたちの手に委ねられる」という言葉において語られています。しかし、その被造物である動物たちと人間との関係に、この9章においては新しい要素が加わっています。それは、彼らが「あなたたちの前に恐れおののく」ということです。動物たちとそれを支配する人間との間に、恐れとおののきが生じているのです。こういう言い方は1章にはなかったことです。共に神様に造られた被造物である人間と動物たちとの間に恐れとおののきが生じる、それは、両者の関係がうまくいっていない、正常な関係が失われている、ということです。人間も神様に造られた被造物であり、その中で、地上に生きる者たち全体を支配し、管理すべき者として立てられているけれども、その人間と他の被造物たちとの関係はうまくいっていない、問題のある関係になっている、ということを、「恐れおののき」という言葉が表しているのです。

肉食の始まり
 人間と他の被造物の関係はどういう点でうまくいかなくなっているのでしょうか。動物たちが人間の前に恐れおののくのは何故でしょうか。その理由が次の3節にあると思われます。「動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしはこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える」。神様はここで、「動いている命あるもの」即ち動物たちを人間に、食糧としてお与えになったのです。このことも、洪水前の世界においては見られなかったことです。1章29節で神様はこう言っておられます。「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる」。つまりこの時人間に食べ物として与えられたのは、草や木の実なのです。そして2章において、いわゆるエデンの園でアダムとエバに与えられた食物も、木の実だけです。つまり最初に造られた人間は、植物の実りを食べていた、いわゆる菜食をしていたものとして描かれているのです。しかしこの9章において神様は、初めて、動物を、つまり肉を、人間の食糧としてお与えになりました。動物を殺してその肉を食べるという肉食がここから始まったのです。このことが、人間と動物たちとの間の「恐れおののき」、問題のある関係の原因でしょう。動物たちにとって今や人間は、自分たちを捕えて殺し、その肉を食べる敵となったのです。  創世記のこれらの記述を、人間は本来は菜食によって生きていたのが、ノアの洪水の後に肉食をするようになった、というように人間の食文化の歴史として読んではなりません。これまでに何度か申していることですが、創世記の1章から11章は、歴史ではありません。聖書において歴史は、12章の、アブラハムの物語から始まるのです。それ以前のところに語られていることは、いわばその歴史が営まれていく舞台の設定です。この世界とは、また人間とはどのようなものであるか、がいくつかの物語によって語られているのです。本日の第9章も、洪水後の新しい世界、つまり今この歴史が営まれている世界とそこにおける人間と被造物の関係の根本を描こうとしています。そこでは、人間が動物を殺してその肉を食べるということが行われており、それによって人間と動物たちの間にある緊張関係がある、恐れおののきがある、ということが語られているのです。この話はそのことを語ろうとしているのであって、人間の食文化の変遷を語ろうとしているのではありません。同様に、このことから、人間は本来は肉ではなく穀物や野菜を食べて生きるべきものである、つまり菜食主義こそ人間の本来の姿であって神様のみ心に適うことだ、という結論を導き出すことも間違いです。神様ご自身がここで人間に、動物たちを食糧としてお与えになったのであって、肉食も神様のみ心から出たことなのです。つまりこれらの話は、人間は何を食べるべきか、ということを語っているのではありません。人間は動物を殺してその肉を食べて生きている、それが現実であり、神様もそのことを認めておられるのです。しかしそのことによって人間と動物の間にはある緊張関係が、関係の破れが生じている、この箇所はそのことを教えているのです。

血を食べてはならない
 生きるために、共に生きている被造物である動物を殺さなければならない、それは人間だけではなくて、いわゆる食物連鎖の中で動物たちもしていることです。しかしその中で人間だけは、自分が生きるために他の動物を殺している者だということを意識する心を与えられています。神様は、人間にそういう心をお与えになることによって、他の被造物全体を支配し、管理する者としてお立てになっているのです。その支配と管理のために神様が人間にお与えになった大切な命令が4節です。「ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない」。動物を殺して食糧とするに際して、肉は食べてもよいが血は食べてはならないのです。具体的にはどうするかというと、動物を屠殺する時に、血管を切り、血を地面に流し出すのです。そのような仕方で屠殺した肉しか食べてはならないのです。何故血を食べてはならないのでしょうか。それは、4節と5節に「命である血」という言葉があるように、血にこそ命が宿っていると考えられたからです。生きている間は血が流れているが、死ぬと流れなくなる、という体験から、血は命を象徴するものと考えられたのです。その血は食べてはならない、地面に注ぎ出さなければならない、それは、命そのものは神様のものであって、神様にお返ししなければならない、ということです。動物を殺して食糧としてもよいが、命そのものは神様にお返しすることが求められているのです。
 このことも私たちは、表面的な意味に捕われて、食べてもよいものといけないものを定めている食物規定として読んでしまってはなりません。読み取るべきことは、命は、人間のであれ動物のであれ、神様のものである、ということです。神様のものであるということは、人間のものではないということであり、人間が自分のために好き勝手に利用してはならないのであって、神様のものとして大切にし、み心に適う仕方で取り扱わなければならないのです。神様は人間が動物の肉を食糧とすることを許して下さいましたが、そのことによって、人間と動物たちとの関係に緊張が生じていることをも見つめておられます。そのような中で、人間が動物たちを含む他の被造物を正しく支配し、管理していくためには、動物たちの命を神様のものとして大切にし、その肉を食べる時には命を神様にお返しする、という姿勢が必要なのです。つまりこの、血を含んだままの肉を食べてはならないという命令は、人間が、命の本当の所有者である神様を覚えて、謙遜に歩むことを教えているのです。

神のものである命
 緊張関係は、人間と動物との間にのみ生じるのではありません。そのことが語られていくのが5、6節です。「また、あなたたちの命である血が流された場合、わたしは賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。人の血を流す者は人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ」。ここで見つめられている血、命は動物の血、命ではありません。人間の命である血が流される、つまり人が殺され、命を奪われることが見つめられているのです。そのときには、わたし、つまり神様ご自身が、その賠償を要求すると言っておられるのです。ここには、人間の命はわたしのものであるという神様の宣言があります。神様のものであるからこそ、それを損なう者には神様ご自身が賠償を要求なさるのです。しかも6節には、「人は神にかたどって造られたからだ」とあります。被造物の中で、神様にかたどって造られたのは人間のみです。動物たちの命は神様のものであり、神様にお返ししなければならないものであったわけですが、人間の命は、それとは比べものにならないくらい大切なものなのです。神様はご自分にかたどって造られた人間の命を、ご自分のものと宣言し、それを祖末にすることを固く禁じておられるのです。

命の尊厳
 このことは一般的には「人間の命の尊厳」と言われていることと通じます。「一人の人間の命は地球よりも重い」などと言われたりもします。自殺や殺人の事件が起るたびに、命の大切さを子供たちに教えなければならない、という議論がなされます。しかし人間の命は何ゆえにそれほどに尊い、大切なものなのでしょうか。一度失われたらもう取り戻すことができない、ということも一つの理由にはなるでしょう。しかしそれだけでは、「自分の命はもういらない、取り戻す必要はない」と思っている者には説得力を持ちません。つまり私たちが、自分の命を「自分のもの」だと思っている間は、本当の意味で命の尊厳は分からないのです。しかし命は自分のものではありません。それは神様がご自分にかたどって造られた、神様のものです。神様のものであるがゆえに、それはかけがえなく尊い、決して粗末にしてはならないものなのです。たとえそれを預けられている人間が、生きていても意味がない、死んだ方がましだと思うようなことがあっても、それでも命は人間が勝手に捨ててしまってはならないものなのです。神様は、ご自分のものである命がそのように祖末にされることをよしとはなさらないからです。ここには、人間の命に対する、私たちの思いを超えた、神様の愛、そして大いなる肯定があります。私たちは、人間の命を、しばしば軽んじてしまいます。戦争、テロ、事故や災害によって人々の命が奪われていくことを、他人事のように思い、その命に対する感受性を鈍らされてしまっています。またそうでもしなければ生きていけないようなこの社会、世界の現実があるわけです。そのような中で、自分自身の命に対する思いも鈍くなり、それをどうでもよいもの、大して価値がないもののように感じてしまうのです。しかし私たち自身が抱いている命に対する思いをはるかに超えて、神様は、人間の命を、大切に思っておられ、それを良いものとして肯定しておられ、それが奪われ、損なわれることに対しては怒りをもって臨んでおられるのです。そういうみ心が示され、それを受けてもう一度7節で、「あなたたちは産めよ、増えよ、地に群がり、地に増えよ」という祝福が語られています。つまりこの祝福において神様は、ただ人が生殖活動によって子孫を増やしていくことを肯定しておられるのではなくて、あらゆる動物の命が、神様のものとして大切にされ、中でも神様にかたどって造られた人間の命が、神様ご自身と共に尊重され、大切にされることを求めておられるのです。そのような命の尊重の中でこそ、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という祝福が実現していくのです。

洪水の前と後
 洪水後の新しい世界の始まりにおいて、神様はこのような祝福を宣言なさいました。その祝福は、第1章にあった祝福とは違っています。何が違うかというと、1章はまだ、人間の罪、神様への背きが前提とされていない祝福であったのに対して、この9章は、そのことが前提とされている、ということです。ノアの洪水は、人間の罪が極まり、神様が怒りをもって地上の全ての生き物を滅ぼしてしまわれた、その審きの出来事です。ここに始められた新しい世界は、人間の罪に対する神様の怒りと審きを経た世界なのです。そして、箱舟によってその審きから救われ、新しい世界を築いていく者として立てられたノアとその家族ですが、彼らとても、罪のない、清い人々なのではありません。そのことは、8章21節の主のみ言葉において既に示されています。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」と主は言われました。「人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」。これは人間のどうしようもない罪についての、神様の深い認識です。洪水後の新しい世界も、このような罪ある人間によって築かれていくのです。従ってそこには様々な罪が、問題が、悲惨なことが起るのです。人間と動物たちとの間の緊張関係、恐れとおののきもそこから生じてくると言えるでしょう。また人間どうしの間にも、お互いの命を尊重し、大切にするのではなく、むしろそれを祖末にし、自分の欲望のために人を殺してしまうようなことが繰り返されていくのです。洪水後の新しい世界は、その点で洪水前の世界と何ら変わるところがありません。洪水の前と後でただ一つ変わったのは、そのような世界、人間に対する神様のみ心です。人間の罪のゆえに、地を滅ぼし、全ての生き物をぬぐい去る、そのような審きを下された神が、そのみ心を変えられたのです。罪人である人間と、その築いていく世界に、なお祝福を与え、その歩みを肯定して下さることを決意して下さったのです。

契約
 神様はこのご決意を、ノアとその家族、また箱舟を出て新しい世界を生きていく全ての生き物との間に、契約を結ぶという仕方で示して下さいました。9、10節にそのことが語られており、11節にその契約の内容が示されています。「わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない」。もう二度と、洪水によって地の全ての生き物を滅ぼすようなことはしない、と神様は約束して下さったのです。それは言い換えれば、神様の審きによって滅ぼされても当然である人間とこの世界を、神様が愛して下さり、そこに生きる命をご自分のものとして大切にすると宣言して下さったということです。神様がこのように、動物たちの命を、そして私たち人間の命を、罪にまみれ、神様に背く思いに満ちている命であっても、大切にし、尊重して下さっている、だから私たちも、この世を共に生きる被造物の命を、そして何よりも人間の命を、自分自身の命をも含めて、神様の恵みによって生かされている神様のものとして大切にし、尊重していくのです。決して粗末にしてはならないのです。

契約の虹
 神様はこの契約の印として、雲の中に虹を置いて下さいました。雨が止み、日が出てきたときに見られる虹は、神様が、ノアの洪水の後、新しい世界の始まりにおいて結んで下さった契約、人間の罪のゆえに世界を滅ぼすことは二度としない、という約束を与えて下さった、その祝福の印なのです。この「虹」という言葉のもとの意味は「弓」です。英語で虹はrainbowですが、これもrain(雨)とbow(弓)とから成っています。「雨の弓」が虹なのです。虹が弓である、ということに深い意味があります。弓は敵を攻撃する武器です。神様はこの契約において、洪水においてなさったように人間の罪のゆえに人間を攻撃するその弓を置いて下さった、放棄して下さったのです。もはや罪のゆえに人間を攻撃し、滅ぼすことはしない、と宣言して下さったのです。さらにこのようにも言えるかもしれません。虹のあのアーチが弓であるとして、そこに弦が張られ、そこから放たれる矢はどちらへと向かっていくか、それは天へと向かっていくのです。虹の弓は、矢を天へと射る弓です。神様の弓はもはやその矢を地へと、人間へと向けるものではない。人間の罪に対する審きの矢は、天へと、神様ご自身の方向へと向けられているのです。それは、神様の独り子イエス・キリストが、私たちの罪を全て背負って苦しみを受け、十字架にかかって死んで下さることによる罪の赦しの恵みを指し示している、と考えることもできるのではないでしょうか。洪水後の新しい世界の始まりにおいて神様が与えて下さった祝福の契約は、主イエス・キリストの十字架による罪の赦しの恵みへとつながっていくものだったのです。本日は共に読まれる新約聖書の言葉として、ペトロの手紙一の第3章8節以下を選びました。3か月前に7、8章を読んだ時にも、同じ章の18節以下を読みました。ノアの箱舟とキリストによる救い、洗礼とを結びつけて語っているのがこの箇所です。本日8節以下を読んでいただいたのは、それに加えて9節に、私たちが「祝福を受け継ぐために召された」ことが語られているからです。私たちは今、神様の祝福を受け継ぐ者として、教会に召し集められています。私たちの受け継ぐ祝福は、主イエス・キリストの十字架と復活によって与えられているものですが、それは、洪水後の新しい世界の始まりにおいて与えられたこの祝福をも受け継いでいるものです。ノアに与えられたこの祝福のみ言葉が、主イエス・キリストを通して、私たちの人生にも響いているのです。この祝福を受け継ぐ私たちは、命を愛し、つまり与えられた人生を良いものとして喜びつつ、悪から遠ざかり、善を行い、平和を追い求め、義のために苦しみを受けることをも幸いとし、人々を恐れず、心を乱されず、キリストを主とあがめながら、希望を失うことなく歩むことができるのです。

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