夕礼拝

カインとアベル

「カインとアベル」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; 創世記、第4章 1節-16節
・ 新約聖書; ローマの信徒への手紙、第9章 6節-18節
・ 讃美歌 ; 128、361
 

エデンの東
 創世記第四章の、カインとアベルの物語を読みます。この第四章は、第三章からの続きです。第三章には、最初の人間アダムとエバが、神様に背く罪を犯したために、神様が造り整えて住まわせて下さっていた楽園、エデンの園から追放された、いわゆる失楽園の物語が語られていました。罪によって人間は、神様のもとを追われ、荒れ野のようなこの世を生きていかなければならなくなったのです。実は本日のカインとアベルの物語も、3章の失楽園の物語といろいろな点で重なっています。どちらも、人間の罪とその結果を語っている物語である、という根本的な点が共通していることは勿論ですが、細かい点においてもいくつかの共通点があります。罪を犯した人間に神様が、「どこにいるのか」と語りかけることもその一つです。三章九節と四章九節です。カインに対しては「弟アベルはどこにいるのか」という問いですが、それがまさに彼の罪をえぐり出す問いとなっています。また人間の罪に対して神様が、「何ということをしたのか」と嘆きの声をあげられるのも、三章一三節と四章一○節で共通しています。また罪の結果として土が呪われ、作物を産み出さなくなる、ということも同じです。また罪を犯した人間がその地から追放される、ということも共通しています。けれどもその追放に当って、神様がある守りを人間にお与えになる、ということが、三章においては二一節の「皮の衣を着せる」ということにおいて、四章においては一五節の「カインにつけられたしるし」において語られています。そして最後に、四章一六節には、カインが主の前を去って、エデンの東のノドの地に住んだとありますが、三章二四節には、アダムとエバがエデンの園を追われた時に、そこにあったもう一つの禁断の木である「命の木」に彼らが近づくことができないように、神様がエデンの東に園を守る者を置かれたことが語られていました。つまりアダムとエバも、エデンの東へと追放されたのです。「エデンの東」、それは、罪によって神様のもとから追放された者の住む地なのです。このように、三章のアダムとエバの失楽園の話と、四章のカインとアベルの話は、重なり合っています。罪を犯し、神様のもとから追放された人間の間で、新たな罪が繰り返されていくのです。罪が新たな罪を生んでいくのです。しかもそれは同じ罪が繰り返されていく、というのではありません。アダムとエバの罪は、神様のご命令に背き、食べてはいけないと言われていた木の実を食べてしまったということでした。つまり神様に背く罪です。それが人間の罪の根本です。そしてその神様に背く罪は、神様との関係のみでなく、人間どうしの関係、最も近い夫婦の関係をも損ない、傷つけていくということを私たちは第三章において見てきました。その人間どうしの関係の破れが、この第四章に入ると、兄弟の間での殺人へとエスカレートしているのです。神様に背く罪によってエデンの園を追われた人間の歩みは、兄弟の間での殺人という深刻な現実を生んでいったのです。このように神様への罪は、人間どうしの傷つけ合い、殺し合いへと深刻化していくのです。それが、エデンの東の現実なのです。

農耕と牧畜
 しかしカインは何故弟アベルを殺したのでしょうか。彼らはアダムとエバの二人の息子たち、兄弟でした。カインは土を耕す者となり、アベルは羊を飼う者となったとあります。カインは農耕に生きる者、アベルは牧畜に生きる者となったのです。ここに、古代の聖書の世界における二つの代表的な生活形態が見つめられています。二つの文化と言ってもよいでしょう。イスラエルとその周辺諸民族の歩みは、農耕と牧畜という二つの生活、文化の複雑な絡み合いの中で営まれていったのです。イスラエルは基本的には家畜を飼う者として出発しました。創世記第一二章以下のアブラハムの姿はそれを示しています。しかし次第にカナンの地に定着し、農耕の生活へと移行していきます。農耕の方が、安定した経済力を得るのには適しているのです。ダビデ、ソロモンの王国は農耕による経済的繁栄を土台としています。しかしイスラエルの人々の間には、羊を飼う生活こそ本来のイスラエルの生き方である、という思いも根強く残っていました。ダビデがもともとは羊を飼う者だったというのも、その現れでしょう。また、預言者たちがイスラエルの罪として厳しく指摘した、バアルを始めとする異教の偶像の神々は、カナンの地の農耕民族からの影響でイスラエルに入って来たものです。カナンの地に定着し、農耕の生活を始めるようになってから、イスラエルは信仰において堕落していった、という歴史理解があるのです。イスラエルにおけるそのような農耕と牧畜との微妙な、複雑な関係が、このカインとアベルの物語の背景にはあります。カインとアベルが、それぞれの仕事から得た産物を、つまりカインは土の実りを、アベルは羊の初子を持って来て主なる神様に献げ物としたが、主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった、とあるのは、その現れでしょう。農耕の生活よりも牧畜の生活の方が主なる神様に喜ばれるのだ、という主張が、ここには確かに働いていると言えます。

カインの苦しみ
 けれどもこのことは、この物語の一つの背景であって、カインの献げ物が神様に受け入れられなかった理由の説明ではありません。何故なら旧約聖書における神様への献げ物の規定には、家畜の献げ物と並んで、穀物の献げ物も位置づけられているからです。神様は農耕の産物を献げ物として喜ばない、受け入れない、などということは全くありません。またさらに大事なことは、この物語の主人公はむしろ農耕生活者のカインである、ということです。アベルはこの物語において、殺されてそれで終わりの脇役です。推理小説における殺人の被害者のようなものです。この話は、カインを中心として展開しており、カインと神様との関係を描いているのです。農耕生活と牧畜生活のどちらが神様のみ心に適うか、ということを語ろうとするなら、むしろアベルが主人公となるような別の話になったはずです。ですからこの物語は、農耕と牧畜という二つの文化の関係を背景として持ってはいるけれども、そのことを語ろうとしているのではないのです。神様はなぜカインの献げ物に目を留められなかったのか、このことは古来、この物語を読む人の頭を悩ませてきました。新約聖書の中には、アベルの方が信仰的に優れていたからとか、カインが正しい人でなかったから神様に受け入れられなかった、という説明をしている所があります。そのことによって新約聖書が語ろうとしていることは受け止める必要がありますが、この物語の解釈としてはそれは当っていません。カインの献げた物が不十分だったとか、カインが悪人だったということはこの話の中のどこにも語られてはいないのです。「天地創造」という映画があります。その中にもこのカインとアベルの話が描かれています。そこでは、カインが穀物を神様に献げるために取り分けている時に、途中で惜しくなって自分の籠に少し戻した、つまり彼は出し惜しみをしたのだ、という描き方をしていました。しかしそれは監督の脚色であって、聖書が全く語っていないことです。そのような脚色が必要になるほどに、聖書は、なぜカインの献げ物が神様に受け入れられなかったのか、その理由を説明していないのです。つまりこれは謎なのです。カインにしてみれば、全く理由が分らないのに、神様はアベルの献げ物を受け入れ、自分の献げ物は受け入れない、そういう区別を、差別と言ってもよい、要するにえこひいきをしている、ということなのです。このことによって、カインは大きな苦しみと怒りに満たされました。もしもこれが、あの映画のように、自分が出し惜しみをしたから、という理由があるなら、やはりそうか、仕方がない、ということになったでしょう。しかし彼に思い当たる節は何もないのです。自分は精一杯しているつもりなのに、何故か神様は自分を認めて下さらない、受け入れて下さらない、彼はそういう苦しみにつき落とされたのです。

人生の謎
 聖書はここで、私たちの目を、人生の謎に向けさせようとしています。人生には、またこの世界に起る出来事には、理由のわからない謎があります。こういう原因によってこういう結果になった、という因果関係が説明できないことが沢山あります。どうしてこのような苦しみ、悲しみが自分に襲いかかるのか、自分がいったい何をしたと言うのか、という現実があるのです。そしてそこで周囲を見回し、他の人を見るならば、自分よりも特別に立派でも、正しくもない、同じような普通の人間なのに、あの人は幸せに暮らしている、苦しみなど知らずに生きている、ということがあるのです。その時苦しみはより深くなります。何故自分だけがこのような目に遭わなければならないのか、神様はえこひいきをしている、自分のことは目に留めてくれていない、そういう思いが私たちを捉えることがあるのです。世界の出来事に目を向ける時にも、例えば先日のインド洋大津波のようなことが起ります。十五万人を越える人々が命を失い、その半数は子供だということです。たとえ命は助かっても、家族や友人を失い、財産や生活の糧を失い、途方に暮れている多くの人々がいます。神様は何故このような災害が起ることをお許しになるのか、この世の全てのことが神様のみ心によるとすれば、いったいここにはどんなみ心があるのか。それは謎です。いくら考えても納得のいく説明は得られません。全てを「運命のいたずら」と言ってしまえれば楽なのかもしれませんが、全能の父なる神様を信じて生きる者は、これらのことによって信仰を揺るがせられる大きな謎に直面せざるを得ないのです。カインが直面したのもまさにそういう事態でした。彼は自らの人生において、神のみ心の謎に直面させられたのです。

顔を伏せたカイン
 この謎に直面した時、カインはどうしたか。五節後半、「カインは激しく怒って顔を伏せた」。カインは激しく怒ったのです。理由のわからない、説明のつかない苦しみに直面する時、私たちは怒りを覚えます。何故こんなことが…、納得できない…、というやり場のない思いに満たされるのです。周囲の人々と自分を見比べる時にその怒りはさらに深くなります。なぜあの人は幸せなのに、自分にはこんな不幸が襲うのか、あの人に比べて自分がいったいどんな悪いことをしたというのか、こんな苦しみを受けるいわれはない…、そういう思いが私たちの心に渦巻き、心を波立たせ、平安ではいられなくなります。そしてその怒りは、自分よりもよい思いをしている周囲の人々への妬み、嫉妬となって燃え上がるのです。アベルに対する殺意がこのようにしてカインの中に生まれました。アベルが彼に何かをしたわけではありません。アベルによって傷つけられたのではないのです。しかし自分の献げ物が神様に受け入れられない、という人生の謎に直面する時、神様に受け入れられている人、自分よりもよい目を見、幸せを与えられている人が憎い、という思いが生まれ、それが殺意にまでふくれあがっていくのです。

顔を上げよ
 このカインに対して、神様が語りかけます。六節七節です。「主はカインに言われた。『どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない』」。この神様の語りかけから分ることは、神様はカインのことを憎んだり、退けたりしておられるのではない、ということです。カインの献げ物が顧みられなかった、それはカインが努力したことがうまくいかなかった、よい結果、実りを生まなかった、思い通りにならなかった、ということです。何故そうなったのかはわかりません。しかし確かに人生には、努力してしたことが報われない、うまく行かない、ということがあるのです。神様がそのようになさることがあるのです。しかし、そのようなことがあっても、それは、神様が自分を見捨ててしまった、もう自分のことなど顧みて下さらない、愛しておられない、ということではないのです。私たちには理由がわからない苦しみという人生の謎、神様がそうしておられると言うしかない不可解な現実の中で、なお神様は私たちに語りかけ、共に歩もうとしておられるのです。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか」。怒りに心騒ぎ、平安を失ってしまう私たちに、神様はこう語りかけられます。「正しいことをしているのなら、顔を上げなさい」。カインはこの時点で、何も悪いことをしてはいません。精一杯献げ物をしたのです。ただそれが受け入れられなかった、思い通りにならなかった、それは彼の罪ではありません。だから神様に向かって顔を上げてよいのです。神様に顔向けできないようなことはないのです。ところが彼は、怒って顔を伏せてしまっています。神様を見上げることをやめて、神様から顔を背けてしまっているのです。そこから、全ての問題が、罪が始まります。顔を伏せ、神様から顔を背けたカインの心を、弟アベルへの憎しみ、殺意が、罪が支配してしまうのです。神様は、人生の謎に直面して苦しんでいるカインに、顔を上げて私を見なさいと言っておられます。あなたのその苦しみを、怒りを、私に向けてぶつけなさいと言っておられるのです。神様がカインに語りかけ、求めておられることは、彼が、神様のみ顔をしっかり見上げて、「私は精一杯献げ物をした。何故あなたはそれを受け入れて下さらないのか。何故私の努力を、働きを祝福して下さらないのか」と、心の思いを神様にぶつけていくことだったのです。ところがカインは、神様に顔を向けることをせず、顔を伏せて、上げようとしません。自分の苦しみ、悲しみ、納得のできない現実への怒り、その自分の思いのみを見つめ、自分の心の中で堂々回りをしているのです。そこに、罪の力の誘惑が、罠があります。「罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める」。その罪は人間に罪を犯させようと狙っているサタン、悪魔のことであると言えるでしょう。サタンが最も働きやすいのは、私たちが、神様を見上げることをやめ、自分の思い、苦しみや悲しみ、怒りの中で堂々回りをしている時なのです。私たちが人生の謎に直面する時に、激しく怒って顔を伏せてしまうことこそ、サタンの思う壷なのです。そこでは、私たちの悲しみや怒りは、嫉妬という感情を媒介として容易に、何の罪もない隣人への憎しみ、殺意へと変っていくのです。神様は、カインの目をご自分に向けさせることによって、彼がそのような罪に陥ることを防ごうとしておられます。しかし、カインは顔を上げようとせず、神様のこの語りかけを無視して、弟を殺してしまうのです。

兄弟としてあるべき関係
 七節の終わりに、「お前はそれを支配せねばならない」とあります。この訳では、「それ」というのは戸口で待ち伏せしている罪のことです。罪を支配して、それを犯さないようにせよ、と神様が言っておられることになります。しかしある註解者は、文法的にそれは成り立たない読み方だと言っています。「罪」という言葉は女性名詞であるのに対して、「お前はそれを」の「それ」は男性型、つまり正確には「彼を」である。だからこの「それ」は「罪」のことではあり得ないと言うのです。そうするとこの「それ」、正確には「彼」とは誰か。それはアベルのことだろう。つまりここで神様はカインに、「お前は弟アベルを支配せねばならない」と言っておられるのだ、という読み方も成り立つのです。その場合の「支配する」は、兄として弟を正しく支配する、つまり、弟を守り、慈しみ、生かすことです。神様はカインに、弟に対して、兄としての正しい、あるべき関係を持つことを求め、期待しておられるのです。しかしカインは間違った仕方でアベルを支配してしまいました。それが彼を殺したということです。憎しみによる力を振るい、命を奪うという仕方で、兄弟を支配してしまったのです。その後神様が彼に、「お前の弟アベルは、どこにいるのか」と問われたのに対して、「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」と答えたのも、兄としての、弟に対する守り手という正しい関係を拒否していることの現れです。神様から顔を背けた人間は、人間どうしの正しい関係をも失い、歪んだ仕方で人を支配する者となってしまうのです。実はこの七節の終わりの言葉は、三章一六節の終わりの、「彼はお前を支配する」と同じ言い方になっています。三章一六節は、アダムとエバの罪の結果、男と女、夫と妻の関係が歪んだものとなり、そこに支配、被支配の関係が生じていくことを語っています。神様に背いて罪を犯したことによって、人間どうしの関係が歪んだものとなったのです。三章においては夫と妻との間でそのことが見つめられており、四章では、兄弟の関係において同じことが見つめられているのです。

神の自由な選び
 カインとアベルの物語は、私たちに、人生の謎、理由のわからない、説明のできない苦しみの問題を見つめさせています。エデンの園を追われた人間が今生きているこの世界は、荒れ野であり、そこにはこのような謎が、神様の恵みのみ心が見えなくなってしまうような現実があるのです。そしてそのような謎に直面する時、私たちは罪に陥る大きな危険にさらされています。罪が戸口で待ち伏せているのです。怒って顔を伏せ、神様を見上げることをやめてしまうならば、私たちはその罪の餌食となり、兄弟を憎み、殺す罪に陥ってしまうのです。神様が私たちに求めておられるのは、人生の謎に直面し、納得のできない苦しみに遭い、神様が自分を受け入れて下さらないように感じる、まさにその時に、顔を伏せず、神様を見上げることです。そして神様に、自分の思いを、苦しみ悲しみを、怒りを、納得のできない思いを投げかけていくことです。そこで私たちが示されるのは、本日共に読まれた新約聖書の個所、ローマの信徒への手紙の第九章六節以下に語られている、神様の自由な選びによるご計画です。一一、一二節の後半に「それは、自由な選びによる神の計画が人の行いにはよらず、お召しになる方によって進められるためでした」とあります。また一五節には「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」という言葉があります。神様はこのような自由な選びによって救いのご計画を進めておられるのです。私たちはそのご計画を説明し、理解し、納得してしまうことは出来ません。人生の謎、この世の謎は残り続けるのです。けれどもこの神様の自由な選びによるご計画においてこそ、私たちの行いによらない、神様の憐れみによる救いのみ業が実現していくのです。主イエス・キリストの十字架の死がそのことをはっきりと示しています。神様の独り子であられる主イエスが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちは、誇るべきよい行いは何もない、全く相応しくない者であるけれども、神様の選びの恵みにあずかって、憐れみと慈しみを信じて歩むことができるのです。

なお神の守りが
 人生の謎の前に怒って顔を伏せ、神様を見上げることをせずに兄弟殺しの罪に陥ったカインの姿は、私たちの姿です。私たちは、カインの末裔として、エデンの東、ノドの地を、さすらいつつ生きているのです。しかし神様は、そのような罪の結果を背負って生きるカインに、一つのしるしを付け、彼を守って下さいました。神様から顔を背けて殺人の罪を犯したカインが、しかし神様に捨てられ、滅ぼされるのではなく、なお神様の守りの中に置かれている、それが私たちの姿なのだ、とこの物語は語っているのです。兄弟との関係を正しく生きることができず、兄弟を生かすのでなく殺してしまうような罪人にも、なお神様の守りが与えられている。その神様の恵みは、独り子イエス・キリストが人間となり、私たちの兄弟となって下さり、そして主イエスが兄弟である私たちのために十字架にかかって死んで下さったことにおいて、私たちの現実となっています。私たちは、人生の謎、世界に起る説明のつかない悲しみの出来事の謎を前にして立ちすくむ者ですけれども、主イエス・キリストの十字架の苦しみと死における神様の憐れみと慈しみを見つめることにおいて、神様のみ顔を見上げつつ、その守りの中でこの世を歩み続けていくのです。

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