「神をなだめるモーセ」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: 出エジプト記 第32章1―35節
・ 新約聖書: ローマの信徒への手紙 第2章1-10節
・ 讃美歌 : 145、449
偶像を造り、拝む
先月に続いて、旧約聖書出エジプト記第32章を読みます。先月は、6節までのところについてお話ししました。そこには、指導者モーセが従者ヨシュアと共にシナイ山に登ったきり帰って来ない、その不安の中で、麓で待っていたイスラエルの民が祭司アロンに、「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」と求めて金の子牛の像を造らせたことが語られていました。彼らは、「イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」と言って、この金の子牛を拝み、その祭りを始めたのです。 指導者モーセの姿が見えなくなったとたんにこのようなことを始めるということは、彼らイスラエルの民が、自分たちをエジプトの奴隷の苦しみから救い出し、導いて下さっているのは主なる神様だということが全然分かっておらず、目に見える人間の指導者モーセばかりを頼りにしている、ということです。そしてそのように目に見える人間を頼っている彼らは、目に見える神をも造り出すのです。人間が造った目に見える神、それを「偶像」と言いますが、それは、人間の思い通りの神です。人間が神について抱いているイメージ、神はこうであってほしいと思っている願いを投影したもの、それが偶像です。ここには、人間が偶像の神を造り、拝むことがどのような思いの中で起るのかが語られているのです。
契約を裏切る
モーセとヨシュアはこの時シナイ山に登り、主なる神様から、十戒を記した二枚の石の板を授かっていました。十戒は、主なる神様がイスラエルの民にお与えになった戒め、掟ですが、それは単なる規則ではなくて、主なる神様が彼らをエジプトの奴隷状態から解放し、救って下さった、その恵みの出来事に基づいて、神様が彼らの神となり、イスラエルが神様の民となる、という特別の関係を結んで下さる、その契約に際して、神の民となって歩んでいくイスラエルの民が守り行うべき事柄を記したものです。つまり十戒の土台には神様による救いの恵みがあるのです。イスラエルの民は、つい先ごろ、主なる神様との契約の締結に際して、これらの戒めを守ることを約束したのです。その第一の戒めは「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」であり、第二の戒めは「あなたはいかなる像も造ってはならない。それらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない」です。これらの戒めを含む十戒を記した石の板をモーセが授かっている間に、山の麓で待っていた民はそれを破り、主なる神様をおいてほかのものを神とし、自分の思いや願いをかなえてくれる金の子牛の像を造り、それに向かってひれ伏し、礼拝したのです。契約によって主なる神様の民として歩み出した途端に、イスラエルの民はこのように神様を裏切る罪に陥ってしまったのです。
神の怒り
以上が6節までに語られている、先月お話ししたことです。本日はその続き、7節以下を読んでいきます。そこには、イスラエルの民のこの罪に対して主なる神様がどうなさったかが語られています。7、8節にこうあります。「主はモーセに仰せになった。「直ちに下山せよ。あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、早くもわたしが命じた道からそれて、若い雄牛の鋳像を造り、それにひれ伏し、いけにえをささげて、『イスラエルよ、これこそあなたをエジプトの国から導き上った神々だ』と叫んでいる」」。ここに既に主なる神様の激しい怒りが表されています。「あなたがエジプトの国から導き上った民」という言い方がそもそもその怒りを示しています。ご自分がエジプトから導き上った民であるはずなのに、この民はあなた、つまりモーセが導き上ったのであって私は関係ない、と突き放しておられる感じです。さらに、「早くもわたしが命じた道からそれて」にも怒りが感じられます。つい先だって、十戒を守り行いますと誓ったばかりなのに、その舌の根の乾かないうちに早くもそれを破り、道をそれてしまっている、ということです。神様はその激しい怒りのゆえに9、10節でこうおっしゃいました。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である。今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし、あなたを大いなる民とする」。「わたしはこの民を見てきたが、実にかたくなな民である」、このことを私たちは出エジプト記において繰り返し読んできました。神様がエジプトで奴隷とされている彼らのもとにモーセを遣わして下さって以来、この民は何度も、神様に背き逆らい、神様の恵みを疑い、不平不満を言ってきたのです。神様はその都度、大いなる忍耐と寛容をもって彼らを導き、救い出し、ついにシナイ山において彼らと契約を結び、彼らの神となって下さったのです。その途端にこの始末です。いくらなんでももう我慢ができない、と神様がおっしゃるのは全く正当なことです。主なる神様は、彼らの先祖たち、アブラハム、イサク、ヤコブに対して与えて下さった約束のゆえに、彼らをこのように奴隷状態から救い出し、荒れ野の旅路を導いておられるのです。しかし彼らがこうまで繰り返し、しかも契約が結ばれたシナイ山の麓で早くも裏切るなら、もはやこの民を滅ぼし尽くしたとしても誰も責めることはできないのです。そして神様はここで言っておられるように、彼らを滅ぼし尽くしてその代わりに、あなた、つまりモーセを立てて、その子孫を大いなる民とすることもお出来になる、そういう権威と力を持っておられるのです。もうそうするんだ、と神様はモーセにおっしゃったのです。
神をなだめるモーセ
ところが11節には、モーセが主なる神をなだめた、とあります。モーセは先ずこう言っています。「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか。あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか」。モーセはことさらに「御自分の民」と言っています。「あなたが大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民」とも言っています。神様が「あなたがエジプトの国から導き上った民」とおっしゃったのを打ち消すように、いやいや神様、この民はあなたの民ではないですか、あなた御自身が、大いなる御力と強い御手をもってエジプトの国から導き出された民ではありませんか、どうしてその御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか、と神様をなだめ、説得しているのです。さらに12節ではこうも言っています。「どうしてエジプト人に、『あの神は、悪意をもって彼らを山で殺し、地上から滅ぼし尽くすために導き出した』と言わせてよいでしょうか」。これは「今この民を滅ぼしてしまわれたら、エジプト人たちはどう言うでしょうか。あの神が我々のもとからイスラエルの民を導き出したのは、彼らを荒れ野で滅ぼし尽くすためだったのだ、主という神はそういう悪意をもって彼らを導き出したのだ、と言うのではないでしょうか。それは神様、あなたの思いとは違うはずだし、そんなことをエジプト人に言わせていいんですか」ということです。これはお願いと言うよりも、もはや一種の脅しです。モーセは神様に対して、脅しまがいのことを言っているのです。かと思えば今度は、先祖たちに与えて下さった約束を持ち出して必死にお願いしています。「どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください。どうか、あなたの僕であるアブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください。あなたは彼らに自ら誓って、『わたしはあなたたちの子孫を天の星のように増やし、わたしが与えると約束したこの土地をことごとくあなたたちの子孫に授け、永久にそれを継がせる』と言われたではありませんか」。まさに手を替え品を替え、モーセは神様を説得し、なだめているのです。そしてこのモーセの必死の説得によって、「主は御自身の民にくだす、と告げられた災いを思い直された」と14節にあります。おかげでイスラエルの民は滅ぼされずにすんだのです。
執り成し手による救い
これは大変興味深い場面です。神様が怒り、それを人間がなだめ、説得し、それによって神様が思い直されるのです。人間に説得されて神様が考えを変えた、ということが語られているのです。このことにはいろいろな感想があるでしょう。こういう神様は人間的で好きだ、親しみが持てる、と思う人もいるでしょうし、逆に、神様が人間に説得されて思い直すなどというのは神としての威厳に欠ける、そんな神は頼りにならない、と思う人もいるでしょう。しかしこれらの感想はどちらも、根本的に大事なことを見落しています。それは、私たちはこの話を、こういう神は好きだとか嫌いだとか、頼りになるとかならないとか、第三者として感想を言っていられるような立場にはない、ということです。神様の恵みを受け、生かされ、救われているのに、その恵みにきちんと応答しない、神様に信頼して生きるのでなく、目に見えるものにばかり依り頼み、逆に言えば目に見えるこの世のものを恐れ、その恐れの中で自分の願う神を造り出そうとする、そういうイスラエルの民の姿は、私たち自身の姿でもあります。私たちも、目に見えるこの世の事柄に捕えられる中で、自分のために、自分の思いや願いにかなう偶像の神を造り上げ、それを拝もうとする者です。その偶像は、形のある像ばかりではありません。生けるまことの神様が目に見えない方であるというのは、私たちの思い通りにならない、人間の願いを叶えてくれるための神ではない、ということです。その生けるまことの神様を信じ、従うのではなくて、自分の思いにかなう、自分が救いや慰めと感じるものを神としてそれに依り頼もうとするならば、目に見えるものであれ、もっと精神的な何かであれ、それがその人にとっての偶像なのです。そういう意味で私たちは皆、まことの神様を裏切り、偶像を造り出そうとする者です。その罪によって神様の怒りを受け、滅ぼされても仕方のない者なのです。だから好きとか嫌いとか、信頼できるとかできないとか、呑気なことを言っていられる立場ではないのです。神様が思い直して下さらなければ、私たちも滅びるしかないのです。この話は、そういう罪人である人間に対する怒りを主なる神様が思い直して下さり、それによってイスラエルの民が救われた、ということを語っているのです。そしてこの救いにおいて、モーセが、神様と民との間を執り成し、仲立ちをし、神様をなだめ、説得する者としての働きをしたのです。神様は、モーセの執り成し、仲立ち、説得を受け入れて、救いを与えて下さったのです。それがこの話の根本的な意味です。そこから私たちが見つめるべきことは二つです。第一は、主なる神様の民とされたイスラエルは、その歩みの最初から、主を裏切り偶像を造るという罪に陥り、神様の民として歩むことに挫折したということです。自分の力で神の民として歩むことが出来なかったのです。そして第二は、その彼らが神の民としてなお歩み続けるためには、彼らと神様との間の仲立ちをする執り成し手が必要だった、ということです。神様がモーセの説得によってイスラエルの民への災いを思い直された、というこの話は、「神の民は彼らと神との間の執り成しをする者によってこそ生きることができる」ということを語っているのです。そしてこの話は、その執り成し手を神様ご自身が立てて下さることをも示しています。そのことは、私はこの民を滅ぼし尽くす、ということを主がわざわざモーセに告げておられることから分かります。10節で神様は、モーセがまだ何も言っていないのに、「今は、わたしを引き止めるな」とおっしゃり、その上で「彼らを滅ぼし尽くす」と言っておられるのです。止めていないのに「止めてくれるな」というこのみ言葉は、実はモーセがご自分をなだめ、説得し、引き止めることを待っておられるようにも感じられます。つまり神様はここで、モーセの説得をむしろ待っておられ、喜んでそれをお受けになったのだと言えるでしょう。主なる神様は、執り成し手の説得によって災いを思い直すことを望み、またそれを喜んで下さるお方なのだ、ということをこの話は語っているのです。
罪の贖い
主なる神様は同じそのみ心によって、私たちのための「執り成し手」として独り子イエス・キリストを遣わして下さったのです。先ほど申しましたように、私たちも、このイスラエルの民と同じように、神様を裏切り、偶像を造り出そうとする罪人であり、神様の怒りを受けて滅ぼされてしまって当然な者です。自分の力で神様の民として歩むことはとうていできない私たちなのです。神様はその私たちのための執り成し手として、独り子イエス・キリストを遣わして下さいました。主イエスが私たちと神様との間に立って執り成しをすることを神様ご自身が望んでおられたのです。主イエスはその執り成しの業として、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さいました。それによって私たちの罪の贖いを成し遂げて下さったのです。罪人が赦され、神の民としてなお生きていくための執り成しとは、罪の贖いです。ここではモーセが、イスラエルの民のために、その贖いをしようとしています。その姿が30節以下に語られています。彼はこう言っています。「お前たちは大きな罪を犯した。今、わたしは主のもとに上って行く。あるいは、お前たちの罪のために贖いができるかもしれない」。先ほどの11節以下で彼がしたのは、神様をなだめ、災いを下すのを思い直してもらった、ということでした。しかし罪に陥った民が再び神の民として歩むためには、なだめて災いを思い直してもらうだけでは足りません。罪の贖い、つまり赦しが必要なのです。しかしそれは簡単なことではありません。「あるいは、できるかもしれない」、しかしできないかもしれない、そういうことなのです。モーセはそのために主にこう言いました。「ああ、この民は大きな罪を犯し、金の神を造りました。今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください」。モーセが言っているのは、もしどうしてもこの民を滅ぼすなら、この私をも共に滅ぼして下さい、ということです。彼は、罪の赦しということが生易しいことではないことを知っています。災いを一旦思い直されたというだけでは根本的な解決にならないのです。つまり、ただ「水に流す」ということでは罪の問題は解決しないのです。罪が贖われ、赦されるためには、罪人の滅びと死とが必要なのです。モーセは、その滅びと死を自分も民と共に受けます、と言っています。主なる神様が、イスラエルの民の代わりに自分を大いなる民とすると言って下さった、そのように神が愛して下さっている自分が、この民と共に滅びを引き受けると申し出ることによって、それに免じて神様がこの民を赦して下さることを願っているのです。
罪の赦しと神の裁き
主なる神様はこのモーセの執り成しを受けて、33、34節でこうおっしゃいました。「わたしに罪を犯した者はだれでも、わたしの書から消し去る。しかし今、わたしがあなたに告げた所にこの民を導いて行きなさい。見よ、わたしの使いがあなたに先立って行く。しかし、わたしの裁きの日に、わたしは彼らをその罪のゆえに罰する」。このお言葉はどのように捉えたらよいのか、神様が民を赦して下さっているのか、そうでないのか、よく分からないという感じがします。しかし一つ明らかなことは、神様はモーセに「しかし今、わたしがあなたに告げた所にこの民を導いて行きなさい」とおっしゃっていることです。つまり神様はモーセがイスラエルの民を約束の地へと導いていくことを許し、また命じておられるのです。そして、「見よ、わたしの使いがあなたに先立って行く」、つまり彼らの歩みを主のみ使いが導いて下さることをも約束して下さっているのです。ですから、モーセの執り成しは受け入れられて、イスラエルの民は罪を赦され、贖われて、神の民として歩み続けることができたのです。しかしその赦しを与えるに際して主は、「わたしに罪を犯した者はだれでも、わたしの書から消し去る」「わたしの裁きの日に、わたしは彼らをその罪のゆえに罰する」ともおっしゃいました。それは、主なる神様が人間の罪に対してお怒りになり、裁きを行われる方であることを、改めて宣言なさったということです。罪を赦されて歩む神の民イスラエルは、このことを常に忘れずに、主を畏れかしこみつつ歩むことを求められているのです。
15節から29節にかけて語られていることは、このこととのつながりで読まれるべきでしょう。十戒を記した二枚の石の板を手に、民のもとに下って行ったモーセは、彼らが金の子牛の祭りを行っているのを見て激しく怒り、その板を投げつけて砕いたのです。それは、神様と民との契約が、民の罪のためにご破算になってしまったことを示す行為です。そして彼は金の子牛の像を火で焼き、粉々に砕いて水に混ぜ、民に飲ませた、とあります。それは、彼らが造り出し、神として拝んでいるこの像がいかに空しい、力のないものであるかを民に実感させるためのことでしょう。そしてさらに25節以下では、「主につく者は集まれ」という呼びかけに答えてモーセの下に集まったレビの子ら、つまりレビ族の者たちに命じて、民を殺させたのです。それによっておよそ三千人が犠牲となったとあります。神様は災いを思い直されたのに、モーセの命令によって三千人が殺された、何てひどいことをするのか、と私たちは思います。しかしこれは、民が犯した罪は本来皆が滅ぼし尽くされなければならないような重大な罪だったことを示すためのことだったと言えるでしょう。彼らを滅ぼし尽くすことを神様は思い直して下さった、つまり、罪の赦しが与えられたのです。しかし神様の怒りと裁きがなくなったわけではないし、それを甘く見ることは決して許されない、そのことが、先ほどのみ言葉と、この出来事によって示されているのです。
主イエスによる贖い
さてモーセは、先ほど見たように、自分も共に滅ぼして下さい、と言うことによって民のための贖いをしようとしました。人間であるモーセに出来ることはそこまでです。しかし、神様が私たちの罪の贖いをさせるために遣わして下さった独り子イエス・キリストは、神の子、まことの神であり、同時にまことの人間となって下さった方です。主イエスによる贖いは、モーセをはるかに超えた仕方でなされたのです。主イエスは、私たちの罪を全て背負って、十字架にかかって死んで下さいました。つまり、ご自分が、私たち全ての罪人の代わりに、滅びと死を引き受けて下さったのです。それができたのは、主イエスがまことの神であられたからです。まことの神である主イエスは、ご自分も共に滅びを受けるのではなく、私たちの受けるべき滅びをお一人で背負って下さったのです。主イエスの父である神様は、この主イエスの十字架の死による執り成し、贖いを受け入れて下さり、私たちの罪を赦して下さいました。そしてさらに、罪と死の力を打ち破って、主イエスを復活させて下さったのです。主イエス・キリストによる贖いにあずかる私たちは、罪を赦されて神様の民として生きることができるだけでなく、主イエスの復活にあずかり、死の力からも解放されて、永遠の命を生きる者とされる、その希望を与えられているのです。イスラエルの民が罪によって滅ぼされようとした時、モーセが神様をなだめ、執り成しをし、それによって民はなお歩み続けることができたというこの出来事は、主イエス・キリストによって私たちのためになされた執り成し、罪の贖いの出来事を指し示しています。しかも、主イエスにおいては、モーセをはるかに超えた、私たちに救いの完成と永遠の命への希望を与える贖いが実現しているのです。主イエスによってこの救いの恵みが私たちに与えられていることを覚え、それゆえにこそ、自分の罪の深さを認め、神様の怒りと裁きを恐れつつ、しかしそれにも増して大きな神様の慈愛と寛容と忍耐を思いつつ、主のみ前で常に悔い改めつつ歩みたいのです。