「神を試す」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: 出エジプト記 第17章1-7節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第4章5-7節
・ 讃美歌 : 327、530
荒れ野の旅
月に一度、私が夕礼拝を担当する日には、旧約聖書出エジプト記を読み進めています。今読んでいるのは、イスラエルの民が、奴隷として苦しめられていたエジプトを脱出し、荒れ野の旅を続けているところです。この旅の目的地は、神様が彼らに与えると約束して下さった「乳と蜜の流れる地」です。そのことは、3章において主なる神様がモーセにご自身を現し、彼を出エジプトの指導者としてお遣わしになった時に既に語られていました。またその地が、彼らの先祖であるアブラハム、イサク、ヤコブが住んでいたカナンの地であることも、6章において示されていました。そのように、この旅の目的地は既にはっきりと示されているのです。しかしイスラエルの人々は、その目的地に至る道を知りません。どこをどう歩めばそこに着けるのか、全く分からないのです。その彼らに歩むべき道を教えて下さったのは主なる神様でした。神様の導きは雲と火の柱によって与えられました。昼は雲の柱、夜は火の柱によって、神様が彼らに進むべき道を示して下さったことが13章に語られていました。本日の箇所の冒頭、17章1節には「主の命令により、イスラエルの人々の共同体全体は、シンの荒れ野を出発し」とありますが、この「主の命令により」とは、具体的には雲の柱、火の柱が動き出したということです。それらが動き出すとイスラエルの民も旅立ち、それらが止まるとそこに宿営をしたのです。このようにイスラエルの民は、進んで行く方向を自分で決めるのではなく、ただ主なる神様の導きに従って荒れ野を旅していったのです。その結果彼らはどのような道を辿ることになったのでしょうか。聖書の後ろの付録の地図の2「出エジプトの道」というのを見ていただくとわかるように、彼らはシナイ半島を南へと下っていったのです。それは約束の地カナンへとまっすぐに向かうのとは全く違う方角であって、かなりの遠回りです。彼らは荒れ野で道に迷って見当違いな方向に進んで行ったのではありません。今申しましたように、彼らの歩みは全て神様のみ心によって定められていたのです。ですから神様が敢えて彼らを遠回りさせたのです。何故神様は彼らをまっすぐに約束の地へと導かずに、わざわざ遠回りをさせたのでしょうか。そのことはだんだんに考えていくとして、今言えることは、このイスラエルの民の遠回りと同じことを私たちもしばしば体験するし、現に今もその遠回りのただ中にいる、ということです。
私たちの信仰の旅路
約束の地を目指して荒れ野を歩んでいくイスラエルの民の旅路は、イエス・キリストを信じて生きる私たちの信仰の生活と重なり合います。私たちも、イスラエルの民と同じように、エジプトの奴隷状態からの解放を体験しています。生まれつきの私たちは、神様をも隣人をも、愛するよりも憎んでしまう罪の奴隷となっています。愛そうという気持ちはあっても、いざその愛が試される場面になると、つまり自分を捨てて相手を愛することができるか、と問われる場面になると、結局自分のことばかりを大事にしてしまうのです。それは私たちが根本的な所で罪に捕えられてしまっているからです。そして私たちは自分の力でこの罪の支配から抜け出して自由を得ることができません。私たちを支配している罪の力は、エジプトの王ファラオの権力のように大きくて、弱い私たちはとうていそれに対抗できないのです。しかし神様は、イスラエルの民のためにモーセを遣わして下さったように、私たちのために独り子イエス・キリストを遣わして下さいました。この主イエスによって私たちは、罪の奴隷状態から解放されたのです。イスラエルの民がエジプトから解放される決め手となったのは過越の出来事でした。エジプト中の初子を撃ち殺すために主のみ使いが遣わされた時、イスラエルの民の家では、過越の小羊が殺され、その血が家の戸口に塗られたのです。その血が目印となって、み使いは何もせずにその家を通り過ぎた、過越したのです。このことによって、頑なだったファラオもついに屈服し、イスラエルの民はエジプトを出ることができたのです。過越の小羊が犠牲となり、血を流して死ぬことによって、イスラエルの民の解放が実現したのです。それと同じことが、私たちのためにもなされました。神様が遣わして下さった独り子イエス・キリストが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったのです。この独り子イエス・キリストの十字架の死によって、私たちは罪を赦され、罪の支配から解放されたのです。主イエス・キリストが私たちのための過越の小羊となって血を流して死んで下さったことによって、私たちは救われたのです。洗礼を受け、クリスチャンとなるとは、このことを信じて生きる者となることです。つまりクリスチャンとは、自分が主イエス・キリストによって罪の奴隷状態から解放されたことを信じて生きる者なのです。
なお残る戦いを
イスラエルの民にとってエジプトからの解放は救いの完成ではありませんでした。そのことによって今度は神様の約束の地へ向けての荒れ野の旅が始まったのです。私たちにおいても、主イエス・キリストの十字架と復活を信じて救いにあずかることは、救いの完成ではありません。その救いにあずかったことによって、約束の地に向かっての新たな旅が始まるのです。私たちにとっての約束の地とは、この世の終わりに与えられる復活と永遠の命です。そこへと向かう歩みは荒れ野の旅です。様々な困難、苦しみ、障害物がある苦しみの多い旅なのです。なぜならば、主イエス・キリストの十字架による赦しを与えられた今も、私たちはなお罪人であり、日々罪を犯し続ける者だからです。それゆえに私たちは、自分自身の中になお残る罪と、またそのような人間の集まりであるがゆえにこの社会になお根強く残っている罪の力と戦っていかなければならないのです。主イエス・キリストの十字架によって、神様は私たちを捕えている罪の力を打ち破り、私たちをその奴隷状態から解放して下さいました。また神様は主イエスを死者の中から復活させ、死の力にも勝利して下さいました。主イエスの十字架と復活によって、罪と死の力に対する神様の恵みの勝利は既に確定しているのです。決定的な戦闘は既に終わり、私たちはもう罪の支配下にではなく、神様の恵みの支配下に置かれているのです。しかし、戦いそのものはまだ続いています。私たちは、なお残る罪の勢力と戦いつつ、終わりの日の救いの完成を待ち望んでいるのです。それが、私たちの歩む荒れ野の旅路です。この世にはなお、神様に敵対する罪が根強く残っています。それはしばしば私たちをも捕え、神様の救いの恵みから引き離そうとします。その力を侮ることはできません。また主イエス・キリストによって既に確立している神様の恵みの勝利は、今はまだ隠されていて、誰の目にもはっきりと分かることにはなっていません。神様の恵みの勝利などいったいどこにあるのか、というのが、目に見えるこの世界の現実です。神様の恵みの勝利は、目に見えない、信じるしかない事柄なのです。その目に見えない事柄を信じてこの世を生きる私たちの信仰生活は、荒れ野の旅路のように、困難や苦しみ、障害物の多い歩みとならざるを得ないのです。そのような荒れ野の中を、私たちは神様に導かれ、道を示されつつ歩んでいきます。それが信仰者の生活です。そして実はそれは信仰者の生活だけではありません。信仰を与えられてから振り返って見て誰もが感じるのは、信仰者となる以前の、神様も主イエスも知らずに生きていた自分の歩みも、実は神様によって導かれていたのだということです。神様の導きは、今この礼拝に集っている全ての者たちに、洗礼を受けたクリスチャンだけではなく、まだ信仰を持っていない方々、信仰を求める思いがあるのかどうかもよく分からないでいる方々にも、与えられているのです。しかしその神様の導きは単純ではありません。神様は荒れ野の旅路において私たちにしばしば遠回りをさせます。もっとまっすぐに、ストレートに目的地まで連れて行ってくれれば早かったのに、こんなに苦しい思いをしなくてもすんだのに、と思うこともしばしばです。そのようにして、イスラエルの民がシナイ半島の荒れ野を遠回りする道へと導かれていったのと同じことを、私たちも体験するし、今もしているのです。
民の不平不満
さて本日の17章1節以下は、その荒れ野の旅路において、飲み水がなくなってしまったという話です。荒れ野の旅は常にこのような危機と隣り合わせです。既に16章には、食べ物がなくなるという危機に見舞われたことが語られていました。また15章の終わりのところには、水はあったが苦くて飲めなかったという話がありました。奴隷とされていたエジプトを出たのはよかったけれど、彼らはたちまちこれらの苦しみに直面したのです。そして15章においても16章においても、その苦しみの都度、彼らは指導者であるモーセに向かって不平を言いました。こんな苦しみにあうのはお前のせいだ、という思いがその都度起って来るのです。本日の箇所でもそれが繰り返されています。民はモーセに「我々に飲み水を与えよ」と言いました。さらには、「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか」と言ってモーセに詰め寄りました。これは16章3節で彼らが「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」と言った言葉と重なります。彼らはエジプトで奴隷とされていた時の苦しみを忘れ、そこから解放して下さった神様の恵みを思わず、現在の苦しみを彼らを導いてきたモーセのせいにして駄々っ子のように文句を言っているのです。しかも、既に15章においても16章においても、同じような状況の中で、神様が彼らの苦境を救い、苦い水を甘くして下さり、天からのパンであるマナを与えて下さったことを彼らは体験してきているのです。神様の恵みを繰り返し体験しているのに、目前に大きな苦しみが迫ると、それをすっかり忘れて不平不満に満たされてしまうのです。このイスラエルの民の姿はまことにあさましいものです。こういうのを奴隷根性と言うのだということをこのところ毎月出エジプト記を読むたびに語っています。そしてそれは、私たちもまたこのようなあさましい奴隷根性にしばしば陥ってしまうことがあるからです。主イエス・キリストによる救い、罪の支配からの解放の恵みにあずかって、復活と永遠の命を目指して歩んでいる信仰の旅路において、私たちも、様々な困難、苦しみ、妨害に直面する時、このイスラエルの民と同じような思いに陥り、駄々っ子のように文句ばかりを口にし、救いの恵みを与えて下さった神様の恩を仇で返すようなことを繰り返してしまうのではないでしょうか。
主を試す
モーセは2節でこの民に向かって、「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を試すのか」と言いました。ここに、本日の箇所の中心となる大事な言葉が語られています。それは「主を試す」という言葉です。彼らが、飲み水に困り、渇きのために死にそうになる中でモーセに、ひいては神様に文句を、不平不満を言っている、それは「主なる神様を試す」ことだとモーセは言っているのです。「試す」とはどういうことでしょうか。それは試験をすること、テストをすること、たしかめることです。彼らは主なる神様をたしかめようとしているのです。それはどういうことか、7節を読むとその意味が分かります。「彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、『果たして、主は我々の間におられるのかどうか』と言って、主を試したからである」。この出来事にちなんでこの場所は「マサ(試し)」また「メリバ(争い)」という地名になったのです。イスラエルの人々はここで、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って主を試したのです。これが、「主を試す」ことの内容です。彼らは、主なる神様が本当にイスラエルの民の間にいて下さるのだろうか、我々と共にいて下さるのだろうか、ということを確かめようとしたのです。それを「確かめる」というのは、そういう約束が与えられていたからです。主なる神様はモーセを遣わすに際して、3章12節で、「わたしは必ずあなたと共にいる」と約束して下さいました。また、3章14節で神様はご自分の名前を「わたしはある。わたしはあるという者だ」と語られました。それは、単に神様は存在する、ということではなくて、必ずあなたがたと共にある、という約束、宣言でもあるのです。神様はこのような約束をイスラエルの民に与え、そしてその約束をしっかりと果たして下さったのです。それがエジプトからの解放の恵みであり、荒れ野の旅路における導きです。15章で苦い水を甘くして下さったのも、16章で天からのパン、マナを与えて下さったのも、「わたしは必ずあなたがたと共にいる」という約束を神様が忠実に果たして下さったという出来事だったのです。そのような出来事を繰り返し体験してきたはずの彼らが、今、水がないという苦しみの中で、モーセに文句を言い、不平不満をぶつけるのは、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と疑い、主が共にいて下さるという約束は嘘っぱちではないかと思っているということです。そのことこそ、この不平不満の本当の意味なのです。
この点においても、荒れ野を旅するイスラエルの民の姿は私たちの信仰の旅路における姿と重なります。信仰を持って生きるとは、神様の「私は必ずあなたと共にいる」という約束を信じて生きることです。しかし私たちは、この世の荒れ野の中で信仰の旅を続けるうちに、このイスラエルの民と同じように、果たして本当に神様は自分と共にいて下さるのだろうか、という疑いに陥ることがあります。そういう疑いの中で、私たちも「主を試す」ようになるのです。主を試すようになる時、私たちは主に信頼して自らを委ねることができなくなります。一つ一つのことを自分で確かめながら、感触をさぐりながら、おそるおそる生きるようになります。勇気をもって大胆に一歩を踏み出すことができなくなります。いつも自分で自分を守ろうとして、びくびくしながら消極的に生きることになります。その不安の裏返しとして、周囲に対して文句や不平や不満ばかりを語るようになります。それが、繰り返し述べている奴隷根性ということです。「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」という疑いこそ、イスラエルの民の、そして私たちの、奴隷根性の根本にある思いなのです。
岩から水が
民に詰め寄られたモーセは主なる神様に叫びました。「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」。主はモーセのこの叫びに答えて言われました。「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる」。ここに、「ホレブの岩」とありますが、それが何を意味しているのか不明です。普通ホレブは、この後主なる神様とイスラエルの民との間に契約が結ばれ、十戒を刻んだ石の板が与えられたシナイ山の別名として出てくる言葉です。しかしこの場面はまだシナイ山における話ではありません。ここでは、主なる神様がその岩の上であなたの前に立つと言われていることから、神様がご自身を現わされる場所であるという意味で「ホレブの岩」と呼ばれたのでしょう。いずれにしてもモーセは、杖で岩を打つことを命じられたのです。その杖のことが「ナイル川を打った杖」と呼ばれています。モーセを通して主なる神様がエジプトに下された十の災いの第一が、モーセがその杖でナイル川を打つとその水が血に変わるという災いでした。モーセが神様のご命令によってこの杖で何かを打つ時に、神様の偉大な力が発揮され、民のための救いのみ業が行われるのです。モーセがその杖で岩を打つと、そこから水が湧き出て民はそれを飲むことができました。
主が共におられるしるし
この奇跡は、15章の苦い水を甘い水に変えた奇跡や、16章において神様が天からのパンであるマナを与えて下さったというみ業とある意味で似ています。いずれにおいても、神様が奇跡的な力を発揮して危機の中にある民を守り、養い、育んで下さったのです。しかし、この17章の奇跡はそれまでの二つとは意味が違っています。それは、この奇跡が、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言って主を試したイスラエルの民に対するしるしとして行われたからです。この奇跡は、渇きで死にそうになっている民に飲み水が与えられた、ということを超えた意味を持っているのです。この奇跡によって、主なる神様が、いつもイスラエルの民と共におられることが示され、証しされたのです。それゆえにこの出来事は、新約聖書において、象徴的な意味を持った出来事として見つめられています。コリントの信徒への手紙一の第10章4節を読んでみます。「皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです」。ここに「自分たちに離れずについて来た霊的な岩」という不思議な言葉がありますが、それは本日のこの出来事を意識して語られているのです。主なる神様が、常にイスラエルの民から離れずに共にいて下さった、その主によって、岩から湧き出した水を与えられたことをこのように表現しているのです。そしてこの手紙を書いたパウロがここで語ろうとしているのは、この岩が象徴的に指し示しているのは主イエス・キリストだ、ということです。主イエス・キリストこそ、私たちと常に共にいて下さる神であり、荒れ野を旅していく私たちの歩みにおいて、必要な水を、養いを常に与えて下さる方なのです。この方を信じる者は、自分たちから離れずについて来て下さる霊的な岩と共に、その岩からほとばしり出る水によって魂の渇きを癒されつつ、約束の地に向かう荒れ野の旅路を歩み、なお残る罪との戦いをしっかり戦い抜いていくことができるのです。
勇気をもって大胆に
本日は共に読む新約聖書の箇所として、マタイによる福音書第4章5~7節を選びました。主イエスが荒れ野において悪魔の誘惑をお受けになった場面です。第二の誘惑、神殿の屋根から飛び降りてみろ、という誘惑を主は、「あなたの神である主を試してはならない」というみ言葉によって退けました。この悪魔の誘いは、父なる神様がいつも共にいて支え助けて下さることを主イエスに確かめさせようとするものでした。もしも主イエスがこの誘いに乗って、神様を試しつつ生きる道を選んだなら、主イエスの歩みはいつも恵みを確かめながら用心深く消極的に生きる歩みとなったでしょう。その場合には十字架の死はなく、従って私たちの救いもなかったのです。主イエスが十字架の死への道を歩むことができたのは、父なる神様の恵みを、試したり確かめたりすることなしに信じ、勇気をもって大胆に、ご自分の身を委ねて下さったからです。つまり主イエスこそ、奴隷根性を捨てて本当の自由に生きた方だったのです。主イエスは、本当に自由な者として、主なる神様に信頼しつつ、そのみ心に自らを委ねて歩むことによって、私たちのための十字架の苦しみと死を引き受けて下さり、私たちの救い主となって下さったのです。この主イエス・キリストによる救いが、私たちに与えられています。この主イエス・キリストが、常に私たちと共に、私たちの間にいて下さるのです。それゆえに私たちは、荒れ野のようなこの世において、約束の地、救いの完成を望み見つつ、奴隷根性を捨て、主を試すことなしに信頼して、勇気をもって大胆に、積極的に新たな一歩を踏み出していくことができるのです。