「主の過越」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: 出エジプト記 第12章1-42節
・ 新約聖書: コリントの信徒への手紙一 第5章6-8節
・ 讃美歌 : 227、317(1、5、6、7)
エジプト脱出
本日は旧約聖書出エジプト記第12章からみ言葉に聞きたいと思います。月に一度出エジプト記を読み進めてきましたが、いよいよこの12章は、イスラエルの民が奴隷とされていたエジプトから解放され、そこを脱出し、神様が与えて下さる約束の地に向けて旅立っていく、という場面です。「エジプトを出る」という意味である「出エジプト記」の一つのクライマックスがここに語られており、大変緊迫した場面です。昔「大脱走」という映画がありました。ナチスの収容所に捕えられていた連合軍の兵士たちがトンネルを掘ってそこから脱走する、という話です。イスラエルの民のエジプト脱出をあの映画に重ね合わせるならば、この12章は、ついにトンネルが完成して、今まさに一人また一人とそこを抜けて脱走していく、その手に汗握る場面に当たると言えるでしょう。けれども違うのは、「出エジプト」は「脱走」ではないということです。イスラエルの人々は、敵の目をごまかし、気付かれない内にこっそりと逃げ出したのではないのです。むしろ彼らは勝利者のように、恐れおののくエジプト人たちを尻目に堂々と出発したのです。その様子が35、36節に語られています。「イスラエルの人々は、モーセの言葉どおりに行い、エジプト人から金銀の装飾品や衣類を求めた。主は、この民にエジプト人の好意を得させるようにされたので、エジプト人は彼らの求めに応じた。彼らはこうして、エジプト人の物を分捕り物とした」。イスラエルの民は、金銀の装飾品や衣類をエジプト人からの「分捕り物」として獲得したのです。「主が、この民にエジプト人の好意を得させるようにされた」とありますが、それはエジプト人の心に、イスラエルの民に一刻も早く出ていってもらいたい、という思いが生じていて、だから求められたものは何でも差し出した、ということです。イスラエルの民はそのようにしてエジプト人から多くのものを分捕り物として得て出発したのです。勿論、家族も家畜を全て連れてです。エジプト王ファラオはこれまで、モーセが再三求めてもそれを許そうとはしませんでした。行きたいなら女と子供は置いて男だけで行けとか、家畜は置いていけとか、条件をつけてきたのです。しかし今やそのファラオが、全てを持って出て行ってくれと願っています。そのことが31、32節にあります。「ファラオは、モーセとアロンを夜のうちに呼び出して言った。「さあ、わたしの民の中から出て行くがよい、あなたたちもイスラエルの人々も。あなたたちが願っていたように、行って、主に仕えるがよい。羊の群れも牛の群れも、あなたたちが願っていたように、連れて行くがよい。そして、わたしをも祝福してもらいたい」。「お前たちを決して去らせはしない」と言っていたファラオの威勢はもはやありません。モーセとイスラエルへの恐れがファラオの心を打ち砕いたのです。「わたしをも祝福してもらいたい」と彼が言っているのは、我々に降り掛かっているこの「呪い」を取り去ってくれ、ということです。モーセの祝福を受けなければエジプトは滅びる、という恐れがファラオを戦かせているのです。一派の人々も皆そうだったことが33節に語られています。「エジプト人は、民をせきたてて、急いで国から去らせようとした。そうしないと自分たちは皆、死んでしまうと思ったのである」。このままイスラエルをエジプトに留めておいたら我々は皆死んでしまう、と誰もが思ったのです。
最後の災い
ファラオを始め全てのエジプト人にそのような恐れを引き起こした出来事とは何だったのでしょうか。それは、主なる神様がエジプト人の間で行われた、最後の、そして決定的な災いのみ業でした。29、30節がそれを語っています。「真夜中になって、主はエジプトの国ですべての初子を撃たれた。王座に座しているファラオの初子から牢屋につながれている捕虜の初子まで、また家畜の初子もことごとく撃たれたので、ファラオと家臣、またすべてのエジプト人は夜中に起き上がった。死人が出なかった家は一軒もなかったので、大いなる叫びがエジプト中に起こった」。主は、エジプトの全ての初子を撃たれたのです。この夜、エジプトの全ての初子が、ファラオの初子から牢屋につながれている捕虜の初子まで、また家畜の初子もことごとく撃たれ、殺されたのです。この出来事を歌っている詩編第105編36節には「主はこの国の初子をすべて撃ち、彼らの力の最初の実りをことごとく撃たれた」とあります。初子というのは、最初に生まれた男の子のことですが、それは「力の最初の実り」という意味を持っており、親にとって自らの力を象徴する特別な意味を持った存在なのです。その初子が全て撃ち殺されてしまったのですから、このままでは国が滅び、我々は皆死んでしまうと彼らが考えたのは当然のことです。
主の力による救い
この恐ろしい出来事が、イスラエルの人々が信じている主なる神様によってもたらされたことが、エジプト人にもはっきりと分かりました。それは、イスラエルの人々の間には、初子を撃たれた者が一人もいなかったからです。この災いはエジプト人にのみ下されたのです。そのことによって、この災いがイスラエルを奴隷として苦しめているエジプトに対する主なる神様の怒りによって引き起こされたことがはっきりと示されたのです。これまで様々な災いが下されてもその都度心を頑なにしてイスラエルを解放しようとしなかったファラオも、この災いによってついに主なる神様に屈服し、イスラエルの解放を認めたのです。このようにして、イスラエルの民は勝利者として、堂々と、全ての財産を携えて、分捕り物も得て、エジプトを出発することができたのです。このことによってはっきりと示されているのは、イスラエルの人々の奴隷状態からの解放、救いは、徹頭徹尾、主なる神様のみ力によって実現したということです。この解放は、イスラエルの民が自ら奴隷のくびきを振払おうとした解放運動によって実現したことでもなければ、モーセという卓越した指導者の力によって成し遂げられたことでもありません。モーセは出エジプトにおいてイスラエルの民の指導者、導き手となりましたが、それは主なる神様によって選ばれ、立てられてのことです。そして彼がしたことは、ファラオに「主なる神様がイスラエルを解放せよと言っておられる」と告げることだけです。ファラオは心を頑なにしてその要求を拒絶しました。エジプトに数々の災いを与え、本日の箇所の最後決定的な災いによってファラオを屈服させたのは主なる神様です。主なる神様がそのみ力によって奴隷とされていたイスラエルを解放し、救い出して下さった、それが出エジプトの出来事なのです。
主なる神様がこのようにイスラエルを救って下さったのは、イスラエルの人々が特別に信仰深く、神様に従い仕える民だったからではありません。そのような事実は聖書のどこにも記されていないのであって、この救いのみ業が行われたのは、神様がかつて彼らの先祖アブラハム、イサク、ヤコブと契約を結び、彼らとその子孫をご自分の民として下さったことによるのです。ご自分の民であるイスラエルの人々がエジプトで奴隷の苦しみの中にあるのを見て、神様は深く憐れみ、み業を行なって救い出して下さったのです。
過越の祭り
この主なる神様による出エジプトの出来事が、イスラエルの民のそれからの信仰と生活の原点となりました。神の民イスラエルは、この出エジプトの出来事を民の歩みの土台として、常にそれを振り返り、感謝し、その神様の恵みに応えていく生活を整えていったのです。そのことが、本日のこの箇所に早速語られています。この12章を読んですぐ気付くことは、ここは、エジプトの全ての初子が撃たれ、それによってイスラエルが解放されたという出来事を語ると同時に、いやむしろその出来事に先立って、イスラエルの民が守り行うべき一つの祭りについての命令が語られているということです。その祭りとは「過越の祭り」です。この祭りは、イスラエルにおいて毎年行われるいくつかの祭りの中で最大かつ中心的なものとなりました。それはどのような意味を持つ祭りだったのでしょうか。
過越とは読んで字の如く「過ぎ越す」「通り過ぎる」という意味です。それはあの夜エジプトの全ての初子を撃った主が、イスラエルの民の家だけは、一つも害を与えることなく通り過ぎたことを指しています。そのことが23節に語られています。「主がエジプト人を撃つために巡るとき、鴨居と二本の柱に塗られた血を御覧になって、その入り口を過ぎ越される。滅ぼす者が家に入って、あなたたちを撃つことがないためである」。このように主なる神様がエジプト人とイスラエルの民とを決定的に区別なさったというのがこの過越の出来事です。その区別のために一つの印が用いられました。それは小羊の血です。21、22節、「モーセは、イスラエルの長老をすべて呼び寄せ、彼らに命じた。『さあ、家族ごとに羊を取り、過越の犠牲を屠りなさい。そして、一束のヒソプを取り、鉢の中の血に浸し、鴨居と入り口の二本の柱に鉢の中の血を塗りなさい。翌朝までだれも家の入り口から出てはならない』」。鴨居と入り口の二本の柱、つまり戸口の枠に塗られた小羊の血が目印となって、エジプト人とイスラエルの民が区別されたのです。この小羊が「過越の小羊」と呼ばれるものです。イスラエルの解放、救いはこの過越の小羊が殺され、その血が家々の戸口に塗られることによって、つまりこの小羊の犠牲によって実現したのです。この出来事を記念し、毎年それを新たに体験していくために定められたのが過越の祭りです。3~11節にその祭りの守り方が指示されています。それによれば、その月の十日にそれぞれの家で傷のない一歳の雄の小羊を選び、十四日の夕暮れにそれを屠り、その血を家の入り口の二本の柱と鴨居に塗るのです。そしてその小羊の肉を焼いて家族そろって食べるのです。それが「過越の食事」です。この祭りを毎年繰り返していくことによって、イスラエルの民は、主なる神様が出エジプトの日に、自分たちのところを過ぎ越し、エジプト人の初子を撃って下さったことによって、自分たちを奴隷の苦しみから解放し、救い出して下さったことを覚え、感謝し、イスラエルの民の原点、出発点、土台を確認していったのです。
除酵祭
さらにここには、これと合わせて行われるもう一つの祭りのことが指示されています。それは17節の「除酵祭」です。15節以下にその守り方が語られています。過越の小羊を共に食べる過越の食事において、酵母を入れないパン、つまりイースト菌を入れて発酵させることなしに焼いたパンを食べるのです。しかもこの十四日から七日間それを食べ続けるのです。この「除酵祭」は何を意味しているのかというと、イスラエルの民がエジプトを出発した日に、主が一夜にしてエジプトの全ての初子を撃ち、それによって急遽出発が決まったので、パン生地に酵母を入れて寝かせ、発酵させている暇がなかったということです。その様子は34節にこのように語られています。「民は、まだ酵母の入っていないパンの練り粉をこね鉢ごと外套に包み、肩に担いだ」。また39節にも「彼らはエジプトから持ち出した練り粉で、酵母を入れないパン菓子を焼いた。練り粉には酵母が入っていなかった。彼らがエジプトから追放されたとき、ぐずぐずしていることはできなかったし、道中の食糧を用意するいとまもなかったからである」とあります。このことも、イスラエルのエジプト脱出が、あの「大脱走」のように人間の周到な計画と準備によって実現したのではなくて、主なる神様の圧倒的な力によって突然実現したことを表しています。このように急いで旅支度をしてエジプトを出発した姿は、過越の祭りの守り方にも現れていて、11節にこのようにあります。「それを食べるときは、腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる。これが主の過越である」。「腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし」というのは旅の支度です。過越の食事はまさに旅支度をして急いで食べるのです。このような祭りを行うことによってイスラエルの民は、ただ主なる神様の力によって与えられたエジプトの奴隷状態からの解放、救いを記念していったのです。
信仰の継承
またこの過越の食事は、神様による救いの出来事を子供たちに語り伝えるための信仰教育の場でもありました。そのことが24~27節に語られています。「あなたたちはこのことを、あなたと子孫のための定めとして、永遠に守らねばならない。また、主が約束されたとおりあなたたちに与えられる土地に入ったとき、この儀式を守らねばならない。また、あなたたちの子供が、『この儀式にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、こう答えなさい。『これが主の過越の犠牲である。主がエジプト人を撃たれたとき、エジプトにいたイスラエルの人々の家を過ぎ越し、我々の家を救われたのである』と」。ここには、子供たちがこの儀式の意味を尋ねるときにはこう答えなさいと教えられていますが、これはそういう質問があったらこう答えなさいということではなくて、過越の食事のプログラムの中に組み込まれた問答です。つまりこの食事の席で、子供が父親に、「この儀式にはどういう意味があるのですか」と問い、父親がここに語られているように答える、過越の食事においてそういう問答をしなさいとこの箇所は教えているのです。この親と子の問答を通して信仰が継承されていくのです。私たちが今求道者会で学んでいる「ハイデルベルク信仰問答」のような「信仰問答」の起源がここにあると言うことができます。過越の食事の中で行われるこのような問答を通して、イスラエルの民は、主なる神様による出エジプトの救いのみ業を親から子へと語り伝え、それを覚え続け、感謝し続けていったのです。
一年の始まり
ここでもう一つ大事なことは、この過越の出来事、エジプトからの解放の出来事が行われた月を、イスラエルの正月、一年の初めの月とせよと2節に命じられていることです。どういう暦を用いて生きているか、一年の始まりをどこに置いているかは、その民が何を土台、中心として生きているかを表しています。イスラエルの暦においては、一年の始まりは、主の過越による出エジプトの出来事、エジプトの奴隷状態からの解放、救いのみ業なのです。この神様の救いの恵みが、イスラエルの民の歩みの土台、出発点なのです。ちなみに、教会の暦における一年は、アドベント、つまり主イエスのご降誕を祝うクリスマスに備える時をもって始まります。アドベントは、来たりたもう主イエスを待つという意味を持っていますが、それは主イエスがこの世にお生まれになったクリスマスを待つというだけでなく、復活して天に昇られた主イエスがもう一度この世に来られ、それによって神様のご支配が完成し、私たちの救いが完成し、この世が終わる、その主イエスの再臨を待ち望むということでもあります。教会の歩みは、主イエスの第一の到来つまり降誕と、第二の到来つまり再臨の間に置かれているわけで、来たりたもう主イエスを待つアドベントが教会の一年の始まりであることには大きな意味があります。イスラエルの民にとっては、その一年の始まりは過越の祭りだったのです。
私たちの過越
14節に「この日は、あなたたちにとって記念すべき日となる。あなたたちは、この日を主の祭りとして祝い、代々にわたって守るべき不変の定めとして祝わねばならない」とあります。過越の祭りはイスラエルの民の信仰生活において中心的な意味を持つものとなりました。国が失われ、世界各地に散らされていっても、イスラエルの民はこの祭りを大切に守り続けていったのです。しかし私たちは今、過越の祭りを行なってはいません。旧約聖書を聖書つまり信仰の土台、規範として持ち、本日もそうであるようにそれを大切に読み、学んでいる私たちですが、ここに命じられている祭りを行なってはいないのです。それはなぜでしょうか。エジプトの奴隷状態からの解放は、イスラエルの民、ユダヤ民族に起った出来事だから私たち日本人には関係がない、ということでしょうか。そうではありません。新しい神の民である教会は、旧い神の民であるイスラエルの歴史を受け継いでいます。ですから教会は、イスラエルの民に与えられた出エジプトの出来事における神様の救いの恵みを受け継いでいるのです。けれども、出エジプトの出来事は、やはり旧い神の民イスラエルに与えられた救いです。それは、新しい神の民である教会、私たちに与えられている救いのひな形であり、それを予告し、指し示しているのです。私たちに与えられている救い、それは主イエス・キリストによる救いです。神様の独り子、まことの神であられる主イエスが、人間となってこの世に来て下さり、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さった、そのことによって、私たちのための出エジプト、私たちのための過越が実現したのです。私たちは生まれつき罪に支配されており、その奴隷とされています。この世界と私たちを造り、命を与え、導いていて下さる主なる神様を神様として尊ばず、礼拝せず、従わず、自分が主人となり、自分の思いや願いを中心として生きている私たちは、神様に背き逆らい、隣人をも傷つけ、神様とも隣人ともよい関係を築くことができず、愛するよりも憎んでしまうことの多い日々を過ごしています。私たちをこの罪の奴隷状態から解放し、救い出すために、神様は独り子イエス・キリストを遣わして下さり、その十字架の死によって私たちの罪を赦して下さったのです。主イエスは私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さることによって、私たちを罪の支配から解放して下さったのです。つまり主イエスが私たちのための過越の小羊となって下さったことによって、私たちは罪の支配から解放され、自由を与えられ、新しい神の民として歩み出すことができたのです。出エジプトの出来事、イスラエルの民の奴隷状態からの解放は、主イエス・キリストによって成し遂げられた私たちの救い、罪の支配からの解放を指し示す影のようなものでした。イスラエルの民が代々守り行なってきた過越の祭りは、この主イエス・キリストの十字架における神様の救いへの備えとなったのです。この主イエス・キリストによる救いが与えられているがゆえに、私たちはもはや過越の祭りを行わないのです。私たちが今祝い、記念しているのは、出エジプトにおける過越ではなく、主イエス・キリストの十字架の死によって実現した私たちの過越です。本日共に朗読した新約聖書の箇所、コリントの信徒への手紙一の第5章6節以下はそのことを語っています。その7節の終わりに、「キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです」とあります。神様の独り子イエス・キリストという私たちのための過越の小羊の犠牲の死によって、今や私たちのための過越が成し遂げられているのです。私たちはそのことを喜び、感謝して、新しい過越祭を祝いつつ歩む新しい神の民なのです。
主の日の礼拝から
私たちが祝う新しい過越祭とは、主の日の礼拝です。私たちのための過越の小羊となって下さった主イエスは、十字架にかかって死んで下さっただけではありません。父なる神様はその主イエスを復活させ、新しい命、永遠の命を与えて下さったのです。私たちのための過越の小羊である主イエスは、私たちの救いのために犠牲となって死んで下さっただけでなく、復活して今も生きておられる方なのです。この主イエスの復活は、神様が私たちにも、肉体の死を超えて復活と永遠の命を与えて下さるという約束の保証です。主イエスが復活して今も生きておられるように、私たちにも、復活して永遠の命を生きる者とされる希望が与えられているのです。この主イエスの復活を祝う日として、一年に一度、イースター、復活祭が行われています。それが教会における最大の祭です。それが最大の祭であると言うのは、私たちは毎週小さなイースターを祝っているからです。それが主の日、日曜日の礼拝です。主イエスは週の初めの日つまり日曜日に復活なさいました。そのことを記念して教会は日曜日を主の日と呼び、神様を礼拝しているのです。これこそが私たちの祝う新しい過越祭です。この主の日の礼拝において、主イエス・キリストの十字架の死によって神様が与えて下さった救い、罪の赦しをいただいて、解放され、自由になって、主イエスの復活によって神様が約束して下さっている復活と永遠の命という約束の地に向けて、新しい一週間を、新しい思いで歩み出していきたいのです。