夕礼拝

祝福と呪い

「祝福と呪い」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:申命記第11章1-32節
・ 新約聖書:ヘブライ人への手紙第12章1-13節
・ 讃美歌:299、518

主を愛して生きる  
 本日は旧約聖書申命記第11章からみ言葉に聞きます。申命記は、エジプトでの奴隷状態から神の導きによって脱出したイスラエルの民が、四十年の荒れ野の旅を経て、いよいよ神の約束の地カナンに入って行こうとしているその時に、モーセが、遺言として語り聞かせている説教です。神が与えて下さる約束の地においてどのように生きるべきかを語り聞かせているのです。この11章においてモーセが民に求めているのは、主なる神の戒め、命令を守ることです。1節に「あなたは、あなたの神、主を愛し、その命令、掟、法および戒めを常に守りなさい」とあります。8節にも「あなたたちは、わたしが今日命じるすべての戒めを守りなさい」とあり、13節には「もしわたしが今日あなたたちに命じる戒めに、あなたたちがひたすら聞き従い、あなたたちの神、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くして仕えるならば」とあります。22節にも同じように、「もし、わたしがあなたたちに行うようにと命じるこのすべての戒めをよく守り、あなたたちの神、主を愛してそのすべての道に従って歩み、主につき従うならば」とあります。このように、約束の地において、主なる神の戒め、命令をしっかり守って生きることが、何よりも大事なこととして命じられているのです。それは単に規則を守り、それに抵触しないようにするということではありません。「主を愛し」と繰り返し語られています。主の戒めを守ることは、主を愛して生きることです。主なる神との間に、喜ばしい、生き生きとした交わりをもって生きることです。それが申命記の信仰の中心です。6章4、5節にそのことが語られていました。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。この言葉は先程の13節にもありました。心と魂と力を尽くして、主なる神を愛し、主に従って生きる、それが申命記の信仰なのです。しかもその主は「あなたの」ないし「あなたたちの」神です。つまり、彼らイスラエルの民と特別な関係を結んで下さり、つまり契約を結んで、彼らの神となって下さり、彼らをご自分の民として下さっている、その神を心から愛し、従っていく、それが神の民であるイスラエルに求められていることなのです。

主のなさった大いなる御業  
 モーセはこの11章で、なぜ主を愛し、従うことが必要なのか、そしてそうすることによってどうなるのか、を語っています。先ず2~7節は、なぜ主なる神を愛し、その戒めを守ることが大切なのか、その理由です。モーセはここで、彼らがこれまで体験してきた過去の歩みに目を向けさせています。7節に「主のなさった大いなる御業をすべて、あなたたちは自分の目で見てきた」とあります。彼らが自分の目で見てきた主の大いなる御業、その第一のことは言うまでもなく、エジプトの奴隷状態からの解放です。2節後半から4節にそれが語られています。「その大いなる御業、強い御手と伸ばされた御腕、エジプトの中でエジプトの王ファラオとその全土に対してなさったしるしと御業、エジプト軍、その馬と戦車に対してなさったこと、すなわち彼らがあなたたちを追撃して来たとき、主が彼らの上に葦の海の水を溢れさせて滅ぼし、今日に至っていること」。これらのことは出エジプト記に語られていますが、イスラエルの民は主なる神のこのような大いなる御業、奇跡によってエジプトから解放されたのです。それは彼ら自身の力によることでは全くなく、ただひたすら主の恵みによって与えられた救いでした。その救いの御業をあなたがたは自分の目で見てきたではないか、とモーセは語っているのです。また5節の「あなたたちがここに来るまで主が荒れ野でなさったこと」、それはエジプトを出た民が四十年の荒れ野の旅路において常に主に導かれ、養われ、支えられてきたことです。主は、岩から水を出して渇きを潤し、天からのパンであるマナによって日々彼らを養って下さったのです。その主による養いと支えをあなたがたは体験してきたではないか、と言っているのです。また6節に語られているのは、その荒れ野の旅において、主に逆らった者がいたという事件です。これは民数記16章に記されている出来事ですが、ダタンとアビラムらは主とモーセに逆らってこのように言ったのです。民数記16章13節です。「あなたは我々を乳と蜜の流れる土地から導き上って、この荒れ野で死なせるだけでは不足なのか」。彼らはあろうことか、奴隷とされていたはずのエジプトのことを「乳と蜜の流れる土地」と言っています。つまり、エジプトで奴隷だった方がよかった、と言ったのです。これは主なる神による奴隷状態からの解放の恵みを完全に否定することです。彼らはモーセにと言うよりも主なる神に逆らい、その恵みを否定したのです。そのような者たちは主によって滅ぼされました。そのことをもイスラエルの民は見てきたのです。

主の鍛錬  
 モーセがここで指摘している、あなたたちが自分の目で見てきたこと、それは、主なる神による大いなる救いの御業であり、また主が苦しい荒れ野の旅における養いを通して、また逆らう者の滅びの出来事を通して、主の恵みの中にしっかり留まって生きるように民を訓練して下さったという事実です。2節に「あなたたちは、あなたたちの神、主の訓練を知ることも見ることもない子孫とは違うことを、今日知らねばならない」とあるのはそのことです。あなたがたが自分の目で見てきたこと、体験してきたことは全て主の訓練だった、あなたがたは主に訓練されてきたのだ、とモーセは言っているのです。主の訓練を受けてきた、それは主に愛され、期待されていることの印です。主はイスラエルの民を愛しておられるがゆえに、奴隷の苦しみから解放し、そして彼らを訓練して、主なる神をこそ信頼して生きる神の民として育ててきて下さったのです。主からそのように訓練されることは、愛されていることであり幸いなことです。そのことは、本日共に読まれた新約聖書の箇所であるヘブライ人への手紙第12章も語っています。その5節から6節にかけてのところにこう語られています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」。そしてその続きのところには、本当に愛されている実の子だからこそ鍛えられるのであって、それを与えられないのだとしたら本当に子として愛されていないことになる、とも語られています。主なる神による訓練を受けてきたイスラエルの民は、子として本当に愛されているのです。エジプトでの奴隷の苦しみからの解放の恵みと共に、荒れ野の試練における訓練にも、主の愛が示されており、彼らはその愛を自分の目で見てきたのです。その愛に応えて生きるために、主を愛し、主に従って生きなさい、とモーセは教えているのです。

自分の歩みを振り返る  
 ここには、私たちが信仰に生きるために大切なことが教えられています。信仰に生きるとは、自分のこれまでの歩みを振り返り、また現在置かれている状況を見つめて、そこに主なる神の大いなる愛と恵みのみ業、そしてその愛による主の訓練を見つめていくことなのです。ヘブライ人への手紙第12章はそのことを教えています。特に、信仰者として生きていく中でいろいろな苦しみ、試練が起ってくる時に、それを主の鍛錬として忍耐すべきことが教えられているのです。その忍耐を支えるのは、この苦しみによって神は自分を愛する子として鍛錬しておられるのだ、という信仰です。主が自分を子として愛して下さっているからこそ、苦しみを与えて訓練しておられるのだから、その訓練を神の愛の印として受け止め、忍耐していこう、という思いです。信仰によって私たちは、自分の歩みをそのような目で見つめ直していくことができるのです。自分のこれまでの歩みには、自分の努力や力によって獲得したのではない、ただ神の愛によって与えられた様々な恵みと導きのみ業があった、そこには様々な苦しみ、試練があったし、今もあるけれども、神はそれらを通して自分を訓練して下さっている、つまり試練の背後にもやはり神の愛がある、信仰を持って生きる時に私たちは、自分の歩みをそのように振り返って見つめつつ歩むことができるのです。

将来を見つめる  
 7節までは、自分たちのこれまでの歩み、過去をどう見つめるかということですが、8~12節は、これからのこと、将来をどう見つめるかを語っています。イスラエルの民においてその将来とは、約束の地に入り、そこを自分たちのものとすることです。その将来を見つめつつモーセは8節で「わたしが今日命じるすべての戒めを守りなさい」と教えています。そうすることによって、「あなたたちは勇ましくなり、川を渡って、得ようとしている土地に首尾よく入り、それを得ることができる」のです。これが、主を愛し、従うことによって拓かれていく将来です。約束の地を得ることは、イスラエルの民の軍事力や経済力によるのではありません。主が彼らにその土地を与えて下さるのです。それゆえにそこに入っていくに当たって先ず第一に整えなければならないのは、主なる神との関係なのです。主との関係をしっかりと整え、主を愛し、その戒めを守り、主の民として生きることこそが、約束の地を目前にしているイスラエルの民のなすべき最も大事なことなのです。そのことをないがしろにして、自分の力を養い蓄えることばかりを考え、それによって約束の地を獲得しようとするとしたら、それはまことに愚かなことです。約束の地を得るという将来は、自分の力で獲得し、切り開いていくものではなくて、主なる神が恵みによって与えて下さるものなのです。

主との関係を整える  
 このことも私たちが信仰に生きるために大切なことです。信仰を持って生きるとは、主なる神が将来を切り拓いて下さることを信じて、その恵みと祝福を求めつつ、主との関係を先ず第一に整えていくことです。自分の力を蓄えることによって何かを得よう、実現しようとするのは信仰ではありません。また自分の力で何かを得ようとしている限り、私たちは試練に打ち勝つことができないのです。試練というのは、自分の力や努力が打ち砕かれることだからです。自分の力ではもうどうにもならない、ということを試練の中で私たちは体験するのです。その試練の中で私たちがしばしば陥るのは、自分の力で何とか実現できそうな小さな幸せ、満足へと逃げ込んでしまうことです。あのダタンとアビラムが、エジプトで奴隷だった時の方がマシだった、と言ったのはそういう思いの現れです。自分の力でどうにかしようとする中で私たちは、神が与えて下さろうとしている祝福に向かって歩むことをやめてしまい、むしろ奴隷の苦しみの中へと逆戻りしていってしまうのです。自分の力ではもうどうしようもない、という試練に直面した時に私たちがなすべき第一のことは、その困難な事柄をどうにかしようとすることではなくて、主との関係、交わりを整えること、本当に主と共に歩むことです。そこにおいてこそ、私たちの力を越えて主が与えて下さる思いがけない恵み、祝福を信じて待ち望むことができる、つまり試練に負けないで希望をもって生きることができるのです。

二つの道  
 13節以下には、先程も見ましたように「もし…したら」という文体が用いられています。13節に「もしわたしが今日あなたたちに命じる戒めに、あなたたちがひたすら聞き従い、あなたたちの神、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くして仕えるならば」とあります。つまり、もし主との関係、交わりをこそ第一に整え、主と共に歩んでいくなら、これから入って行く約束の地において、季節季節に雨が降り、穀物、ぶどう酒、オリーブ油の収穫が与えられ、家畜のための草も得られ、あなたたちは食べて満足することができる、と語られているのです。しかしもしそうしないなら、それが16、17節です。イスラエルの民が心変わりして主を離れ、他の神々に仕え礼拝するようになるなら、つまり主との関係を整えることをせず、主と共に生きることをやめてしまうなら、主の怒りが燃え上がり、天は閉ざされて雨は降らず、大地は実りをもたらさず、彼らは約束の地から滅び去ることになるのです。このように「もし…したら」という言い方は、イスラエルの民の前に置かれている二つの可能性、二つの道を示しています。主なる神との関係を整え、主を愛し、そのみ言葉に聞き従って生きるのか、主との関係を棄てて、その民として生きることをやめるのか、イスラエルの将来にこの二つの道が、可能性が示されているのです。

豊かさの中でも  
 この二番目の道、主を棄てて他の神々を拝んでいくことは、これから彼らがカナンの地に入り、そこに定住して、荒れ野での牧畜の生活から農耕の生活へと変わっていくことと関係しています。カナンの地は、農耕に適した肥沃な土地です。そこに定住して農業を営む方が、遊牧の生活よりも富を得て豊かになることができます。しかしその地で農耕の生活を始めると、そこに先に住んでいた民が拝んでいた農業の神々とその祭りの影響が生じてきます。農業の神々は、豊穣の神々、豊かさを司る神々です。その神々を祭ることによってより豊かになりたいという思いがイスラエルの民にも起って来るのです。カナンの地を与えて下さったのは主なる神であるのに、その主の恵みに感謝するのではなくて、豊穣の神々に心を向けて行ってしまう、約束の地の豊かさはそういう誘惑をはらんでいるのです。主なる神の恵みによって与えられる豊かさが、いつのまにか神ご自身に取って代わり、豊かさこそが神となり、神は人間に豊かさをもたらすための存在となってしまう、約束の地に入って行くイスラエルの民を、そういう誘惑が待ち構えているのです。そこに、この「もし…ならば」によって示されている二つの道の意味があります。あなたがたの前には二つの道がある、あなたがたはそのどちらを歩むのか、心して、正しい道を選び取りなさい、とモーセは警告しているのです。

祝福と呪い  
 この二つの道が26節以下では「祝福と呪い」という言い方で語られています。「見よ、わたしは今日、あなたたちの前に祝福と呪いを置く。あなたたちは、今日、わたしが命じるあなたたちの神、主の戒めに聞き従うならば祝福を、もし、あなたたちの神、主の戒めに聞き従わず、今日、わたしが命じる道をそれて、あなたたちとは無縁であった他の神々に従うならば、呪いを受ける」。あなたがたの前には祝福と呪いという二つの道が置かれていて、そのどちらをも選ぶことができる、ということです。そしてモーセは、この二つの可能性を民全体にはっきりと意識させるために、一つの命令をつけ加えています。約束の地に入ったなら、そこにあるゲリジム山とエバル山に、祝福と呪いを置きなさい、という命令です。この二つの山は、新共同訳旧新約聖書の付録の地図の3「カナンへの定住」を見るとそのちょうど真ん中あたりにあります。シケムという町の南と北にある山です。このモーセの命令が後継者ヨシュアによって実行されたことが、ヨシュア記第8章30節以下にこのように語られています。「そのころ、ヨシュアはエバル山にイスラエルの神、主のための祭壇を築いた。この祭壇は、主の僕モーセがイスラエルの人々に命じ、モーセの教えの書に記されたとおり、鉄の道具を使わない自然のままの石で造られた。彼らはその上で、主に焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげた。ヨシュアはこの祭壇の石に、モーセがイスラエルの人々のために記した教えの写しを刻んだ。全イスラエルは、長老、役人、裁判人をはじめ、寄留者もその土地に生まれた者も、主の契約の箱を担ぐレビ人である祭司たちの前で、箱のこちら側とあちら側に、半分はゲリジム山の前に、他の半分はエバル山の前に立った。それは主の僕モーセがかつて命じたように、イスラエルの民を祝福するためであった。その後ヨシュアは、律法の言葉すなわち祝福と呪いをことごとく、すべて律法の書に記されているとおりに読み上げた。ヨシュアは、モーセが命じたことをひと言残さず、イスラエルの全会衆、女、子供、彼らの間で生活する寄留者の前で読み上げた」。このようにして、この二つの山が、イスラエルの民の前に置かれている祝福と呪いという二つの道を常に思い起こさせるものとなったのです。祝福と呪いのどちらを選ぶかと問われて、祝福を選ばない人はいません。つまりモーセはイスラエルの民に、何としても祝福を選び、その道を歩んで欲しいと願っているのです。約束の地に入り、豊かになっても、そのために主を忘れ、豊かさやそれを求める欲望に捕らえられてしまうことなく、エジプトの奴隷状態から自分たちを解放し、荒れ野の旅路を導き、愛するがゆえに試練を与えて訓練してきて下さった主との関係を大切にして、神の祝福へと歩んでいって欲しいのです。  
 神の祝福と呪いのどちらを選ぶのかというモーセの問いは、私たちにも向けられています。主なる神を愛し、主と共に、主に従って生きるのか、それともこの世における豊かさを愛し、それを求める自分の思いや願いを神として生きるのか、信仰者の歩みは日々その選択の繰り返しであると言ってもよいでしょう。そしてその選択は、全く正反対の結果を生むのです。この選択によって、神との良い関係に生き、神が恵みによって与えて下さる祝福に至るか、神との交わりを失い、救いの恵みを失い、罪の奴隷状態に舞い戻り、呪いに至るかが決まるのです。だからこれは私たちの人生における最も重大な選択です。これに比べれば、どの学校に入るか、どんな職業につくか、誰と結婚するかしないか、などという選択は実は些細なことなのです。

主イエスによる祝福の勝利の中で  
 私たちの前にも、この祝福と呪いが置かれています。私たちもイスラエルの民と同じく、そのどちらかを選ばなければなりません。イスラエルの民はどちらを選んだのでしょうか。私たちはイスラエルの民のこの後の歩みを知っています。彼らは結局、呪いへの道を選んでしまったのです。つまり主なる神との関係をきちんと整え、主を愛し、主との交わりに生きることをせず、豊かさ、欲望を神とし、豊穣の神である偶像を拝むようになっていったのです。その結果、せっかくカナンの地に入り、国を築いたのに、結局その国を滅ぼされ、約束の地を失ってバビロンに捕囚として捕え移されてしまったのです。それは彼らの背きの罪の結果生じた呪いでした。しかし主なる神はこの民を滅ぼしてしまわれたのではなく、彼らをバビロンから解放して、もう一度約束の地に帰して下さったのです。そこには、罪によって呪いへの道を歩んでしまったイスラエルの民への主の赦しの恵みがあります。そのことが旧約聖書の中に既に語られているのです。そして主なる神は、イスラエルの民の中に独り子イエス・キリストを遣わして下さいました。この主イエス・キリストが、十字架の苦しみと死をご自分の身に負って下さったことによって、罪に支配されている私たち人間を呪いから解放して下さったのです。さらに主なる神は独り子主イエスを復活させて下さったことによって、死に勝利する永遠の命という祝福を約束して下さいました。私たちは今、主イエス・キリストの十字架と復活によって主が実現して下さった大いなる祝福の中に置かれています。その約束を信じて、主を愛し、主に従って生きることが私たちの信仰です。イスラエルの民がそうであったように、私たちも信仰の歩みの中で祝福ではなく呪いの方を選び、呪いへの道を歩んでしまうことがしばしばです。しかし神は主イエス・キリストの十字架と復活によって、私たちを呪いへの道から解放して、祝福への道に立ち帰らせて下さるのです。そのために試練をも与えて私たちを導いて下さっているのです。主イエスの十字架と復活によって、祝福は既に呪いに勝利しています。私たちの信仰の旅路は、主イエスによる祝福の勝利に支えられているのです。主イエスの勝利の中で私たちは、祝福をこそ選び取り、主なる神を愛し、主と共に、主に従って生きていくことができるのです。

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