夕礼拝

神の前で生きる

「神の前で生きる」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:申命記第5章1-7節
・ 新約聖書:マタイによる福音書第6章25-34節  
・ 讃美歌:140、464

契約に基づく言葉  
 私が夕礼拝の説教を担当する日は今、旧約聖書申命記からみ言葉に聞いていますが、先月も本日と同じ第5章1-7節を読みました。この第5章には6節から「十戒」が語られています。先月の説教においては先ず1-5節に注目しました。そこをもう一度読んでみます。「モーセは、全イスラエルを呼び集めて言った。イスラエルよ聞け。今日、わたしは掟と法を語り聞かせる。あなたたちはこれを学び、忠実に守りなさい。我々の神、主は、ホレブで我々と契約を結ばれた。主はこの契約を我々の先祖と結ばれたのではなく、今ここに生きている我々すべてと結ばれた。主は山で、火の中からあなたたちと顔と顔を合わせて語られた。わたしはそのとき、主とあなたたちの間に立って主の言葉を告げた。あなたたちが火を恐れて山に昇らなかったからである」。これに続いて「主は言われた」とあり、6節以下の十戒に入っていくのです。つまりこの箇所に語られているのは、主なる神様が、「ホレブ」とも呼ばれるシナイ山で、イスラエルの民と契約を結んで下さった、その時に与えられた「掟と法」が十戒である、ということです。十戒は、主なる神様がイスラエルの民と契約を結んで下さったことを前提としており、その契約に基づいて与えられたみ言葉なのだということを先月確認したのです。そしてそこで同時に確認したのは、主なる神様はこの契約を、独り子イエス・キリストの十字架の死と復活とによって今や新しく結び直して下さったということです。その新しい契約の相手は、イスラエルの民、ユダヤ人ではなくて、私たちキリスト教会、主イエス・キリストを信じる者たちです。旧約聖書、つまり旧い契約の書にその歴史が記されている旧い神の民イスラエルは、主イエス・キリストによって神様が結んで下さった新しい契約によって、今や新しい神の民である教会へと受け継がれ、教会が新しいイスラエルとなっているのです。この旧約から新約への移り変わりによって、動物の犠牲を献げる儀式などはその役割を終えて、必要なくなりました。しかし十戒は、主なる神様の民とされた者たちがどのように生きるべきかを語っているみ言葉であって、それは新しい神の民、新しいイスラエルである教会においても意味を失ってはいません。主イエス・キリストによる救いによって新しい神の民とされた私たちも、十戒を神様のみ言葉としてしっかりと聞くべきなのです。

信仰の節操を守る  
 先月はそのことを先ず確認した上で、最初の戒めである「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」に耳と傾けました。その中で「ハイデルベルク信仰問答」の問94をご紹介しました。そこには、キリスト教会の先輩たちが、この戒めを自分たちに対する神様のみ言葉としてどのように聞いてきたかが語られているのです。それをもう一度読んでみます。問94「第一戒で、主は何を求めておられますか」。答「わたしが自分の魂の救いと祝福とを失わないために、あらゆる偶像崇拝、魔術、迷信的な教え、諸聖人や他の被造物への呼びかけを避けて逃れるべきこと。唯一のまことの神を正しく知り、この方にのみ信頼し、謙遜と忍耐の限りを尽して、この方にのみすべてのよきものを期待し、真心からこの方を愛し、畏れ敬うことです。すなわち、わたしが、ほんのわずかでも神の御旨に反して何かをするくらいならば、むしろすべての被造物の方を放棄する、ということです」。私たちの信仰の先輩たちは第一の戒めからこういうみ言葉を聞き取ったのです。つまり「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」という戒めは、まことの神は主なる神様お一人だ、という知識を語っているのではないし、他の宗教の神や仏はみんな偽者で、キリスト教の神だけが本物だ、と他の宗教を批判しているのでもないのです。むしろ私たちはこの戒めによって、自分の信仰と生活を問われているのです。自分は唯一のまことの神を正しく知り、この方にのみ信頼し、謙遜と忍耐の限りを尽して、この方にのみすべてのよきものを期待し、真心からこの方を愛し、畏れ敬っているだろうか、そのために、あらゆる偶像崇拝、魔術、迷信的な教え、諸聖人や他の被造物への呼びかけを避けて逃れているだろうか、と問われているのです。「わたしをおいてほかに神があってはならない」という戒めに従って生きるとは、私たちの人生に起る全てのこと、幸いも不幸も、喜びも悲しみも、その全てが、主なる神様のみ手によって与えられていることを信じ、神様以外の力、つまり「運命」とか、例えば先月も述べた様々な「占い」の力などの支配をきっぱりと否定することです。そして、主なる神様にのみ信頼し、謙遜と忍耐の限りを尽して、この方にのみすべてのよきものを期待して生きることです。苦しみ悲しみの中でも、主なる神様以外の何者かの力に頼ることをせず、忍耐して、希望を主なる神様にのみ置いて生きる。そのようにして、主なる神様に対する信仰の節操を守ることをこの第一の戒めは教えているのです。先月はそのことをご一緒に聞きました。

神とする?  
 さて本日は先ず、この戒めのいくつかの日本語訳を比べてみたいと思います。今用いている新共同訳は「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」ですが、以前の口語訳聖書においては「あなたはわたしのほかに何ものをも神としてはならない」でした。他に神が「あってはならない」という新共同訳よりも、ほかの何ものをも神と「してはならない」という口語訳の方が、信仰の節操を守る決断をよりはっきりと求めていてよいのではないかとも思います。しかし聖書の原文には、私たちが何かを「神とする」という言葉はありません。「ほかの神があってはならない、ほかのものが神となってはならない」というのが正確な訳です。そういう意味では新共同訳の方が原文に即しているのです。私たちが何かを神と「する」とか「しない」というのは、考えてみれば傲慢な話でもあります。神様は私たちが神と「する」ことによって神様になるわけではありません。「わたしのほかに何ものをも神としてはならない」という口語訳にはそういう問題があったとも言えるのです。

わが顔の前で  
 しかし翻訳を比較することにおいて見つめたいのはこのことではありません。実は、口語訳においても新共同訳においても、訳されていない言葉がここの原文にはあるのです。大正時代の訳である文語訳聖書がその言葉を訳し出していました。文語訳においてここは「汝、わが顔の前に、我のほか何物をも神とすべからず」となっていました。ここに、「わが顔の前に」という言葉があります。口語訳も新共同訳もその言葉を訳していませんが、原文には確かに「顔の前で」という言葉があるのです。そしてこの言葉は旧約聖書において大変大事な意味を持っています。「神様の顔の前で」という言葉は、神様が人間にご自身を現し、出会って下さる、人間の側からすると神様と直面させられる、ということを語る時によく用いられています。その言葉がこの第一の戒めにおいても語られているのです。つまりこの戒めは、神様の顔の前に自分は立っている、神様と直面させられている、という感覚を語っているのです。それをこなれた日本語にすれば、神様の面前にいるということです。私たちにとって他に神があってはならないのは、私たちが神様の面前にいるからです。主なる神様の顔の前で、その面前で生きている者が、他のものを神として信じたり拝んだりすることはあり得ないのです。この第一の戒めはこのように、主なる神様のみ顔の前で、その面前で生きることを教えているのです。神様の面前で生きることが私たちの信仰です。神様はどこか遠くに、はるか彼方の天の上の方におられるのではなくて、私たちの前に、目には見えないけれども常におられるのです。日曜日に教会で礼拝をする時だけは神様の面前に出るけれども、普段は神様から遠く離れている、という感覚で生きているなら、その普段の時には神様以外の力、この世の様々な力の方が身近にあり、そっちに頼った方が確かだ、ということになるのです。つまり私たちが主なる神様への節操を失い、他のものを神として頼ってしまうのは、自分がいつも神様の面前にいる、という意識を失うことによってなのです。この方にのみすべてのよきものを期待して生きる人とは、自分が神様のみ顔の前で生きていることを常に意識している人なのです。

隠れた思いの裁き主  
 この「わが顔の前に」という言葉について、宗教改革者カルヴァンは「ジュネーヴ教会信仰問答」においてこのように語っています。問142です。「なぜわが顔の前にといわれるのですか」という第一の戒めについての問いへの答えは、「神は全てを見、全てを知っておられて、人々の隠れた思いの裁き主でありますから。すなわち、神は、単に外的な告白によってでなく、まじりけのない真実と、心情をこめて、神と告白されることを、お望みになるという意味であります」となっています。神は人々の隠れた思いの裁き主であられる、これが「わが顔の前で」の意味だとカルヴァンは言っているのです。神様のみ顔の前で、その面前で生きるとは、私たちの歩みの全てが神様の目の前に置かれており、神様が私たちの隠れた心の思いをも全て見ておられ、知っておられ、それをお裁きになる、ということです。私たちは、人に対しては自分の本当の思いを隠し、表面を取り繕うことができます。しかし神様に対してはそれはできません。神様は私たちの隠れた思いを全て見ておられるのです。そういう神様の面前で生きている者は、無節操なことはできないのです。私たちがこの第一の戒めのみ言葉を本当に聞き、それに従って生きることができるかどうかは、隠れた思いの裁き主であられる神様の面前で常に生きているか、ということにかかっているのです。

感謝の生活の指針  
 神様が隠れた思いの裁き主であられると聞くと私たちは、私たちの心の中の隠された思いをいつも監視していて、実際に行動に移さなくても心の中に抱いた様々な悪い思い、罪に満ちた考えの全てをお見通しで、それを厳しくお裁きになる、そういう恐ろしい神様を思い描いてしまいます。しかしこの戒めは、私たちがそのように神様を恐れ、脅えながら生きることを促しているのではありません。私たちがその面前で生きている神様は、確かに私たちをお裁きになる方ですけれども、決して、血も涙もない厳しい裁判官として私たちの面前におられるのではないのです。十戒も、これらの戒めを、それこそ表面的にだけでなく隠された心の中においてもきちんと守っているなら救いが与えられるけれども、それを心から守ることができないなら罪に定められ、裁かれ、滅ぼされる、ということを語っているのではありません。そのことは、十戒の前提として語られている6節を読めば分かります。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」。この宣言に続いて十戒が語られているのです。十戒は、神様の救いを得るために満たさなければならない条件ではありません。むしろ救いは、「エジプトの国、奴隷の家から導き出した」という出来事において既に与えられているのです。神様はイスラエルの民を、エジプトでの奴隷の苦しみから解放し、救い出して、荒れ野の旅路を守り導いて来て下さったのです。申命記は、何度もお話ししているように、40年の荒れ野の旅を経て、今や約束の地カナンに入って行こうとしているイスラエルの民に、モーセがもう一度神様のみ言葉、掟を語り聞かせている、という設定で書かれています。今この言葉を聞いている民は、神様の救いと導きの恵みを既に体験しているのです。私の面前で生きなさいと語りかけておられる神様は、救いの恵みを既に与えて下さっているのです。それゆえに、神様の面前で生きるというのは、厳しい裁判官の前でビクビクしながら生きるようなことではありません。むしろ、恵みによって救いを与えて下さった神様の面前で、その救いに感謝して、喜んで生きることなのです。十戒はその感謝の生活のための指針、道しるべとして与えられました。イスラエルの民に十戒を与え、「わたしをおいてほかに神があってはならない」と語りかけておられる主なる神様のみ顔は、恐ろしい裁きの顔ではなくて、恵みのみ顔なのです。

新しい契約に生きる  
 そのことは、エジプトからの解放と荒れ野の導きを経験したイスラエルの民にとってのみそうなのではなくて、私たちにとってもなおさらそうです。何故なら私たちは、十戒のみ言葉を、先程申しましたように、主イエス・キリストによる新しい契約によって立てられた新しい神の民であるキリスト教会において読み、聞いているからです。神様は私たちのために独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さり、主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって私たちの罪を赦して下さり、そしてその主イエスを死者の中から復活させて下さったことによって、私たちにも復活と永遠の命の希望を与えて下さいました。この主イエスの十字架と復活による救いを信じて洗礼を受ける者と神様は新しい契約を結んで下さり、新しい神の民、新しいイスラエルとして下さいました。私たちの信仰は、神様が主イエスによって結んで下さった新しい契約に生きる民として、罪の赦しと永遠の命の約束を感謝しつつ生きることです。十戒はその感謝の生活のための道しるべとして私たちに与えられているのです。これを与えて下さった神様のみ顔は、独り子の命を与えて下さるほどに私たちを愛して下さっている、恵みのみ顔なのです。

苦しみ悲しみの中で  
 私たちは、どんな時にも、この神様の恵みのみ顔の前で、その面前で生きるのです。そこそこに幸せな、満足できる生活を送っている時だけではありません。苦しみや悲しみのどん底に陥った時にも、今自分が体験している苦しみ悲しみの出来事もまた、主である神様のみ手の中で、そのご支配の下で起っているのであって、神様以外の力、運命とか、何かのたたりとか、方角が悪いとか名前の字画が悪いとか、そのようなものによって起っているのではない、と信じて歩むのです。それが、主なる神様に対する信仰の節操を守るということです。そこには当然、神様は何故自分にこのような苦しみ悲しみを与えるのか、何故このようなことが起るのを許しておられるのか、という深刻な問いが生まれます。この苦しみ悲しみにおいて、神様のみ心はどこにあるのかと問うていくことになるのです。しかしそのように神様の面前で、神様のみ心を問うていくところにこそ、苦しみ悲しみの意味を見出していく唯一の道があります。そして苦しみや悲しみへの本当の慰めや救いが与えられていくのも、このように神様の前で生きていくことによってなのです。そのように言うことができるのは、私たちがその面前で生きる神様は、独り子主イエスを私たちのためにこの世に人間として遣わし、その十字架の苦しみと死とによって救いを与えて下さった方だからです。主イエス・キリストは、私たちと同じ人間として、肉体をもって生き、罪人として断罪され、人々に見捨てられて十字架につけられて殺されるという苦しみを引き受けて下さいました。神様の独り子である方が、まことの神である方が、人間としての苦しみのどん底にまで降りて来て下さったのです。私たちはこの主イエスによる救いを信じ、復活して今も生きておられる主イエスが共にいて下さることに支えられて、神様の前で生きるのです。そうでなければ、神様の面前で生きることなど私たちには出来ません。申命記のこの箇所でも、主なる神様が山で、火の中から人々に顔と顔を合わせて語ろうとされた時に、人々は恐れて山に登ることができなかったとあります。主なる神様と顔と顔を合わせて、その面前で生きることなど、罪人である私たち人間には本来出来ないことなのです。この時は、モーセが、神様とイスラエルの民との間に立って、み言葉を告げました。私たちのためには、そのことを、神様の独り子イエス・キリストがして下さっているのです。私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さった主イエスが、救い主として、父なる神様と私たちとの間に立っていて下さり、その主イエスの救いの恵みによって私たちは、神様の面前で、み顔の前で生きることができるのです。そしてそこには、主イエスの十字架と復活によって神様が与えて下さった救いの恵みがあります。私たちのこの世における苦しみや悲しみ、そして死にも打ち勝つ、神様の救いが、主イエスの恵みによって神様の面前で生きる私たちには与えられていくのです。

神の前で生きる  
 本日は、共に読まれる新約聖書の箇所として、マタイによる福音書第6章25節以下を選びました。何を食べようか、何を飲もうかと自分の命のことで、また何を着ようかと体のことで思い悩むな、と主イエスが語っておられるみ言葉です。私たちの人生には、様々な思い悩みが次々と起ってきます。そのことをよくご存知である主イエスが「思い悩むな」とおっしゃるのは、「くよくよしていても仕方がないから元気を出せ」というような無責任なことではありません。このみ言葉には根拠があるのです。それは32節の「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」ということです。神様があなたがたの天の父となって下さった。その天の父が、あなたがたに必要なものを皆ご存知であり、父としての愛をもってそれらを与えて下さる、あなたがたはそういう天の父の愛の下にいるのだ、と主イエスは語っておられるのです。それは言い換えれば、天の父である神様のみ顔の前に、どんな時にも、自分の全てを置いて歩みなさい、ということです。神様の面前で生きることによってこそ、あなたがたは思い悩みから解放される、ということです。この神様の面前で生きることをやめて、他のものに頼ろうとする時に、私たちは思い悩みに陥るのです。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」という戒めは、そのことを語っているのです。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」、それは即ち、主イエス・キリストの父である神様の面前で、神様のご支配が自分の上に確立することを、神様の恵みが自分の隠された心の内側にまで及ぶことを第一に求めて生きなさい、ということでしょう。それが「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」ということです。そのように生きる所に「そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」、様々な思い悩み、苦しみ悲しみの中で、神様の恵みによって支えられ、導かれ、慰められ、力づけられつつ生きる歩みが与えられていくのです。

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