【2025年11月奨励】「事実、キリストの愛が私たちを捕らえて離さないのです。」

  • コリントの信徒への手紙二 第5章14節
今月の奨励

2025年11月奨励 「事実、キリストの愛が私たちを捕らえて離さないのです。」
(コリントの信徒への手紙二第5章14節、聖書協会共同訳)

アンパンマンマーチ
 この9月までNHKの朝の連続ドラマ「あんぱん」が放映されていました。「アンパンマン」の作者であるやなせたかしさん夫妻の生涯を描いたドラマでした。その中で、アニメ「アンパンマン」の主題歌である、「アンパンマンマーチ」の歌詞が大事な役割を果たしていました。「何のために生まれて、何をして生きるのか。こたえられないなんて、そんなのは嫌だ」という歌詞です。やなせたかしさん自身の作詞によるこの歌詞は、戦争を体験したやなせたかしさんの心からの叫びだったのだと思います。ドラマの中でも、弟さんが海軍軍人となって戦死したこと、またやなせさん自身も徴兵されて中国の戦線に送られ、餓死寸前の体験をしたことが描かれていました。この世代の人たちは、「何のために生まれて、何をして生きるのか」という問いに自分で答えることを許されない青春時代を生きてきたわけです。「お前の命は国のものだ。国のために死ね」と言われ、そういう歩みを強要されていたやなせさんにとって、「自分は何のために生まれて、何をして生きるのか」を自分で考え、自分で答えることができることが何よりも大きな「解放」であり、その「自由」こそ、人生において最も大事にするべきことだったのでしょう。そして、次の世代を生きる子どもたちがこの自由を大切にして歩むことができるようにとの願いを込めて「アンパンマン」を書いたのだと思います。

私たちには重荷となっている問い
 私たちは現在、やなせたかしさんの若い頃とは全く違う時代を生きています。私たちにとっては、「何のために生まれて、何をして生きるのか」という問いに答えるのは自分であって、国や、誰か他の人にその答えを強制されることはありません。「自分の人生は自分のもので、自分の思い通りに生きる」ことが私たちには当たり前となっています。そのような自由な時代を生きている私たちには、この歌詞が「解放」であることはピンと来ないかもしれません。あるいは私たちは、「自分は何のために生まれて、何をして生きるのか」という問いに自分で答えなければならないことをむしろ「重荷」と感じているかもしれません。今は、「自分らしく生きる」ことが求められている時代です。特に若い人たちの間では、型にはめられてしまわないで「自分らしく」生きることが大事にされており、自分らしく生きていないことは罪悪であるかのような感覚があります。誰もが「自分らしさ」を求めて「自分さがし」に必死になっているのです。「自分らしく生きるために」という謳い文句で商品の宣伝がなされていたりもします。ある商品を買ったら自分らしく生きることができる、などということはよく考えればあるはずがないのですが、そういうイメージによって人が動かされているのです。しかし「自分らしさ」はそう簡単に見つかるものではありません。いろいろな体験を積んでいく中で次第に築かれていくものでしょう。だから「自分さがし」においては、とりあえず自分が好きだと思うことをやってみる、ということになります。でもそれが本当に「自分らしい」生き方なのかは分かりません。自分らしく生きる道はもしかしたら全く別のところにあって、後からそれが見つかり、「自分は道を間違えていた」と後悔することになるかもしれないのです。そういう中で、「あなたは自分らしく生きているか」といつも問われるのはプレッシャーです。「何のために生まれて、何をして生きるのか」を国家によって強制されていたやなせたかしさんにとっては、この問いに自分で答えることが解放でしたが、自分の人生は自分のものであることが前提となっている今日の社会においては、この問いは私たちに解放ではなくむしろ重荷となっているのです。

自分の願いや欲望をかなえるための問いになっている
 なぜそうなってしまうのでしょうか。それは、「何のために生まれて、何をして生きるのか」という問いに自分で答えることが前提になっている今の社会では、この問いは結局、「自分は何のために、何をして生きたいのか」という、自分の願い、欲望の実現のための問いになってしまっているからです。生き方を強制されてしまうような社会においては、「何のために生まれて、何をして生きるのか」という問い、つまり「自分らしく生きる」ことを求める問いは解放をもたらしましたが、自分の人生は自分のもの、という前提の下ではそれは、自分の願いや欲望をいかに実現するか、という問いになってしまうのです。そこには重荷やプレッシャーしか生じません。なぜならこのような問いの下では、自分の願いを実現することができるか否かで、人生の成功と失敗が決まるからです。だから、自分が願っている人生を得るために、つまり自分らしさを見出して自分らしく生きるために、必死に頑張らなければなりません。そうしないと人生は失敗に終わり、落伍者になってしまうのです。またそこには、「あの人は自分らしく生きている(ように見える)が自分は自分らしく生きることができていない」という他の人との比較が生まれて、それで落ち込んだりすることになります。そこには重荷とプレッシャーに満ちた歩みしか生まれず、平安や安心は得られません。つまり、「何のために生まれて、何をして生きるのか」という問いが、自分の願いや欲望をいかに実現するか、という問いになってしまうところでは、この問いは解放ではなくむしろ重荷をもたらすのです。そうならないためにはどうしたらよいのでしょうか。

誰のために生きるのか
 「何のために生まれて、何をして生きるのか」という問い自体は、人生の意味を問う、大切な、また必要な問いです。大事なことはこの問いを、自分の願いや欲望の実現を求めるのとは違う仕方で問うていくことです。そのためには何が必要なのでしょうか。本日の聖書の箇所であるコリントの信徒への手紙二の第5章15節の後半がそのことを教えてくれていると思います。そこには、「生きている人々が、もはや自分たちのために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きるためです」とあります。「自分たちのために生きる」というのは要するに、自分の願いや欲望を実現するために生きる、ということです。そのような歩みから、他の誰かのために生きることへと向きを変えることが教えられています。それは、「自分は何のために生まれて、何をして生きるのか」という問いを、自分のために問うことをやめて、他の誰かのために問うことへと方向転換をするということです。言い換えれば、「何のために生きるのか」と問うことをやめて、「誰のために生きるのか」と問う者になる、ということです。そうすることによってこそ、「何のために生まれて、何をして生きるのか」という人生の意味を問う大切な問いは、自分の願いや欲望を実現するための問いではなくなります。それによってこの問いは、重荷やプレッシャーをもたらすのではなくなり、私たちを解放し、生かすものとなるのです。

 これは、「自分の人生は自分のものであり自分の自由にすることが当然だ」という前提が変わることでもあります。自分の人生が自分のものなら、「自分のために」、つまり自分の思い通りに生きることを求めるのが当然です。しかし「誰のために生きるのか」と問う者になるということは、自分の人生がもはや自分のものではないことを受け入れることです。人生の前提がこのように変わることによって、新しい人生が開けていくのです。
主イエス・キリストのために生きる
 ただし勘違いをしてはなりません。自分のために生きることを求める歩みから、他の誰かのために生きることを求める歩みへと向きを変える、というのは、もはや自分のことは一切顧みず犠牲にして、世のため人のために尽くす者になる、ということではありません。この聖書の言葉は、そういう「自己犠牲」や「他者のための奉仕」に生きることを勧めているのではありません。そもそも「自己犠牲や奉仕」は、他者のためではありますが、その根本には、自分が世のため人のために尽くす立派な人になることを求めている、という面があります。つまり「世のため人のために生きる」ことは同時に「自分のために生きる」ことでもあるのです。それは尊いことではありますが、しかしそれでは、自分のために生きているところに生じる問題は解決されません。つまりそこには、「自分はどれだけ世のため人のために生きることができているか」という重荷やプレッシャーが生じるし、世のため人のために生きることにおいて他の人と自分を比較して落ち込んだりすることも起こるのです。本日の箇所、コリントの信徒への手紙二の第5章15節が勧めているのは、そして聖書全体が教えているのは、自分を犠牲にして世のため人のために生きる者となることではありません。「自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きる」者となることが勧められているのです。「自分たちのために死んで復活してくださった方」とはイエス・キリストです。つまり、自分のために生きる者から、主イエス・キリストのために生きる者へと方向転換することこそが、聖書の教えている信仰なのです。それは即ち、自分の人生は自分のものだ、という前提が変わり、イエス・キリストのものとして生きていく、ということです。生まれつきの私たちは皆、自分の人生は自分のものだという前提の下に生きています。だから自分のために生きることこそが正しいことであり、それが「自分らしく生きる」ことだと思っているのです。その人生の前提が信仰によって変わり、自分の命と人生が主イエス・キリストのものとなるところに、新しい人生が始まるのです。

イエス・キリストとの出会いによって
 15節の後半に注目してきましたが、その全体を読みたいと思います。「その方はすべての人のために死んでくださいました。生きている人々が、もはや自分のために生きるのではなく、自分のために死んで復活してくださった方のために生きるためです」。「その方はすべての人のために死んでくださいました」。このことが、自分のために生きる者から、主イエス・キリストのために生きる者への方向転換の根拠です。つまりこの方向転換の根拠は、そうすることが正しいとか、そうすべきだ、ということではありません。あるいは、そうした方が幸せになれるとか、楽に生きることができる、ということでもありません。根拠は、すべての人のために死んでくださった「その方」、つまりイエス・キリストです。私たちがイエス・キリストのために生きる者となるのは、そうすることが正しいからでも、その方が幸せになれるからでもありません。私のために死んで下さったイエス・キリストと出会ったからです。自分のために生きる者から、主イエス・キリストのために生きる者への方向転換は、「何のために生まれて、何をして生きるのか」という問いを私たちが自分で考えて、「イエス・キリストのためにこそ生きよう」という答えに達することによって起こるのではありません。私たちはそのように問うていく中で、主イエス・キリストと出会うのです。その出会いが私たちを変えるのです。「この方のために生きよう」という思いが与えられるのです。自分の人生は自分のものだ、という前提が変わり、イエス・キリストのものとして生きていくようになるという転換も、この出会いによって与えられます。私たちが自分の意志で人生の前提を変えことなどできません。しかし自分のために死んで復活して下さった主イエス・キリストと出会うことによって、そういう方向転換が起こるのです。

古い自分から解放されて新しく生きる
 キリストとの出会いによって人生の決定的な方向転換が起こったことを、この手紙を書いたパウロは14節でこう語っています。「事実、キリストの愛が私たちを捕らえて離さないのです。私たちはこう考えました。すなわち、一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人が死んだのです」。「こう考えました」とありますが、それはパウロが思索の結果そういう結論を得たということではありません。自分のために死んで復活して下さった主イエス・キリストと出会ったことによって彼は、「一人の方がすべての人のために死んでくださった以上、すべての人が死んだのです」ということを示されたのです。「すべての人」には勿論自分も含まれています。キリストの十字架の死によって、自分も含めたすべての人が死んだ。それは、自分の人生は自分のものだという前提に立って、「何のために生まれて、何をして生きるのか」を問い、「自分らしさ」とは自分の願いや欲望を実現することだと思っている、そういう生まれつきの、罪に支配されている自分が死んだ、ということです。主イエス・キリストは、自分の人生の主人は自分だと思っている私たちの罪と、そのために起っている悲しみに満ちた現実の全てを背負って、私たちに代って十字架にかかって死んで下さったのです。それによって、生まれつきの私たちはもう死んだのです。そして父なる神はキリストを復活させ、新しい命、永遠の命を生きる者として下さいました。それは私たちを、自分のために生きていた生まれつきの古い生き方から解放して、キリストのために生きる者へと方向転換させ、それによって新しい命を与えて下さるためでした。主イエス・キリストの十字架の死と復活によって、自分のためのこのような救いの出来事が既に起こっていることをパウロは、復活して生きておられる主イエスとの出会いによって示されたのです。

キリストの愛が私たちを捕らえて離さない
 このことをまとめて語っているのが、14節の初めの、「事実、キリストの愛が私たちを捕らえて離さないのです」という言葉です。パウロは復活した主イエス・キリストと出会い、自分のために死んで復活して下さったキリストの愛に捕らえられたのです。それまでの彼は、自分が神の律法を守って生きることによって義となることを求め、他の人々にもそれを求めていました。それは結局、自分の思いや願いを実現することによって自分らしく生きようとしていたということです。神に従って生きているようでいて、実は自分のために生きていたのです。その彼を打ち砕き、変えたのは、イエス・キリストの愛でした。神のためであるようでいて実は自分のために生きている彼の罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、復活して下さったイエス・キリストが彼に出会って下さったことによって、彼は、自分のために生きていた古い自分から解放されて、自分を本当に愛して下さっているキリストのために生きる者へと変えられたのです。その愛が自分を「捕らえて離さない」と彼は言っています。自分がキリストを信じてその信仰をしっかり保ち続けているのではなくて、キリストの愛が自分を捕らえて離さないのです。自分の人生は自分のものだ、という前提が変わり、イエス・キリストのものとして生きていくようになるという転換もこのようにして起こります。キリストのものとなるとは、「キリストの愛が私たちを捕らえて離さない」ことを信じて、そのキリストに身を委ねることです。このキリストの愛に捕えられている中で、「何のために生まれて、何をして生きるのか」と問うていく時に、「自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きる」本当に喜ばしい人生が与えられるのです。

 またパウロはここで「私」「自分」ではなくて、「私たち」「自分たち」と言っています。彼は教会のことを見つめているのです。教会は、「キリストの愛が私たちを捕らえて離さない」という恵みの事実に生きる群れです。これを11月の聖句としました。このみ言葉を教会全体で味わいながら、11月を歩んでいきたいと思います。

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