2024年8月の聖句についての奨励(8月7日 昼の聖書研究祈祷会)
「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(22節)
エフェソの信徒への手紙第2章19-22節 牧師 藤掛順一
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共に建てられて一つの家を築いていく
8月の聖句として選んだ22節には、「あなたがたも共に建てられ…神の住まいとなる」とあります。つまり、家を建てる、というイメージによって私たちの信仰のことが語られているのです。19節以降を見ても、「土台の上に建てられています」(20節)とか、「この建物全体は組み合わされて…聖なる神殿となります」(21節)とあります。20節の「かなめ石」も建築の用語です。私たちは、使徒や預言者という土台の上に、キリストをかなめ石として、聖なる神殿、神の住まいとして建てられていくのだ、と語られているのです。ここに、私たちに与えられている信仰、つまり教会の信仰の大事な特徴が明らかにされています。その特徴の第一は、私たちは一人で神を信じるのではなくて、共同体として信仰に生きるのだ、ということです。「建物全体が組み合わされて成長し」とか「あなたがたも共に建てられ」というところにそれが示されているし、19節の「聖なる民に属する者、神の家族であり」もそれを示しています。信仰においては「自分と神との一対一の関係」が大事であり、それなしには信仰は成り立ちませんが、それと同時に私たちは信仰において神の民、神の家族となり、他の人々と共に建てられて、一つの家を築いていくのです。つまり教会に連なり、その一員として、他の教会員と共に、教会を築いていくことが私たちの信仰なのです。指路教会の創立150周年を覚えつつ歩んでいる今、この聖句を選んだ理由がそこにあります。この教会が150年の歴史を刻んできたというのは、私たちの先輩たちが、この教会に連なって、神の民、神の家族となり、他の人々と共に建てられて、一つの家を築いてきた、そのことが神の守りと導きによって150年続いてきた、ということです。そして今は私たちが、この教会において、神の民、神の家族となり、他の人々と共に建てられて、一つの家を築いているのです。このことは教会のかしらである主イエス・キリストが、聖霊のお働きによってして下さっていることではありますが、私たちもそのことを意識して、「この建物全体が組み合わされて成長し、主における聖なる神殿とな」るように、そして私たちも「共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなる」ように、祈りつつ努力していくことが必要です。創立150周年を覚えることにおいて求められているのは、ただ区切りの年を喜び祝うことではなくて、この課題を改めて確認して、聖なる民、神の家族である家を築いていくことなのです。
教会のかしらはキリスト
ここに示されている信仰の特徴の第二は、私たちが築いていくこの建物つまり教会は「聖なる神殿」であり「神の住まい」だということです。つまり教会において私たちは、神を礼拝するのだし、神が共にいて下さることを体験するのです。神殿とは神を礼拝する場だし、神の住まいとは、神が共にいてくださるところです。しかも「聖なる」とは、神のものとして他のものからは区別されている、ということですし、「神の」によって、神が共にいてくださるこの家が神のものであることが示されています。つまり、教会は私たちのものではなくて神のものだ、ということが示されているのです。教会は私たちが共に集まって築いていく一つの共同体ですが、それは私たちの思いや願いあるいは使命感によって団体を築き営んでいくこととは違います。私たちは「聖なる神殿」「神の住まい」を築いていくのであって、そこで大事にされなければならないのは私たちの思いや願い、信念や理想ではなくて、神のみ心なのです。その神のみ心を私たちに知らせて下さったのは主イエス・キリストです。教会は、主イエス・キリストによって示された神のみ心に従って生きる群れとして築かれていかなければなりません。20節から21節にかけて、教会の「かなめ石はキリスト・イエスご自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し」と語られており、また22節にも「キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ」とあるのはそのためです。教会はキリストをかなめ石として、キリストにおいて築かれていくのです。それを言い換えれば、「教会のかしらはキリストである」ということになります。私たちは、主イエス・キリストというかしらのもとに集められ、キリストと繋がって、そのみ心を行っていくことによって、聖なる神殿、神の住まいとして組み合わされ、建て上げられていくのです。
神のみ心によって変えられていく謙遜さ
ですから私たちがこの教会の150周年を覚え、200周年に向けての歩みを整えていこうとする時になすべきことは、自分の思いや願いを実現しようとするのではなくて、教会のかしらである主イエス・キリストに従っていくことです。それは言うほど簡単ではありません。なぜなら私たちはとかく、自分の思いや願い、主義主張、つまり自分が良いと思うことを、「これがキリストのみ心であり、キリストに従うことだ」と思ってしまいがちだからです。だから主イエス・キリストに従っているつもりで、実は自分の思いや理想を追い求めている、ということがしばしば起るのです。そして自分の思いや理想、主義主張を追い求めていると、教会の中に対立が生じます。私たちが「良いと思うこと」は人によって違うからです。だからお互いに「キリストに従っている」と思っている者どうしの間に対立が起るのです。教会のかしらである主イエス・キリストに従って、つまり神のみ心に従って教会を築くのは簡単ではない、ということを私たちは知っていなければなりません。主イエス・キリストによって示された神のみ心を正しく知るためには、私たちは、自分の思い、意見に固執することをやめて、神のみ心に従い、それによって自分の思いを変えられていくことを受け入れる謙遜さを身につけなければならないのです。私たちが受け継いでいる「長老制度」とはそのための仕組みであると言えます。教会のかしらである主イエス・キリストのみ心を正しく知り、それによって教会が築かれていくために、牧師と長老(宣教長老と治会長老)が長老会議を行うのです。それは、牧師の意見がそのままキリストのみ心であることはないし、一人の長老の意見がそうであるわけでもない、ということを前提としています。それぞれが、自分がみ心と信じることを誠実に語り、しかし自分の意見を絶対化せずに、他の人の意見もしっかり聞いて、協議の中で何がみ心かを求めていくのです。その会議の決議にこそキリストのみ心がある、と信じて、たとえ自分の思いとは違うことであっても皆がそれに従う、それが長老会議です。それは、自分の思いに固執せず、謙遜にみ心を求めていくための訓練の場です。このようにして、教会のかしらである主イエス・キリストに本当に従う教会を築こうとしているのが長老制度なのです。長老会を中心として、教会に連なる全ての者に、このような「謙遜にみ心を求める姿勢」を確立することによって、教会を私たちのものではなく神のものとして築いていくことが、今私たちに求められているのです。
使徒や預言者という土台
ここに示されている信仰の特徴の第三は、20節の「使徒や預言者という土台の上に建てられています」ということです。教会が神のものとして築かれていくためには、「土台」が大切なのです。正しい土台の上に築かれていかなければ、教会を建てることは「土台ムリ」なのです。つまり、先ほどの長老会議においても、ただみんなで話し合って妥協点を見出して結論を出せばよい、ということではありません。正しい土台の上で議論し、その土台の上で決議がなされなければ、それはキリストのみ心とは言えないのです。その「土台」とは「使徒や預言者」です。「使徒」とは、主イエスの弟子だった人々のことであり、主イエスの復活の証人となり、主イエスによって全世界へと伝道のために遣わされた人々です。その使徒たちの語った教えを記したのが新約聖書です。また「預言者」とは、神の言葉を預けられて、それを人々に語った人たちです。旧約聖書にそういう「預言者」が何人も出てきます。しかしその人たちだけが預言者なのではありません。旧約聖書と新約聖書の全体が、神の言葉を預けられた人々が聖霊の導きを受けて書いたものです。つまり旧新約聖書全体が預言者の言葉、預言です。そして新約聖書は使徒たちの言葉でもある。その旧新約聖書こそが、教会が築かれていく土台なのです。
聖書の中心はキリスト
「使徒や預言者」という順序にも大事な意味があります。今述べたように新約聖書も「預言」だと言えますが、新約聖書はそれ以上に「使徒」たちの教えです。「使徒や預言者」とは新約聖書と旧約聖書という意味だとも言えるのです。そしてこの順序が示しているのは、使徒たちの教えである新約聖書を前提として旧約聖書を読む、ということです。具体的には、使徒たちが証しし、宣べ伝えた主イエス・キリストによる救いが聖書全体の中心であり、その前提、あるいはそこに至る備えとして旧約聖書を読む、というのが教会の聖書の読み方だ、ということです。旧新約聖書全体を、主イエス・キリストを中心として読むのです。そのことによって、聖書は教会の土台となるのです。「日本基督教団信仰告白」に「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり」と語られているのはそのことです。旧新約聖書全体が「キリストを証し」ているのです。キリストを証ししている旧新約聖書全体は、「福音の真理を示し」ているのです。そのように読まれる時に、聖書は「教会の拠るべき唯一の正典」、つまり教会が築かれていく土台となるのです。この土台の上にこそ、キリスト・イエスがかなめ石である建物が、キリストにおいて組み合わされ、共に建てられていくのです。
聖書の読み方
ですからここには、聖書が教会の土台だと語られているわけですが、それだけでなく、聖書が教会の土台となるための読み方が示されているのです。それは、主イエス・キリストによる救いを中心として読む、ということです。本日の箇所の少し前のところ、15、16節にはこう語られていました。「こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」。「双方」とか「両者」というのは、割礼を受け、律法に従って生きているイスラエルの民、つまり旧約聖書における神の民と、それらのものと関係なく、神を知らずに生きていた異邦人です。お互いの間に敵意があった両者を、キリストが、十字架の死によって神と和解させ、ご自分のもとに新しい神の民として一つにして下さったのです。19節の「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり」という救いはこのキリストの十字架によって実現したのです。イエス・キリストによって示された神のみ心とは、このキリストの十字架による救いです。それを中心として読むことによって、聖書は神の神殿、神の住まいが建て上げられていく土台となるのです。私たちは、聖書が教会の土台となる読み方を身につけていかなければなりません。聖書を読むことにおいても、私たちはとかく、自分の思いや願い、主義主張に基づいて読んでしまいがちです。自分の主張の裏付けとなる言葉を求めて聖書を読むようなことが起るのです。ですから聖書を読むことにおいても、自分の思いに固執することをやめて、むしろ聖書からしっかり聞き、それによって自分の思いを変えられていくことを受け入れる謙遜さが必要です。教会がそのようにして聖書から聞き、人間の思いや願望をそぎ落として、その中心となることをまとめてきたことによって生まれたのが、「使徒信条」「ニカイア信条」などの「信条」です。教会の土台となる聖書の読み方がそこに示されており、それが私たちが聖書を読むための手引きとなるのです。
聖書を教会の土台とするために
「使徒や預言者」つまり旧新約聖書という土台の上に、神を礼拝する「神の神殿」、また神が共にいて下さる「神の住まい」である教会という建物が、主イエス・キリストによって示された神のみ心に従って生きる群れとして、多くの兄弟姉妹と共に組み合わされ、共に建てられていくことを、150周年を迎えるこの時、私たちは祈り求め、そのために努力していきたいのです。その第一歩は、旧新約聖書を教会の土台としてしっかり据えることです。聖書を読むことなしにそれは不可能です。読まずに「これが土台だ」といくら言っていても、聖書を本当に土台として教会を築くことはできません。今月末から、「聖書全巻リレー通読」が行われます。そこに参加することによって、聖書こそが教会の、そして私たちの救いの、私たちが神の民として歩んでいくことの土台であることを体験していきたいのです。それは、150周年を迎えるこの教会が、これからもキリストをかしらとする神の教会として歩んでいくための土台を据える作業です。そこに一人でも多くの方々に加わっていただきたいのです。