「わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです」 牧師 藤掛順一
ヨハネによる福音書第17章20〜26節
キリストの体である教会の再建
今年度の私たちの教会の年間主題は「キリストの体である教会の再建(Ⅱ)」です。「コロナ禍」によって傷ついてしまった「キリストの体」である教会を再建していく、その途上に私たちはあるのです。この7月以降ようやく、月の第一主日には一回の礼拝(主日礼拝)を共に守るようになりました。とりあえず9月まではそのようにする、ということで、その先のことはまだ決まっていませんが、共に礼拝を守ることはキリストの体である教会としての基本的な姿です。そのことが回復されつつあることは喜ばしいことです。礼拝を一回にすることができれば、その他の、特に主日の集会を再開することができるでしょう。礼拝を一回にすることは「キリストの体でる教会の再建」における大きな前進です。
しかし主日礼拝が一回になるというのは、ただ皆が一堂に会して礼拝をする、というだけのことではありません。このことは、教会が「一つである」ことの象徴的なしるしなのです。教会は単なる人間の集合体ではなくて、父なる神が、聖霊のお働きによって、頭である主イエス・キリストのもとに召し集めて築いて下さっている「キリストの体」(エフェソ1・23)です。私たちは頭であるキリストの「部分」(コリント一12・27)とされて、共に一つの体とされているのです。このことを改めて意識していくことが「キリストの体である教会の再建」です。「コロナ禍」になって、当初は礼拝に皆が集まることを中止し、小人数で礼拝をせざるを得ませんでした。共に集まる礼拝を再開してからも、三回ないし二回に分かれて行なっています。回数だけでなく、コロナへの不安のために礼拝に集うことができなくなっている人もいます。そういう状況の中では、一つの礼拝を共に守ることが、私たちにおいては、「教会が一つであり、皆が一つのキリストの体の部分とされている」ことの目に見えるしるしです。主日礼拝が一回でなければその教会は一つになっていない、ということではありません。いわゆる「メガ・チャーチ」においては主日礼拝が複数回行われるのが普通です。しかし私たちの教会の現状においては、主日礼拝を一回行うことが、教会が一つであることの目に見えるしるしだと言えるのです。それを回復することによって「キリストの体である教会は一つである」という意識を深め、キリストの体である教会を再建していこうとしているのです。
様々に違っている人々の集まりである教会
しかし教会が「一つである」とはどういうことなのでしょうか。教会には、年齢も性別も生い立ちも社会における立場も様々に異なっている多くの人々が集っています。それゆえにものの考え方や感じ方も違い、思想信条も違っています。政治的な問題についての意見もそれぞれに違っています。クリスチャンだからこういう政治的立場を取るべきだ、とは言えません。クリスチャンでも、自民党支持者もいれば共産党支持者もいるのです。憲法9条や平和の問題についてもそうです。憲法9条を守ることが平和を守ることだ、と考える人もいれば、厳しい対立があるこの世の現実の中で、それでは平和は守れない、一定の武力(いわゆる抑止力)を持つことが必要だと考える人もいます。こういう議論を始めたら、私たちはとうてい「一つである」ことはできません。しかし、そういうことについて意見が違っていて一致できなくても、私たちは共にキリストの体である教会に連なっており、一つなのです。つまり教会が「一つである」というのは、何において一つなのか、ということを私たちはしっかりと弁えていなければなりません。そうしないと、自分と同じ意見の人とだけ一つであり、意見の違う人とは一つでない、ということになるのです。
信仰は一つ、証しは多様
教会が一つであるとは何において一つなのか、それは政治問題や平和についての主義主張においてではありません。社会のいろいろな問題にどう関わるかにおいてでもありません。私たちが一つであるのは、信仰が同じだからです。その信仰の内容は、具体的には「日本基督教団信仰告白」に語られています。私たちは皆、教会員となる時に、この信仰告白を自分の信仰として受け入れることを誓約したのです。「日本基督教団信仰告白」には、代々の教会が、特にプロテスタント教会が、聖書に基づいて信じ告白してきた信仰の大筋が語られています。このように、代々の教会が受け継いできた信仰を「公同的信仰」と言います。日本基督教団信仰告白を告白していることにおいて、横浜指路教会に連なる私たちは一つであり、日本基督教団に共に連なる諸教会も一つであり、そしてさらに公同的信仰を共有している他教派の教会とも一つであると言えるのです。このように、同じ信仰を告白していることにおいて教会は一つなのです。しかし、同じ信仰に生きていても、その信仰に基づいてそれぞれの生活において大事にしていること、関心をもって関わり、行っていることはそれぞれ違います。信仰は同じでも、政治的な立場や社会問題への関わり方は人それぞれ違っているのです。しかしそこにおいてどれだけ大きな違いがあっても、教会が一つであることは揺らぎません。教会が一つであることは、同じ信仰を告白していることにおいて成り立っているのであって、その信仰に基づいてしていることが同じでなければ成り立たないわけではないからです。こういうことを、「信仰は一つ、証しは多様」と表現します。「証し」とは、それぞれが自分の生活において、信仰をどう表し、実践しているか、ということです。同じ信仰に立っていても、この「証し」は、人それぞれ違っているのです。つまり信仰者として生きることは、誰もが皆同じことをして生きることではありません。信仰によって私たちは「画一化」されることはないのです。それぞれの個性(神からの賜物)がそこで生かされるのです。だから「証し」においては私たちは多種多様であり、バラバラです。それでも、同じ信仰を告白していることにおいて、私たちは「一つ」なのです。それゆえに、「同じ信仰を告白すること」、私たちで言えば「日本基督教団信仰告白」を共に告白することこそが、それぞれの個性の違い、賜物の違い、証しの多様性が生かされるための「扇の要」なのです。そこにおいて「一体性」があるからこそ、証しの「多様性」が生かされるのです。信仰の「一体性」がなければ、「証しの多様性」は教会を解体しバラバラにするだけです。しかし信仰において「一体性」があれば、「証しの多様性」は教会を豊かにするのです。「教会が一つであるとは、何において一つなのか」を正しく弁えることによって、このように、「一つでありつつ画一化されておらず、多様性が豊かさとなっている教会」が築かれていくのです。「キリストの体である教会の再建」において私たちが目指していくのはそういうことなのです。
父なる神と主イエスが一つであることが、教会が一つである根拠
さてこのように、様々な個性(賜物)の違いをもって生きている私たちが、「一つのキリストの体」である教会を築いていく(再建していく)ためには、信仰の告白において一致することが大事であるわけですが、それは私たちが何を信じているか、ということであり、つまり私たちの側の事柄です。私たちがキリストの体である教会を再建していこうとする時に、それは欠かすことのできない大事な要素であるわけですが、しかしキリストの体である教会が一つであることは、根本的には、私たちが何を信じているかによって成り立っているのではありません。私たち人間の側の事柄によって、キリストの体である教会が一つとなっているのではないのです。そのことをはっきり語っているのが、本日の箇所、ヨハネによる福音書第17章20節以下です。とりわけ8月の聖句とした「わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです」という22節の言葉にそれが語られています。「彼ら」つまり私たち教会が一つであるのは、私たちが何を信じているかによるのではなくて、「わたしたちが一つである」こと、つまり父なる神とその独り子主イエス・キリストが一つであられることによるのです。ヨハネ福音書17章は、18章から主イエスの受難の物語が始まるのを前にして、弟子たち、そして20節にあるように「彼らの言葉によってわたしを信じる人々」、つまり後の教会の信仰者たちのために主イエスが祈って下さった祈りです。その中で主イエスは繰り返し、彼ら教会の信仰者たちを「一つにしてください」と祈っておられます(11、21、22、23節)。教会が一つであるために主イエスはとりなし祈って下さったのです。そして主イエスは「教会が一つであること」の根拠をここで示して下さっています。「わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」(11節)、「あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください」(21節)、「わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです」(22節)。教会が一つである根拠は、父なる神と主イエスが一つであることなのです。父なる神と主イエスが一つであるとは、「あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいる」(21節)ということです。父なる神とその独り子主イエスとは、このように分かち難く一つなのです。そして21節の後半には「彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」とあります。父なる神と主イエスの一つである交わりの中に、私たちもいるようにされる。父なる神と主イエスの交わりの中に私たちも加えられるのです。23節には「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられる」とあります。父なる神が主イエスの内におられ、主イエスが私たちの内にいて下さる、そのようにして、父なる神と主イエスと私たちが一つにされるのです。教会が一つであることの根本的な根拠はここにこそあるのです。
父なる神が主イエスをお遣わしになった
父なる神と独り子主イエスが一つであることが教会が一つであることの根拠、土台である。それはどういうことでしょうか。父なる神と主イエスが一つであるとはそもそもどういうことなのでしょうか。本日の箇所において、この「一つである」ことは「あなたがわたしをお遣わしになったこと」(21節)と言い換えられています。23節にも「あなたがわたしをお遣わしになったこと」とあります。そのことは3、8、18節にも語られています。父なる神と主イエスが一つであることは、父が主イエスを遣わしたことにおいて見つめられているのです。それは何のためだったかが、23節の後半に語られています。「こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります」。父なる神が主イエスをこの世にお遣わしになったのは、独り子である主イエスへの愛を、「彼ら」つまり主イエスを信じる教会の信仰者たちにも注ぎ、それによって、この世の人々が、神の愛を知るようになるためだったのです。つまり、父なる神と独り子主イエスが一つであるのは、この世を愛する愛において一つであるということです。父は主イエスを遣わすことによってこの世を愛し、主イエスは父のみ心に従って私たち罪人のために十字架の死へと歩んで下さることによって私たちを愛して下さったのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ福音書3章16節)という愛において、父なる神と主イエスは一つなのです。
神の愛への応答としての私たちの信仰告白
25節には「正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています」とあります。「この人々」とは主イエスの弟子たちであり、信仰者たちであり、教会です。父なる神は独り子主イエスを遣わして下さることによって、神を知らないこの世に、独り子を遣わして下さった神の愛を知っている者たちの群れを築いて下さっているのです。その群れ(教会)によって神は、ご自身の愛を世の全ての人々に知らせ、その愛にあずからせようとしておられるのです。父なる神と独り子主イエスが一つであるというのは、私たちを愛して救って下さる神のみ心が一つであることであり、そのみ心によって、「一つのキリストの体」である教会がこの世に築かれているのです。つまり教会が一つであることは、父なる神と独り子主イエスが、私たちへの愛のみ心とみ業において一体であって下さることによるのです。父と子と聖霊が「三位一体」の神であられるというのも、この私たちへの愛によることです。そして私たちは、この神の愛への応答として、信仰を告白するのです。使徒信条や、それを含む日本基督教団信仰告白に語られているのは、父と子と聖霊であられるお一人なる神が、私たち罪人を赦して滅びから救い、神の子として生かし、永遠の命に至らせて下さる神の愛です。この神の愛を信じることにおいて、私たちは一つとされているのです。この「扇の要」がしっかり意識されていくことによって、私たちそれぞれの個性、賜物、証しの多様性は生かされ、神の愛をこの世の人々に豊かに伝えていくキリストの体である教会が築かれていくのです。