マタイによる福音書 第5章10~12節
1.八つの幸いの教えのしめくくり
「今飢えている人々は幸いである。あなたがたは満たされる。」
(ルカ福音書6章21節)
主イエスは私たち一人一人の中に、これら八つの幸いを造り出し、与えようとしておられる。私たちはこの八つの幸いのどれか好きなものを選び取るのではない。これらの八つの幸い全てを主イエスからいただいて生きるのが、信仰者の生活。「義のために迫害される者の幸い」もその一つであり、「これだけはご免被る」というものではない。
2.教会の歴史は迫害の歴史
この幸いの教えは、過去の教会の歩み、キリスト教の歴史において、大きな励ましと力とを信仰者たちに与えてきた。殉教者(マーター)は「証人、証し人」という言葉から来ている。殉教こそ、信仰の最大の証しであり、「一人の殉教者は十人の信者を生む」と言われる。
3.わたしのために
「義のために」は11節では「わたしのために」と置き換えられている。迫害は、私たちが積極的に義(正しいこと)を行っていくところに起るのみでなく、主イエスに属する者、主イエスを信じる者として生きるところに起る。主イエスを信じて生きようとする時に、私たちは、そうでない人々から様々な仕方でののしられ、悪口を言われる。「義のために迫害される」は、特別な時代の、特別な人々の話ではなく、私たちが教会に通い、主イエス・キリストを信じて生きようとする時に身近な所で日々起って来る様々なすれ違い、誤解、行き違いにまで及んでいる。
4.「あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい」
主イエスのゆえに誤解を受け、悪口を言われることは、あってはならないことではない。それが当たり前なのだ、ということ。私たちは、主イエスを信じ、信仰者としての奉仕や働きに励めば、人に受け入れられ、認められ、尊敬されるようになる、と心のどこかで思っているのではないか。そう思っていると、ののしられたり、身に覚えのない悪口を言われたりすることに耐えられない。しかし主イエスは、そのことでくよくよする必要はない、それが当然なのだ、とおっしゃっている。
5.「天には大きな報いがある」
「天に」とは、父なる神様のみもとに、ということ。父なる神様の大きな報いを見つめよ、と主イエスは言っておられる。
「そんな報いの約束は何の力にもならない」と思うとしたらそれは、私たちがこの世のこと、地上のこと、人間のことしか見つめておらず、天を、神様を見つめていないということ。言い換えれば、人に受け入れられ、喜ばれ、認められることしか考えていないということ。「彼らは既に報いを受けている」[6章5節]と通じる。
天を、神様を見つめている者は、神様が自分を見ていて下さり、主イエスのゆえにののしりや悪口を受けていることを知っていて下さり、必ず報いて下さることに望みを置いて生きる。その報いがどんな形で与えられるかはわからない。
地上の生活における幸いという形でなのか、地上の命を終えた後、天の父のみもとでの祝福としてなのか、いずれにせよ、報いは天の神様が与えて下さることを信じてそこに希望を置く。神様を信じるとはそういうこと。
6.「天の国はその人たちのものである」
「天の国はその人たちのものである」は、第一の幸いの教え「心の貧しい人々は幸いである」においても語られていた。八つの幸いの教えの最初と最後が「天の国はその人たちのものである」で括られている。そういう意味でこの言葉は、幸いの教え全体の枠となっている、中心的な幸い。「天の国」とは、神様の恵みのご支配という意味。天の国、神の恵みのご支配の下に生きることができるのは、地上の、人間からの報いや賞賛ではなく、神様の報いをこそ見つめ、求める者。「心の貧しい人々」の場合も、自分の心の中に何らかの豊かさを求め、拠り所を見出していこうとする者は、天の国に生きることができなかった。できないと言うよりも、彼らが求めているのは神様の恵みのご支配ではなくて、自分の豊かさによる満足である。自分の中に、人間の間に、地上に、寄り頼むべき理解者を持たず、報いてくれる人を持たず、ただ天の神様が自分を理解し、豊かに報いて下さることのみを信じ、求めていくという点で、「心の貧しい人々」と「義のために迫害される人々」とは相通じる。
7.あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害された
主イエスがここで見つめさせようとしているのは、教会の歴史における殉教者たちのことのみではない。最後、最大の預言者、預言者の中の預言者として来られた主イエス・キリストが、「ののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられ」た。この主イエス・キリストをこそ私たちはしっかりと思い起し、見つめるべき。主イエスは私たちのために、全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さった救い主であり、私たちが従っていくべき主。
その方が、迫害を受け、ののしられ、悪口を浴びせられて歩まれたのだから、私たちがそのような体験をするとしたら、それは主イエスの後に従っているということ。それは幸いなことであり、喜ばしいこと。私たちはまことに弱い者であり、自分の力で迫害に耐えて信仰の証をなすことができるような者ではないが、しかし私たちが、それぞれの生活の中で主イエス・キリストに従い、天の父なる神様の報いをこそ求めて生きていく時、主イエスがお語りになったこの第八の幸いもまた私たちに与えられる
8.ペトロの手紙一、第2章18~25節
召し使い(奴隷)、(妻、夫)への教え
「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。」
ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです。」(21~25節)