マタイによる福音書 第5章9節
1.「平和を実現する」ことの難しさ
「平和を好む」ではなく、「平和を実現する」(口語訳聖書では「平和をつくり出す」)人の幸いを主イエスは語られた。
争いを避けているだけでは平和を実現することはできない。しかし争うことによって平和が実現できるわけでもない。
個人の関係のみでなく、国と国、民族と民族の間の平和はどうしたら実現できるか。
国権の発動たる戦争を放棄し、軍隊を持たないことを謳った平和憲法(9条)によって平和が実現しているのか?
2.神の子主イエスの実現した平和
「その人たちは神の子と呼ばれる」
平和を実現する者は「神の子」
神の子イエス・キリストは、平和を実現する方として来られた。
主イエスはどのようにして平和を実現なさるのか。
エフェソの信徒への手紙第2章14~16節
「敵意という隔ての壁」が平和を妨げている。主イエス・キリストはその十字架の死において敵意を滅ぼし、平和を実現して下さった。人間の敵意は罪から生まれる。罪の根本には神に対する敵意がある。神に対する敵意は、人に対しても向けられていく。神と人とに対する私たちの敵意、罪が平和を妨げている。キリストの十字架は、その私たちの罪、敵意を、主イエスがご自分の身に引き受けて下さったということ。私たちの、神と隣人に対する敵意、罪が、独り子イエス・キリストに全てふりかかり、主イエスを苦しめ、殺した。その苦しみと死を主イエスが引き受けて下さったことによって、神は私たちの敵意を乗り越え、平和を宣言して下さった。これは神の一方的宣言。今も私たちはなお神と隣人に対する敵意、罪に生きている。けれども神は、その敵意はイエス・キリストの十字架によってもう滅ぼされた、我々は和解し、敵意はもう存在しないという「平和の福音を告げ知らせ」て下さっている。
これが、主イエス・キリストによって実現された平和。
私たちは、争い、対立において、その争いを避けるか、あるいは争いに身を投じてその中で自分の主張を通すか、あるいは相手の主張との折り合いをつけるか、という仕方で平和を実現しようとする。しかし主イエスは、相手の敵意をご自分の身に引き受け、それによって死なれた。つまり敗北された。その敗北の中で、敵を憎み怨むのではなく、赦した。そして、もう敵意は滅ぼされた、もうここには敵意はないと宣言された。
キリストの復活は、人々の敵意を引き受けて死なれた主イエスの死を、父なる神が、私たちと神との和解のための死、私たちの罪を赦し、敵意を滅ぼすための死として認め、和解と平和と永遠の命を宣言して下さったということ。神と私たちとの間に、敵意はもう存在しない、存在するのは神が与えて下さる復活の命、死に勝利する恵みなのだということが、キリストの復活において明らかにされている。私たちは、主イエスの復活の記念日、小さなイースターである毎週日曜日の礼拝において、キリストが私たちの平和を実現して下さったという神の宣言を新たに聞きつつ生きる。
「平和を実現する人々は幸いである」という教えは、そのような私たちの歩みにおいてこそ意味と力を持っている。
3.平和を実現する者として
私たちは、主イエス・キリストによって神が与えて下さった平和の中で、その主イエスに従うことによって、争いに満ちたこの世界に平和を実現する者として生きる。その私たちの歩みは、争いを避けるのでも、争いに勝利し、あるいは妥協するのでもなく、敵意を引き受け、赦すことによって敵意を乗り越えるという歩みになる。
一人のアメリカの黒人の少女が、「イエス・キリストを信じたことによってあなたは何を得たか」という問いに対して、一言、「キリストは、私の父を殺した人をゆるすことができるようにしてくださいました」と語った(ウィリアム・バークレー『山上の説教に学ぶ』)。
アメリカ公民権運動におけるマーティン・ルーサー・キング牧師の言葉。「あなたがたの他人を苦しませる能力に対して、私たちは苦しみに耐える能力で対抗しよう。あなたがたの肉体による暴力に対して、私たちは魂の力で応戦しよう。どうぞ、やりたいようになりなさい。それでも私たちはあなたがたを愛するであろう。どんなに良心的に考えても、私たちはあなたがたの不正な法律には従えないし、不正な体制を受け入れることもできない。なぜなら、悪への非協力は、善への協力と同じほどの道徳的義務だからである。だから、私たちを刑務所にぶち込みたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。私たちの家を爆弾で襲撃し、子どもたちを脅かしたいなら、そうするがよい。つらいことだが、それでも私たちは、あなたがたを愛するであろう。真夜中に、頭巾をかぶったあなたがたの暴漢を私たちの共同体に送り、私たちをその辺の道端に引きずり出し、ぶん殴って半殺しにしたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。国中に情報屋を回し、私たち黒人は文化的にもその他の面でも人種統合にふさわしくない、と人々に思わせたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。しかし、覚えておいてほしい。私たちは苦しむ能力によってあなたがたを疲弊させ、いつの日か必ず自由を手にする、ということを。私たちは自分たち自身のために自由を勝ち取るだけでなく、きっとあなたがたをも勝ち取る。つまり、私たちの勝利は二重の勝利なのだ、ということをあなたがたの心と良心に強く訴えたいのである」。(コレッタ・スコット・キング編『キング牧師の言葉』)
「あなたがたをも勝ち取る」とは、友として勝ち取るということ。今黒人を差別し、暴力によって抑えつけようとしている白人たちと黒人との間に、平和が実現するということ。そのことを、「苦しむ能力、苦しみに耐える能力」によって実現していくのだというこの言葉は、まことに「平和を実現する者」の言葉。彼がこのように語ることができたのは、主イエス・キリストが、十字架の死によって、人々の敵意、罪をご自身の身に受け、死んで下さることによって敵意を滅ぼして下さったことを知っているから。そして彼が、いつの日か私たちは必ず勝利する、と確信をもって語ることができたのは、父なる神が主イエスを死者の中から復活させ、死の力に勝利しておられることを知っているから。彼は、平和を実現する神の子イエス・キリストを信じ、その主イエスに従っていくことによって、平和を実現する神の子として生きた。私たちもこの信仰を受け継ぎ、平和を実現して下さる主イエスの後に従っていく。その時私たちも、平和を実現する神の子らのはしくれに加わることができる。平和を実現する者たちの幸いに生きることができる。