主日礼拝

囚われと自由

説教「囚われと自由」 副牧師 川島章弘
旧約聖書 創世記第39章20-23節
新約聖書 使徒言行録第16章25-40節

鞭打たれ、牢に入れられる
 本日は、先週に引き続き使徒言行録第16章を読みます。パウロたちは「第2回伝道旅行」でヨーロッパに渡ると、まずフィリピで福音を宣べ伝えました。パウロが語る福音を聞いて、リディアとその家族が洗礼を受けてキリスト者となり、そしてリディアの家はヨーロッパ最初の教会となったのです。このリディアの家を拠点として、パウロたちはフィリピでの伝道を続けました。その中で起こった出来事が、16節から40節まで語られています。その最後の40節には、パウロとシラスが「リディアの家に行ってきょうだいたちに会い、彼らを励ましてから出発した」とあり、ここからもパウロたちがリディアの家を拠点としていたことが分かります。
 前回は16~24節を読みました。そこでパウロたちは、16節にあるように、「占いの霊に取りつかれている女奴隷」に出会いました。この女性は、占いの霊の力によって占いをすることで、主人たちに多くの利益をもたらしていました。しかし18節にあるように、パウロがこの女性から霊を追い出したので、この女性は占いの力を失いました。それは、主人たちにとって、金儲けの望みがなくなったことを意味します。そのため彼らは怒りに駆られ、パウロとシラスを捕らえ、フィリピを治めていた高官たちの前に引き出したのです。主人たちと一緒になって群衆たちも二人を責め立てたので、高官たちは二人を何度も鞭で打ち、牢に入れました。24節にあるように、高官たちから厳重に見張るように命じられた看守たちは、パウロとシラスを、「いちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷をはめ」たのです。

ローマの法に違反する不当な行為
 このようにしてパウロとシラスは牢に入れられました。その牢で、真夜中に起こった出来事が本日の箇所で語られています。しかしその出来事に目を向ける前に、高官たちが二人を鞭で打ち、牢に入れたことは、不法な行為であったことを見ておきたいと思います。それが語られているのが35節以下です。夜が明けると、高官たちは警吏たちに命じて、パウロとシラスを釈放しようとしました。そのことを看守がパウロに語ると、パウロは警吏たちに、37節でこのように言っています。「高官たちは、ローマ市民である私たちを、裁判にもかけずに公衆の面前で鞭打ったあげく投獄したのに、今ひそかに釈放しようとするのか。いや、それはいけない。高官たちが自分でここへ来て、私たちを連れ出すべきだ」。ここで使徒言行録はパウロとシラスがローマ市民であることを明らかにしています。ローマ市民は、ローマ市民権を持ち、それに伴って様々な権利を認められていました。その中に、ローマ市民は鞭打ち、十字架などの罰を受けることがない、という権利がありました。それなのに高官たちはパウロとシラスを公衆の面前で何度も鞭で打って投獄しました。しかも裁判にもかけずにそうしたのです。二人がローマ市民であったことを知らなかったとしても、彼らの行為が正当化されるわけではありません。裁判にもかけず、ローマ市民である二人を公衆の面前で何度も鞭で打って投獄した高官たちの行為は、ローマの法に明らかに違反する不当な行為であったのです。

不当な苦しみに直面する
 このようにパウロとシラスは不当な行為によって牢に入れられました。しかも「いちばん奥の牢」に入れられました。そこは、外からの光が入らない、真っ暗な場所であったでしょう。二人の「足には木の足枷」がはめられました。そのために足が固定され、自由に動くこともできませんでした。しかも二人は何度も鞭で打たれていましたから、深い傷を負い、出血やひどい痛みがあったに違いないのです。
 しかしパウロとシラスは、真っ暗な中、自由に動くこともできず、ひどい痛みを抱えていたにもかかわらず、讃美歌を歌っていました。本日の箇所の冒頭25節でこのように言われています。「真夜中頃、パウロとシラスが神への賛美の歌を歌って祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた」。暗闇の中、拘束され、ひどい痛みが襲ってくる。そのような状況であれば、普通は、その暗闇に呑み込まれるようにして、深く落ち込むはずです。「もう駄目だ」と希望を失ってもおかしくありません。これからどうなるのか分からず、不安と恐れを抱かずにはいられません。あるいは高官たちの不法な行為に対する怒りに駆られるかもしれません。自分の中に不安や恐れ、あるいはあきらめや怒りが渦巻いている。そのような状況に陥っても不思議ではないのです。
 私たちは、牢に入れられることはないかもしれません。しかし私たちも、パウロたちと同じように、不当な苦しみに直面することがあります。不当な苦しみに直面し、自分が暗闇の中にいるよう思え、落ち込み、あきらめてしまいそうになることがあります。不安と恐れを抱き、その苦しみを自分にもたらした人たちや出来事に、怒りをぶつけて文句を言いたくなるのです。

神を心から賛美し、祈っていた
 ところが驚くべきことに、そのような状況の中で、パウロとシラスは神への賛美の歌を歌い、祈っていました。この状況で祈っているのであれば、その祈りは、自分たちを牢から出してください、この不当な行為から救ってください、という祈りであった、と私たちは思いがちです。しかし「神への賛美の歌を歌って祈っていると」と言われています。神を賛美し、ほめたたえて讃美歌を歌っていたならば、その祈りもまた、神を賛美し、ほめたたえる祈りであった、神への賛美と感謝の祈りであったに違いありません。不安や恐れ、あるいは痛みを紛らわすために讃美歌を歌った、ということではないのです。牢に入れられ、暗闇の中で、自由を奪われ、激しい痛みを抱えながら、パウロとシラスはなお神を心から賛美して、祈っていたのです。
 それは、パウロとシラスが私たちとは違って、強靭な、不屈の精神を持っていた、ということなのでしょうか。そうではないでしょう。自分自身の強靭さや不屈さによって、神への賛美が湧き上がることはありません。もし自分の強靭さや不屈さに頼るならば、そこに生まれてくるのは、神への賛美ではなく、「自分はこんなに頑張っている、こんなに耐えている」という思いです。私たちも不当な苦しみに直面するとき、その苦しみに押し潰されてしまわないように、なんとか自分を励まし、奮い立たせて、その苦しみに耐えようとします。あるいは苦しみをもたらした人や出来事に怒りをぶつけて、苦しみを紛らわそうとします。しかしそのとき私たちの内に溢れているのは、神への賛美ではなく、「自分はこんなに頑張っている、こんなに耐えている」という思いであったり、「あの人たちのせいだ、このことのせいだ、この社会が悪い」という思いであったりするのです。

神の恵みのご支配を信じて生きる
 パウロとシラスが不当な苦しみの中にあっても、神への賛美に満たされ、心から神を賛美することができたのは、なぜでしょうか。それは、パウロとシラスが神の恵みのご支配を信じていたからです。彼らは、主イエス・キリストの十字架と復活によって救いが実現し、すでに神の恵みのご支配がこの世界に、目には見えなくても実現していることを信じていたのです。前回、お話ししたように、占いというのは、基本的に得体の知れない力がこの世界を支配していることを前提としています。そしてその得体の知れない力をコントロールして、幸いを得て、災いを避けようとするものです。ということは占いにおいて、災いは、つまり苦しみは、得体の知れない力がもたらしたものであり、その苦しみは避けるべきものでしかありません。避けられなければ、あきらめるしかないのです。
 少し話が逸れますが、ある方が日本の国民性について論じている中で、日本では人間の力には手に負えない巨大な自然災害が定期的に発生してきたために、日本人は「しょうがない」という「あきらめ」の感覚を持つようになった、と主張されていました。この方は、このことを積極的に捉えていて、その主張そのものは興味深いと思います。しかし、「しょうがない」とあきらめるということは、結局、その苦しみには意味がない、ということを認めることではないでしょうか。苦しみには意味がないし、その苦しみを避けられなければ、あきらめるしかないという生き方になるのです。しかし神の恵みのご支配を信じて生きるのは、それとはまったく異なる生き方です。それは、神の恵みのご支配を信じて生きれば、苦しみや悲しみのないバラ色の人生を送ることができる、ということではありません。パウロたちがそうであったように、私たちも不当な苦しみに、ときには耐え難い苦しみに直面します。しかし神の恵みのご支配を信じるとは、苦しみに直面する中で、なおその苦しみにも意味がある、と信じることです。「しょうがない」とあきらめるのではなく、この苦しみにも意味があると信じる。この苦しみや悲しみも神の恵みのご支配の外で起こっているのではなく、そのご支配の中で起こっている、と信じることなのです。そのように神の恵みのご支配を信じて生きる歩みは、苦しみの現実に対して、「しょうがない」とあきらめる生き方とは、まったく異なる生き方です。苦しみの現実の中で、なお神を賛美し、神に感謝する生き方なのです。

キリストが共にいてくださる
 そして、神の恵みのご支配を信じて生きるとは、主イエス・キリストが私たちと共にいてくださると信じて生きることです。私たちの罪をすべて背負って、私たちの代わりに十字架につけられて死なれ、復活させられ、天に昇られたキリストが、聖霊のお働きによって私たちと共にいていくださる、と信じて生きることなのです。私たちは苦しみに直面するときも、その苦しみを一人で担うのではありません。キリストが共にいてくださり、その苦しみを共に担ってくださるのです。また私たちは苦しみを担うことを通して、私たちのために苦しみを受けられ死なれたキリストの苦しみに、ほんの僅かながらあずかります。だから、苦しみには意味がある。キリストの苦しみに僅かながらあずかるという大きな意味がある。しかもその私たちとキリストは共にいてくださるのです。だからパウロたちは、牢に入れられ、暗闇の中で、自由に動くことができず、痛みを抱えていても、そこにキリストが共にいてくださることを信じ、またキリストの苦しみに僅かながらあずかっていることに感謝して、神を賛美したのです。
 それは、不当な苦しみであっても、すべて甘んじて受けなくてはならない、というようなことではありません。37節で、パウロたちがひそかに釈放されそうになったとき、パウロが警吏たちに、「いや、それはいけない」と抗議したように、私たちも不当な行為に対して、抗議することがあってよいのです。しかしそうであっても、パウロたちは、不当な苦しみの中で、高官たちに対する憤りを抱え、何としても抗議したいと考えていたのではありません。パウロたちを満たしていたのは、神の恵みのご支配を信じ、キリストが共にいてくださることを信じて生きる歩みに与えられる、神への心からの賛美と感謝であったのです。
 共に読まれた旧約聖書創世記39章20節以下は、「ヨセフ物語」の一部ですが、ヨセフが謂れのない罪で牢に入れられたことを語っています。まさにヨセフも不当な扱いを受けたのです。しかし21節と23節で言われているのは、主がそのヨセフと共におられた、ということです。そしてそれは、その不当な扱いも神のご支配の外で起こっているのではない、ということであり、そのことにも意味がある、ということにほかなりません。その意味は、このときのヨセフには知る由もありませんでした。しかしヨセフは不当な扱いを受ける中にあっても、主が共にいてくださることを信じ、このことにも意味がある、と信じて歩んだのです。

囚人たちは逃げ出そうとしなかった
 神の恵みのご支配を信じ、神への賛美と感謝に満たされて生きるパウロとシラスの生き方は、周囲の人たちに影響を与えます。この箇所では、異なる立場の人への影響が語られています。まず語られているのは、パウロたちと共に牢に入れられていた囚人たちです。この人たちが牢に入れられたのは、何らかの犯罪を犯したからでしょう。彼らも暗闇の中で、自由に動くことができませんでした。その中で、自分が犯した罪のために落ち込み、自分の将来に不安や恐れを抱き、あるいは「しょうがない」とあきらめていたかもしれません。不安や恐れやあきらめが彼らを支配していたのです。その彼らにパウロとシラスの歌う讃美歌が聞こえてきました。自分たちと同じ状況にいるはずなのに、神への心からの賛美と感謝が、力強くも温かい賛美の歌声が聞こえてきたのです。どんな讃美歌であったかは分かりませんが、どんな讃美歌であっても、神の恵みのご支配と、主イエス・キリストが共にいてくださることへの賛美と感謝を歌っていたに違いありません。その神への賛美と感謝の歌に、ほかの囚人たちは聞き入りました。聞き入らずにはいられなかったのです。理由はよく分からないけれど、パウロとシラスの歌声を聞いていると、自分たちの抱えていた不安や恐れやあきらめが、慰められたからです。それらが完全に消え去ることはなくても、二人の歌から慰めと平安と希望を与えられたのです。だから囚人たちは、突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動き、牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖が外れても、逃げ出すことはありませんでした。逃げることが出来たのに、逃げ出そうとしなかったのです。逃げるよりも、暗闇の中で、自由を奪われ、痛みを抱えながらも、自分たちに慰めと平安と希望を与える歌を歌う、パウロとシラスのもとに留まりたいと思ったからです。牢から逃げ出すことによってではなく、牢に留まり、パウロたちのもとに留まって、パウロたちのように生きるところに、不安や恐れやあきらめからの解放があると、本当の慰めと平安と希望が、本当の自由がある、と思ったのです。そこに、苦しみの現実に「しょうがない」とあきらめるのではなく、苦しみにも意味があると信じる歩みがある、と思ったのです。逃げ出した先に自由があるのではなく、牢に留まることに、本当の自由があると感じた。それは、神の恵みのご支配を信じ、主イエス・キリストと共に生きる歩みに、本当の自由があると感じた、ということにほかならないのです。

看守の絶望
 パウロとシラスの生き方は、囚人とは真逆の立場にいた人、つまり看守にも影響を与えました。大地震が起こって目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを目の当たりにしました。それで囚人たちが逃げてしまったと思い込み、絶望しました。当時、囚人を逃がしてしまった看守は、囚人が受けることになっていた刑を代わって受けるという規則があったそうです。囚人たちが皆逃げたのであれば、看守はその囚人たちの代わりに刑を受けなくてはなりません。だから自分はもう生きていけない、自分の人生は終わった、という絶望の中で、家族を残して、剣で自分の命を絶とうとしたのです。するとパウロが大声で叫びました。「自害してはいけない。私たちは皆ここにいる」。「囚人は誰一人として逃げていない。牢の中にいる。だから自害してはいけない」と叫んだのです。それを聞いた看守は、29節にあるように、明かりを持って来させ、牢の中に駆け込み、本当に囚人が誰一人逃げていないのを見て、「パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、二人を外へ連れ出して」、このように言いました。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」。

囚われと自由
 この看守の言葉は不思議な言葉です。看守はもう生きていけないと絶望して、自ら命を絶とうとしていたのに、それを免れました。でもそれだけなら、「先生方、ありがとうございます。お陰様で命拾いしました」とお礼を言えばよかったはずです。でも看守は「救われるためにはどうすべきか」と問うたのです。看守がそのように問うたのは、パウロとシラスが本当の自由に生きていることに気づかされたからです。看守はそれまで、パウロとシラスは囚われているのだから、当然、自由でないと考えていました。それに対して、自分は自由に生きている、やりたいことをやって生きている、自分の力で何でもできると思っていたのです。ところがこの出来事を通して、そうやって自分の力に頼って生きている自分こそが、失敗したら終わり、という人生を、まことに不自由な人生を生きていたことに気づかされたました。自分の力に頼って生きているから、自分の力ではどうしようもなくなったときに、自らの命を絶つことしか思いつかなかったのです。その一方で、囚われていて、自由でないはずのパウロたちが、本当は自由であった。囚われの中にあっても、神を心から賛美するほど自由であった。逃げられるのに、逃げないほどに自由であった。パウロたちにとっては、牢から逃げた先に自由があるのではなく、神の恵みのご支配のもとに生きることに、主イエス・キリストと共に生きることに、本当の自由がありました。パウロたちは牢の中にいても、牢の外にいても、その本当の自由を生きていたのです。自由に生きていると思っていた自分が囚われていたのであり、囚われていたパウロたちが本当は自由であった、そのことに気づかされたから看守は、「救われるためにはどうすべきか」と問うたのです。「本当の自由に生きるためにはどうすべきか」と問うたのです。
 パウロとシラスは答えます。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」。主イエスを信じなさい。主イエスの十字架と復活によって実現した救いを、自分のための救いとして信じ、受け入れなさい。そうすれば、神の恵みのご支配のもとで、主イエス・キリストと共に、本当の自由に生きることができる。暗闇に思える現実の中にあっても、なお神を心から賛美して生きることができるのです。

家族を礼拝へ誘う
 「そうすれば、あなたも家族も救われます」とは、看守が信じたら自動的に看守の家族も救われる、ということではありません。32節で、パウロたちが「看守とその家族一同に主の言葉を語った」と言われています。それは、裏返せば、看守が自分の家族を、パウロたちが主の言葉を語るところへと連れてきた、ということです。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」という言葉を信じ、自分の家族を神の言葉が語られる場へと、つまり礼拝へと連れてきたのです。次の33節で看守がパウロとシラスの打ち傷を洗ったと語られていますから、パウロとシラスが看守とその家族に主の言葉を語ったとき、二人は傷だらけ、血まみれであったはずです。しかし二人は気にしなかった。とにかく主の言葉を、主イエス・キリストの十字架と復活による救いを、福音を語りました。それを聞いて、看守もその家族も、キリストによる救いを信じ、受け入れ、洗礼を受けたのです。私たちも、「そうすれば、あなたも家族も救われます」というみ言葉を信じ、機会を捉えて、自分の家族を礼拝へと誘っていきたいと思います。来週の秋の伝道礼拝を、まさにそのような機会としていきたいのです。

光が伝わっていく
 私たちは囚人ではありません。しかし暗闇の中に囚われて生きているように思えることも少なくありません。苦しみに直面する中で、不安と恐れに囚われ、「しょうがない」というあきらめに支配されそうになります。しかし私たちは、すでにキリストの十字架と復活による救いにあずかり、神の恵みのご支配に入れられ、主イエス・キリストと共に生きています。色々なものに囚われているように思える私たちが、キリストによって本当の自由を生き始めているのです。そのように神の恵みのご支配のもとで、主イエス・キリストと共に生きる私たちに、神への心からの賛美と感謝が湧き上がってきます。暗闇に思える現実にあって、なお私たちは神を心から賛美して生きるのです。そのとき私たちは、暗闇に思えるこの世界の「光」とされます。そしてその光は、パウロとシラスの賛美がほかの囚人を慰めたように、周囲の人々へと伝わり、その人たちにキリストによる慰めと平安と希望を届けていくのです。神の恵みのご支配のもとで、キリストと共に、本当の自由に生き、暗闇に思えるこの世にあって、なお神を心から賛美して生きる私たちを用いて、神は私たちの周囲の人々に、そしてこの世界に、キリストの光を広げていってくださるのです。

関連記事

TOP
10月18日 伝道礼拝のご案内
10月18日 伝道礼拝のご案内