説教「主のまっすぐな道を歩む」 副牧師 川島章弘
旧約聖書 箴言第4章10-19節
新約聖書 使徒言行録第13章1-12節
多様な指導者たち
使徒言行録を読み進めて、本日から13章に入ります。この13章からいわゆる「パウロの第一次伝道旅行(宣教旅行)」について語られています。それに先立って、13章の冒頭では、アンティオキア教会の指導者がこのように紹介されています。「さて、アンティオキアでは、そこの教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、キレネ人のルキオ、領主ヘロデの幼なじみマナエン、サウロなど、預言者や教師たちがいた」。最初と最後に紹介されているバルナバとサウロについては、これまでにすでに登場していました。バルナバはアンティオキア教会が誕生したときに、エルサレム教会から派遣されて来ると、神様の恵みを見て喜び、アンティオキア教会に留まり、教会に仕えました。そのバルナバがアンティオキア教会に連れて来たのが、ほかでもないサウロでした。タルソスまで捜しに行って、連れて来たのです。この二人は、丸一年の間、アンティオキア教会に共に仕えました。この二人の働きによってアンティオキア教会は、ますます成長していったのです。しかし1節はこの二人の他にも指導者を紹介しています。「ニゲルと呼ばれるシメオン」について確かなことは分かりませんが、「ニゲル」がラテン語で「黒」を意味することから、アフリカ系の人物であったのかもしれません。「キレネ人のルキオ」は、11章20節に記されていた、アンティオキアの異邦人に語りかけ、主イエスの福音を告げ知らせた「キプロス島やキレネから来た人」の一人であったのかもしれません。そうであればアンティオキア教会の古参メンバーの一人ということになります。そして「領主ヘロデの幼なじみマナエン」も指導者の一人でした。「領主ヘロデ」とは、12章でエルサレム教会を迫害したヘロデ・アグリッパ一世のことではなく、ヘロデ・アンティパスのことです。4章27節を見ると分かるように、使徒言行録はヘロデにも主イエスの十字架刑の責任の一端があると見ています。そのヘロデの幼なじみが、どのような経緯を経たのかは分かりませんがアンティオキア教会のメンバーとなり、その指導者となったのです。このように生まれも、文化的背景も、これまでの歩みも異なる多様な人々がアンティオキア教会に集められ、その指導者となっていきました。このことは、一言で異邦人と言っても、多様な人たちがいる国際都市アンティオキアで、教会が成長していくための大きな力となったに違いありません。多様な指導者によって導かれたからこそ、アンティオキア教会はその地の人々に力強く伝道することができ、メンバーが増えていったのです。
私たちの教会が建てられているこの横浜という街も、国際都市アンティオキアに似ているところがあると思います。ですから私たちの教会のメンバーが多様であることは、その生まれや、これまでの歩みが異なることは、私たちの教会がこの地の人々に伝道していくための力となるに違いありません。御子イエスを救い主と信じることにおいて一致していれば、教会のメンバーの多様性は、教会を成長させる活力となるのです。
パウロの伝道旅行?
そのアンティオキア教会が、新たな伝道の試みに乗り出します。それが、バルナバとサウロを伝道旅行へと派遣することです。この旅行は、しばしば「パウロの第一次伝道(宣教)旅行」と言われます。9節に「パウロとも呼ばれていたサウロ」とありますが、使徒言行録はこの9節以降、ヘブライ語の名前の「サウロ」ではなく、ラテン語の名前の「パウロ」と記すようになります。名前が変わったことは、彼の活動が異邦人世界へ及んでいくことを暗示しているのかもしれません。そのパウロの「第一次伝道旅行」については、聖書の後ろに聖書地図があり、その11に「パウロの第一次および第二次宣教旅行」があります。緑色の線が「第一次宣教旅行」の行程です。これからしばらく、度々この地図を見ることになります。しかしそもそも「パウロの伝道旅行」という呼び方は適切なのでしょうか。少なくとも13章から語られている第一次伝道旅行は、サウロだけが主導したのではなく、バルナバとサウロが共に主導したと言うべきでしょう。本日の箇所では「バルナバとサウロ」と言われていて、バルナバの名前が先にあるので、むしろバルナバのほうが主導したと考えるべきかもしれません。
聖霊なる神のご計画
けれどもこの伝道旅行は、バルナバが、あるいはバルナバとサウロが一緒に考え出した、ということではありません。2節にこのようにあります。「彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。『さあ、バルナバとサウロを私のために選び出しなさい。私が前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために』」。「彼ら」とはアンティオキア教会のメンバーのことであり、「断食している」とは、3節に「断食して祈り」とあるように、祈っているということです。ですからアンティオキア教会の人たちが主を礼拝し、祈っているときに、聖霊なる神様の語りかけを聞いたのです。それはきっと聖書とその説き明かしである説教を通して、聖霊なる神様の語りかけを聞いたということであり、私たちの礼拝でも起こっていることです。聖霊は、「バルナバとサウロを私のために選び出しなさい」と語りました。神様が前もって決めておいた使命を担うためです。その使命とは、9章15節で言われていたように、異邦人や王たちに、またユダヤ人に主イエス・キリストの十字架と復活による救いの良い知らせを届けることでした。神様はその使命のためにバルナバとパウロを海外伝道へと、地中海世界への伝道へと遣わそうとされたのです。アンティオキア教会の人たちは、礼拝において聖霊からこのことを示されたのです。
それは、第一次伝道旅行が聖霊なる神様のご計画であることを見つめています。バルナバやサウロの計画である以上に、あるいはアンティオキア教会の計画である以上に、何よりも聖霊なる神様のご計画であったのです。別の言い方をするならば、聖霊こそがこの伝道旅行を主導した、ということです。そのことは4節で、バルナバとサウロが「聖霊によって送り出された」と言われていることからも分かります。アンティオキア教会の新しい伝道の試みは、聖霊の働きと導きによるものであったのです。
アンティオキア教会の大きな決断
しかしそれは、この新しい伝道の試みに乗り出すことにおいて、アンティオキア教会は何もしなかった、ということではありません。それどころか聖霊によって示されたことを受け入れ、それに従うために、アンティオキア教会はまことに大きな決断をしなくてはなりませんでした。それは、教会の中心的指導者の二人を手放す、という決断です。バルナバとサウロは丸一年の間、アンティオキア教会に仕えましたが、教会の人たちにとっては、「まだ一年」という思いであったでしょう。二人がいなくなるとは思っていなかったはずです。これからも教会のさらなる成長のために、二人がより一層、伝道と牧会の働きに仕えることを願い、期待していたに違いありません。しかし聖霊は、この二人を地中海世界への伝道へと遣わすよう命じたのです。3節には、「そこで、彼らは断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた」とあります。聖霊によって二人を手放すよう示されたアンティオキア教会の人たちは祈りました。その祈りは神様と格闘するような祈りであったはずです。自分たちの教会のことだけを考えれば二人を手放したくなかった。その思いを祈りの中で神様にぶつけたに違いありません。「神様、なぜ、このタイミングで二人を送り出さなければならないのですか。まだ、早すぎます」。しかしそのように神様に真剣に祈る中で、アンティオキア教会の人たちは、二人を海外伝道へと派遣することを御心として受け入れたのです。「二人の上に手を置いて出発させた」とあります。この「出発させた」という言葉は、もともと「解放する」という意味の言葉です。アンティオキア教会は、神様が前もって決めていた使命を担えるように、バルナバとサウロをアンティオキア教会に仕えることから解放し、自由の身にしたのです。それは、まさに苦渋の決断であったに違いありません。しかしこの決断が、自分の教会のことだけを考えるのではなく、聖霊によって示された御心を受け入れ、それに従ったこの決断が、キリスト教にとってまことに大きな一歩となりました。この決断によって福音は地中海世界へ、さらにはヨーロッパへ広がっていったからです。確かにこの新しい伝道の試みは、聖霊の働きと導きによるものです。しかしそこにはアンティオキア教会が聖霊によって示された御心を受け入れ、それに従うという決断があったことを見過ごしてはなりません。しばしば「パウロの第一次伝道旅行」と呼ばれますし、これからも便宜上この言葉を用いますが、本当は、聖霊によって示された御心に従ってバルナバとサウロを派遣した、「アンティオキア教会の海外伝道」と呼ぶべきなのです。
自分の教会さえ良ければそれでよいと考えない
このアンティオキア教会の決断によって、キリストの福音が日本まで伝わった、と言っても言い過ぎではないように思います。私たちは、この苦渋の決断によって、今、私たちの教会がこの地に建てられていることを忘れてはなりません。アンティオキア教会が自分の教会のことだけを考えていたら、今、私たちの教会はなかったかもしれないのです。そうであれば私たちも、自分の教会さえ良ければそれでよい、と考えてはなりません。確かに自分の教会のことだけを考えないということは、自分の教会の力を削ぐ決断をしなくてはならないこともあるということです。二人の中心的な指導者を手放したアンティオキア教会は、一時的には、その力を弱めたに違いありません。しかしその結果、福音は世界中に広まりました。より多くの人々に福音を届けることができたのです。だから私たちも、自分の教会さえ良ければそれでよい、と考えるのではなく、聖霊によって御心を示されるならば、たとえ自分の教会の力を一時的に削ぐようなことであっても、その御心に従っていきたい。そのことを通して私たちの教会は、聖霊なる神様のより大きな伝道の計画に仕えていきたいのです。そして、アンティオキア教会がこの後も、パウロを第二次、第三次の伝道旅行に派遣して、活発な活動を展開したように、自分の教会のことだけを考えるのではない歩みこそが、結果的には、自分の教会の伝道や活動を、さらに活発なものとしていくのです。
大胆さに慎重さが伴う伝道の計画
さて第一次伝道旅行で最初に向かったのはキプロス島でした。4、5節にこのようにあります。「聖霊によって送り出されたバルナバとサウロは、セレウキアに下り、そこからキプロス島に向けて船出し、サラミスに着くと、ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた。二人は、ヨハネを助手として連れていた」。聖書地図11「パウロの第一次および第二次宣教旅行」を見ると分かるように、アンティオキア教会から遣わされた二人は、セレウキアという港町に下り、そこから船でキプロス島に向かい、島の一番東の海岸にあるサラミスに着きました。この海外伝道がキプロス島から始まったことに、バルナバとサウロの周到な計画をうかがい知ることができます。もちろんこの第一次伝道旅行が、聖霊のご計画であるのは確かです。しかしそれは人間の準備や計画が必要ない、ということではありません。むしろ与えられた使命を担うために、できる限りの計画を立てるのでなければ、神様に対して誠実とは言えません。このときのバルナバとパウロの計画は、あえて言えば、「無茶をしない」計画であった、と言えるのではないかと思います。キプロス島は、4章36節によれば、バルナバの出身地でした。右も左も分からないところで伝道するのではなく、よく知っているところで伝道したのです。さらに二人が連れていた助手のヨハネは、コロサイの信徒への手紙4章10節によれば「バルナバのいとこ」でした。彼もまたキプロス島の出身であったのかもしれませんし、だからこそ彼を助手としたのかもしれません。アンティオキア教会の海外伝道の決断は、大きな決断、大胆な決断でした。しかしキプロス島から伝道を開始する計画を立てたことに、その大胆さには慎重さが伴っていたことを示されるのです。
パウロの伝道の基本的な戦略
サラミスに着くと、二人は「ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせ」ました。パウロはしばしば異邦人伝道を行ったと言われますが、彼の伝道の基本的な戦略は「まずユダヤ人に」です。だから行く先々で、まずユダヤ人の会堂を訪ね、キリストの福音を語りました。しかしユダヤ人に受け入れられなかったので異邦人へ向かったのです。キプロス島でユダヤ人がどのような反応をしたのかは何も記されていません。しかしバルナバとサウロは、サラミスから島全体を巡って、島の西の海岸にあるパフォスに行きましたから、ユダヤ人から良い反応を得られなかったのではないでしょうか。
魔術との対決
パフォスはキプロス島の首都で、そこでバルナバとサウロは、「ユダヤ人の魔術師で、バルイエスと言う偽預言者」と対決することになります。8節によれば、このバルイエスは、「魔術師エリマ」とも呼ばれていたようです。彼は「総督セルギウス・パウルスという賢明な人物のもとに」いました。魔術によって助言をする、総督のブレーンのような存在であったのだと思います。ところが彼にとって看過できないことが起こりました。総督が「バルナバとサウロを招いて、神の言葉を聞こうとした」のです。そこでこの魔術師は、「二人に対抗して、総督をこの信仰から遠ざけようとし」ました。そのためサウロが、いえパウロが、この魔術師と対決することになったのです。
海外伝道に派遣されて、その初めに魔術師との対決が起こったことに、キリストの福音が、魔術と対立することが見つめられています。魔術や占いの類は、この世界に得体の知れない様々な力が働いていることを前提にしています。その力をコントロールしようとするのが魔術や占いの類です。しかしキリストの福音は魔術や占いを退けます。なぜならこの世界を支配しているのは得体の知れない様々な力ではなく、父なる神様だからです。しかも今、神様のこの世界へのご支配は、私たちのために十字架で死なれ、復活されて、天に昇られた主イエス・キリストを通して与えられている、と福音は告げているのです。パウロは魔術師をにらみつけて、このように言いました。「ああ、あらゆる偽りと不正に満ちた者、悪魔の子、すべての正義の敵、お前は主のまっすぐな道を曲げることをやめないのか」。「正義」とは神様との関わりにおける正しさ、神様との正しい関わりに生きることです。それは、言い換えれば、「主のまっすぐな道」を歩むことにほかなりません。魔術や占いの類は、神様が御子キリストによってこの世界をご支配くださっていることを認めません。そのことによって、神様との正しい関わりに生きることから私たちを引き離し、主のまっすぐな道を曲げて、私たちがその道を歩むことを妨げるのです。だからパウロは魔術師に対して、厳しい言葉を語り、「今こそ、主の御手はお前の上に下る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう」と言ったのです。
主のまっすぐな道を歩む
パウロと魔術師との対決は、現代の教会には関わりがなさそうにも思えます。しかしこれだけ科学技術が発展した時代であるにもかかわらず、様々な占いが流行り、色々なメディアでパワーアイテムやパワースポットが度々紹介されて話題を呼んでいます。その背後に、たとえ意識していなくても、現代を生きる人たちが、得体の知れない様々な力に対して恐れと不安を抱いていることがあるのです。しかし占いに頼っても、パワーアイテムやパワースポットに頼っても、一時的には逃れることができたとしても、根本的にはその恐れと不安から逃れることはできません。なぜならそれらに頼っても、得体の知れない力がこの世界を支配しているという前提は変わらないからです。ただキリストの福音だけが、その恐れと不安からの解放を与えます。神様が御子キリストによってこの世界をご支配くださっていることを告げる福音によってだけ、私たちは恐れと不安から解放されて、神様との正しい関わりに生きることが、つまり神様と共に生きることができ、「主のまっすぐな道」を歩むことができるのです。共に読まれた旧約聖書箴言4章11、12節にこのようにありました。「私はあなたに知恵の道を教え まっすぐな道のりを示した。進み行くとき、あなたの歩みを妨げるものはなく 走っても、よろめくことはない」。神様は御子キリストによって、私たちに「知恵の道」「まっすぐな道のり」を示し、与えてくださいました。その道を進み行くとき、私たちの歩みを妨げるものはないし、走っても、よろめくことはないのです。もちろんそれは、私たちが「主のまっすぐな道」を歩むなら、苦しみも悲しみもない人生を送れるということではありません。私たちの人生には多くの苦しみや悲しみがあり、そして死があります。しかし苦しみも悲しみも死も、得体の知れない力によるのではありません。苦しみも悲しみも死も、独り子を十字架につけるほどに私たちを愛してくださっている神様の御手の内にあるのです。このことを信じて生きるのが、「主のまっすぐな道」を歩んで生きることです。この道を歩んで生きるとき、私たちは苦しみや悲しみや死に直面するときも、なお希望を持って、忍耐して歩むことができるのです。
12節で、「総督はこの出来事を見て、主の教えに驚き、信仰に入った」と言われています。総督は、パウロによって魔術師の目が見えなくなったことに驚き、信仰に入ったのではありません。「主の教えに驚き、信仰に入った」のです。その「主の教え」とは、御子キリストによって神様がこの世界をご支配くださっているという教えです。パウロは魔術師と対決することで、この「主の教え」を示しました。この教えを示されて、総督は驚き、主イエス・キリストを信じる信仰を与えられたのです。御子キリストの十字架と復活による救いによってこそ、得体の知れない力に怯えて生きることからの解放が与えられることを示され、神様と共に生きる歩みを、「主のまっすぐな道」を歩み始めたのです。
聖霊が戦ってくださる
パウロが魔術師と対決したように、私たちの伝道には、その伝道を妨げるものとの対決があります。私たちの伝道にも対決があるのです。しかし勘違いしてはなりません。その対決は、私たちが自分の力で戦うのではありません。9節で「パウロとも呼ばれていたサウロは、聖霊に満たされ、魔術師をにらみつけて」とありました。パウロは自分の力で魔術師と対決したのではなく、聖霊に満たされて対決したのです。同じように私たちが伝道を妨げるものと対決するときも、私たちではなく聖霊が戦ってくださるのです。得体の知れない力に怯えて生きている人たちを、私たちが自分の力で恐れと不安から解放できるのではありません。そうではなく聖霊なる神様が解放してくださるのです。聖霊が働きかけて、主イエス・キリストの十字架と復活による救いを示し、その救いによって、得体の知れない力に怯えて生きることからの解放が与えられることを示してくださいます。聖霊が、主イエス・キリストを信じる信仰を与え、「主のまっすぐな道」を歩み始めるよう導いてくださるのです。そのことに信頼して私たちは伝道のみ業に仕えていきます。聖霊のご計画である伝道に、聖霊の主導のもとで、聖霊の働きと導きを信じて、伝道のみ業に仕えていくのです。その中で、私たちは聖霊によって示された御心を祈りの中で受け入れ、従っていくことを求められています。自分の教会さえ良ければそれでよい、と考えるのではなく、聖霊によって御心を示されるならば、自分の教会の力を削ぐような決断をもしていくのです。そのように歩む私たちを用いて、聖霊なる神様は、私たちの思いを超えて、伝道のみ業を前進させてくださり、多くの人々に主イエス・キリストを信じる信仰を与え、主のまっすぐな道へと導いてくださるのです。
